No Rose without a Thorn

06.A Decision with Hesitation


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* Kasumi *
 考えてみたら、昨日の夕食から半日以上、なにも食べていなかった上……結果的には、夜じゅう、それはもういろいろと、動き続けていたわけで……。
 まぁ当然の結果よね、と今更納得する。
 要するに、とにかくお腹が空いていた私たちは、揃ってビュッフェスタイルを選んだ。

 色とりどりに並ぶ洋風の料理は、目にも楽しい。
 ビュッフェなんて、家族旅行やディナーで何度も食べてきたのに、こんなに目新しく思えるのは……きっと、昂貴が隣に居るから。

 多数の食材に、ついつい目移りしてしまうけど。
 オレンジよりトマトより、目覚ましはやっぱりグレープフルーツジュース。
 主食のクロワッサンとブリオッシュは、バターもジャムもつけないで。
 ミネストローネやクラムチャウダーも魅力的だけど、ここは王道のコーンポタージュスープ。
 切り分けられたハッシュドポテトと、煮野菜の人参、いんげん、キャベツ。
 蛋白質はハーブと荒挽きの二種類のソーセージ、それから卵料理。
 プレーンヨーグルトに蜂蜜とメープルシロップを半々、そこへドライフルーツを載せれば、
 本日のブランチ完成。

