No Rose without a Thorn
07.If Autumn comes...
* Kouki *
それから、俺たちは電車に乗り、風澄の住んでいる街に出た。住んでいるーなんて言うと山の手あたりのように思えるが、東京でも指折りの大都会である。俺の住んでいるところの隣の区とはいえ二駅しか離れていないんだけれど、雰囲気は全く違うな。風澄はそれほど好きな街ではないらしいが、便利は便利だと言っていた。確かに、風澄のイメージじゃないなあ、ここは。
余談だが、泊まったのが大学の最寄り駅の近くのホテルだったので、そこを出てからは、知り合いに会わないか冷や冷やしつつ、いやむしろ見せつけたいという気もありつつ、ちょっとしたスリルを味わった。……まぁ、誰にも会わなかったけどな。
小奇麗というよりは雑然とした雰囲気の駅は、予想通り、今日も人で溢れていた。
新しくできたガラス張りのビルだとか、デパートのウィンドウなんかは、おそらく綺麗な街を目指して造られたのだろうけど……人が絶えない街となると、再開発もしにくいのだろう。風澄の好みの街になる様子は、とても想像できなかった。まぁ、昔は、ここも田舎だったんだろうけどな。
「うわぁー……綺麗……」
風澄が立ち止まったのは、ここ数年でとても有名になった、チェーン店の花屋だった。
花だけでなく、果物や変わった植物を加えるのが特徴で、オーダーするものだけでなく、値段に合わせてあらかじめアレンジして小さく包んだ花束が人気らしい。母親や姉が好きで、時々買ってきていた記憶がある。風澄も例に洩れず、というところだろうか。ディスプレイされた色とりどりの花を、うっとりと見つめている。
よく見たら、サボテンやら、ガラスの花器やら、それほどスペースがあるわけでもないのに、所狭しとさまざまな商品が並んでいた。しかも、ただ置くだけでなく、使用例も兼ねている。そういう細かい配慮が店の雰囲気を良くしているのだろう、居心地の良い空間が演出されていた。
切り花に至っては……いや切り花ではなく切り植物とでも言うべきだろうか。見たこともないような植物がたくさん目に入ってくる。俺は、母親と姉が好きだったので、男にしては花の名前を知っているほうだと思っていたんだが、表示札を見てもさっぱりわからない。観葉植物に至っては、パキラにアイビー、後はポトスがせいぜいで、有名どころ以外は全滅だ。薔薇やら百合やら、おなじみの花を見かけるとほっとしてしまったほど。とは言え、それさえ名前となると知らないものばかりだ。
「あ、ローテローゼ!」
それこそ山のような花々の中から赤い薔薇を見つけるなり、風澄は嬉しそうに言った。
「Rote Roseって……ドイツ語で赤い薔薇? そのまんまだなぁ……」
どういうネーミングだよ、と突っ込みつつも、俺はその名の如実さに感心していた。
細身ながらも、天を向いて伸びた、しなやかな茎。
それを護る大ぶりで艶やかな葉と、鋭い棘。
赤い薔薇という名に恥じぬ、深みがありながらも鮮やかな、大輪の花。
中央の立ち上がる先端と、それを包む、まるで真紅のベルベットのような花弁。
――女王の花だ。
強く、激しく、凛々しく。
他を圧し、天を仰ぎ、昂然と頭を上げて、佇む。
孤高の。
きっと、赤い薔薇と聞けば誰もが想像し、誰もが理想的だと答えるだろう。
赤い薔薇の具現――。
その名を冠するに相応しい、威厳と気品に満ちた立ち姿だった。
「どうして、そんな『そのまんま』なネーミングだか、わかる?」
「いや……なんで?」
「なんでかって言うとね……ローテローゼって、実は日本産なの」
「な、なっ……これが、日本で生まれた花ぁ!?」
俺は思わず、声をあげてしまった。
まさか……こんな、赤い薔薇の具現としか思えない、正統派の花が……日本産!?
「しかも、生まれたのは1992年。もちろん、入れ替わりの激しい業界だから、よく持っているほうだけど……薔薇の歴史の中では、かなり最近の花なのよ」
名前は知らなかったけれど、目に慣れた姿と言い、佇まいと言い、いかにも古い歴史を背負っていそうなのに……!
