No Rose without a Thorn
04.If I didn't know You
「そういえば、火澄さんって、留学してるんだよな?」
記憶を辿りつつ、エレベーターに乗り込みながら問う。
「そう。イギリスの大学院に居るの」
「夏休みはこっちじゃないのか?」
「ううん、勉強してるみたい。もしかしたら、うちの会社のヨーロッパ支社に行ってるかも。そろそろ、考えなきゃいけない時期だし」
「うわ、さすが……でも、せっかくの休みなのに。滅多に会えないだろうになあ」
……しかし、社長令息って就職活動するんだろうか。謎だ。
俺の姉の真貴乃もアメリカでポスドクなんぞやっているものだから非常に多忙だけれど、長い休みが取れたらきちんと帰ってくるからなあ。ただ、専門が分子生物学だから、毎日細胞やら細菌やらなにやらの世話をしなければならないので、そのへんを任せられる人がいないと難しいらしい。チームを組んで研究しているから、まだ楽だそうだけど。
分子生物学というのは遺伝子や蛋白質など、分子レベルから生命現象を研究する学問のことで、真貴乃のところはDNAをやっている。DNAなんて今となっては誰でも知っている言葉だけれど、真貴乃が生物学を志した頃は、まだまだ認知度が低かったようだ。ワトソン&クリックの二重螺旋構造発見が20世紀の半ばだから、まだ学問としても新しい部類だし。そういえば、美術史学も、実を言うと成立してからはそれほど時間が経っていなかったりする。そんな真貴乃自身、最初から生物学一本だったわけではないもんな。もともとの出身は化学だった。化学者の父親の影響もあったかもしれないが、そもそも、今真貴乃が研究しているような生物学をやっているところは、当時はほとんど無かったから。なぜかって、当時の生物学と言えば、動物学や植物学のことを指していたからだ。そして、そもそも分子生物学自体が化学寄りなのだ。が、分類していくと非常に細かであり、更に重なっているところも多いため、遺伝学と生化学と分子生物学のDNA研究はどう違うのかなどと聞かれても、さすがに俺にはわからない。……これでも、昔は理系のほうが得意だったんだけどな。
ちなみに、DNAというのはDeoxyribonucleic acidの頭文字を取った略語、日本語ではデオキシリボ核酸という化学物質のことで、遺伝子を有している。真貴乃曰く、『だからね〜、遺伝子とDNAっていうのは、厳密に言うと違うんだよ〜』だそうだ。遺伝子というのは遺伝情報が書かれているもののことで、遺伝子を持っているのがDNAという物質。つまり、遺伝子は遺伝情報を有する物質の名称で、そういうモノがあることはわかっていたけど、それが具体的にどれなのかわからなかった時代に、仮称として、遺伝子と呼ばれていたんだろうな。で、DNA、つまりデオキシリボ核酸は、研究の末に遺伝子を有するものだと判明した、実際の物質名というわけだ。……ややこしいよなあ。
昔は理系寄りだったことや、ヒトゲノム解析プロジェクトなんかはうちの大学や真貴乃の出身大学も関わってたこともあって、結構興味を持ってたから色々と調べたり聞いたりもしたし、一般人よりは理解もしているだろうけど、専門職からしてみれば、やっぱり、門外漢なんだろうな。それほど成績に差はなかったけれど、得意科目は語学と理系だったから、そっちに行くだろうと思われていた頃が懐かしい。とは言え、美術史学も結構理系寄りだから、性に合っている。なんたって英語で言えばScience of Artだし。
「昂貴だって何度も留学してるでしょ?」
「ああ、だけど、俺はちょくちょく帰ってきてたぞ? 特に最後に留学した年は、博士過程の受験もあったし」
「でも、博士の入試って、出願が一月末で試験が年度末なんでしょ? その間、日本とイタリアを行ったりきたりじゃない。ほんと、よくそんな日程で受かるわよね……しかも論文もちゃんとこなしてたって言うし」
「内部進学だし、出願のための書類集めや提出は家族に頼んだし、もともとの蓄積もあったから、言葉で聞くと驚くかもしれないけど、それほど大変じゃなかったよ。それに、風澄もいつかは留学するだろ?」
「してはみたいけど……語学の壁がねぇ」
「風澄の場合は、むしろ住んじまったほうが早そうだけどな。苦手意識が邪魔してるんだろ。おまえに必要なのは慣れと実践だと思う。基礎はしっかりしてるからさ」
「……そう?」
「四月から始めてあのレベルなら充分」
「なによぅ、及第点なんかじゃ許さないって言ってたのに」
「研究者を目指してるのに、及第点で満足してたらダメだろ」
「はぁーい、頑張りますぅ……」
言葉こそ弱いものの、それでも、きちんとこなしてしまうのが風澄だ。英語だってイタリア語だって、いつかはきっと習得できるだろう。……そうしたら、いつかは、"Ti amo."の意味も、わかってしまうかもしれない。
その日が来たら、俺たちはどうなるんだろう。
俺の気持ちは、伝わるんだろうか?