 昂貴と食事をするのは楽しい。
 ……それだけじゃない。一緒に居ると、いつも新しい発見や驚きがある。
 知らなかった、たくさんのこと。
 新しい見方や考え方。
 彼は私にたくさんのことを与え、新しい道を拓いてくれる。
 だけど――。
「風澄、卵料理はその場で作ってくれるんだって」
「え、ほんと? なにがあるの?」
「結構あるな……スクランブルドエッグとフライドエッグ、オムレツはプレーンとチーズとハム、あと奥でボイルドエッグとポーチドエッグも」
「うわ、たくさんあるんだ。って、まさか、フライドエッグって、卵を揚げちゃうの!?」
「そういう場合もあるけど、この場合は目玉焼きのことだって」
「えっ……そうなの? 目玉焼きってサニーサイドアップじゃないの?」
「うーん、この話はすごく長くなるけど……まず、Fryっていうのは日本語に訳すと『揚げる』だけじゃなくて『焼く』と『炒める』の意味もあるんだよ」
「えっ、ほんとに!?」
「ほんと。帰ったら辞書引いてみ?」
「だって、油で揚げたじゃがいもはフライドポテトで、焼いたじゃがいもはベイクドポテトって言うでしょ? それに、『炒める』とはちょっと違うけど、『炒り卵』なら、スクランブルドエッグだし。不思議……」
「フライドポテト(Fried Potatoes)は和製英語なんだよ。もし、現地でFried Potatoesってオーダーしたら、多分まるごと揚げたじゃがいもが出てくるんじゃないかな。ファーストフードの場合はアメリカ英語だから、現地だと、フレンチフライ(French Fried Potatoes)、イギリスの場合は、フィッシュ&チップスってあるだろ、あのChipsのほう。
 で、ベイクドポテトは確かに焼きじゃがいもだけど、このBakeは『オーブンで焼く』っていう意味なんだ。パン屋のことをBakerって言うだろ? あれは、パンや菓子をオーブンで焼くからなんだろうな」
「FryもBakeも、日本語なら『焼く』ひとつで済むのに、いろいろな言葉があるのは、やっぱり、焼いて作るお料理の文化が発達しているからなのかしら」
「ああ、その所為だろうな。他にも、あぶるのはgrill、パンにはtoast、蒸し焼きならroast、直火はbroil……たくさんの言葉があるんだよ。間違えると突っ込まれるだろうな」
 ううう……私、どう考えても突っ込まれるタイプだわ……。
「じゃあ、スクランブルドエッグは?」
「スクランブルドエッグは、『かき混ぜた卵』って意味だから、『炒り卵』とは微妙に違うんだよ。スクランブルドエッグは半熟だけど、『炒り卵』は固まってるから。
 日本だと、メニューにフライドエッグって書いてあったら目玉焼きのことだよ。ほとんど普通の目玉焼きと同じだけど、油を多めに使うからフライドエッグって言うんだろうな。
 サニーサイドアップって言うのは、ただの片面焼き。でも、卵を落とした後に水で蒸したものは、サニーサイドアップとは言わない。黄身の表面が白くなるから、『Sunny Side』とは違っちまうもんな。
 でも、欧米だと、フライドエッグと言えばターンオーバーを指すことが多いんだ」
「ターンオーバー? なんだか新陳代謝みたい」
「新陳代謝?」
「お肌ってね、28日周期で生まれ変わるんだって。で、新しい細胞が生まれて、表皮の古い細胞が角質になって剥がれ落ちて入れ替わることを、ターンオーバーって言うの」
「へぇ、よく知ってるなぁ、そんなこと」
「デパートの化粧品売り場のカウンターでね、カウンセリングをしてもらった時に聞いたの。だから、美容部員さんの受け売り」
 自分でも調べ直したりしたんだけど、面白かったなぁ。今は文学部に居るから、根っからの文系って思われることが多いけど、理系が苦手っていうわけじゃないのよ。まぁ、英語が苦手だから、理系になんて、とても行けないけど。論文を外国語で書くなんて、想像しただけでぞっとしちゃうもの。
「フライドエッグのターンオーバーは、両面焼きのことなのにな」
「そうなの?」
「もちろん、サニーサイドアップを指すこともあるけど。でも、ステーキと同じで、大抵、『どんなフライドエッグか?』って聞かれるんだよな」
「じゃあ、焼き加減はステーキみたいにレア、ミディアム、ウェルダン?」
「いや、この場合はイージー、ミディアム、ハードで表現するんだ。これはターンオーバーでも同じで、軽いものはオーバーイージー、中くらいのはオーバーミディアム、しっかり焼いたのはオーバーハード」
「じゃあ、私の好きな半熟の片面の目玉焼きは、サニーサイドアップのミディアムってことになるのね」
「そう。目玉焼きは深いぞー?」
「へえぇ……私はいつもオムレツだったから、ちっとも知らなかったわ。ね、昂貴は卵料理だったらなにが好きなの?」
「俺はポーチドエッグだな」
「ポーチドエッグってなんだっけ……ボイルドエッグはゆで卵よね? どう違うの?」
「ボイルドエッグはそれで正解。ポーチドエッグは、沸騰した湯に酢を入れて、そこに卵を割って入れるんだ。落とし卵って言ったらいいかな」
「お酢を入れるのは、崩れないようにするため?」
「そう。まぁ、入れなくても大丈夫だけどな。最近はよくポーチドエッグや温泉卵が乗っかった料理があるだろ、ああいうのも結構好きなんだよなぁ」
「あ、そういえば、温泉卵とすごく似てるね。どう違うの?」
「うーん、ほとんど同じようなもんだな。状態も似てるし。食感はまたちょっと違うけど。温泉卵は殻ごと加熱するのが大きな違いかな。最近は簡単な器具が売られてて楽だし。
 で、実は、日本だと、メニューにポーチドエッグがないときにポーチドエッグをオーダーすると、ただのボイルドエッグが出てきてガッカリすることが時々あるんだよなあ……」
「え、ちゃんとしたホテルの料理人なのに? まぁ、私も今まであんまり区別がついていなかったから、ひとのこと言えないけど……」
「そうなんだよなぁ。たかが卵料理、されど卵料理」
「んー、じゃあ、今日はフライドエッグにしてみようかな。せっかく知ったんだもの」
「日本だと、ただの目玉焼きだぞ?」
「う……そうか、そうよね……ううう、それはつまらないかも……」
「ま、それは今度海外に行ったときにでも」
「……、うん」
 いつになるかなんてわからないし、ちゃんとできるかもわからないけど。
 昂貴と話していると、次の機会にやってみたいことがどんどん増えてく。
 ただ知識が増えるだけじゃなくて、どんなことでも学ぶべきところはあって、どんなことでも楽しめるっていうことに、あらためて気づかされる。
 それは、とてもあたりまえのことだけど、なかなか気づくことはできない。
 きっと、ひとりだったら、今もずっと平坦な日常を過ごしていたんだろうな。
 昨日と今日と明日が、別の日だっていうことも忘れて……。
「じゃあ今日は私もポーチドエッグにしてみようっと」
「んじゃ、ポーチドエッグ二つだな」
 ちょうど順番が来て、昂貴がふたりぶんのオーダーを済ませる。ウェイターに、できあがり次第テーブルへ運んでくれると聞き、私たちは席に戻った。