「し、信じられん……」
「がっかりした?」
「いや、そんなことはないけど。ただ、びっくりしてさ」
「私も最初は驚いたのよ。でも、それを知った時、なんだか嬉しくて。日本で、こんな素敵な花を生み出せるんだなぁ……って思ったら、誇らしくなっちゃった」
風澄が言うに、薔薇の分類は、植物学的見地や系統など、さまざまな視点からの分類方法があるそうだが、未だに世界統一規格は無いらしい。まぁ、よくある話だ。で、比較的スタンダード且つ大雑把で一般的にも解りやすいな方法だと、クラシックローズとモダンローズの二つにわかれるそうだ。
ローテローゼは、モダンローズの中でもハイブリッドティーというタイプに属する。ハイブリッドティーは、現代では薔薇の代表格だが、その歴史は、ここ百年ほどなのだそうだ。
ハイブリッドティーの特徴は、厚い花弁と大輪の花と、剣弁高芯咲きや半剣弁高芯咲きと言われる咲き方。剣弁とは花弁が尖ること、高芯とは花弁が反ることを言う。
また、薔薇の時期は初夏だが、ハイブリッドティーの場合は四季咲きと言って、初夏に咲いた後も何度か咲くのだそうだ。まぁ、温室栽培の発達している現代では、開花時期など有って無きが如しなのだろうけど。
何より驚いたのは、ハイブリッドティーの意味。『Hybrid』はともかく『Tea』は……まさか、と思ったけど、本当に紅茶の『Tea』なのだそうだ。ハイブリッドティーの香りが紅茶の香りに近いことから、らしい。……そうかぁ? とは思うが……。
「しかし、よく知ってるなぁ……好きな種類だから?」
だいぶ端折ってはいるのだろうけど、なんだか今ので薔薇に詳しくなった気がする。
「うん。ローテローゼって、すごく気品のある赤でしょう? スタンダードだけど、綺麗だなぁって……ずっと憧れてたの」
「この色、風澄に似合いそうだな」
「前に言ってたのって、こういう色なの?」
「そうそう、こんな感じ。どう?」
「素敵だけど……なんだか気後れしちゃいそう」
そう言ってはいるけれど、きっと風澄ならこの色にも負けない。それどころか、容易く着こなしてしまうだろう。より彼女の魅力を引き立ててくれるに違いない。
「でも、薔薇って言ったら薄いピンクよね。やっぱり、代表的なのはノブレスかな。あぁでも白も綺麗……ティネケの白は黄緑色がかってて不思議な魅力があるし……」
「薔薇だけでもこんなに種類があるんだからすごいよなぁ……」
「でも、毎年どんどん増えてるんだって、新しい種類のが。しかもその数が十や二十では済まないって」
「まぁ、それだけ人気っていうことなんだろうけど、似たような種類だって一杯あるだろうに」
「それ以前に、全部の区別がつく人って居るのかしらねえ」
なんて、綺麗な花を見ているくせに、シビアな方向に考えが行ってしまう自分たちに、苦笑してしまう。
「でも、やっぱり素敵よね、薔薇って」
「花の女王と言われているぐらいだもんなあ」
「あら、花の女王って薔薇だけじゃないのよ?」
「そうなのか?」
「そうね、洋蘭……特にカトレアは、薔薇と並ぶ、花の女王の代名詞なんじゃない? それから、カサブランカの気高さも、女王の名に相応しいわよね。探せば、他にもたくさんあるんじゃないかしら」
「ほら、やっぱり」
「ん? なに?」
「風澄だって、いろいろなことを知ってるじゃないか」
「え? あ、ああ……そのこと。
……んー、でも、そうかな……私の場合、役に立たないことのほうが多いし」
「役に立つか立たないかって問題か? 役に立てば良いってわけじゃないし、いつか役に立つ場合だってあるだろ。おもしろいよ、俺は。話してて」
「私は、もうちょっと実用的な知識を身に付けなきゃなぁって思っちゃうこともあるけど……でも、昂貴に言われたなら嬉しいかも」
