Dolce Vita
10.Annex -You are My Madonna- 中編
――夢を見た。
三年前の彼女が、ベンチに座って呆然と空を見上げている。
俺はその目の前に立っていたのだけれど、まるで高い壁に遮られているかのように近づけなかった。
できることと言えば、立ち尽くしたまま彼女を見つめるだけ。
その耳に言葉を伝えることも、その表情を変えることもできなかった。
あの日と同じように。
それは過去の光景。
この心を一瞬にして奪った、俺のファム・ファタールと巡り合った時。
間違いなく、俺の人生の分岐点。
この日から、世界すらも変わった。
しかし、これまた随分と懐かしい夢だな。
そう思ったところで、やっと自覚があることに気づく。
――あぁ、明晰夢か。
珍しいこともあったものだ。
彼女と知り合うまで、この時のことを思い出すのは日常茶飯事だったし、彼女の夢を見ることもあった。けれど、この日のことを夢に見たことは滅多になかったのに。
蘇らせる努力すら必要としない、それは未だに鮮やかな記憶。
懐かしい彼女の姿を、じっと眺める。
悲しげで、寂しげで、だけど決して泣いてはいない。そのことにこそ心が痛む。見ている俺の胸まで締め付けられるほどの、身を切るような切なさ。
あの頃はわからなかった彼女の表情の理由を、今はもう、知ってしまっているから。
彼女自身は、俺のほうを見てはいないけれど。
風澄。
話をしたかった。
笑って欲しかった。
名前を呼びたかった。
名前を呼んで欲しかった。
俺がここにいることを、知って欲しかった。
……触れたかった。
五メートルにも満たない距離が、遥か彼方に思えたあの日。
それは三年の時を経て、一ミリの隙間さえ消えてなくなった。
心の距離さえも、知り合った頃と今とでは、まるで違う。
歪んだ形で始まった関係なのに。
思えば、俺と風澄の専門であるバロック時代――この『バロック』とは、本来、バロック・パールのことを指す。本来、真球を思わせる丸い玉であるはずの真珠の中で、捩れを有するもの。すなわち『歪んだ真珠』のことだ。
人の手による加工を一切必要とせず、ありのままの姿をもって至高の美を有する存在の、言わば、なり損ない……。
バロックの象徴――歪み、捩れ。
ルネサンスの技巧の果てに、マニエリスムを経て、辿り着いた境地。それがバロックだ。
風澄も俺も、理由は違えど、その歪みに惹かれた者同士。その言葉は、まるでこの関係を象徴しているようで、知り合った頃、皮肉さに口許まで歪んだものだ。
けれど。
真珠にありうべからざる歪みと捩れ。
おそらくは、美を損なうものとして敬遠されるのが常だろう。
だが、それは、全く同じものが、この世にひとつとして存在しない証でもある。
玉に瑕などとも言うけれど、その瑕を持つ玉にこそ心を奪われてしまったなら、もはや玉になど惹かれない。
その身に棘を有する薔薇にこそ惹かれる理由と、それはどこか似て。
歪みにすら美を見出し、愛さずにはいられないのだと。
そして、いかに歪み、捩れていようと、それでも美しく在ろうと、斯く在りたいと、自らの存在をもって自らの尊厳を護ろうとするが如き在り方にこそ、並び立つ存在すら赦さない、孤高の美しさが在るのだと。
その気高くも稀有な美しさにこそ、魅了される。
もしかしたら、そんなところにあったのかもしれない。
俺がバロック時代に惹かれた理由と、風澄に惹かれた理由は。
彼女の姿を、再び眺める。
俺が初めて恋に落ちた瞬間。
三年前、この心に芽生えた想いは、募り続けて今に至る。
かすみ。
それは、たった三文字の、この世で一番美しく、愛しい存在をあらわす言葉。
今なら、あの頃したくてもできなかった全てのことができるのに。
……いや、ここでなら、三年前の彼女に届くのだ。
苦笑して、そっと手を伸ばす。