まぁ、その前に離れている可能性だって充分あるのだけれど……。
「なんたって、今月末には卒論の中間発表が、来月末には修士の入試があるんだし」
「うわあぁん、せっかく忘れてたのにぃー!」
暗い気持ちを振り切るように、風澄をからかう言葉を吐くと、彼女は心底嫌そうな顔をした。いや、どちらかと言うと、心底逃げたい、だろうか。
「おいおい、忘れてどうするんだ忘れて……」
つぅか、元々はそのために俺が紹介されたはずなんだが。
別にいいけどな、きっかけなんて今更どうでも。
「プレゼンテーションは三年生の時にもやったし、それなりに楽しくできたから、まだ落ち着いていられるけど、院の入試は……ううう」
この子は憶えていないだろうなあ。
その、人生最初のプレゼンで、俺と初めて会話したということ。
俺ほど印象的な時間でなかったのは当然だし、あのわずかな時間、交わした会話の内容を憶えていてくれただけ、マシだったかもしれない。
たった二言三言だったけれど、俺はあの時、本当に感心していたんだ。
あの時から、風澄に対する俺の見かたが少しばかり変わった。
彼女の本質を感じられた瞬間だったから。
そうか……また風澄の発表が聞けるんだな。普通、院生は学部のプレゼンを聞きに行ったりはしないけれど、これは行くしかないだろう。うん。
「やっぱり、学者になるって大変な努力が必要なのよね。もちろん、興味を持ったことだし、楽しいこともいっぱいあるけど……」
「時々辛い?」
「ううん、そういうわけじゃないの。でも、なんて言うのかな……『一人前』になるまで、あとどのくらいかかるんだろうって考えちゃって。少なくとも、あと五年は学生でいるわけだから、その間は、家族に面倒を見てもらわなきゃいけないわけでしょ? もちろん、賛成してくれてるし、うちは経済的に困ったりはしてないから、それはいいんだけど……でも、なんて言うのかな……やっぱり、どこか、『半人前』っていう気がしちゃって」
「ああ、いつまでも子供みたいな感じ?」
「うん……なんかね、時々、年齢ばっかり増えて、中身はちっとも成長していない気がするの。いつも、できる限りのことを精一杯やってきてるつもりなんだけどな……」
それは、三年前から時間が止まっているから?