「『かも』かよ」
「やぁね、言葉のあやだってば」
などとふざけて、くすくす笑う。こんなふうに彼女が俺をからかうことも、何度目だか知れない。既にごく普通のことで、日常の一部にさえなっていた。
「風澄は薔薇みたいだよな」
良いことを思いついた。今度は俺がからかってやろう。
「え……そ、そう?」
「綺麗だけど棘(とげ)があるから」
「ひっ、ひどーい! そっちの意味!?」
「いやー、あの、杉野に対する態度を見る限り、どう考えたって薔薇だろう。他に何に例えたらいいのかわからないねえ」
褒めた後に落とす。うん、基本中の基本だな。
……と言いつつ、さっきの『姫君』然り、実は本気で褒めているあたり、俺もなぁ……。
この世で風澄ほど姫君という言葉が相応しい女性も少ないと思うんだが。
もちろん、同じくらい、似合わないということも知っている。『姫君』なんて言葉に収まりきらない、溢れるほどの魅力とさまざまな側面を、彼女は持ってるから。
「否定できるか?」
「できないけど……ううう」
「冗談だって。そんな落ち込むなよ」
「ううう……嘘ぉ……絶対本心……」
「いいじゃん。綺麗なだけの薔薇なんて、きっとつまらないよ」
「……そう?」
「それに、綺麗だからこそ棘があるんだろ。そうやすやすと触れさせてなるものか、って」
いや俺は触るけど。なんてな。
「どうせ、綺麗な薔薇には棘があるーなんて言うんでしょ……ううう」
「風澄、その諺、英語でなんて言うか知ってるか?」
「え? えーと……The beautiful rose has a……棘って?」
「棘はprickle、thorn。この場合はthornだけど、風澄のはだいぶ違うな。書き方はいろいろあるけど、簡単なのはNoから始まるんだ」
「うー、じゃあ……No thorn……No rose……ええと……」
「いい線いってる。後に言ったほうが正解に近いな」
「高原先生、ヒントくださいヒント!」
「もうやったろ?」
「第二ヒント!」
「はいはい。直訳すると、『棘の無い薔薇は無い』になる」
「ええと……No rose……thorn……ううう。昂貴ぃ……」
「おいおい……じゃあ、第三ヒント。これで最後な。『〜無しで』と言えば?」
「……あ、そうか、without!」
「そう。正解は?」
「んー、じゃあ……No rose without a thorn.で合ってる?」
「はい、正解」
ほっと一息という調子で、風澄は息をついた。
「There is no rose without a thorn.とか、Every rose has its thorn.でも合格」
「あーぁ、英語でこれじゃあ、院入試、危ないかも……」
よっぽど不安なんだろうか。まぁ、語学が苦手なのに、語学必須と来たらなぁ……不安にならざるを得ないか。しかも、英語だけじゃ済まないし。
「そんなことないだろ。試験まで、まだ二ヶ月くらいあるし」
「まだじゃなくて、もう! 二ヶ月を切ってるのよっ!」
「その前に中間発表もあるしなあ」
「あああああ〜、それを言わないでえぇ……」
「そっちは大丈夫だろ?」
「うん、多分。でも、半端なものにはしたくないから。入試対策に追われて、そっちに手が回りませんでしたーなんて、いやだもの」
「おお、さすが。天下の負けず嫌い」
「昂貴に言われてもねぇ」
「それは確かにな」
負けず嫌い……と言うと少し違う気もするけど、負けるのが嫌いなのは事実だ。
でも……風澄になら、構わない。
恋愛は、より好きになったほうの負けだと言う。
だけどそれは、とてつもなく幸福な敗北宣言。
負けたほうが幸せなんてこと、恋愛以外にあるだろうか?
