Dolce Vita
10.Annex -You are My Madonna- 後編
……再び、意識が浮上していく。
けれど、目を開けても、何も見えない。
闇が続いている。
あまりのことに耐え切れず、力任せに彼女を振り払ったところまでは憶えているが、その後がわからない。
また悪夢の続きだろうか。
今度はなんなんだよ。
なにが起こったって、もう、どうでもいいさ。
あれ以上に嫌なシーンなんてありはしない。
――あれ?
さっきから、この感触はなんだ?
素肌に優しく触れるものがある。
それが触れたところから、なぜかすがすがしい気分になって、
清涼な空気が運ばれてくる。
この感覚は――
暗い視界の中に、人の影。
見慣れたシルエット。
暗い部屋の中で、俺を見つめる存在は。
「……かすみ……?」
「あ……ごめんね、起こしちゃった?」
ほとんど願うように呟いた名前に答えてくれたのは、紛れもない、本物の風澄だった。
「かすみ、風澄……っ!」
「え? ……きゃっ!」
思わず腕を引いて抱き寄せた俺に、彼女は驚きの声をあげた。
ごめんと思いつつ、力の入らない腕で抱きしめ、髪に顔を埋める。もうとっくに馴染んでしまった、風澄の香り。風澄の温もり。風澄の感触。
「昂貴、どうしたの?」
俺の上に倒れこみ、途惑いながら、それでも柔らかな笑顔を向け、俺の名を呼んでくれる彼女。
これが……これこそが、現実だ……。
「風澄……」
「なぁに?」
「おまえの……おまえの進路はなんだ!?」
「……は?」
俺の脈絡のない質問に、見るからにきょとんとした顔で俺を見つめ返す彼女だが、すぐに真剣な顔になり、考え込む。
「進路……」
言葉の意味を反芻しているのだろう、何度か繰り返して、やっと彼女は口を開いた。
「そうねぇ……当面の目標は、大学院の文学研究科の修士課程に進むことだけど」
「うん、それで?」
「美術史学者を目指しているわね」
「そうだよな、それで?」
「まあ、将来的には、なんらかの形で美術史学に関わる職業に就ければ理想的ね」
「なるほど」
「でも、言われてみると、大学院進学のことばかり考えていて、仕事とか職業とか、あまり想像してなかったかも。どんなところであれ、研究を続けていけるなら充分だとは思うけど、大学教授とか学芸員とか、なんか違う気がするし。良い機会かもね、もうちょっと具体的に考えてみようかしら」
唐突過ぎる俺の問いかけにすら、真面目に考えて、答えを返す。
あぁ、そうだ。間違いない。これこそが、俺の知っている風澄だ。
少なくとも現在の風澄は進学希望で、美術史学者志望で、大学卒業後即結婚などという予定はない。
それにしても、風澄にそんな志望があったとは。家庭環境のせいだろうか、俺は、文系の研究職となれば大学に所属するものという認識だったのだが、それこそ考えが単純だったかもしれない。しかし、大学教授でも、学芸員でもなく、美術史学の研究を続けていける職業――か。理系の学者なら純粋な研究機関に所属すれば良いだけの話だが、美術史学となると、かなり難しいだろうな。果たして、そんなことが可能なんだろうか。難しいだろうけど、きっと実現は不可能ではないだろう。風澄になら。
「で――俺は誰だ?」
「え?」
今度はわけがわからないという表情で俺を見やり、熱が上がっちゃったのかしら、と呟く。
「大丈夫、昂貴?」
「頼むから言ってくれ、俺についてのことならなんでも構わないから!」
「ええと、フルネームは高原昂貴、年齢は現在二十六歳、十一月末生まれの射手座O型、大学院文学研究科後期博士課程三年に在籍し、美術史学を専攻、専門はイタリア・バロック美術、好きな食べ物はイタリア料理全般で、特にチーズを使ったものが好物、特技はお料理とお茶、得意科目は語学全般、苦手科目は美術で五段階評価で二が最高。……間違ってないわよね?」
俺の言動は、相当変だろう。途惑って当然だ。
それでも、俺の言葉に応えてくれる彼女が、嬉しかった。
そして、それ以上に安堵していた……。
「はぁ……良かった……」
「え?」
「いや、変なこと聞いて悪かった。おかげで落ち着いたよ、ありがとう」
「そう? それならいいんだけど。でも、本当にどうしたの?」
「うん、まぁ……たいしたことじゃないんだけどさ。ちょっとな」
ちょっとだけ、心の奥底にある不安を無理矢理曝け出させられた。それだけだ。
あれは現実じゃないんだから。少なくとも、今は……。
「昂貴、怖い夢でも見たの……?」