触れたら途惑うだろうか。抱きしめたら怒るだろうか。それとも。
すると。
「!」
一歩踏み出した瞬間、三年前の彼女を掻き消すように、いきなり、景色が変わった。
今度は暗闇に包まれる。
彼女が三年間ずっと悩まされ続けてきたという悪夢は、こんな感じだろうか……。
しかし、真っ暗なままというのはどうにも落ち着かないし、つまらない。だが、明晰夢なら操作も可能なのではないかと、ひたすら風澄の姿を思い浮かべてみる。
なにしろ今日は、現実の風澄と口唇でのおやすみのキスすらできないのだから。夢の中でくらい許してくれよな、と呟いて、彼女があらわれるのを待つ。
すると、ふと、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。思わず振り返ると、そこには。
「風澄……」
それは、三年前の記憶よりも、だいぶ幼い印象の風澄。写真すら目にしたことがないのに、その姿は、妙にはっきりしていた。
願いどおり彼女が出てきてくれたけれど、俺は嬉しいとは思わなかった。
なぜなら、風澄はひとりではなかったから。
その彼女と手を繋ぎ、楽しそうに話をしているのは――
「……杉野……」
それは高校二年生の秋から三年生の夏までの約一年間、すなわち『恋人同士』だった時の、風澄と杉野だった。
俺が風澄の存在すら知らなかった頃。
――これが、過去の風澄。
あの腕に、抱かれたのか。
あいつと視線を絡めて、あいつの腕の中に居た日が、確かにあったんだ。
どうして、その頃一緒にいられなかったんだろう。
どうして、もっと早く出逢えなかった?
もしも、同じ年に生まれて、同じ環境で生きて来られたなら。
そうしたら、他の男になんて目を向けさせなかったのに。
そうしたら、あんな辛い想いはさせなかったのに。
彼女の昔のことなど気にしていなかったはずなのに、それでも時折り、口惜しいような、やるせない気持ちになる。
遡行することなど叶うはずのない、時の流れ。無意味な仮定と、無益な思考。そんなものに身を委ねるほど馬鹿なことはないと思いながらも。
考えても仕方のないことだ。けれど……。
だが、これは過去だ。
そりゃあ、なかったことにはできないけれど、未来にはありえない。風澄自身が明言してくれたのだから。俺がそれを信じなくてどうする? だいたい、明晰夢のくせに、これはないだろう。現実ならば致し方ないとしても、俺はMっ気なんかゼロだってのに。せっかく出てきてくれた風澄には悪いけど、こんなのはごめんだ。
俺が逢いたいのは、やっぱり『今』の風澄なんだ。
しかし、たとえ夢といえど、過去には確実に存在した時間なのだと思うと、やっぱり複雑だ。第一、見ていて気分の良い光景じゃない。
こんな気持ちにさせられたのでは、キスだけじゃ足りないな。覚悟しろよと居もしない風澄に呟くと、再び景色が掻き消されていく。
ほっとしたのも束の間、目の前に展開されていたのは、これまでを遥かに上回る、地獄のような光景だった。
ベッドに広がるのは、緩やかなウェーヴを描く、明るい栗色の長い髪。
色白の肌は、悦びの中、淡い薔薇色に染まり、
その腕は、自らを慈しむ相手を包み込む。
それは確かに、俺が想像したとおりの『今』の風澄だった。
二十一歳の、リアルタイムの彼女。
だが。
「な……っ!」
その風澄を組み敷いているのは、明るい色の髪をした、やや細身の男。
どこか日本人らしからぬ、中世的な印象の顔立ち。
何度も見た、あの絵と同じ顔。
だが、なによりの衝撃は――その表情が、あの絵とはまるで違っていたことだった。
その瞳に映るのは、腕の中に在る女性だけ。いや、たとえ視線を離しても、心は彼女に占められて、他者の入り込む余地など全く無いのだろう。そのことが容易に想像できるほど、その目は彼女だけに向けられていた。
そんな自身が、穏やか過ぎるほどの優しい微笑みを浮かべていることなど、きっと、まるで意識していないだろう。
