No Rose without a Thorn
05.Why is Love betrayed?
チェックアウトを済ませ、風澄を探す。だが、ざっとロビーを見回したけれど、遠くからでもわかるであろう、あの印象的な姿は見つからなかった。文明の利器・携帯を取り出して、今まさに通話ボタンを押そうとした時、入り口近くの、ホテル内の施設案内や、レストランの一覧表示のところに、その姿を見つけた。
「どこか良いとこ、あった?」
「えっ、ここで済ませちゃうの!? 高いのに、もったいない……」
近づいて声をかけると、彼女は振り向き、驚いたように目を丸くした。
やはり無意識だったか……。風澄に限って『ここで食べたいという無言のおねだり』なんぞ無いだろうなぁと思ってはいたが、本気でただの時間つぶしだったとなれば、こっちの誘い文句にも頭を使わざるを得ないというものである。謙虚は美徳と言うが、場合によっちゃ考えものだ。しっかし……これが日本最大規模の多角経営企業の会長の孫であり社長令嬢の台詞かねえ。本当に、経済観念は結構庶民的だよなぁ。
「腹減ってるだろ? 良いところがあったら、ここで済ませちまったほうが良いしさ」
こういう言い方をしないと、首を縦に振ってくれないんだよなぁ、この子は。今もたぶん、ホテル代で恐縮しているだろう。俺は甘やかしたいんだけど、肝心の彼女は、なかなか甘やかされてくれない。まぁ、喜んではくれるんだが。
「でも、また払ってくれちゃうんでしょ?」
「普通、そのほうが喜ばないか?」
「だって、昂貴って、スーパーの買い物さえ、一円も受け取ってくれないんだもの。そんな、ご馳走になりっぱなしなんて……」
「俺はやりたくてやってるんだけどなぁ……嫌なんだ?」
「嫌って言うか……ちょっと、気が引けちゃって」
たぶん、風澄なりに、男の面子ってものを理解しているんだろうな。無下に断ることも、後から無理矢理渡すこともしない程度には。だったら、少しは喜んでくれ、頼むから……っていうのは、要求過剰ってもんだろうか。
「じゃあ、こうしよう。時々でいいから、風澄が買い出しから調理まで全部一人でやって、俺に食べさせる。どう?」
「……最大の譲歩?」
「どっちかっつーと、お互いの妥協点であり、最も平穏無事な解決策かなと」
「全面的ではないけど、一部は賛成かなぁ」
「じゃ決まりな」
「一部だってば」
「楽しみにしてるからさ」
彼女の小さな抗議は流して、半ば無理矢理に納得させる。
……結局は、俺のほうが役得かもしれない。
「昂貴の足元にも及びませんけど、それで宜しければ、ね」
「そんなことないだろ。手際もずっと良くなったし」
と言うか、俺にとっては『風澄が作ってくれた』っつーのが最大のポイントなんで。うん。
だから是非お願いします……とは、さすがに言えないが。
「やっぱりすごいよね、昂貴は。お料理もできちゃうし」
結局、俺たちはビュッフェとコンチネンタルの両方がある洋風のレストランに決めた。少し離れたところにあったため、しっかり館内案内図を確認してから向かう。
「美味い紅茶も淹れられるし?」
「そうそう。勉強だけじゃないものね」
風澄には、多趣味だとか、こだわりのひとだとか、器用だとか、いろいろな意味で感心されることが多いが、俺は普通に楽しんできたつもりだったので、どこか照れくさい気持ちもあった。でも、こうやってあらためて褒められると、やっぱり嬉しいもんだ。なにより、風澄に喜んでもらえるというのがポイントである。……何のだ、何の。
「実家に帰ったら、昂貴直伝の淹れ方を披露しちゃおうかな」
「上達したもんな」
「みんなを驚かせられるかなぁ。ちょっと楽しみかも」
きっと、誰に教わったかは、言えないのだろうけど。
俺の何かが風澄に影響しているのなら、嬉しいな。
「でも、免許皆伝にはまだまだよね」
「母親と姉の厳しい修行の賜物だからな。そう易々と追いつかれちゃたまらん」