「……え?」
思いがけぬ言葉に、一瞬、思考が止まった。
「あぁ……うん、そうだな。ものすごく夢見が悪かった」
「珍しいね。熱の所為かしら……」
心配そうに俺を見やる彼女に、またもや、ほっとしてしまう。
なぜって、これが俺の知っている風澄だから。
そして、彼女はベッドに座ると、ぎゅっと俺を抱きしめた。
「風澄……?」
「大丈夫よ、昂貴……これが現実だからね」
耳元に届いた囁きは、深い慈愛を思わせるような優しさに満ちていた。
「昂貴はひとりじゃないからね。私が居るから」
心を癒すように、穏やかに、彼女の声が、身体を染み渡っていく。
「ここに、ちゃんと私が居るから」
忘れないでと力づけるように、柔らかな指使いで、頭を撫でて。
「……また子供扱い?」
「違うわよ。いつものお返し。前は、私がしてもらったんだから」
「あぁ、なるほど」
優しく俺を包み込む彼女に、そっと頬を寄せて甘える。
こんなのは初めてだ。抱きしめ返されるのではなく、風澄に包み込まれるなんて……。
「おかしいよな、こんなの。今年二十七歳になる男がさ……」
「そんなことないわ。嫌な夢を見て、夜中に目が醒めたら、不安になるのはあたりまえよ。ひとりなら尚更」
そうか……風澄はずっと、そんな悪夢に悩まされてきたんだよな……。
俺たちの学んでいる、あの画家の作品のような、強烈なコントラストと恐ろしいほどの現実感を持った夢。
思い出したくもない記憶と、考えたくもない事実を、繰り返し夢に見てきたのだと。
「夢だとわかっていても、もしこれが現実だったらって思ったら、誰だって怖くなるもの」
だけど彼女は、信じたくない事実を、何度も現実として受け止めてきたんだ。
三年もの間、たったひとりで、ずっと……。
このベッドの中で、枕を涙で濡らした日が、嗚咽を押さえ込ませた日が、どれほどあったのだろう。それを思うと、切なさで胸が痛む。その間も、傍に居たかった。涙は止められなくても、せめて、腕の中で、思うさま泣かせてやりたかった。
同時に、自分の不甲斐無さに歯噛みする。
彼女は、ひとりきりで現実に耐えてきた。なのに俺が、夢に怯えている場合じゃない。
「そんな時に、抱きしめられるだけで安心できるって教えてくれたのは昂貴なのよ?」
「そうなのか?」
彼女はただ、笑顔で頷いてくれた。
「……笑わない?」
「笑うわけないでしょ?」
そう答えた彼女の表情は、やはり笑顔だったのだけれど、その意味をお互いが取り違えるはずもなく。
俺も笑顔で返して、ただ、彼女の柔らかな温もりに身を委ねた。
恐怖さえ、そのあたたかさに溶けていく。
現実の風澄は、俺の夢の中の風澄より、遥かに甘く、優しく、そして愛しい。
願望だの深層心理だのと言えば説明もつくけれど、あれは妄想などに身を委ねた俺に対する罰だったのだろうか。
今や、二つの意味で目が醒めた。
どれほど近くに在ろうと、どれほど親しくなろうと、
どれほど身体を重ねようと、
本当の望みは、いつだって同じ。
この先の未来で、俺が彼女の心をもらえないなら、なんの意味もないのだと。
それが本当の望みなのだから。
貪欲で、どうしようもない、本心。
「……ごめん」
「昂貴? どうして謝るの?」
「なんとなく、かな」
「……、なにか私に変なことをする夢でも見たんじゃないでしょうね」
う。
「あのねぇ……あなたってひとは、風邪を引いて寝込んでいる時だっていうのに、ほんとにもう……」
心底呆れたという顔をされてしまったけれど、昂貴らしいと言えばらしいかもねと彼女は苦笑する。……反論できん。
「まぁ、別に、眠っている時に見た夢の内容を責めたってどうしようもないし、そもそも責任が生じるようなことじゃないと思うけど。でも、どうしてそれが悪夢になっちゃうの? 普段から私に変なことばっかりしようとしてるくせに」
……なんだか酷い言われような気がする。しかし、あながち間違ってもいないので、やはり反論できないことには変わりないのだが。
「うん、まぁ、いろいろ……な」
馬鹿な夢を見たんだ。
叶わぬ恋に、届かぬ想いに、耐えかねて。
疑似的な悦びに誘惑されて、抗いたくなかった。そのまま溺れてしまいたかった。
「……だから、ごめん、風澄」
初めて風澄を抱いた日に、思ったじゃないか。想像の中よりも、夢の中よりも、現実の彼女は美しく、激しく、そして淫らだったと。
今は、想像の中でも夢の中でもない彼女に触れられるのに、俺はまた、虚構の風澄を求めるのか?