ただ、焦がれた存在に見惚れているだけ。
好き、大好き、と繰り返して、夢中でキスに応える彼女。
それは俺との行為においては決して口にされることのない言葉。
男が耳元で囁くのは、きっと風澄の名前。
肌を撫でる指も慈しむ口唇も、全てが深い愛情に満ちて。
愛しくて、ただ愛しくて、まるで、彼女がこの世に在り、隣に在る、そのことだけで至福の喜びが約束されているかのような。
『風澄さえ居れば、俺はもう、他になにも要らない』
そんな想いが、伝わってくる。
――こんなの『セックス』じゃない。
そんな軽い言葉で、表現できるわけがない。
『性行為』なんて乾いたものじゃない。『寝る』と言うほど浅くない。まして『えっち』なんて生温い言葉、相応しいわけがない。
知っている限りの性交渉をあらわす言葉が、全て異質に思えて、
頭に残ったのは、たったひとつ。
『抱く』という言葉だけ。
その、現実を無視するほどに詩的で甘やかな、言葉そのままの行為――。
性欲に突き動かされ、本能のままに交わすはずの、この世で最も原始的な行為が、
愛情を確かめ合い、生きる喜びを分かち合うための、
神聖な儀式のようにさえ、思えてくる。
「あぁっ……ん、あ、あっ……んんんっ……!」
そして、自分を抱きしめる腕に縋りつき、身体を仰け反らせ、
脚を広げ、胎内の奥深くまで受け容れて、
甘い声で喘ぎながら彼女が呼んだ名前は――宗哉。
俺の腕の中で嬌声をあげて、
俺の名前を呼ぶ時と同じ声で。
――これが、風澄の本当の望み。
俺なんかではなく。
だから……どんなに早く出逢えていたって、同じなんだ。
心を捧げた『宗哉』と、身体を繋いだ俺の、
どちらが風澄にとって大きな存在なんだろう。
彼女の心の中で、『宗哉』の占める割合と、俺の占める割合を比較したら、
そうしたら、どうなる?
出逢った時など論外だ。行為を交わした後でも負けている。
――いや、きっと、今でも……。
でも、これは過去じゃない。現実でもない。
知っている。風澄とこの男の間には、なにもなかったと。
――だが、未来には――?
三年前、風澄の告白が受け容れられることはなかった。
それは確かな事実なのだろう。
けれど、それは『宗哉』が風澄に恋心を抱いていなかったという証拠になるのだろうか?
本当に『宗哉』は、風澄のことをなんとも思っていなかったのか?
こんなにも心を惹きつけてやまない存在に、愛情を欠片も傾けなかったのか?
風澄を愛しいと、思わなかったのか――?
目の前で愛し合うふたりは、どこからどう見たって、相思相愛の恋人同士なのに……。
いや、違う。あれは風澄を抱いている俺だ。『宗哉』じゃない。
あれは俺の抱き方。心から風澄を慈しむ時の愛し方と同じ。
俺の中のわずかな恐怖心が、自分自身をあの男に置き換えただけ。
――明晰夢のはずなのに。
もう、キスなんてできなくても構わない。それ以上のことなんてしない。
だから、せめて、俺の知っている風澄に逢いたい。
目の前の光景を振り払うように瞼を伏せると、しだいに密事の音が遠ざかっていき、また様子が変わった。
なかなか頭から離れない残響に怯みつつも目を開けると、今度は、普段どおりの風澄が、すぐそばに居た。
俺を見るや、輝くばかりの笑顔で抱きついてくる。
つい先ほどまで目にしていた地獄の如き光景が嘘のよう。
そう、これが、俺の知っている風澄だ。
嬉しくて、抱きついてくる彼女を受け止め、頭を撫でる。
心地良さそうに頬を寄せる彼女の額に、そっとキスをした。
「……ねぇ、キスして?」
「してるだろ? ほら」
今度は、くすぐったそうに避ける彼女の頬に口唇を落とす。
「もぉ……わかってるくせに」
くすくす笑って、風澄は自ら口唇を重ねた。
戯れるようにわずかに重ねては離れ、重なりきらないぎりぎりの距離で触れ……そんなキスを幾度も繰り返した頃、やっと深いくちづけを交わす。