……なんて、少し悲しい考えが俺の心をよぎるけど。
そういうことだけじゃないんだろうな。学問を志す者だけでなく、少し外れた道を歩むと決めた者なら、きっと一度は抱く不安なんだろう。
同じ年齢で、同じ教室で、机を並べて学んでいた同級生たちが就職して、結婚して、家庭を築いていく……なのに自分は、まだ学生。身を立てていける保障もない。
自分ひとり取り残されたような、そんな気持ちに似ているのかもしれない。
「でも、学生は学生だけど、昂貴は大人だなって思うの。五つも上だからっていうのもあるんだろうけど。なのに時々、ものすごく子供っぽいところもあって……子供だとか大人だとか、ふたつにわけられるものじゃないんだなぁって、昂貴を見てるとすごく思う」
「うーん……どうなんだろう。俺は好き勝手に生きてるから、あんまりそういうことを考えたことはないけど。結構いい加減だし、適当だったりするし」
「あら、『いい加減』は『良い加減』でしょ?」
「『適当』は『適して当たっている』し?」
「そうそう、日本語って、おもしろいけど、時々不思議よね」
「元を辿れば全部褒め言葉なんだもんなぁ」
こういう言葉で相手を罵ろうとすると、自分で言ってて自分で疑問に思っちまうから、困るんだよなあ、時々。
「ねぇ、昂貴は、今の私ぐらいの年齢だった時、どんなひとだったの?」
「そうだなぁ……まぁ、院に行くことは決めてたよ」
「じゃあ、初めてイタリアに行ったのは?」
「学部一年の夏」
「えええええーーーっ!?」
「……そこまで驚くかなぁ」
驚きのあまりか、一瞬固まってるし。いや、俺の、こと海外に対する認識が、世の中の平均から逸脱しているのは、百も承知だけど。
「だって、イタリア語を習い始めて三ヶ月で現地に行っちゃうなんてすごい! 私じゃ絶対真似できない! ……って思ったんだけど、でも、今、あらためて考えてみたら、昂貴だったら余裕よねって納得しちゃった」
「まぁ、最初に行った時は通じるかどうかと不安もあったけどさ、行っちまったほうが早いってのは経験的にわかってたし。海外には何度か行ってたし、大学の短期交換留学だったから、同期も結構居たんだよ」
「あ、ちょっと安心したかも」
「ん?」
「昂貴でも最初は緊張したのねって思ったら、少し気が軽くなったの」
風澄さん、俺を一体なんだと思ってるんですか。
……ちょっと問い質したいかもしれない。
これも敬意のうちだとは思うんだが、こう、一抹の不安が……。いや、神経が太いことは認めるけどさ。ある程度、身を護る自信があったせいもあるんだろうけど。
「そりゃそうだって。治安の悪い地域もある国だし」
「う、そうか……やっぱり、ちょっと構えちゃうなぁ……」
風澄の場合、ナンパされて困ったりするんじゃないだろうか。
……うわ、想像したらすっげぇムカついてきた。
「まだ行ったことはないんだよな?」
「そうなのよねぇ、残念ながら」
「いつかは行くといいよ。日本の企画展に行くのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、名作が山ほどあるからさ。大学院は日本でも、行くと行かないとじゃ大違いだから」
ナンパには充分気をつけて欲しいが。
だけど、風澄は、歯牙にもかけないかもしれない。完全無視で素通りしそうだ。なんとなく、そんな気がする。……いや、それで男どもが風澄を諦めてくれるかどうかは謎だが。
「……うん」
案内してやるから、なんて言えないけれど。
一緒に行けたら、どんなに楽しいだろう。
ローマでもミラノでもフィレンツェでも、彼女を連れて行きたい場所は、いくらでも浮かぶのに。日本に居ることがもどかしくなるほど、見せたいものがたくさんある。
「あ、そうか。第二外国語、昂貴はイタリア語だったのね」
「ああ。だけど、イタリア語をやることは入学前から決めてたから、合格してから多少は予習してたし、向こうに行く前は集中講義も受けたからさ」
「私も女子高時代からドイツ語の授業があったけど、あの時点でドイツになんて絶対行けないわ……」
「そういえば、なんでドイツ語?」
「ドイツ語とフランス語で悩んでたら、最華に、フランス語は似合いすぎて嫌だからやめなさいって言われて、半ば無理矢理ドイツ語に引っ張り込まれたのよぅ!」
「す、すごいな……橘さん……」
なんつーか、聞けば聞くほど、すごい人のような気がするんだが。会ってみたいような、会うのが怖いような。……そんな機会が訪れるかどうかも、わかりゃしないけどさ。
「でも、後からフランス語で挫折したから、これで良かったかも」