「それから、ありがとう」
俺が好きなのは、
俺が惹かれたのは、
俺が焦がれているのは、
俺が求めてやまないのは、
今、俺を優しく包んでくれている存在なのだから。
「……うん」
俺の恋は叶っていないけれど、まだ、終わってもいない。
そう確かめさせてくれたのも、現実の風澄だった。
「汗、引いてきてるみたいね。熱もそんなに高くないみたいだし……」
俺を気遣う彼女の言葉に、はたと気づく。
「って、おい風澄っ、今、夜中じゃないか!」
「そうだけど、それがどうかした?」
「だって……おまえ、ちゃんと寝てるのか?」
「うん、ちょっとは眠ったわよ」
ちょっとはって、それ、本当に数時間程度じゃないか。
「だけど、こんなことまで……」
「だって、すごい汗だったし。拭かないと酷くしちゃうでしょ?」
「あぁ、そうか……ありがとう」
「いいのよ、気にしないで。前も言ったでしょ? 私も昂貴になにかしたいの。できることがあることが、昂貴を助けられることが嬉しいんだから。ね?」
傲慢かもしれない、過ぎた願いかもしれない、余計なお世話なのかもしれない……きっと、そんなことを考えながら口に出された台詞。
「……うん」
いつか伝わるだろうか。彼女のしてくれる全てが俺にとっての幸福だと。
すぐそばにいるだけで、至上の喜びを感じていることを。
「着替えるよね? 火澄兄ので良かったら使って」
「ああ……だけど、本当にいいのか?」
「大丈夫よ。どうせここに置いてあることも忘れてるんだから」
そりゃあ着替えられるなら助かるけれど、やはり躊躇ってしまう。
「それに、火澄兄はそんなことで怒るようなタイプじゃないし……たぶん、昂貴だったら、構わないよって言うと思うから」
なんで俺だったら良いんだろうと疑問に思ったが、彼女には、なんとなく、の一言で流されてしまった。同じ射手座だからか? いや、まさかな。
それじゃあ(風澄の)お言葉に甘えて、遠慮なくお借りします火澄さん、と、見も知らぬ彼女の兄に心の中で断りを入れた。しかし、幾ら使っていないものとはいえ、そういう関係の女性の男兄弟のパジャマを借りるというのは気が引ける。まして、俺は風澄の恋人というわけでもないのに。なんだか申し訳ないな……。だが、さすがに風澄の父親のものは借りられん……幾らなんでも……。
「あと、またレモネード作ったの。もし起きたら飲むかなって思って。要る?」
「ああ……頼む」
「じゃあ、持ってくるわ。そこにタオルを置いておいたから、身体を拭いて、着替えてね。それからもう一回、体温を測っておいて」
あんな悪夢を見たせいだろう、寝る前にはシャワーを浴びたし、少しは引いたとはいえ、かなり汗ばんでいる。
借りたパジャマの持ち主である、風澄の下の兄の火澄さんは、俺と同じくらいの身長であるらしく、サイズもちょうど良かった。滑らかな肌触りの生地に、品のあるデザイン。本当に借りてしまって良いんだろうかとも思ったけれど、ここは風澄の好意に甘えておこう。
「昂貴ー、入っていいー?」
「ああ、大丈夫だよ」
着替え終えたところでノックの音。朝と同じく、トレイを持った彼女が入ってきた。
「はい、どうぞ。って言っても、体温を測ってからだけど。熱いから気をつけてね」
揃いのマグカップは、彼女の好きなティーセットと同じ柄のもの。味が合わなかった時のためだろう、蜂蜜とお湯の予備、レモンの残り半分が添えられている。
「これで、よく眠れるといいんだけど」
「ありがとうな……わざわざ、こんなことまで……」
「いいのよ、私のも入れたんだから」
俺はベッドに、風澄は椅子に掛け、ふたりで丸テーブルを囲む。
真夜中のティータイムのように。
「だけど、こんな時間まで……」
「ん……ちょっとね、目が醒めたから」
サイドテーブルのランプを灯しただけの、薄暗い部屋の中で、彼女は微笑む。
「昂貴がそばに居ないの、久しぶりだったから……落ち着かなくて」
屈託のない笑顔で、俺が思っていたことと同じことを言う。
もしも今、風澄を抱きしめられたら……。
「体調は? 寝る前と較べて、どう?」
「うん……だいぶ楽になったよ。気分も良くなった。咽喉の痛みも引いたし」
電子音が鳴る。三十七度二分だった。朝と較べると、六分下がったことになる。これなら、微熱程度と言って良いだろう。
「熱はだいぶ下がったみたいね。良かった、きっとすぐ治るわ」
触れた手が俺より冷たいのはいつものことだけれど、優しい肌の感触に癒されるような気分だった。
「風澄のおかげだな。……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
笑顔でカップを差し出され、受け取る。ほんのりと温かい。
「……美味い」
「ほんと? 良かった」
ほのかな明かりに包まれた静かな部屋で交わすのは、他愛もない会話。今日はキスもしていないのに、まるでピロートークでもしているような気分になる。それはお互いの繋がりを確認し合った後の、優しく穏やかな時間に、とてもよく似て。
「ごちそうさま」
お粗末さまです、と微笑んで、カップを受け取る彼女。
よく効くよう、酸味の加減は強めだったのに、舌に残った感覚は、どこか甘かった。
「まだペットボトルは冷えてるけど、やっぱり、もう溶けちゃってるわね」
ベッドサイドに用意してくれていたスポーツドリンクの様子を確認すると、保冷剤を抜き、マグカップと一緒に持っていく。と、今度はトレイに予備の保冷剤を乗せて戻ってきた。食器を洗ったせいだろう、手が少し濡れている。
「取り替えておけば、朝まで持つわよね」
てきぱきと片付けて、夜の間の準備を再び整えてくれた。
「もう、行くね。……ゆっくり休んでね」
そう言って立ち上がった彼女の手首を、俺は思わずつかんでいた。
「え?」
「……かすみ」
「なぁに?」
いつもと変わらない……いや、普段よりも柔らかな、慈しみに満ちた笑みを向け、彼女は微笑む。
「……ありがとう……」
一緒に眠りたいだなんて、言えやしない。
そんなことをしたら彼女の予定に響いてしまう。
邪魔したくない。