「ふふふ、望むところよっ」
などと言って、拳を握って意思表示。意外や意外、クールな外見とは裏腹に、風澄は結構ど根性タイプな面がある。もともと能力がある子だけど、性質は努力型なのだろう。
「なんだかんだ言って、負けず嫌いだよなぁ、風澄は」
「少年よ大志を抱け、石の上にも三年、継続は力なり!」
「どっちかっつーと日々精進?」
「……はぁーい、頑張りまーす」
語学の時と同じ反応。しゅんとした子犬のようで、思わず頭を撫でてやりたくなる。
「でもさ、上手くなったよ、本当に。料理も紅茶も」
「だけど、それはみんな、昂貴のおかげよ。……ありがとう」
「いえいえ、こちらこそ、優秀かつ熱意のある生徒で嬉しい限り」
「昂貴って、ひとにものを教えるのが上手よね。飴と鞭の使い方をわきまえてるし、褒め上手だし。……とんでもないこともされたけど?」
「まだそれを言うかな……だけど勉強にはなっただろ?」
「…………黙秘権を行使します」
「おいおい」
まぁ、否定しても肯定しても、結果は同じだもんなぁ。俺にいじられるだけだし。いや、さすがに、ここではやらんが。……少し前なら部屋に居たのになあ。ちっ。なんてな。
「でも本当、風澄は紅茶好きだよなあ」
「私がこんなに紅茶を好きになったのは、昂貴の淹れてくれた紅茶を飲んでからよ?」
「そうなのか?」
「もちろん、それまでも紅茶は好きだったけど、あんなに美味しいなんて知らなかった。初めて淹れてもらった時、すごくびっくりしたもの。世の中にこんな美味しい紅茶があったのかって。質のいいものを使っているせいもあるんだろうけど、やっぱり昂貴の腕が良くて、愛着があるからこそ、あの味が出せるのよね」
「そう言ってもらえると、やりがいがあるよ。料理にしろ飲み物にしろ、風澄は心底喜んでくれるから、こっちも嬉しくなって、つい頑張っちまう」
「ほんと? あ、でも、無理はしないでね。疲れてるときとか、用事がたてこんでるときとか」
俺は、風澄の笑顔のためなら、どんなに疲れていても頑張っちまいそうだけど。……いやそれはもういろんなことを。うん。
だけど風澄は、無理をされて喜ぶタイプじゃなさそうだな。きっと、喜んではくれるだろうけど、どこか罪悪感を感じてしまうんじゃないだろうか。自分が強制したわけではなくても。
「じゃあ、そんな時には産直もののりんごジュースをどうぞ」
「そうしまーす。あれも美味しいよね、ほんと。りんごの種類ごとに色々あって、選べて楽しいし、純粋な味を楽しめるもの」
「あれは贈るにも家で飲むにも良いんだよな。老若男女いける味だし」
初めて買ったときは、うちの家族はたかがりんごジュースに何を騒いでいるのかと思ったんだが、一口で目から鱗が落ちた。いや、頬が落ちたと言うべきだろうか。ジュースってものを舐めてたなぁと痛感したね、あの時は。
「昂貴って、食材もそうだけど、身の回りのものに、すごくこだわりがあるわよね。私なんかは、もうそんなことどうでもいいやーって思っちゃうこともあるから、そういう積極的な生き方って素敵だなーって思うの」
「俺の場合は、こだわりすぎという面もある気がするけどな」
「でも、私、昂貴を見てると、生活って楽しいことなんだって、あらためて思うの」
「俺は、風澄を見ていてそう思うんだけどな」
「え?」
「一杯の紅茶で感動してくれる子は、そうそういないだろ」
「だって本当に美味しかったものっ」
風澄に初めて紅茶を淹れたのは、知り合ってから一週間目の週末だっただろうか。
一口飲んで固まったから、もしや合わないのかと一瞬冷やっとしたんだが、次の瞬間、今にも滂沱するんじゃないかと思うほどの勢いで、『美味しいぃ〜っ!』と。口に含んではゆっくりと味わい、飲み込んでは息をついて香りを楽しみ……という調子で、いつの間にかポット一杯が空になった。即座に新しい茶葉で二杯目を淹れたのは言うまでもない。あれは本当、こっちが感動したなあ。