「それは、先に英語とドイツ語をやったせいもあると思うけどな」
英語とドイツ語はゲルマン語から、フランス語とイタリア語はラテン語、元を辿ればロマンス語から派生した言語だ。しかも、表記と発音が近いドイツ語と違って、フランス語は見ただけでは簡単には読めない。これは、聞いただけでは書けないということでもあるから、ドイツ語に慣れてしまうと、なかなかフランス語を憶えるのは難しいだろう。イタリア語は同じラテン系だが、表記のまま発音すれば良いので、ドイツ語からラテン語系に入るには、うってつけだ。ドイツ語は、特殊な文字もエスツェットとウムラウトくらいで、フランス語のように合体した文字やらアクサンやら何やらも無ければアンシェヌマンもないし、原型の面影も無いほど格変化したりもしない。イタリア語も、特殊な文字も少ないし、多少はややこしい格変化もあるが、大抵英語から入る日本人には楽だろう。
「じゃあ、留学したのは?」
「ああ、学部四年の夏ごろまではイタリアに行ってた。で、帰ってきてから今の風澄みたいに中間発表をやって、院の入試を受けて、こっちで進学」
「そうか、学部の時からもう留学してたんだ……」
「まぁ、所属はずっと日本だったけど、夏休みだけとか、短期も含めたら結構な期間になるかもなあ」
「でも、博士過程では行かなかったんでしょう?」
「ああ……よく憶えてたな」
「うん、ちょっと不思議だったから」
「…………、どうして?」
「だって、イタリアのことをやるなら、最終学歴はイタリアの大学のほうが良さそうな気がするから。昂貴なら、博士はイタリアの大学院に行きそうだなぁって」
「そう……か?」
「私の勝手なイメージだけどね」
そう言うと、風澄は少し考え込むようにしてから呟いた。得心したかのように。
「ああ……でも、そうか。そうなんだよね」
「……?」
「昂貴がその時、うちの大学じゃなくて、イタリアのほうの大学院に行ってたら、こうして、一緒にいることもなかったのよね」
「…………、そうだな」
本当は、イタリアの大学院の博士課程に進むつもりだったんだよ、俺は。
もちろん、河原塚教授は尊敬しているけれど、イタリアという地の魅力には代えられない。将来のことを考えれば、答えは自ずと出ていたのだ。
けれど、なぜか、イタリアに移り住むという決断は、できなかった。
俺は既に実家を出て今の部屋に住んでいたし、留学は簡単に決められたのに……。
修士論文の補強。暇つぶし。他にもいろんな理由をつけていたけれど、もう一度きちんと自分の進路を考えるためにも、修士過程二年目の前期は日本、後期はイタリアで学んで、決めようと思っていた。自分が納得できる進路を。
そう……渡航の準備を始めていた、あの七月の、あの日まで……。
風澄は知らない。
自分が、俺を日本に戻ってこさせたのだということを。
その三年後、まさかこうして一緒にいることがあたりまえになっているとは思わなかった。
ずっとわからなかった。
あの頃は何の可能性もなかったのに、どうして俺は帰ってなどきたのか。
今でこそ、帰ってきたことは正解だったと思うけれど、あんな、あてのない恋に、なぜ俺は賭けたのか――。
あの頃、生まれてはじめての望郷の念にとらわれた。
いてもたってもいられなかった。世話になった教授の声も、先輩の誘いの言葉も、同期の残念そうな顔も、俺の心には届かなくて。
還りたくてしかたがなかった。彼女のいるこの地へ。
だけど、今はわかる。
なぜ還ってきたのか。
それは、こうしているためだ。
彼女の近くに、出来る限りそばに、いるためだ。
ただ中庭で、校舎で、図書館で、一瞬でもその姿を見ていたかったから。
決して言うことはできないけれど。
風澄。
俺にとって君は、それだけの存在だということ。
いつか伝わったらいい。
ただ居る、それだけで、どれほどのものを俺に与えたか。
「……良かった」
「え?」
「昂貴がイタリアの大学院に行かないでくれて。そうじゃなかったら、こんなに研究が楽しくなるなんてこと、なかったかもしれないもの」
「……そう、か。それなら、良かったよ」
日本にいてくれて、とか。
一緒にいてくれて、とか。
そんな甘い言葉ではなかったのだけれど、俺にとっては、何よりも嬉しい言葉だった。
こうして、ふたりでいる時間のために、俺はここに居るのだから――。
記憶を辿りつつ、エレベーターに乗り込みながら問う。
「そう。イギリスの大学院に居るの」
「夏休みはこっちじゃないのか?」
「ううん、勉強してるみたい。もしかしたら、うちの会社のヨーロッパ支社に行ってるかも。そろそろ、考えなきゃいけない時期だし」