だけど、離れたくない。
「……うん」
「ごめん……」
なにより、自分がもどかしかった。
元気だったら、今すぐにでも抱きしめて、お互いの体温を感じながら眠れるのに。
本調子でないからこそ不安になる。こんな時に、どうして触れ合えないのだろう。
身体を繋ぎたいなんて思わない。素肌を感じたいなんて思わない。
でも、そばにいるのに、思うように触れ合えない今がもどかしかった。
「やだ、謝らないでよ。悪いことしてるわけじゃないんだから……」
「だけど……」
本当は、ただ――傍に居て欲しかった。
あんな夢を見たせいだろうか。
同じ部屋に居るだけでは足りなくて。
彼女の体温を感じたかった。
俺が風澄の一番近くに居ると、感じさせて欲しかった。
「……ごめんな、風澄……」
色々な思いが、うまく回らない頭を巡っている。
だめだ、このままじゃ。早く治さないと。
俺が風澄を護りたいのに。
この子を包んで、安心して眠らせてやりたいのに……。
「あの、昂貴……」
ため息をつく俺に、彼女は驚くような提案をした。
「一緒に寝ちゃ、だめ?」
「……え?」
「ほんとはね、よく眠れなくて……なかなか寝つけないし、眠ってもすぐ目が醒めちゃって」
それは、俺の体調が気になるからか、それとも、俺の不在が気になるからか。どちらがより正確な理由なのかはわからなかったけれど、どちらにしたって、どうにかなりそうなくらい、嬉しい言葉だった。
だって、それは、風澄が俺を必要としてくれているということだから。
「おかしいね、まるで子供みたい」
少し恥ずかしそうに肩を竦めて笑う彼女が、あまりにも可愛くて。
「うつったらどうするんだよ、発表控えてるくせにさ……」
嬉しい気持ちを押し隠して答えたけれど、きっと顔は笑っているだろう。
「だから、うつさないでね」
「んなこと言われてもなぁ……」
無理な物言いに苦笑してしまう。
いけないとわかっていても、俺が拒否する理由はもうない。
「やっぱり、だめだよね。言ってみただけだから、気にしないで」
残念そうな表情で、彼女は部屋を出ようとするけれど。
それを再び引き止めたのは、俺の声。
「……風澄」
「ん?」
「おいで」
「……いいの?」
疲れない? 邪魔じゃない? ……そんな表情で。
言うまでもないじゃないか、そんなこと。
もう、ひとりきりのベッドの冷たさなんて、感じたくない。
「俺も、風澄と一緒に眠りたいよ」
「……うん」
そう言って、彼女は躊躇いなく俺の隣にもぐりこんだ。
慣れた体温に落ち着く。香りに安らぐ。
きっと彼女もそうだろう。
こうして眠ることが、もう普通になってしまった。
ふたりして笑って、俺はいつものように彼女を抱き寄せようと腕を伸ばす。
だけど同じように伸ばされた彼女の腕は、逆に俺を包み込んで、身体ごと抱きしめた。
「ちょ……っ、風澄……」
「風邪ひいてるのは昂貴でしょ?」
なんて笑って俺を抱きしめる。
風澄の香り。
俺と同じ、穏やかなフローラルブーケに、彼女自身の香り。
シャワーは浴びたし、身体は拭いたし、着替えたとは言え……湯船には浸かっていない上に、また汗をかいた俺は、決して綺麗じゃないはずなのに、彼女は躊躇いなく抱きしめてくれる。
「なんだか、こうするのって落ち着くね」
「……そうなのか?」
「うん。すごく。どきどきするけど……昂貴は?」
「ああ……そうだな……」
胸元に顔を引き寄せられているのだが、柔らかな温もりに、今は欲求よりも安堵が勝って、不思議と落ち着く。
パジャマの襟元やボタンの隙間から、赤い痕が幾つか見える。
俺のつけた印。
ふと、視線が合う。
お互いの言葉が止まる。
予感? 誘惑? どちらにしても、きっと、考えていることは同じ。
今日は交わしていなかった、毎晩の習慣。
いつものように、どちらからともなく口唇を寄せ合う。
けれど。
「……、キスしたら、うつっちゃうかな……」
ふたりして、触れる直前で止まってしまった。
「……可能性は高くなるな」
風邪は空気感染だけど、キスって思いっきり粘膜感染だもんなぁ。しかも、こんな時なのに、俺の頭に浮かぶものときたら、ディープキスで行き来する細菌の量だったりして。詩情もへったくれもあったもんじゃない。好きな女が目の前でキスを待っているというのに、もうちょっと良いこと考えろよと、思わずセルフ突っ込みしてしまう。
「口唇じゃなければ、平気だろうけど……」
お互いの視線が、触れ合う吐息が、本心を顕わにする。
それは、一番したいキスとは違うと。
「……でも……」
それでも、口唇を重ねたい。
そんな目で見つめられたら、こっちのほうが耐えられない。
いつものようにくちづける体力なんてないのに。
だけど、求めてしまう。彼女が望んだのをいいことに、現実を都合よく捻じ曲げて。
「大丈夫だろ、舌入れなければ?」
「なぁんだ、結構元気ね。……よかった」
彼女はくすくすと笑い、そして、そっと俺の額と頬に口唇を触れ、優しく口唇を重ねた。
風澄からのキスは、この世で俺しか知らないこと。
浅いはずのくちづけは、夢の中の風澄と交わしたディープキスより、ずっと深く、俺の心を満たしてくれる。
いつものように深く貪るわけではないけれど、長いくちづけ。
おやすみのキス。
「はやく治るといいね」
そう囁くと、彼女は俺を抱きしめて、目を閉じた。
いつも俺がしているのと同じように。
鼓動が聞こえる。
すぐそばで、誰よりも愛しい女性が、俺を抱きしめて眠っている。
俺を癒そうとするかのように、その腕でしっかりと包んで。
あぁ、違うんだな。
抱きしめて、安心して眠らせてやりたいだなんて。
俺が安心してるんだ。
風澄の体温を感じながら眠ることで、なによりも安心できるんだ。
風澄。
――俺の聖女。
けれど、目を開けても、何も見えない。
闇が続いている。
あまりのことに耐え切れず、力任せに彼女を振り払ったところまでは憶えているが、その後がわからない。
また悪夢の続きだろうか。
今度はなんなんだよ。
なにが起こったって、もう、どうでもいいさ。
あれ以上に嫌なシーンなんてありはしない。
――あれ?