恋の痛みも、幸せも、全て君が教えてくれたこと。
「ねぇ、昂貴……話が戻るけど……どうして試験って、たったひとつの『正解』を導き出さなきゃいけないのかしら。特に語学は、実際に使うときって、そこまで厳密じゃないでしょう? それに、忠実に正解を辿って習得したって、実際にネイティヴの人と話すと、正確すぎて妙だって言われるって聞くし……変なの」
「あぁ、なるほど。確かにな」
「それって、どうして? 昂貴は、そんなふうに言われなかった?」
「そうだなあ、俺はあんまり……向こうに行って、現地の話し方に慣れたし。
まぁ、文法さえ理解していれば良いってもんじゃないしな。文法を組み立てながら話しているうちは、まだまだってことだろ」
「うううー、頑張ります……」
「ああいうのは慣れだから。勉強したからって身につくもんでもないし。要は、使うこと」
「通じれば良いっていうならなんとかなるんだけどなぁ……」
「あぁ、現地では大丈夫だった?」
「うん。あんまり困らなかった。入国審査ではさすがに緊張したけどね。"Sightseeing"を忘れないように、何度も何度も繰り返したわ」
「入国審査って……イギリスか。火澄さんに会いに?」
イギリスの入国審査は厳しいので有名だ。入国目的や滞在期間などを一人一人聞かれる。内容は簡単なことばかりなのだが、初めてなら、やはり緊張するだろう。
「そう。家族みんなで行ったの。でも、あとは、結構簡単な言葉でも通じたから」
「それなら現地で生活すれば慣れるだろ。充分充分」
「うううー、でも、目下の悩みは、院入試なんだってば……幾ら内部進学とはいえ、このレベルで大丈夫かしら、はぁ……」
「大丈夫だよ」
「え?」
「大丈夫。風澄なら……必ず受かるよ」
「ん……そう、かな……」
「あたりまえだろ。おまえは、自分の目標を手にするだけの力を持ってるよ」
「ほんと? ……ほんとに、そう思う?」
「ああ。楽しみにしてるからさ」
「……うん」
研究者という職業は、簡単なようで、決して楽な道ではない。ただ勉強すれば良いというものではないし、実力主義の理系の学者と違って、文系はキャリアがものを言う。倦(う)まず弛(たゆ)まずなんて、なかなかできることではないだろう。
けれど、彼女なら、きっと……。
そのための協力は惜しまない。そして、その隣に在るための努力はしよう。
美術史という学問に取り憑かれた同志としても、好敵手としても。
「そういえば、"No rose without a thorn."って、英語の諺でさ、『世の中に完璧なものはない』『どんなものにも不幸がある』っていう意味なんだけど……もうひとつ、『世の中に完全な幸福はない』っていう意味でもあるんだ」
「……そうなんだ……」
幾らか気落ちした様子で、彼女は呟いた。
「ねぇ、昂貴……やっぱり……ないのかな、『完全な幸せ』って……」
「そうだな……何を完全と言うかにもよるだろうけどな。
ただ、幸せであれば幸せであるほど……失う恐怖っていうものがあるから、そういう意味では、完璧な幸せは、この世には存在しないんだろうな」
「……そうだね……」
風澄。
俺の『The Rose without a Thorn』は、君だよ。
『幸福』なんて知らなかった。多くのものに恵まれていたのに、その意味は。
だけど見つけてしまった。だから離さない。この世で唯一の、棘の無い薔薇――。
「で、どれがいい?」
「え?」
「花束。欲しいんだろ?」
「あ……嬉しいけど、でも、今日はいい」
「そんな遠慮しなくてもいいのに」
「遠慮っていうか……夏だし、お花も疲れてすぐ枯れちゃいそうだから。それに、これからまだ歩くでしょ?」
「じゃあ、秋になったらだな」
「……うん」
そっとつないだ指を、もういちど絡ませる。
来るかもわからない未来の約束を、確かめるかのように。
――秋。
それは、街の木々が競うように彩り、あたたかな色に包まれる、華やかな季節。
けれど、冬という長き眠りの時を予感させる、物悲しさをも併せ持つ、不思議な季節。
そして、風澄と俺が生まれた季節でもある。
それまで、ずっとこんなふうに手を繋いでいられたら、どんなに幸福だろう。