「でも、お酒はもうやめておこうかな」
「身体に合わないんだから仕方ないよな。これからは避けて通っとけよ」
「そうねえ、それが賢明かも」
心配する気持ちも当然あったが、内心、不安もある。
もし風澄が、他の男の前で、あんな酔った姿を晒したら……って、冗談じゃない! 想像するだけでも恐ろしい。
「家族は結構強いのになぁ……火澄兄なんて底なしよ?」
「あれか、笊(ザル)を越えて枠(ワク)という」
「え? どういうこと?」
「笊には網があるだろ? その網さえもないってこと。つまり、遮るものが全く無い」
「ああ、なるほどね。確かに、火澄兄は笊じゃなくて枠だわ」
と、その様子を思い出したかのようにくすくす笑う。ということは、どうやら、火澄さんは、酒に関しては俺と同類らしい。
「水澄兄が私みたいな体質だったら大変だっただろうなぁ……」
「ああ、上の兄貴は後継ぎか」
「うん、でも、平社員として入ったのよ」
「マ、マジ?」
「ほんと。入社試験も普通に受けてたしね。しかも、うちの会社の入社試験って、最初のほうの選考過程では個人名を出さないんだって。受験資格をクリアしてるかどうかチェックした後、志望者全員を番号にして、学歴とか伏せて、面接になって初めてわかる、みたいな感じらしいの」
「うげげ……それって、むしろ俺とかが受けるより緊張しないか?」
「だと思うよ。書類試験なんかで御曹司が落ちてたら、一族全体の恥さらしだもの」
「ひえぇ……」
俺も大概、怖いもの知らずな受験をしてきたけど……就職の試験っつったら、ただの入試とは違うもんなあ。想像するだに恐ろしい。
「一切名前を出さなくても、顔を見たらわかっちゃう人もいるだろうけどね」
「つくづく、大変な立場だなぁ……」
「うん、でも、別に、水澄兄が市谷を継がなきゃいけないっていう決まりは無いのよ?」
「そうなのか?」
「世襲制ではあるんだけど、直系の長男じゃ無くてもいいの。市谷の血を引き、後を継ぐ確固たる意志があり、なおかつ、その代で最も優秀な人間が継ぐ……っていうのが、その条件。まぁ、たまたま、お祖父ちゃんの……あ、グループの会長なんだけど……その代からは長男が継いでいるから、いわゆる世襲制だと思われているかもしれないけどね」
「へえ……」
俺は、そういう企業の入社試験を受けた経験が無いから、よくはわからないけど、きっと、今の日本では珍しいシステムを採っているのだろう。そうやって、直系の子供たちにさえ厳しい関門を設けているからこそ、日本随一の、そして世界でも有数の大企業として成り立っているんだろうな。
道理で、風澄も、よく言われるところの『何もできないお嬢さま』ではないわけだ。やはり、かなり厳しい教育を受けてきたのだろう。
「もちろん、部門がたくさんあるから、企業の上層部に関わるのは一人だけじゃないし、見込みのある人は、新部門設立時に優先的に引き抜かれたりすることもあるけど……厳しいよね……入ってからも、ずっと競争なんだもの……」
「うん……そうだろうな……」
「だけど、それでも、火澄兄は、就職は市谷に来るんだろうなあ……」
「火澄さんが留学してるのは、やっぱり、将来の仕事に活かすため?」
「うん……もちろん、興味もあるんだろうけどね。両親には留学経験なかったし」
「そうなんだ?」
「学生時代はね。ふたりとも、大学を出ている割には結婚が早かったから。その後は何度か長期で行ってるけど」
「へえ……」
そういうのって、やっぱり、政略結婚なんだろうか。
閨閥――いわゆる姻戚関係によって成される、家と家との同盟契約。
風澄からは、そんな家に生まれた雰囲気は微塵も感じられないけれど……それとも、たまたま相性が良かったのだろうか? そして、風澄は、そんな関係を結ばなければならない立場に居たりするのだろうか――?