 * * * * *

「私の偏見かもしれないけど……ほんと珍しいわよね、昂貴みたいに料理のことについて詳しい男性なんて。料理に関する仕事を目指しているわけでもないのに」
 グレープフルーツジュースで乾杯をした後、さまざまな料理で満載だった私たちのお皿はあっという間に胃の中へと入ってしまい、のんびりとした食後の時間を過ごしていた。
「食と語学に関しては、な。家の環境の所為もあるけど、留学してた時に自ずと憶えたこともあるからさ。それに、他のことは風澄のほうが知ってるだろ」
「でも、私にとっては、昂貴がそうなんだけどな。ただ知識が豊富なんじゃなくて、興味をそそる話し方をしてくれるでしょ? 全然関心のなかったことでも、つい引き込まれちゃう」
「そう言ってもらえるなら、俺は嬉しいよ。……姫君の家庭教師役としては」
「うー、またそれを言う……そんな柄じゃないったら」
 やだなぁ、女子高時代のこと思い出しちゃうじゃないの。
 うちの大学の附属校っていうのは、受験が無い所為か、イベントが多いの。で、その演劇祭の時、生徒会チームで一本、劇をやって……って言うか例によってみんなが最華に引きずりこまれたんだけど……で、そのキャストがねぇ……最華がヒーロー役、私がヒロイン役、だったのよね……。
 まぁ、それは成功したからいいんだけど、困ったのが上演後のこと。
 何って、登下校どころか廊下を歩いても姫君呼ばわりよ?
 最華は最華で面白がって助長するし。暫く頭の痛い日々が続いたわ……。

 でも、このことがなかったら、私が同じ学年の子たちに本当の意味では馴染むことも、なかったかもしれない。
 私はいつも『市谷の娘』というフィルターを通して見られていた。それはしかたのないことだって充分わかってたけど、私を『ただの女子高生』『ただの同学年』として見てくれるひとが殆ど居ないことは、やっぱり辛くて。
 でも、口さがないひとたちの話題に上るなんて、絶対に嫌だった。
 だからかな。自然と閉じこもる癖がついちゃって。
 平気なふりをして自分らしく在れるほど、私はまだ強くなくて。
 私自身でさえ、私という存在を、まだはっきりと把握してはいなくて。
 冷静で賢くておとなしいひとという評価に、内心苦笑する一方、安堵もして。
 そして同時に、寂しさも感じてた。でもそれは全て、後から気づいたこと。

 無理矢理ヒロイン役にされた私が、最華に『ぶっちぎれた』あの時。
 最華と私が親しいことは、既に周知のことだったけれど、私がこんな性格だったなんて、思いもよらなかったみたいで。
 まさかと唖然とする人。ぽかんとした顔で信じられないという人。ギャップに笑い出す人。
 でも、それは、私がやっと『ただの女子高生』になれた瞬間だった。