涼やかな風が吹き、柔らかに木立ちが色づく頃。
刺のない薔薇の、腕に抱えきれないほどの花束を抱いて。
お互いに、節目を迎える、その日まで……。
それから、俺たちは電車に乗り、風澄の住んでいる街に出た。住んでいるーなんて言うと山の手あたりのように思えるが、東京でも指折りの大都会である。俺の住んでいるところの隣の区とはいえ二駅しか離れていないんだけれど、雰囲気は全く違うな。風澄はそれほど好きな街ではないらしいが、便利は便利だと言っていた。確かに、風澄のイメージじゃないなあ、ここは。
余談だが、泊まったのが大学の最寄り駅の近くのホテルだったので、そこを出てからは、知り合いに会わないか冷や冷やしつつ、いやむしろ見せつけたいという気もありつつ、ちょっとしたスリルを味わった。……まぁ、誰にも会わなかったけどな。
小奇麗というよりは雑然とした雰囲気の駅は、予想通り、今日も人で溢れていた。
新しくできたガラス張りのビルだとか、デパートのウィンドウなんかは、おそらく綺麗な街を目指して造られたのだろうけど……人が絶えない街となると、再開発もしにくいのだろう。風澄の好みの街になる様子は、とても想像できなかった。まぁ、昔は、ここも田舎だったんだろうけどな。
「うわぁー……綺麗……」
風澄が立ち止まったのは、ここ数年でとても有名になった、チェーン店の花屋だった。
花だけでなく、果物や変わった植物を加えるのが特徴で、オーダーするものだけでなく、値段に合わせてあらかじめアレンジして小さく包んだ花束が人気らしい。母親や姉が好きで、時々買ってきていた記憶がある。風澄も例に洩れず、というところだろうか。ディスプレイされた色とりどりの花を、うっとりと見つめている。
よく見たら、サボテンやら、ガラスの花器やら、それほどスペースがあるわけでもないのに、所狭しとさまざまな商品が並んでいた。しかも、ただ置くだけでなく、使用例も兼ねている。そういう細かい配慮が店の雰囲気を良くしているのだろう、居心地の良い空間が演出されていた。
切り花に至っては……いや切り花ではなく切り植物とでも言うべきだろうか。見たこともないような植物がたくさん目に入ってくる。俺は、母親と姉が好きだったので、男にしては花の名前を知っているほうだと思っていたんだが、表示札を見てもさっぱりわからない。観葉植物に至っては、パキラにアイビー、後はポトスがせいぜいで、有名どころ以外は全滅だ。薔薇やら百合やら、おなじみの花を見かけるとほっとしてしまったほど。とは言え、それさえ名前となると知らないものばかりだ。
「あ、ローテローゼ!」
それこそ山のような花々の中から赤い薔薇を見つけるなり、風澄は嬉しそうに言った。
「Rote Roseって……ドイツ語で赤い薔薇? そのまんまだなぁ……」
どういうネーミングだよ、と突っ込みつつも、俺はその名の如実さに感心していた。
細身ながらも、天を向いて伸びた、しなやかな茎。
それを護る大ぶりで艶やかな葉と、鋭い棘。
赤い薔薇という名に恥じぬ、深みがありながらも鮮やかな、大輪の花。
中央の立ち上がる先端と、それを包む、まるで真紅のベルベットのような花弁。
――女王の花だ。
強く、激しく、凛々しく。
他を圧し、天を仰ぎ、昂然と頭を上げて、佇む。
孤高の。
きっと、赤い薔薇と聞けば誰もが想像し、誰もが理想的だと答えるだろう。
赤い薔薇の具現――。
その名を冠するに相応しい、威厳と気品に満ちた立ち姿だった。
「どうして、そんな『そのまんま』なネーミングだか、わかる?」
「いや……なんで?」
「なんでかって言うとね……ローテローゼって、実は日本産なの」
「な、なっ……これが、日本で生まれた花ぁ!?」
俺は思わず、声をあげてしまった。
まさか……こんな、赤い薔薇の具現としか思えない、正統派の花が……日本産!?
「しかも、生まれたのは1992年。もちろん、入れ替わりの激しい業界だから、よく持っているほうだけど……薔薇の歴史の中では、かなり最近の花なのよ」
名前は知らなかったけれど、目に慣れた姿と言い、佇まいと言い、いかにも古い歴史を背負っていそうなのに……!