さっきから、この感触はなんだ?
素肌に優しく触れるものがある。
それが触れたところから、なぜかすがすがしい気分になって、
清涼な空気が運ばれてくる。
この感覚は――
暗い視界の中に、人の影。
見慣れたシルエット。
暗い部屋の中で、俺を見つめる存在は。
「……かすみ……?」
「あ……ごめんね、起こしちゃった?」
ほとんど願うように呟いた名前に答えてくれたのは、紛れもない、本物の風澄だった。
「かすみ、風澄……っ!」
「え? ……きゃっ!」
思わず腕を引いて抱き寄せた俺に、彼女は驚きの声をあげた。
ごめんと思いつつ、力の入らない腕で抱きしめ、髪に顔を埋める。もうとっくに馴染んでしまった、風澄の香り。風澄の温もり。風澄の感触。
「昂貴、どうしたの?」
俺の上に倒れこみ、途惑いながら、それでも柔らかな笑顔を向け、俺の名を呼んでくれる彼女。
これが……これこそが、現実だ……。
「風澄……」
「なぁに?」
「おまえの……おまえの進路はなんだ!?」
「……は?」
俺の脈絡のない質問に、見るからにきょとんとした顔で俺を見つめ返す彼女だが、すぐに真剣な顔になり、考え込む。
「進路……」
言葉の意味を反芻しているのだろう、何度か繰り返して、やっと彼女は口を開いた。
「そうねぇ……当面の目標は、大学院の文学研究科の修士課程に進むことだけど」
「うん、それで?」
「美術史学者を目指しているわね」
「そうだよな、それで?」
「まあ、将来的には、なんらかの形で美術史学に関わる職業に就ければ理想的ね」
「なるほど」
「でも、言われてみると、大学院進学のことばかり考えていて、仕事とか職業とか、あまり想像してなかったかも。どんなところであれ、研究を続けていけるなら充分だとは思うけど、大学教授とか学芸員とか、なんか違う気がするし。良い機会かもね、もうちょっと具体的に考えてみようかしら」
唐突過ぎる俺の問いかけにすら、真面目に考えて、答えを返す。
あぁ、そうだ。間違いない。これこそが、俺の知っている風澄だ。
少なくとも現在の風澄は進学希望で、美術史学者志望で、大学卒業後即結婚などという予定はない。
それにしても、風澄にそんな志望があったとは。家庭環境のせいだろうか、俺は、文系の研究職となれば大学に所属するものという認識だったのだが、それこそ考えが単純だったかもしれない。しかし、大学教授でも、学芸員でもなく、美術史学の研究を続けていける職業――か。理系の学者なら純粋な研究機関に所属すれば良いだけの話だが、美術史学となると、かなり難しいだろうな。果たして、そんなことが可能なんだろうか。難しいだろうけど、きっと実現は不可能ではないだろう。風澄になら。
「で――俺は誰だ?」
「え?」
今度はわけがわからないという表情で俺を見やり、熱が上がっちゃったのかしら、と呟く。
「大丈夫、昂貴?」
「頼むから言ってくれ、俺についてのことならなんでも構わないから!」
「ええと、フルネームは高原昂貴、年齢は現在二十六歳、十一月末生まれの射手座O型、大学院文学研究科後期博士課程三年に在籍し、美術史学を専攻、専門はイタリア・バロック美術、好きな食べ物はイタリア料理全般で、特にチーズを使ったものが好物、特技はお料理とお茶、得意科目は語学全般、苦手科目は美術で五段階評価で二が最高。……間違ってないわよね?」
俺の言動は、相当変だろう。途惑って当然だ。
それでも、俺の言葉に応えてくれる彼女が、嬉しかった。
そして、それ以上に安堵していた……。
「はぁ……良かった……」
「え?」
「いや、変なこと聞いて悪かった。おかげで落ち着いたよ、ありがとう」
「そう? それならいいんだけど。でも、本当にどうしたの?」
「うん、まぁ……たいしたことじゃないんだけどさ。ちょっとな」
ちょっとだけ、心の奥底にある不安を無理矢理曝け出させられた。それだけだ。
あれは現実じゃないんだから。少なくとも、今は……。
「昂貴、怖い夢でも見たの……?」
「……え?」
思いがけぬ言葉に、一瞬、思考が止まった。
「あぁ……うん、そうだな。ものすごく夢見が悪かった」
「珍しいね。熱の所為かしら……」
心配そうに俺を見やる彼女に、またもや、ほっとしてしまう。