「うわ、さすが……でも、せっかくの休みなのに。滅多に会えないだろうになあ」
……しかし、社長令息って就職活動するんだろうか。謎だ。
俺の姉の真貴乃もアメリカでポスドクなんぞやっているものだから非常に多忙だけれど、長い休みが取れたらきちんと帰ってくるからなあ。ただ、専門が分子生物学だから、毎日細胞やら細菌やらなにやらの世話をしなければならないので、そのへんを任せられる人がいないと難しいらしい。チームを組んで研究しているから、まだ楽だそうだけど。
分子生物学というのは遺伝子や蛋白質など、分子レベルから生命現象を研究する学問のことで、真貴乃のところはDNAをやっている。DNAなんて今となっては誰でも知っている言葉だけれど、真貴乃が生物学を志した頃は、まだまだ認知度が低かったようだ。ワトソン&クリックの二重螺旋構造発見が20世紀の半ばだから、まだ学問としても新しい部類だし。そういえば、美術史学も、実を言うと成立してからはそれほど時間が経っていなかったりする。そんな真貴乃自身、最初から生物学一本だったわけではないもんな。もともとの出身は化学だった。化学者の父親の影響もあったかもしれないが、そもそも、今真貴乃が研究しているような生物学をやっているところは、当時はほとんど無かったから。なぜかって、当時の生物学と言えば、動物学や植物学のことを指していたからだ。そして、そもそも分子生物学自体が化学寄りなのだ。が、分類していくと非常に細かであり、更に重なっているところも多いため、遺伝学と生化学と分子生物学のDNA研究はどう違うのかなどと聞かれても、さすがに俺にはわからない。……これでも、昔は理系のほうが得意だったんだけどな。
ちなみに、DNAというのはDeoxyribonucleic acidの頭文字を取った略語、日本語ではデオキシリボ核酸という化学物質のことで、遺伝子を有している。真貴乃曰く、『だからね〜、遺伝子とDNAっていうのは、厳密に言うと違うんだよ〜』だそうだ。遺伝子というのは遺伝情報が書かれているもののことで、遺伝子を持っているのがDNAという物質。つまり、遺伝子は遺伝情報を有する物質の名称で、そういうモノがあることはわかっていたけど、それが具体的にどれなのかわからなかった時代に、仮称として、遺伝子と呼ばれていたんだろうな。で、DNA、つまりデオキシリボ核酸は、研究の末に遺伝子を有するものだと判明した、実際の物質名というわけだ。……ややこしいよなあ。
昔は理系寄りだったことや、ヒトゲノム解析プロジェクトなんかはうちの大学や真貴乃の出身大学も関わってたこともあって、結構興味を持ってたから色々と調べたり聞いたりもしたし、一般人よりは理解もしているだろうけど、専門職からしてみれば、やっぱり、門外漢なんだろうな。それほど成績に差はなかったけれど、得意科目は語学と理系だったから、そっちに行くだろうと思われていた頃が懐かしい。とは言え、美術史学も結構理系寄りだから、性に合っている。なんたって英語で言えばScience of Artだし。
「昂貴だって何度も留学してるでしょ?」
「ああ、だけど、俺はちょくちょく帰ってきてたぞ? 特に最後に留学した年は、博士過程の受験もあったし」
「でも、博士の入試って、出願が一月末で試験が年度末なんでしょ? その間、日本とイタリアを行ったりきたりじゃない。ほんと、よくそんな日程で受かるわよね……しかも論文もちゃんとこなしてたって言うし」
「内部進学だし、出願のための書類集めや提出は家族に頼んだし、もともとの蓄積もあったから、言葉で聞くと驚くかもしれないけど、それほど大変じゃなかったよ。それに、風澄もいつかは留学するだろ?」
「してはみたいけど……語学の壁がねぇ」
「風澄の場合は、むしろ住んじまったほうが早そうだけどな。苦手意識が邪魔してるんだろ。おまえに必要なのは慣れと実践だと思う。基礎はしっかりしてるからさ」
「……そう?」
「四月から始めてあのレベルなら充分」
「なによぅ、及第点なんかじゃ許さないって言ってたのに」
「研究者を目指してるのに、及第点で満足してたらダメだろ」
「はぁーい、頑張りますぅ……」
言葉こそ弱いものの、それでも、きちんとこなしてしまうのが風澄だ。英語だってイタリア語だって、いつかはきっと習得できるだろう。……そうしたら、いつかは、"Ti amo."の意味も、わかってしまうかもしれない。
その日が来たら、俺たちはどうなるんだろう。
俺の気持ちは、伝わるんだろうか?