「し、信じられん……」
「がっかりした?」
「いや、そんなことはないけど。ただ、びっくりしてさ」
「私も最初は驚いたのよ。でも、それを知った時、なんだか嬉しくて。日本で、こんな素敵な花を生み出せるんだなぁ……って思ったら、誇らしくなっちゃった」
風澄が言うに、薔薇の分類は、植物学的見地や系統など、さまざまな視点からの分類方法があるそうだが、未だに世界統一規格は無いらしい。まぁ、よくある話だ。で、比較的スタンダード且つ大雑把で一般的にも解りやすいな方法だと、クラシックローズとモダンローズの二つにわかれるそうだ。
ローテローゼは、モダンローズの中でもハイブリッドティーというタイプに属する。ハイブリッドティーは、現代では薔薇の代表格だが、その歴史は、ここ百年ほどなのだそうだ。
ハイブリッドティーの特徴は、厚い花弁と大輪の花と、剣弁高芯咲きや半剣弁高芯咲きと言われる咲き方。剣弁とは花弁が尖ること、高芯とは花弁が反ることを言う。
また、薔薇の時期は初夏だが、ハイブリッドティーの場合は四季咲きと言って、初夏に咲いた後も何度か咲くのだそうだ。まぁ、温室栽培の発達している現代では、開花時期など有って無きが如しなのだろうけど。
何より驚いたのは、ハイブリッドティーの意味。『Hybrid』はともかく『Tea』は……まさか、と思ったけど、本当に紅茶の『Tea』なのだそうだ。ハイブリッドティーの香りが紅茶の香りに近いことから、らしい。……そうかぁ? とは思うが……。
「しかし、よく知ってるなぁ……好きな種類だから?」
だいぶ端折ってはいるのだろうけど、なんだか今ので薔薇に詳しくなった気がする。
「うん。ローテローゼって、すごく気品のある赤でしょう? スタンダードだけど、綺麗だなぁって……ずっと憧れてたの」
「この色、風澄に似合いそうだな」
「前に言ってたのって、こういう色なの?」
「そうそう、こんな感じ。どう?」
「素敵だけど……なんだか気後れしちゃいそう」
そう言ってはいるけれど、きっと風澄ならこの色にも負けない。それどころか、容易く着こなしてしまうだろう。より彼女の魅力を引き立ててくれるに違いない。
「でも、薔薇って言ったら薄いピンクよね。やっぱり、代表的なのはノブレスかな。あぁでも白も綺麗……ティネケの白は黄緑色がかってて不思議な魅力があるし……」
「薔薇だけでもこんなに種類があるんだからすごいよなぁ……」
「でも、毎年どんどん増えてるんだって、新しい種類のが。しかもその数が十や二十では済まないって」
「まぁ、それだけ人気っていうことなんだろうけど、似たような種類だって一杯あるだろうに」
「それ以前に、全部の区別がつく人って居るのかしらねえ」
なんて、綺麗な花を見ているくせに、シビアな方向に考えが行ってしまう自分たちに、苦笑してしまう。
「でも、やっぱり素敵よね、薔薇って」
「花の女王と言われているぐらいだもんなあ」
「あら、花の女王って薔薇だけじゃないのよ?」
「そうなのか?」
「そうね、洋蘭……特にカトレアは、薔薇と並ぶ、花の女王の代名詞なんじゃない? それから、カサブランカの気高さも、女王の名に相応しいわよね。探せば、他にもたくさんあるんじゃないかしら」
「ほら、やっぱり」
「ん? なに?」
「風澄だって、いろいろなことを知ってるじゃないか」
「え? あ、ああ……そのこと。
……んー、でも、そうかな……私の場合、役に立たないことのほうが多いし」
「役に立つか立たないかって問題か? 役に立てば良いってわけじゃないし、いつか役に立つ場合だってあるだろ。おもしろいよ、俺は。話してて」
「私は、もうちょっと実用的な知識を身に付けなきゃなぁって思っちゃうこともあるけど……でも、昂貴に言われたなら嬉しいかも」