「だけどね、きっと、好きなんだと思うの。勉強とか仕事とか」
ふいに思いついた疑問を尋ねようとしたところに、風澄が呟いた。
「水澄兄や火澄兄を見てるとね、やりたいことをやってるんだって思うの。
きっと、すごくきついと思うよ。厳しいよね。
でも……お祖父ちゃんがね……そういうプレッシャーを撥ね退けるだけの力も無いような人間は、人の上に立つ資格がないって言うの。世襲制ではあるけれど、そういう、厳しい関門を潜り抜けてきた人間が人の上に立つからこそ、市谷が盛り立てられているから、こうして今も日本を代表する企業として成り立っているんだからって」
「……すごい、家族だな」
「うん。尊敬してる。……昂貴もね」
「え?」
「なーんでもなーいっ」
聞き取れなかった部分は答えてくれなかったけれど、はにかみつつも、いたずらな笑顔が可愛くて……まぁいいか、という気分になってしまった。
「そういえば、風澄はさ……家族の話をあんまりしないよな」
「え、そう?」
「あんまり聞いたことなかったな、と思って」
「ん……なんか、前に、好奇心剥き出しで聞かれたりしたからかな。あんまり口に出さないようにする癖がついちゃったのかもね」
「そっか……」
「……それに、ね……宗哉のことが、あったから……なんか、自慢みたいに思われたら、やだなぁ、って……。
うちが、仲の良い家族で良かったっていう気持ちはあるの。私は、家族みんな、大好きだし。だけど……その話をした相手が、家族に何か、思うところがあったときに……もし、傷つけちゃったらって思ったら……なんか、言えなくなっちゃって」
そう、だよな……『宗哉』のような家庭――風澄の推測ではあるけれど――に育った人間からしてみれば、仲が良い家族の話題なんて、嫌味でしかない。
「そういうことを考えちゃう時点で、失礼かなとも思うんだけど……難しいね」
「……うん」
「でも、世の中に、家族が好きって言えない人が居るっていうことを知ってるから。家族が嫌いで、憎んでて、家を出たくて仕方がない人も居るし、たとえお互いに必要としている関係でも、離れざるを得なくなっちゃう人も居るのよね。
どんなに愛し合っていても、気持ちが離れちゃうことはあるもの。
誰だって、どこの家だって、無いとは言えないよね。知らないうちに壊れちゃってるのかもしれない。……もちろん、うちだって、そうならないとは言えないよね……」
可能性。あくまで可能性の話だ。
けれど、そんな家庭があるのだということを実感してしまった後では、自ずと、それに対する感覚が違ってくるのだろう。
きっと、思わず考えてしまう。
そんな時、自分はどうするのか。
もし、自分が裏切られる側になった場合。
……そして、もし、自分が裏切る側になった場合……。
誰だって、そうならないとは言えないのだ。決して。
「でも……どうしてかな……。
どうして、ひとは、一度は心から愛したひとを、裏切ることができるんだろう?
かつては、この世の誰より必要で、愛して……永遠さえ誓って……なのにどうして、違うひとを愛せるの? どうして、違うひとに愛を語るの? 大切なひとがそばにいるのに、それって、すごく、すごいことなのに、どうして、そのひとだけを大切にできないんだろう……。時間が、壊しちゃうのかな……そばにいることに慣れすぎて、大切なことを見失っちゃうのかな……。それとも……他の人を愛しても、その人はまだ大切だってことなのかな……」
俺はなぜか、前に風澄が、過去の恋を語ってくれた時のことを思い出していた。
「宗哉に逢ってから……それから、さよならをしてから、ずっと、そのことが、頭から離れないの。彼のご両親の話をきちんと聞いたことは一度も無いから、私の想像でしかないんだけど、あながち、間違ってもいないと思うから。……私には、関係ないのにね。おかしいね、こんなの……考えなくて済む話なのにね……」
ただ現実が、あまりにも悲しくて。
どうしようもない、そのことが辛い。……そんな呟き。
「……知りたく、なかったな。こんなこと。しかたのない、ことだけど……」