まぁ、その前に離れている可能性だって充分あるのだけれど……。
「なんたって、今月末には卒論の中間発表が、来月末には修士の入試があるんだし」
「うわあぁん、せっかく忘れてたのにぃー!」
暗い気持ちを振り切るように、風澄をからかう言葉を吐くと、彼女は心底嫌そうな顔をした。いや、どちらかと言うと、心底逃げたい、だろうか。
「おいおい、忘れてどうするんだ忘れて……」
つぅか、元々はそのために俺が紹介されたはずなんだが。
別にいいけどな、きっかけなんて今更どうでも。
「プレゼンテーションは三年生の時にもやったし、それなりに楽しくできたから、まだ落ち着いていられるけど、院の入試は……ううう」
この子は憶えていないだろうなあ。
その、人生最初のプレゼンで、俺と初めて会話したということ。
俺ほど印象的な時間でなかったのは当然だし、あのわずかな時間、交わした会話の内容を憶えていてくれただけ、マシだったかもしれない。
たった二言三言だったけれど、俺はあの時、本当に感心していたんだ。
あの時から、風澄に対する俺の見かたが少しばかり変わった。
彼女の本質を感じられた瞬間だったから。
そうか……また風澄の発表が聞けるんだな。普通、院生は学部のプレゼンを聞きに行ったりはしないけれど、これは行くしかないだろう。うん。
「やっぱり、学者になるって大変な努力が必要なのよね。もちろん、興味を持ったことだし、楽しいこともいっぱいあるけど……」
「時々辛い?」
「ううん、そういうわけじゃないの。でも、なんて言うのかな……『一人前』になるまで、あとどのくらいかかるんだろうって考えちゃって。少なくとも、あと五年は学生でいるわけだから、その間は、家族に面倒を見てもらわなきゃいけないわけでしょ? もちろん、賛成してくれてるし、うちは経済的に困ったりはしてないから、それはいいんだけど……でも、なんて言うのかな……やっぱり、どこか、『半人前』っていう気がしちゃって」
「ああ、いつまでも子供みたいな感じ?」
「うん……なんかね、時々、年齢ばっかり増えて、中身はちっとも成長していない気がするの。いつも、できる限りのことを精一杯やってきてるつもりなんだけどな……」
それは、三年前から時間が止まっているから?