 だから……最華に感謝してると言いたいところなんだけど。
 あの『眼前に繰り広げられている光景が面白くてたまらない』という表情を思い出すと、どうも素直に感謝できないのよねぇ……はぁ。
「後はどうする? デザートでも食べるか?」
「ううん、私はもう充分。お腹いっぱいだもの」
「じゃあ、紅茶だけもらってくるな」
「ん、お願い」
 ミルクたっぷりで砂糖なしっていう私の好みも、言わなくたってわかってくれてる。
 私だって、昂貴の好みを知ってる。
 たった一ヶ月の間に、これほどお互いのことを識った関係が今までにあっただろうか?
 ――だけど、家族や友人には言えない。
 さっき気づいた。
 私たちは、無意識に、その話題を避けていたんじゃないかって。
 家族や友人に言える関係ではないから。
 このままじゃ……だめだ。
 やっぱり、このままでいていいわけがない。
 軽く手を振って背を向けた彼を見送った後、鞄から携帯を取り出す。
 馴染みの名前を探すけれど、受信メールにも送信メールにも、履歴の一ページ目にはその名は無い。そして、その一覧の送り主も受け取り主も全て、たったひとりの名前で埋め尽くされている。すなわち――『高原 昂貴』と。
 昂貴と電話で話したのはあの一度きりだけど、メールは結構頻繁にやりとりをするようになった。前にイタリア語を教えてもらった……私たちの関係が変わり始めた、あの日から。
 お互いの予定を合わせることから始まって、ちょっとした質問だとか、テストやレポートが終わった報告だとか……いつの間にか、メールの交換をするのがあたりまえになってしまった。ほとんど一緒に居たのに、どちらかがちょっと出かけなければならない時でさえ、まるで片時も離れられないというように。
 ……こんなことなら、電話帳から開けばよかった。
 せっかくの勇気が挫けそう。
 でも、このままじゃいけないって……やっと、決心がついたんだから。
 意を決して、一ヶ月以上前の日付のメールから、新しいメールの編集画面を開く。

 迷いがないわけじゃない。
 だけど……やっぱり、言おう。最華に。
 たとえ、どんなことを言われたって、仕方ないことだから……。

 私が送信を終えたころ、ちょうど昂貴がテーブルに戻ってきた。
「どうした? なんか用事?」
「ううん、なんでもない。時間を見てただけ」
 手を振ってごまかす。どうしてごまかそうとしたのか、自分でもわからないまま。
「あ、何時だった?」
「もうお昼前よ。ブランチになっちゃったね」
「だろうなぁ、長居しちまったから」
「って、誰のせいだと思ってるのよっ」
「そりゃー風澄だろー?」
「もぉー、元はと言えば昂貴のせいでしょうがっ」
 笑いながら、胸の奥がちくっと痛む。
 ……どうして、言えないんだろう。
 最華にメールしてたって。
 嘘をついているわけではないけれど……どこか、後ろめたくて。
 さっきまで幸せに溺れきってたのに。
 ……やっぱり、こんな関係は間違ってる。
 わかってる。
 こんな関係、長く続かないって。
 続いていいはずがない。
 だって私は彼を好きなわけじゃない。
 彼だって、私を好きなわけじゃない。
 どんなにわかり合っている男女も、いつかは別れる。
 私たちのような不安定な関係なら尚更。
 それとも、そのほうが長く続いていくんだろうか。
 お互いに執着心が無いから……?
 情熱も、嫉妬も、不安もない。
 そうして続いていく関係は、果たして恋なんだろうか……?
 そして、私と彼の間には、本当に情熱も嫉妬も不安も無いんだろうか……?

 ――わからない。

 だけど、私たちはいつか、離れなければならなくなる時が来る。
 わかっているのに、どうして……
 私は、この手を自分から離そうとはしないんだろう……。
 いつか終わるとわかっている、先の見えない関係ならば、先に自分から断ち切ってしまったほうが楽なのに。
 慣れ? 弱さ? それとも未練……?
「そろそろ、行くか?」
「……うん」
 そんなことを考えているくせに――
 あたりまえのように差し出された彼の手を、私はいつの間にか取っていた。
 低い温度に保たれた屋内で、あたたかなぬくもりが、私の手のひらを包んだ。
Line
To be continued.
2005.02.12.Sat.
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