きっと、風澄にも俺にもわからない、わかりたくない感覚。
だけどそれが、現実である人が居る……。
「…………だけどさ……風澄」
「ん?」
「俺はさ、そんなふうに思ったりしないから……風澄の話なら聞きたいよ」
「……うん」
俺には、裏切る側にならないための努力と、こんなことを言うくらいしかできないけれど。
たとえほんの少しでも、彼女の気持ちを楽にすることができたらいい。
「でも、昂貴も人のこと言えないよ? そういえば、あんまり、そういう話はしてないね」
そりゃあセックスの最中に家族の話は普通しないだろうしなぁ。
などと、心の中で突っ込みつつ。
親しくなって一ヶ月が過ぎたけれど、まだ、知らないことも多いな。
ま、これからどんどん知っていけば良いってことで。
「……行こうか」
そして、明るい夏の日差しの降りそそぐレストランに、俺たちは入っていった。
「どこか良いとこ、あった?」
「えっ、ここで済ませちゃうの!? 高いのに、もったいない……」
近づいて声をかけると、彼女は振り向き、驚いたように目を丸くした。
やはり無意識だったか……。風澄に限って『ここで食べたいという無言のおねだり』なんぞ無いだろうなぁと思ってはいたが、本気でただの時間つぶしだったとなれば、こっちの誘い文句にも頭を使わざるを得ないというものである。謙虚は美徳と言うが、場合によっちゃ考えものだ。しっかし……これが日本最大規模の多角経営企業の会長の孫であり社長令嬢の台詞かねえ。本当に、経済観念は結構庶民的だよなぁ。
「腹減ってるだろ? 良いところがあったら、ここで済ませちまったほうが良いしさ」
こういう言い方をしないと、首を縦に振ってくれないんだよなぁ、この子は。今もたぶん、ホテル代で恐縮しているだろう。俺は甘やかしたいんだけど、肝心の彼女は、なかなか甘やかされてくれない。まぁ、喜んではくれるんだが。
「でも、また払ってくれちゃうんでしょ?」
「普通、そのほうが喜ばないか?」
「だって、昂貴って、スーパーの買い物さえ、一円も受け取ってくれないんだもの。そんな、ご馳走になりっぱなしなんて……」
「俺はやりたくてやってるんだけどなぁ……嫌なんだ?」
「嫌って言うか……ちょっと、気が引けちゃって」
たぶん、風澄なりに、男の面子ってものを理解しているんだろうな。無下に断ることも、後から無理矢理渡すこともしない程度には。だったら、少しは喜んでくれ、頼むから……っていうのは、要求過剰ってもんだろうか。
「じゃあ、こうしよう。時々でいいから、風澄が買い出しから調理まで全部一人でやって、俺に食べさせる。どう?」
「……最大の譲歩?」
「どっちかっつーと、お互いの妥協点であり、最も平穏無事な解決策かなと」
「全面的ではないけど、一部は賛成かなぁ」
「じゃ決まりな」
「一部だってば」
「楽しみにしてるからさ」
彼女の小さな抗議は流して、半ば無理矢理に納得させる。
……結局は、俺のほうが役得かもしれない。
「昂貴の足元にも及びませんけど、それで宜しければ、ね」
「そんなことないだろ。手際もずっと良くなったし」
と言うか、俺にとっては『風澄が作ってくれた』っつーのが最大のポイントなんで。うん。
だから是非お願いします……とは、さすがに言えないが。
「やっぱりすごいよね、昂貴は。お料理もできちゃうし」
結局、俺たちはビュッフェとコンチネンタルの両方がある洋風のレストランに決めた。少し離れたところにあったため、しっかり館内案内図を確認してから向かう。
「美味い紅茶も淹れられるし?」
「そうそう。勉強だけじゃないものね」
風澄には、多趣味だとか、こだわりのひとだとか、器用だとか、いろいろな意味で感心されることが多いが、俺は普通に楽しんできたつもりだったので、どこか照れくさい気持ちもあった。でも、こうやってあらためて褒められると、やっぱり嬉しいもんだ。なにより、風澄に喜んでもらえるというのがポイントである。……何のだ、何の。
「実家に帰ったら、昂貴直伝の淹れ方を披露しちゃおうかな」