……なんて、少し悲しい考えが俺の心をよぎるけど。
そういうことだけじゃないんだろうな。学問を志す者だけでなく、少し外れた道を歩むと決めた者なら、きっと一度は抱く不安なんだろう。
同じ年齢で、同じ教室で、机を並べて学んでいた同級生たちが就職して、結婚して、家庭を築いていく……なのに自分は、まだ学生。身を立てていける保障もない。
自分ひとり取り残されたような、そんな気持ちに似ているのかもしれない。
「でも、学生は学生だけど、昂貴は大人だなって思うの。五つも上だからっていうのもあるんだろうけど。なのに時々、ものすごく子供っぽいところもあって……子供だとか大人だとか、ふたつにわけられるものじゃないんだなぁって、昂貴を見てるとすごく思う」
「うーん……どうなんだろう。俺は好き勝手に生きてるから、あんまりそういうことを考えたことはないけど。結構いい加減だし、適当だったりするし」
「あら、『いい加減』は『良い加減』でしょ?」
「『適当』は『適して当たっている』し?」
「そうそう、日本語って、おもしろいけど、時々不思議よね」
「元を辿れば全部褒め言葉なんだもんなぁ」
こういう言葉で相手を罵ろうとすると、自分で言ってて自分で疑問に思っちまうから、困るんだよなあ、時々。
「ねぇ、昂貴は、今の私ぐらいの年齢だった時、どんなひとだったの?」
「そうだなぁ……まぁ、院に行くことは決めてたよ」
「じゃあ、初めてイタリアに行ったのは?」
「学部一年の夏」
「えええええーーーっ!?」
「……そこまで驚くかなぁ」
驚きのあまりか、一瞬固まってるし。いや、俺の、こと海外に対する認識が、世の中の平均から逸脱しているのは、百も承知だけど。
「だって、イタリア語を習い始めて三ヶ月で現地に行っちゃうなんてすごい! 私じゃ絶対真似できない! ……って思ったんだけど、でも、今、あらためて考えてみたら、昂貴だったら余裕よねって納得しちゃった」
「まぁ、最初に行った時は通じるかどうかと不安もあったけどさ、行っちまったほうが早いってのは経験的にわかってたし。海外には何度か行ってたし、大学の短期交換留学だったから、同期も結構居たんだよ」
「あ、ちょっと安心したかも」
「ん?」
「昂貴でも最初は緊張したのねって思ったら、少し気が軽くなったの」
風澄さん、俺を一体なんだと思ってるんですか。
……ちょっと問い質したいかもしれない。
これも敬意のうちだとは思うんだが、こう、一抹の不安が……。いや、神経が太いことは認めるけどさ。ある程度、身を護る自信があったせいもあるんだろうけど。
「そりゃそうだって。治安の悪い地域もある国だし」
「う、そうか……やっぱり、ちょっと構えちゃうなぁ……」
風澄の場合、ナンパされて困ったりするんじゃないだろうか。
……うわ、想像したらすっげぇムカついてきた。
「まだ行ったことはないんだよな?」
「そうなのよねぇ、残念ながら」
「いつかは行くといいよ。日本の企画展に行くのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、名作が山ほどあるからさ。大学院は日本でも、行くと行かないとじゃ大違いだから」
ナンパには充分気をつけて欲しいが。
だけど、風澄は、歯牙にもかけないかもしれない。完全無視で素通りしそうだ。なんとなく、そんな気がする。……いや、それで男どもが風澄を諦めてくれるかどうかは謎だが。
「……うん」
案内してやるから、なんて言えないけれど。
一緒に行けたら、どんなに楽しいだろう。
ローマでもミラノでもフィレンツェでも、彼女を連れて行きたい場所は、いくらでも浮かぶのに。日本に居ることがもどかしくなるほど、見せたいものがたくさんある。
「あ、そうか。第二外国語、昂貴はイタリア語だったのね」
「ああ。だけど、イタリア語をやることは入学前から決めてたから、合格してから多少は予習してたし、向こうに行く前は集中講義も受けたからさ」
「私も女子高時代からドイツ語の授業があったけど、あの時点でドイツになんて絶対行けないわ……」
「そういえば、なんでドイツ語?」
「ドイツ語とフランス語で悩んでたら、最華に、フランス語は似合いすぎて嫌だからやめなさいって言われて、半ば無理矢理ドイツ語に引っ張り込まれたのよぅ!」
「す、すごいな……橘さん……」
なんつーか、聞けば聞くほど、すごい人のような気がするんだが。会ってみたいような、会うのが怖いような。……そんな機会が訪れるかどうかも、わかりゃしないけどさ。
「でも、後からフランス語で挫折したから、これで良かったかも」