なぜって、これが俺の知っている風澄だから。
そして、彼女はベッドに座ると、ぎゅっと俺を抱きしめた。
「風澄……?」
「大丈夫よ、昂貴……これが現実だからね」
耳元に届いた囁きは、深い慈愛を思わせるような優しさに満ちていた。
「昂貴はひとりじゃないからね。私が居るから」
心を癒すように、穏やかに、彼女の声が、身体を染み渡っていく。
「ここに、ちゃんと私が居るから」
忘れないでと力づけるように、柔らかな指使いで、頭を撫でて。
「……また子供扱い?」
「違うわよ。いつものお返し。前は、私がしてもらったんだから」
「あぁ、なるほど」
優しく俺を包み込む彼女に、そっと頬を寄せて甘える。
こんなのは初めてだ。抱きしめ返されるのではなく、風澄に包み込まれるなんて……。
「おかしいよな、こんなの。今年二十七歳になる男がさ……」
「そんなことないわ。嫌な夢を見て、夜中に目が醒めたら、不安になるのはあたりまえよ。ひとりなら尚更」
そうか……風澄はずっと、そんな悪夢に悩まされてきたんだよな……。
俺たちの学んでいる、あの画家の作品のような、強烈なコントラストと恐ろしいほどの現実感を持った夢。
思い出したくもない記憶と、考えたくもない事実を、繰り返し夢に見てきたのだと。
「夢だとわかっていても、もしこれが現実だったらって思ったら、誰だって怖くなるもの」
だけど彼女は、信じたくない事実を、何度も現実として受け止めてきたんだ。
三年もの間、たったひとりで、ずっと……。
このベッドの中で、枕を涙で濡らした日が、嗚咽を押さえ込ませた日が、どれほどあったのだろう。それを思うと、切なさで胸が痛む。その間も、傍に居たかった。涙は止められなくても、せめて、腕の中で、思うさま泣かせてやりたかった。
同時に、自分の不甲斐無さに歯噛みする。
彼女は、ひとりきりで現実に耐えてきた。なのに俺が、夢に怯えている場合じゃない。
「そんな時に、抱きしめられるだけで安心できるって教えてくれたのは昂貴なのよ?」
「そうなのか?」
彼女はただ、笑顔で頷いてくれた。
「……笑わない?」
「笑うわけないでしょ?」
そう答えた彼女の表情は、やはり笑顔だったのだけれど、その意味をお互いが取り違えるはずもなく。
俺も笑顔で返して、ただ、彼女の柔らかな温もりに身を委ねた。
恐怖さえ、そのあたたかさに溶けていく。
現実の風澄は、俺の夢の中の風澄より、遥かに甘く、優しく、そして愛しい。
願望だの深層心理だのと言えば説明もつくけれど、あれは妄想などに身を委ねた俺に対する罰だったのだろうか。
今や、二つの意味で目が醒めた。
どれほど近くに在ろうと、どれほど親しくなろうと、
どれほど身体を重ねようと、
本当の望みは、いつだって同じ。
この先の未来で、俺が彼女の心をもらえないなら、なんの意味もないのだと。
それが本当の望みなのだから。
貪欲で、どうしようもない、本心。
「……ごめん」
「昂貴? どうして謝るの?」
「なんとなく、かな」
「……、なにか私に変なことをする夢でも見たんじゃないでしょうね」
う。
「あのねぇ……あなたってひとは、風邪を引いて寝込んでいる時だっていうのに、ほんとにもう……」
心底呆れたという顔をされてしまったけれど、昂貴らしいと言えばらしいかもねと彼女は苦笑する。……反論できん。
「まぁ、別に、眠っている時に見た夢の内容を責めたってどうしようもないし、そもそも責任が生じるようなことじゃないと思うけど。でも、どうしてそれが悪夢になっちゃうの? 普段から私に変なことばっかりしようとしてるくせに」
……なんだか酷い言われような気がする。しかし、あながち間違ってもいないので、やはり反論できないことには変わりないのだが。
「うん、まぁ、いろいろ……な」
馬鹿な夢を見たんだ。
叶わぬ恋に、届かぬ想いに、耐えかねて。
疑似的な悦びに誘惑されて、抗いたくなかった。そのまま溺れてしまいたかった。
「……だから、ごめん、風澄」
初めて風澄を抱いた日に、思ったじゃないか。想像の中よりも、夢の中よりも、現実の彼女は美しく、激しく、そして淫らだったと。
今は、想像の中でも夢の中でもない彼女に触れられるのに、俺はまた、虚構の風澄を求めるのか?