「上達したもんな」
「みんなを驚かせられるかなぁ。ちょっと楽しみかも」
きっと、誰に教わったかは、言えないのだろうけど。
俺の何かが風澄に影響しているのなら、嬉しいな。
「でも、免許皆伝にはまだまだよね」
「母親と姉の厳しい修行の賜物だからな。そう易々と追いつかれちゃたまらん」
「ふふふ、望むところよっ」
などと言って、拳を握って意思表示。意外や意外、クールな外見とは裏腹に、風澄は結構ど根性タイプな面がある。もともと能力がある子だけど、性質は努力型なのだろう。
「なんだかんだ言って、負けず嫌いだよなぁ、風澄は」
「少年よ大志を抱け、石の上にも三年、継続は力なり!」
「どっちかっつーと日々精進?」
「……はぁーい、頑張りまーす」
語学の時と同じ反応。しゅんとした子犬のようで、思わず頭を撫でてやりたくなる。
「でもさ、上手くなったよ、本当に。料理も紅茶も」
「だけど、それはみんな、昂貴のおかげよ。……ありがとう」
「いえいえ、こちらこそ、優秀かつ熱意のある生徒で嬉しい限り」
「昂貴って、ひとにものを教えるのが上手よね。飴と鞭の使い方をわきまえてるし、褒め上手だし。……とんでもないこともされたけど?」
「まだそれを言うかな……だけど勉強にはなっただろ?」
「…………黙秘権を行使します」
「おいおい」
まぁ、否定しても肯定しても、結果は同じだもんなぁ。俺にいじられるだけだし。いや、さすがに、ここではやらんが。……少し前なら部屋に居たのになあ。ちっ。なんてな。
「でも本当、風澄は紅茶好きだよなあ」
「私がこんなに紅茶を好きになったのは、昂貴の淹れてくれた紅茶を飲んでからよ?」
「そうなのか?」
「もちろん、それまでも紅茶は好きだったけど、あんなに美味しいなんて知らなかった。初めて淹れてもらった時、すごくびっくりしたもの。世の中にこんな美味しい紅茶があったのかって。質のいいものを使っているせいもあるんだろうけど、やっぱり昂貴の腕が良くて、愛着があるからこそ、あの味が出せるのよね」
「そう言ってもらえると、やりがいがあるよ。料理にしろ飲み物にしろ、風澄は心底喜んでくれるから、こっちも嬉しくなって、つい頑張っちまう」
「ほんと? あ、でも、無理はしないでね。疲れてるときとか、用事がたてこんでるときとか」
俺は、風澄の笑顔のためなら、どんなに疲れていても頑張っちまいそうだけど。……いやそれはもういろんなことを。うん。
だけど風澄は、無理をされて喜ぶタイプじゃなさそうだな。きっと、喜んではくれるだろうけど、どこか罪悪感を感じてしまうんじゃないだろうか。自分が強制したわけではなくても。
「じゃあ、そんな時には産直もののりんごジュースをどうぞ」
「そうしまーす。あれも美味しいよね、ほんと。りんごの種類ごとに色々あって、選べて楽しいし、純粋な味を楽しめるもの」
「あれは贈るにも家で飲むにも良いんだよな。老若男女いける味だし」
初めて買ったときは、うちの家族はたかがりんごジュースに何を騒いでいるのかと思ったんだが、一口で目から鱗が落ちた。いや、頬が落ちたと言うべきだろうか。ジュースってものを舐めてたなぁと痛感したね、あの時は。
「昂貴って、食材もそうだけど、身の回りのものに、すごくこだわりがあるわよね。私なんかは、もうそんなことどうでもいいやーって思っちゃうこともあるから、そういう積極的な生き方って素敵だなーって思うの」
「俺の場合は、こだわりすぎという面もある気がするけどな」
「でも、私、昂貴を見てると、生活って楽しいことなんだって、あらためて思うの」
「俺は、風澄を見ていてそう思うんだけどな」
「え?」
「一杯の紅茶で感動してくれる子は、そうそういないだろ」
「だって本当に美味しかったものっ」
風澄に初めて紅茶を淹れたのは、知り合ってから一週間目の週末だっただろうか。