俺の腕が彼女の腰を、彼女の腕が俺の首を抱き寄せ、お互いの体温を感じながら。
彼女からキスを求められるのも、彼女からキスをするのも、既に一切ではなかった。
今日、初めて味わう彼女の口唇は、夢の中でもたまらなく甘美で。
交わせば結局、溺れてしまう。
さっきは、キスできなくても構わないと思っていたくせに、現金なものだ。
一方が離れようとすればもう一方が引き止めて、より深くをとねだって、それに応えて。
押しては引いてと、探り合うように、キスを何度も何度も繰り返す。
ひとしきり堪能したところで、やっと口唇を離した。
「……ねぇ……して? お願い」
なにをして欲しいのかなんて、聞きはしない。
はっきりと言わないからこそ、その意味はひとつ。
「随分と積極的だな、風澄……」
見つめ合いながら、長い髪に指を絡ませ、優しく撫でる。
それ以上のことなんてしないと言ったくせに、舌の根も乾かぬうちにその気になっているのだから、救いようがない。
「だって、私をそんな女にしたのはあなたでしょう?」
「……それは確かにな」
明晰夢ではなかったが、風澄を抱く夢なら初めてじゃない。知り合う前も、知り合った後も、何度も見た。もはや現実でも珍しくない行為。それでも今日は触れられない。本物の彼女と抱き合うのが一番に決まっているけれど、せめて。
あぁ、だが、この夢の中でなら、無粋な隔てすら無く、彼女と身体を繋げられる。決して経験することのないであろう未知の感覚すら味わえるのかもしれない。それどころか、俺を愛する言葉だって聞けるのかもしれない。
先ほど目にしたあの男との行為よりも、遥かに熱く。
なんて甘美な誘惑。そんな空虚な喜びなど求めていたわけじゃないのに。
本能が、これは夢なのだからと囁く。
頭の中を、不埒な妄想が浸食していく。
「あなたのせいなんだから……責任、取ってくれるわよね……?」
もちろん、願ってもないよ――と、
そう言おうとした、その時。
「ね――抱いて……宗哉」
「…………!」
――宗、哉……?
その一言が――俺の心臓を握りつぶした。
「宗哉? どうしたの?」
目の前には、不思議そうな表情で俺を見上げる風澄。
――どくん。
自分の動悸が聞こえる。心臓が早鐘を打ち始める。
鼓動が頭の中で鳴り響く。
恐怖と言っても良いほどの、背筋を駆け上る悪寒。
視界が――揺らいでいく。
これは熱のせいじゃない。
夢だ。これは夢だ。現実じゃない。
なのに世界が、均衡を失って――
「違う……」
俺はただ、それだけを呟いた。
「違うよ、風澄……」
頭を振って、ただ、否定の言葉を。
「風澄、俺は『宗哉』じゃない――昂貴だよ!」
「……何を言っているの、宗哉?」
それは、いつも目にしている彼女だった。
ソウヤの三文字をコウキに変えれば、なにひとつ変わりない。
けれど、その三文字が、自分を自分たらしめているのだと――
「『コウキ』って、誰? 宗哉のお友達?」
誰……!?
俺は目の前に居るじゃないか。なのに知らないと言うのか?
それなら今まで、あんなにも触れ合った時間はなんだったと――?
「だから、俺だよ! 高原昂貴だ! 七月、教授に紹介されて知り合って……」
「憶えが無いけど……」
首を傾げ、平素と変わらない表情で、彼女は目の前の俺の存在を否定する。
でも……
初めて風澄を抱いたあの日、俺は、自分を『宗哉』と呼んでいいと言ったのだ。
二度目の行為を交わした時も、俺は、宗哉のことを考えろと言ったのだ。
どちらにしろ、風澄は俺なんか見ていないのだから、それでも構わないと思った。
正直、俺で本当に感じてくれるだろうかという怯えもあったし。
それに、たとえ頭の中で誰を思い描いていようと、風澄を抱いているのは、他の誰でもない、俺なのだから。
――だけど、それでも……!