「それは、先に英語とドイツ語をやったせいもあると思うけどな」
英語とドイツ語はゲルマン語から、フランス語とイタリア語はラテン語、元を辿ればロマンス語から派生した言語だ。しかも、表記と発音が近いドイツ語と違って、フランス語は見ただけでは簡単には読めない。これは、聞いただけでは書けないということでもあるから、ドイツ語に慣れてしまうと、なかなかフランス語を憶えるのは難しいだろう。イタリア語は同じラテン系だが、表記のまま発音すれば良いので、ドイツ語からラテン語系に入るには、うってつけだ。ドイツ語は、特殊な文字もエスツェットとウムラウトくらいで、フランス語のように合体した文字やらアクサンやら何やらも無ければアンシェヌマンもないし、原型の面影も無いほど格変化したりもしない。イタリア語も、特殊な文字も少ないし、多少はややこしい格変化もあるが、大抵英語から入る日本人には楽だろう。
「じゃあ、留学したのは?」
「ああ、学部四年の夏ごろまではイタリアに行ってた。で、帰ってきてから今の風澄みたいに中間発表をやって、院の入試を受けて、こっちで進学」
「そうか、学部の時からもう留学してたんだ……」
「まぁ、所属はずっと日本だったけど、夏休みだけとか、短期も含めたら結構な期間になるかもなあ」
「でも、博士過程では行かなかったんでしょう?」
「ああ……よく憶えてたな」
「うん、ちょっと不思議だったから」
「…………、どうして?」
「だって、イタリアのことをやるなら、最終学歴はイタリアの大学のほうが良さそうな気がするから。昂貴なら、博士はイタリアの大学院に行きそうだなぁって」
「そう……か?」
「私の勝手なイメージだけどね」
そう言うと、風澄は少し考え込むようにしてから呟いた。得心したかのように。
「ああ……でも、そうか。そうなんだよね」
「……?」
「昂貴がその時、うちの大学じゃなくて、イタリアのほうの大学院に行ってたら、こうして、一緒にいることもなかったのよね」
「…………、そうだな」
本当は、イタリアの大学院の博士課程に進むつもりだったんだよ、俺は。
もちろん、河原塚教授は尊敬しているけれど、イタリアという地の魅力には代えられない。将来のことを考えれば、答えは自ずと出ていたのだ。
けれど、なぜか、イタリアに移り住むという決断は、できなかった。
俺は既に実家を出て今の部屋に住んでいたし、留学は簡単に決められたのに……。
修士論文の補強。暇つぶし。他にもいろんな理由をつけていたけれど、もう一度きちんと自分の進路を考えるためにも、修士過程二年目の前期は日本、後期はイタリアで学んで、決めようと思っていた。自分が納得できる進路を。
そう……渡航の準備を始めていた、あの七月の、あの日まで……。
風澄は知らない。
自分が、俺を日本に戻ってこさせたのだということを。
その三年後、まさかこうして一緒にいることがあたりまえになっているとは思わなかった。
ずっとわからなかった。
あの頃は何の可能性もなかったのに、どうして俺は帰ってなどきたのか。
今でこそ、帰ってきたことは正解だったと思うけれど、あんな、あてのない恋に、なぜ俺は賭けたのか――。
あの頃、生まれてはじめての望郷の念にとらわれた。
いてもたってもいられなかった。世話になった教授の声も、先輩の誘いの言葉も、同期の残念そうな顔も、俺の心には届かなくて。
還りたくてしかたがなかった。彼女のいるこの地へ。
だけど、今はわかる。
なぜ還ってきたのか。
それは、こうしているためだ。
彼女の近くに、出来る限りそばに、いるためだ。
ただ中庭で、校舎で、図書館で、一瞬でもその姿を見ていたかったから。
決して言うことはできないけれど。
風澄。
俺にとって君は、それだけの存在だということ。
いつか伝わったらいい。
ただ居る、それだけで、どれほどのものを俺に与えたか。
「……良かった」
「え?」
「昂貴がイタリアの大学院に行かないでくれて。そうじゃなかったら、こんなに研究が楽しくなるなんてこと、なかったかもしれないもの」
「……そう、か。それなら、良かったよ」
日本にいてくれて、とか。
一緒にいてくれて、とか。
そんな甘い言葉ではなかったのだけれど、俺にとっては、何よりも嬉しい言葉だった。
こうして、ふたりでいる時間のために、俺はここに居るのだから――。
To be continued.
2005.01.30.Sun.
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