一口飲んで固まったから、もしや合わないのかと一瞬冷やっとしたんだが、次の瞬間、今にも滂沱するんじゃないかと思うほどの勢いで、『美味しいぃ〜っ!』と。口に含んではゆっくりと味わい、飲み込んでは息をついて香りを楽しみ……という調子で、いつの間にかポット一杯が空になった。即座に新しい茶葉で二杯目を淹れたのは言うまでもない。あれは本当、こっちが感動したなあ。
「でも、お酒はもうやめておこうかな」
「身体に合わないんだから仕方ないよな。これからは避けて通っとけよ」
「そうねえ、それが賢明かも」
心配する気持ちも当然あったが、内心、不安もある。
もし風澄が、他の男の前で、あんな酔った姿を晒したら……って、冗談じゃない! 想像するだけでも恐ろしい。
「家族は結構強いのになぁ……火澄兄なんて底なしよ?」
「あれか、笊(ザル)を越えて枠(ワク)という」
「え? どういうこと?」
「笊には網があるだろ? その網さえもないってこと。つまり、遮るものが全く無い」
「ああ、なるほどね。確かに、火澄兄は笊じゃなくて枠だわ」
と、その様子を思い出したかのようにくすくす笑う。ということは、どうやら、火澄さんは、酒に関しては俺と同類らしい。
「水澄兄が私みたいな体質だったら大変だっただろうなぁ……」
「ああ、上の兄貴は後継ぎか」
「うん、でも、平社員として入ったのよ」
「マ、マジ?」
「ほんと。入社試験も普通に受けてたしね。しかも、うちの会社の入社試験って、最初のほうの選考過程では個人名を出さないんだって。受験資格をクリアしてるかどうかチェックした後、志望者全員を番号にして、学歴とか伏せて、面接になって初めてわかる、みたいな感じらしいの」
「うげげ……それって、むしろ俺とかが受けるより緊張しないか?」
「だと思うよ。書類試験なんかで御曹司が落ちてたら、一族全体の恥さらしだもの」
「ひえぇ……」
俺も大概、怖いもの知らずな受験をしてきたけど……就職の試験っつったら、ただの入試とは違うもんなあ。想像するだに恐ろしい。
「一切名前を出さなくても、顔を見たらわかっちゃう人もいるだろうけどね」
「つくづく、大変な立場だなぁ……」
「うん、でも、別に、水澄兄が市谷を継がなきゃいけないっていう決まりは無いのよ?」
「そうなのか?」
「世襲制ではあるんだけど、直系の長男じゃ無くてもいいの。市谷の血を引き、後を継ぐ確固たる意志があり、なおかつ、その代で最も優秀な人間が継ぐ……っていうのが、その条件。まぁ、たまたま、お祖父ちゃんの……あ、グループの会長なんだけど……その代からは長男が継いでいるから、いわゆる世襲制だと思われているかもしれないけどね」
「へえ……」
俺は、そういう企業の入社試験を受けた経験が無いから、よくはわからないけど、きっと、今の日本では珍しいシステムを採っているのだろう。そうやって、直系の子供たちにさえ厳しい関門を設けているからこそ、日本随一の、そして世界でも有数の大企業として成り立っているんだろうな。
道理で、風澄も、よく言われるところの『何もできないお嬢さま』ではないわけだ。やはり、かなり厳しい教育を受けてきたのだろう。
「もちろん、部門がたくさんあるから、企業の上層部に関わるのは一人だけじゃないし、見込みのある人は、新部門設立時に優先的に引き抜かれたりすることもあるけど……厳しいよね……入ってからも、ずっと競争なんだもの……」
「うん……そうだろうな……」
「だけど、それでも、火澄兄は、就職は市谷に来るんだろうなあ……」
「火澄さんが留学してるのは、やっぱり、将来の仕事に活かすため?」
「うん……もちろん、興味もあるんだろうけどね。両親には留学経験なかったし」
「そうなんだ?」
「学生時代はね。ふたりとも、大学を出ている割には結婚が早かったから。その後は何度か長期で行ってるけど」
「へえ……」
そういうのって、やっぱり、政略結婚なんだろうか。
閨閥――いわゆる姻戚関係によって成される、家と家との同盟契約。
風澄からは、そんな家に生まれた雰囲気は微塵も感じられないけれど……それとも、たまたま相性が良かったのだろうか? そして、風澄は、そんな関係を結ばなければならない立場に居たりするのだろうか――?