「『かも』かよ」
「やぁね、言葉のあやだってば」
などとふざけて、くすくす笑う。こんなふうに彼女が俺をからかうことも、何度目だか知れない。既にごく普通のことで、日常の一部にさえなっていた。
「風澄は薔薇みたいだよな」
良いことを思いついた。今度は俺がからかってやろう。
「え……そ、そう?」
「綺麗だけど棘(とげ)があるから」
「ひっ、ひどーい! そっちの意味!?」
「いやー、あの、杉野に対する態度を見る限り、どう考えたって薔薇だろう。他に何に例えたらいいのかわからないねえ」
褒めた後に落とす。うん、基本中の基本だな。
……と言いつつ、さっきの『姫君』然り、実は本気で褒めているあたり、俺もなぁ……。
この世で風澄ほど姫君という言葉が相応しい女性も少ないと思うんだが。
もちろん、同じくらい、似合わないということも知っている。『姫君』なんて言葉に収まりきらない、溢れるほどの魅力とさまざまな側面を、彼女は持ってるから。
「否定できるか?」
「できないけど……ううう」
「冗談だって。そんな落ち込むなよ」
「ううう……嘘ぉ……絶対本心……」
「いいじゃん。綺麗なだけの薔薇なんて、きっとつまらないよ」
「……そう?」
「それに、綺麗だからこそ棘があるんだろ。そうやすやすと触れさせてなるものか、って」
いや俺は触るけど。なんてな。
「どうせ、綺麗な薔薇には棘があるーなんて言うんでしょ……ううう」
「風澄、その諺、英語でなんて言うか知ってるか?」
「え? えーと……The beautiful rose has a……棘って?」
「棘はprickle、thorn。この場合はthornだけど、風澄のはだいぶ違うな。書き方はいろいろあるけど、簡単なのはNoから始まるんだ」
「うー、じゃあ……No thorn……No rose……ええと……」
「いい線いってる。後に言ったほうが正解に近いな」
「高原先生、ヒントくださいヒント!」
「もうやったろ?」
「第二ヒント!」
「はいはい。直訳すると、『棘の無い薔薇は無い』になる」
「ええと……No rose……thorn……ううう。昂貴ぃ……」
「おいおい……じゃあ、第三ヒント。これで最後な。『〜無しで』と言えば?」
「……あ、そうか、without!」
「そう。正解は?」
「んー、じゃあ……No rose without a thorn.で合ってる?」
「はい、正解」
ほっと一息という調子で、風澄は息をついた。
「There is no rose without a thorn.とか、Every rose has its thorn.でも合格」
「あーぁ、英語でこれじゃあ、院入試、危ないかも……」
よっぽど不安なんだろうか。まぁ、語学が苦手なのに、語学必須と来たらなぁ……不安にならざるを得ないか。しかも、英語だけじゃ済まないし。
「そんなことないだろ。試験まで、まだ二ヶ月くらいあるし」
「まだじゃなくて、もう! 二ヶ月を切ってるのよっ!」
「その前に中間発表もあるしなあ」
「あああああ〜、それを言わないでえぇ……」
「そっちは大丈夫だろ?」
「うん、多分。でも、半端なものにはしたくないから。入試対策に追われて、そっちに手が回りませんでしたーなんて、いやだもの」
「おお、さすが。天下の負けず嫌い」
「昂貴に言われてもねぇ」
「それは確かにな」
負けず嫌い……と言うと少し違う気もするけど、負けるのが嫌いなのは事実だ。
でも……風澄になら、構わない。
恋愛は、より好きになったほうの負けだと言う。
だけどそれは、とてつもなく幸福な敗北宣言。
負けたほうが幸せなんてこと、恋愛以外にあるだろうか?