「それから、ありがとう」
俺が好きなのは、
俺が惹かれたのは、
俺が焦がれているのは、
俺が求めてやまないのは、
今、俺を優しく包んでくれている存在なのだから。
「……うん」
俺の恋は叶っていないけれど、まだ、終わってもいない。
そう確かめさせてくれたのも、現実の風澄だった。
「汗、引いてきてるみたいね。熱もそんなに高くないみたいだし……」
俺を気遣う彼女の言葉に、はたと気づく。
「って、おい風澄っ、今、夜中じゃないか!」
「そうだけど、それがどうかした?」
「だって……おまえ、ちゃんと寝てるのか?」
「うん、ちょっとは眠ったわよ」
ちょっとはって、それ、本当に数時間程度じゃないか。
「だけど、こんなことまで……」
「だって、すごい汗だったし。拭かないと酷くしちゃうでしょ?」
「あぁ、そうか……ありがとう」
「いいのよ、気にしないで。前も言ったでしょ? 私も昂貴になにかしたいの。できることがあることが、昂貴を助けられることが嬉しいんだから。ね?」
傲慢かもしれない、過ぎた願いかもしれない、余計なお世話なのかもしれない……きっと、そんなことを考えながら口に出された台詞。
「……うん」
いつか伝わるだろうか。彼女のしてくれる全てが俺にとっての幸福だと。
すぐそばにいるだけで、至上の喜びを感じていることを。
「着替えるよね? 火澄兄ので良かったら使って」
「ああ……だけど、本当にいいのか?」
「大丈夫よ。どうせここに置いてあることも忘れてるんだから」
そりゃあ着替えられるなら助かるけれど、やはり躊躇ってしまう。
「それに、火澄兄はそんなことで怒るようなタイプじゃないし……たぶん、昂貴だったら、構わないよって言うと思うから」
なんで俺だったら良いんだろうと疑問に思ったが、彼女には、なんとなく、の一言で流されてしまった。同じ射手座だからか? いや、まさかな。
それじゃあ(風澄の)お言葉に甘えて、遠慮なくお借りします火澄さん、と、見も知らぬ彼女の兄に心の中で断りを入れた。しかし、幾ら使っていないものとはいえ、そういう関係の女性の男兄弟のパジャマを借りるというのは気が引ける。まして、俺は風澄の恋人というわけでもないのに。なんだか申し訳ないな……。だが、さすがに風澄の父親のものは借りられん……幾らなんでも……。
「あと、またレモネード作ったの。もし起きたら飲むかなって思って。要る?」
「ああ……頼む」
「じゃあ、持ってくるわ。そこにタオルを置いておいたから、身体を拭いて、着替えてね。それからもう一回、体温を測っておいて」
あんな悪夢を見たせいだろう、寝る前にはシャワーを浴びたし、少しは引いたとはいえ、かなり汗ばんでいる。
借りたパジャマの持ち主である、風澄の下の兄の火澄さんは、俺と同じくらいの身長であるらしく、サイズもちょうど良かった。滑らかな肌触りの生地に、品のあるデザイン。本当に借りてしまって良いんだろうかとも思ったけれど、ここは風澄の好意に甘えておこう。
「昂貴ー、入っていいー?」
「ああ、大丈夫だよ」
着替え終えたところでノックの音。朝と同じく、トレイを持った彼女が入ってきた。
「はい、どうぞ。って言っても、体温を測ってからだけど。熱いから気をつけてね」
揃いのマグカップは、彼女の好きなティーセットと同じ柄のもの。味が合わなかった時のためだろう、蜂蜜とお湯の予備、レモンの残り半分が添えられている。
「これで、よく眠れるといいんだけど」
「ありがとうな……わざわざ、こんなことまで……」
「いいのよ、私のも入れたんだから」
俺はベッドに、風澄は椅子に掛け、ふたりで丸テーブルを囲む。
真夜中のティータイムのように。
「だけど、こんな時間まで……」
「ん……ちょっとね、目が醒めたから」
サイドテーブルのランプを灯しただけの、薄暗い部屋の中で、彼女は微笑む。
「昂貴がそばに居ないの、久しぶりだったから……落ち着かなくて」
屈託のない笑顔で、俺が思っていたことと同じことを言う。
もしも今、風澄を抱きしめられたら……。
「体調は? 寝る前と較べて、どう?」
「うん……だいぶ楽になったよ。気分も良くなった。咽喉の痛みも引いたし」
電子音が鳴る。三十七度二分だった。朝と較べると、六分下がったことになる。これなら、微熱程度と言って良いだろう。
「熱はだいぶ下がったみたいね。良かった、きっとすぐ治るわ」
触れた手が俺より冷たいのはいつものことだけれど、優しい肌の感触に癒されるような気分だった。
「風澄のおかげだな。……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
笑顔でカップを差し出され、受け取る。ほんのりと温かい。
「……美味い」
「ほんと? 良かった」
ほのかな明かりに包まれた静かな部屋で交わすのは、他愛もない会話。今日はキスもしていないのに、まるでピロートークでもしているような気分になる。それはお互いの繋がりを確認し合った後の、優しく穏やかな時間に、とてもよく似て。
「ごちそうさま」
お粗末さまです、と微笑んで、カップを受け取る彼女。
よく効くよう、酸味の加減は強めだったのに、舌に残った感覚は、どこか甘かった。
「まだペットボトルは冷えてるけど、やっぱり、もう溶けちゃってるわね」
ベッドサイドに用意してくれていたスポーツドリンクの様子を確認すると、保冷剤を抜き、マグカップと一緒に持っていく。と、今度はトレイに予備の保冷剤を乗せて戻ってきた。食器を洗ったせいだろう、手が少し濡れている。
「取り替えておけば、朝まで持つわよね」
てきぱきと片付けて、夜の間の準備を再び整えてくれた。
「もう、行くね。……ゆっくり休んでね」
そう言って立ち上がった彼女の手首を、俺は思わずつかんでいた。
「え?」
「……かすみ」
「なぁに?」
いつもと変わらない……いや、普段よりも柔らかな、慈しみに満ちた笑みを向け、彼女は微笑む。
「……ありがとう……」
一緒に眠りたいだなんて、言えやしない。
そんなことをしたら彼女の予定に響いてしまう。