「やめろ……やめてくれ、風澄っ!」
それでも――嫌だ。
そんなことには、もう耐えられない。
彼女にとって最も近しい存在であるという喜びを知ってしまった今は。
俺はいつからこんなに貪欲になった?
三年間、ただ、その傍に居られる日が来ることを願っていたんじゃなかったのか。
それが叶った現在を幸せだと思う一方で、それで充分だと言う自分に欺瞞を感じる。
これ以上など望まないと言いながら、いつだって、それ以上を望んでる。
風澄の、
たったひとりの存在に、なりたいと。
「なんの冗談か知らないけど、なぁ……風澄、頼むから……」
だって、風澄、
普通にして欲しいと言ったのは、おまえじゃないか。
おまえは、あんなに甘い声で、俺を呼んだじゃないか。
おまえは、あんなに深く、俺を求めたじゃないか。
俺の腕の中で、俺だけを見ていたのは、他でもない、風澄自身じゃないか……!
「俺が何か風澄の気を悪くするようなことをしたなら、謝るから……!」
だから風澄、
どうか、これだけは……!
「……え?」
きょとんとした顔で、俺を見上げる目は、
「私、なにもふざけてなんかいないわよ?」
首を傾げて、俺を見上げる目は、
「宗哉こそ、どうしたの? なんだか変よ?」
屈託のない笑顔で、俺を見上げる目は、
いつもと、なにひとつ変わらないのに、
その目に映る『俺』だけが違う。
「じゃあ、俺は一体、風澄のなんなんだ……?」
「やぁだ、なに言ってるの宗哉? 私の彼氏に決まってるじゃない」
さも当然のことのように、彼女は笑顔で言ってのけた。
「私が大学に入ってすぐに付き合い始めたから、もう三年になるのよね」
こうして考えてみると、意外と早いものよねと、彼女は笑う。
現実の風澄にとって、辛くてしかたがなかったはずの三年間は、目の前の風澄にとっては、幸せな恋の記憶。
「いろいろなことがあったわよね……ほら、付き合い始める前なんて、私、宗哉があの子とつきあってるんだって思い込んじゃって……」
『あの子』とは、かつて風澄に聞いた『宗哉』の彼女のことだろうか。現実の『宗哉』にとって、世界で最も大切な、たったひとりの存在だという女性。
「今、こんなに幸せなのに、時々不安になるの……」
心細そうに、ぽつりと彼女は呟く。
「だって、もし、あれが現実になったらって思ったら……!」
それこそが……それこそが、紛れもない現実じゃないか……!
そう叫びたい気持ちだった。
なのに、目の前の彼女は、俺が見たことも無いほど幸せそうに微笑む。
その輝きを見ては、とても言葉にできない。
夢であろうと、心がぐらつく。
俺は、風澄の笑顔が好きだった。
笑っていて欲しかった。
彼女の本当の笑顔を……心からの笑顔を、見たいと思っていた。
たとえ、それが俺の腕の中でなかったとしても、
風澄の幸せならば、俺は……。
だけど。
言葉にはできなくとも、せめてこの想いが伝わるようにと願って、
あんなにも慈しんだ女性を、他の男に……?
そんなこと、できるはずがない。
鎖で繋いで、縛りつけてでも、離したくない。決して。
でも――。
風澄は、自らの矜持のために、そして、宗哉の幸せのために、身を引いた。
俺は、彼女を護りたいと思っていた。
少なくとも、風澄が俺の隣に在り、一番近しい人間として俺を選んでくれるうちは。
じゃあ――俺が、風澄の幸せを邪魔しているとしたら?