恋の痛みも、幸せも、全て君が教えてくれたこと。
「ねぇ、昂貴……話が戻るけど……どうして試験って、たったひとつの『正解』を導き出さなきゃいけないのかしら。特に語学は、実際に使うときって、そこまで厳密じゃないでしょう? それに、忠実に正解を辿って習得したって、実際にネイティヴの人と話すと、正確すぎて妙だって言われるって聞くし……変なの」
「あぁ、なるほど。確かにな」
「それって、どうして? 昂貴は、そんなふうに言われなかった?」
「そうだなあ、俺はあんまり……向こうに行って、現地の話し方に慣れたし。
まぁ、文法さえ理解していれば良いってもんじゃないしな。文法を組み立てながら話しているうちは、まだまだってことだろ」
「うううー、頑張ります……」
「ああいうのは慣れだから。勉強したからって身につくもんでもないし。要は、使うこと」
「通じれば良いっていうならなんとかなるんだけどなぁ……」
「あぁ、現地では大丈夫だった?」
「うん。あんまり困らなかった。入国審査ではさすがに緊張したけどね。"Sightseeing"を忘れないように、何度も何度も繰り返したわ」
「入国審査って……イギリスか。火澄さんに会いに?」
イギリスの入国審査は厳しいので有名だ。入国目的や滞在期間などを一人一人聞かれる。内容は簡単なことばかりなのだが、初めてなら、やはり緊張するだろう。
「そう。家族みんなで行ったの。でも、あとは、結構簡単な言葉でも通じたから」
「それなら現地で生活すれば慣れるだろ。充分充分」
「うううー、でも、目下の悩みは、院入試なんだってば……幾ら内部進学とはいえ、このレベルで大丈夫かしら、はぁ……」
「大丈夫だよ」
「え?」
「大丈夫。風澄なら……必ず受かるよ」
「ん……そう、かな……」
「あたりまえだろ。おまえは、自分の目標を手にするだけの力を持ってるよ」
「ほんと? ……ほんとに、そう思う?」
「ああ。楽しみにしてるからさ」
「……うん」
研究者という職業は、簡単なようで、決して楽な道ではない。ただ勉強すれば良いというものではないし、実力主義の理系の学者と違って、文系はキャリアがものを言う。倦(う)まず弛(たゆ)まずなんて、なかなかできることではないだろう。
けれど、彼女なら、きっと……。
そのための協力は惜しまない。そして、その隣に在るための努力はしよう。
美術史という学問に取り憑かれた同志としても、好敵手としても。
「そういえば、"No rose without a thorn."って、英語の諺でさ、『世の中に完璧なものはない』『どんなものにも不幸がある』っていう意味なんだけど……もうひとつ、『世の中に完全な幸福はない』っていう意味でもあるんだ」
「……そうなんだ……」
幾らか気落ちした様子で、彼女は呟いた。
「ねぇ、昂貴……やっぱり……ないのかな、『完全な幸せ』って……」
「そうだな……何を完全と言うかにもよるだろうけどな。
ただ、幸せであれば幸せであるほど……失う恐怖っていうものがあるから、そういう意味では、完璧な幸せは、この世には存在しないんだろうな」
「……そうだね……」
風澄。
俺の『The Rose without a Thorn』は、君だよ。
『幸福』なんて知らなかった。多くのものに恵まれていたのに、その意味は。
だけど見つけてしまった。だから離さない。この世で唯一の、棘の無い薔薇――。
「で、どれがいい?」
「え?」
「花束。欲しいんだろ?」
「あ……嬉しいけど、でも、今日はいい」
「そんな遠慮しなくてもいいのに」
「遠慮っていうか……夏だし、お花も疲れてすぐ枯れちゃいそうだから。それに、これからまだ歩くでしょ?」
「じゃあ、秋になったらだな」
「……うん」
そっとつないだ指を、もういちど絡ませる。
来るかもわからない未来の約束を、確かめるかのように。
――秋。
それは、街の木々が競うように彩り、あたたかな色に包まれる、華やかな季節。
けれど、冬という長き眠りの時を予感させる、物悲しさをも併せ持つ、不思議な季節。
そして、風澄と俺が生まれた季節でもある。
それまで、ずっとこんなふうに手を繋いでいられたら、どんなに幸福だろう。
涼やかな風が吹き、柔らかに木立ちが色づく頃。
刺のない薔薇の、腕に抱えきれないほどの花束を抱いて。
お互いに、節目を迎える、その日まで……。
First Section - Side Story The End.
2005.02.19.Sat.
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