「だけどね、きっと、好きなんだと思うの。勉強とか仕事とか」
ふいに思いついた疑問を尋ねようとしたところに、風澄が呟いた。
「水澄兄や火澄兄を見てるとね、やりたいことをやってるんだって思うの。
きっと、すごくきついと思うよ。厳しいよね。
でも……お祖父ちゃんがね……そういうプレッシャーを撥ね退けるだけの力も無いような人間は、人の上に立つ資格がないって言うの。世襲制ではあるけれど、そういう、厳しい関門を潜り抜けてきた人間が人の上に立つからこそ、市谷が盛り立てられているから、こうして今も日本を代表する企業として成り立っているんだからって」
「……すごい、家族だな」
「うん。尊敬してる。……昂貴もね」
「え?」
「なーんでもなーいっ」
聞き取れなかった部分は答えてくれなかったけれど、はにかみつつも、いたずらな笑顔が可愛くて……まぁいいか、という気分になってしまった。
「そういえば、風澄はさ……家族の話をあんまりしないよな」
「え、そう?」
「あんまり聞いたことなかったな、と思って」
「ん……なんか、前に、好奇心剥き出しで聞かれたりしたからかな。あんまり口に出さないようにする癖がついちゃったのかもね」
「そっか……」
「……それに、ね……宗哉のことが、あったから……なんか、自慢みたいに思われたら、やだなぁ、って……。
うちが、仲の良い家族で良かったっていう気持ちはあるの。私は、家族みんな、大好きだし。だけど……その話をした相手が、家族に何か、思うところがあったときに……もし、傷つけちゃったらって思ったら……なんか、言えなくなっちゃって」
そう、だよな……『宗哉』のような家庭――風澄の推測ではあるけれど――に育った人間からしてみれば、仲が良い家族の話題なんて、嫌味でしかない。
「そういうことを考えちゃう時点で、失礼かなとも思うんだけど……難しいね」
「……うん」
「でも、世の中に、家族が好きって言えない人が居るっていうことを知ってるから。家族が嫌いで、憎んでて、家を出たくて仕方がない人も居るし、たとえお互いに必要としている関係でも、離れざるを得なくなっちゃう人も居るのよね。
どんなに愛し合っていても、気持ちが離れちゃうことはあるもの。
誰だって、どこの家だって、無いとは言えないよね。知らないうちに壊れちゃってるのかもしれない。……もちろん、うちだって、そうならないとは言えないよね……」
可能性。あくまで可能性の話だ。
けれど、そんな家庭があるのだということを実感してしまった後では、自ずと、それに対する感覚が違ってくるのだろう。
きっと、思わず考えてしまう。
そんな時、自分はどうするのか。
もし、自分が裏切られる側になった場合。
……そして、もし、自分が裏切る側になった場合……。
誰だって、そうならないとは言えないのだ。決して。
「でも……どうしてかな……。
どうして、ひとは、一度は心から愛したひとを、裏切ることができるんだろう?
かつては、この世の誰より必要で、愛して……永遠さえ誓って……なのにどうして、違うひとを愛せるの? どうして、違うひとに愛を語るの? 大切なひとがそばにいるのに、それって、すごく、すごいことなのに、どうして、そのひとだけを大切にできないんだろう……。時間が、壊しちゃうのかな……そばにいることに慣れすぎて、大切なことを見失っちゃうのかな……。それとも……他の人を愛しても、その人はまだ大切だってことなのかな……」
俺はなぜか、前に風澄が、過去の恋を語ってくれた時のことを思い出していた。
「宗哉に逢ってから……それから、さよならをしてから、ずっと、そのことが、頭から離れないの。彼のご両親の話をきちんと聞いたことは一度も無いから、私の想像でしかないんだけど、あながち、間違ってもいないと思うから。……私には、関係ないのにね。おかしいね、こんなの……考えなくて済む話なのにね……」
ただ現実が、あまりにも悲しくて。
どうしようもない、そのことが辛い。……そんな呟き。
「……知りたく、なかったな。こんなこと。しかたのない、ことだけど……」
きっと、風澄にも俺にもわからない、わかりたくない感覚。
だけどそれが、現実である人が居る……。
「…………だけどさ……風澄」
「ん?」
「俺はさ、そんなふうに思ったりしないから……風澄の話なら聞きたいよ」
「……うん」
俺には、裏切る側にならないための努力と、こんなことを言うくらいしかできないけれど。
たとえほんの少しでも、彼女の気持ちを楽にすることができたらいい。
「でも、昂貴も人のこと言えないよ? そういえば、あんまり、そういう話はしてないね」
そりゃあセックスの最中に家族の話は普通しないだろうしなぁ。
などと、心の中で突っ込みつつ。
親しくなって一ヶ月が過ぎたけれど、まだ、知らないことも多いな。
ま、これからどんどん知っていけば良いってことで。
「……行こうか」
そして、明るい夏の日差しの降りそそぐレストランに、俺たちは入っていった。
To be continued.
2005.02.06.Sun.
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