邪魔したくない。
だけど、離れたくない。
「……うん」
「ごめん……」
なにより、自分がもどかしかった。
元気だったら、今すぐにでも抱きしめて、お互いの体温を感じながら眠れるのに。
本調子でないからこそ不安になる。こんな時に、どうして触れ合えないのだろう。
身体を繋ぎたいなんて思わない。素肌を感じたいなんて思わない。
でも、そばにいるのに、思うように触れ合えない今がもどかしかった。
「やだ、謝らないでよ。悪いことしてるわけじゃないんだから……」
「だけど……」
本当は、ただ――傍に居て欲しかった。
あんな夢を見たせいだろうか。
同じ部屋に居るだけでは足りなくて。
彼女の体温を感じたかった。
俺が風澄の一番近くに居ると、感じさせて欲しかった。
「……ごめんな、風澄……」
色々な思いが、うまく回らない頭を巡っている。
だめだ、このままじゃ。早く治さないと。
俺が風澄を護りたいのに。
この子を包んで、安心して眠らせてやりたいのに……。
「あの、昂貴……」
ため息をつく俺に、彼女は驚くような提案をした。
「一緒に寝ちゃ、だめ?」
「……え?」
「ほんとはね、よく眠れなくて……なかなか寝つけないし、眠ってもすぐ目が醒めちゃって」
それは、俺の体調が気になるからか、それとも、俺の不在が気になるからか。どちらがより正確な理由なのかはわからなかったけれど、どちらにしたって、どうにかなりそうなくらい、嬉しい言葉だった。
だって、それは、風澄が俺を必要としてくれているということだから。
「おかしいね、まるで子供みたい」
少し恥ずかしそうに肩を竦めて笑う彼女が、あまりにも可愛くて。
「うつったらどうするんだよ、発表控えてるくせにさ……」
嬉しい気持ちを押し隠して答えたけれど、きっと顔は笑っているだろう。
「だから、うつさないでね」
「んなこと言われてもなぁ……」
無理な物言いに苦笑してしまう。
いけないとわかっていても、俺が拒否する理由はもうない。
「やっぱり、だめだよね。言ってみただけだから、気にしないで」
残念そうな表情で、彼女は部屋を出ようとするけれど。
それを再び引き止めたのは、俺の声。
「……風澄」
「ん?」
「おいで」
「……いいの?」
疲れない? 邪魔じゃない? ……そんな表情で。
言うまでもないじゃないか、そんなこと。
もう、ひとりきりのベッドの冷たさなんて、感じたくない。
「俺も、風澄と一緒に眠りたいよ」
「……うん」
そう言って、彼女は躊躇いなく俺の隣にもぐりこんだ。
慣れた体温に落ち着く。香りに安らぐ。
きっと彼女もそうだろう。
こうして眠ることが、もう普通になってしまった。
ふたりして笑って、俺はいつものように彼女を抱き寄せようと腕を伸ばす。
だけど同じように伸ばされた彼女の腕は、逆に俺を包み込んで、身体ごと抱きしめた。
「ちょ……っ、風澄……」
「風邪ひいてるのは昂貴でしょ?」
なんて笑って俺を抱きしめる。
風澄の香り。
俺と同じ、穏やかなフローラルブーケに、彼女自身の香り。
シャワーは浴びたし、身体は拭いたし、着替えたとは言え……湯船には浸かっていない上に、また汗をかいた俺は、決して綺麗じゃないはずなのに、彼女は躊躇いなく抱きしめてくれる。
「なんだか、こうするのって落ち着くね」
「……そうなのか?」
「うん。すごく。どきどきするけど……昂貴は?」
「ああ……そうだな……」
胸元に顔を引き寄せられているのだが、柔らかな温もりに、今は欲求よりも安堵が勝って、不思議と落ち着く。
パジャマの襟元やボタンの隙間から、赤い痕が幾つか見える。
俺のつけた印。
ふと、視線が合う。
お互いの言葉が止まる。
予感? 誘惑? どちらにしても、きっと、考えていることは同じ。
今日は交わしていなかった、毎晩の習慣。
いつものように、どちらからともなく口唇を寄せ合う。
けれど。
「……、キスしたら、うつっちゃうかな……」
ふたりして、触れる直前で止まってしまった。
「……可能性は高くなるな」
風邪は空気感染だけど、キスって思いっきり粘膜感染だもんなぁ。しかも、こんな時なのに、俺の頭に浮かぶものときたら、ディープキスで行き来する細菌の量だったりして。詩情もへったくれもあったもんじゃない。好きな女が目の前でキスを待っているというのに、もうちょっと良いこと考えろよと、思わずセルフ突っ込みしてしまう。
「口唇じゃなければ、平気だろうけど……」
お互いの視線が、触れ合う吐息が、本心を顕わにする。
それは、一番したいキスとは違うと。
「……でも……」
それでも、口唇を重ねたい。
そんな目で見つめられたら、こっちのほうが耐えられない。
いつものようにくちづける体力なんてないのに。
だけど、求めてしまう。彼女が望んだのをいいことに、現実を都合よく捻じ曲げて。
「大丈夫だろ、舌入れなければ?」
「なぁんだ、結構元気ね。……よかった」
彼女はくすくすと笑い、そして、そっと俺の額と頬に口唇を触れ、優しく口唇を重ねた。
風澄からのキスは、この世で俺しか知らないこと。
浅いはずのくちづけは、夢の中の風澄と交わしたディープキスより、ずっと深く、俺の心を満たしてくれる。
いつものように深く貪るわけではないけれど、長いくちづけ。
おやすみのキス。
「はやく治るといいね」
そう囁くと、彼女は俺を抱きしめて、目を閉じた。
いつも俺がしているのと同じように。
鼓動が聞こえる。
すぐそばで、誰よりも愛しい女性が、俺を抱きしめて眠っている。
俺を癒そうとするかのように、その腕でしっかりと包んで。
あぁ、違うんだな。
抱きしめて、安心して眠らせてやりたいだなんて。
俺が安心してるんだ。
風澄の体温を感じながら眠ることで、なによりも安心できるんだ。
風澄。
――俺の聖女。
First Section - Chapter 8 The End.
2010.09.02.Thu.
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