宗哉が風澄を選ぶことはありえない――それこそが、俺の希望の源だった。
だからこそ、わずかな可能性があったのだ。
もしかしたら、振り向いてくれるかもしれない。いつか、風澄が俺を選んでくれる日が来るかもしれない。
どれほど時間がかかっても構わない。
その日が来る可能性があるのなら。
宗哉が風澄を選ばなかったから、俺が風澄の傍に居られる。
宗哉が風澄を選んでいたら、俺は男として認識すらしてもらえなかった。
そんなこと、わかっていたはずなのに。
「……でも、もう、そんなこと、不安に思う必要、ないのよね?」
全く憂慮する必要のない過去の勘違いを、未だに引きずっている自分に苦笑しているのだろうか。さらりと言い切って、彼女は微笑む。
目の前に居る俺の葛藤など、気づきもせずに。
「もうすぐ大学も卒業だもの。やっと結婚できるのね、私たち」
俺を見て『私たち』と言うくせに、その目が映しているのは『俺』じゃない。
それこそが、幸せで幸せでしかたがない、その微笑みの理由――。
「ほら、結婚式の日程、卒業してすぐでしょ。ほんとはね、社会に出ずに結婚しちゃっていいのかなぁって思うこともあるんだけど……それ以上に嬉しいの、私……」
そうか――
風澄が美術史学者を目指したのは、宗哉のことがあったから。
それがなければ、この道を選ぶことは無かったかもしれない。
いや、選んでいようがいまいが、風澄の優先順位は確実に変わるだろう。
大学院への進学も、学者になる目標も、天秤に掛けるまでもない。
あれほど一途に誰かを想う彼女が、世界で最も大切な存在を選ばないはずがない。
きっと、その傍らに在ることを第一に望むだろうから――。
これは、夢であって、夢じゃない。
『宗哉』が風澄を選んでいた時の、もうひとつの未来。
だけど、それはありえないことだ。そう信じてきた。
でも、本当にそうだろうか?
この先の未来で、『宗哉』が風澄を選ぶことが無いと、なぜ言い切れる?
いや、大切なのは可能性の有無じゃない。
風澄がありえないと思っているんだから、それで良いじゃないか。
二度と逢わない。関わらない。そのために、風澄は全てを断ち切ったんだ。
だから、いいじゃないか。
たとえ『宗哉』が、本当は風澄を想っていたとしても。
だが……今、風澄の目の前に『宗哉』が現れないという保証が、どこにある?
風澄に逢うつもりがなくとも、『宗哉』が逢いに来たら?
――俺の幸せは、
もはや日常だったはずの俺の幸福は、
薄氷の上に在るも同然。
いつ崩れるとも知れぬ、限りなく脆いもの。
――それが、この歪んだ関係の代償――。
もしも、彼女の言葉が全て現実で、ただ、名前だけが違ったら。
そして、それが俺の名前ならば。
俺はきっと狂喜しただろう。
たとえ夢であっても、俺は喜んだに違いない。
なのに、夢の中でさえ、俺は選ばれない。
何故――それが俺じゃない?
夢だと解っているのに――どうして、こんなに膝が震える?
「ね、そんな、コウキとか言うひとのこと、今はいいじゃない」
俺の襟元のボタンを解き、彼女はそっと俺の肌を撫でた。
さっき、汗だくの俺のパジャマを脱がせて拭いた時と同じ行為なのに、そこにある意図は全く違う。
明らかな、性行為への誘惑。
俺だって、普段ならきっと喜んで彼女の誘いに乗るに違いない。
風澄から求めてくれたのだから。
そう――彼女が見つめている存在が、他の誰でもない、俺ならば。
『昂貴なんて、知らない』
『そんなひと、どうでもいい』
『昂貴』なんて、要らない――そう言われた気がした。
そうだ。
風澄は、
俺のことなんか――。
「ふたりきりなんだもの……ね?」
これが――俺の望んだこと。
あの日、宗哉と呼んでいいと彼女に言ったのは俺のほうじゃないか。
宗哉の代わりでもいいからそばに居たいと思ったのは、俺のほうじゃないか。
なのに、なにを怯える? なにに震える?
「ねぇ、抱いて――宗哉」
――それでも。
それでも、嫌だ。
こんなのは……嫌だ――!
三年前の彼女が、ベンチに座って呆然と空を見上げている。
俺はその目の前に立っていたのだけれど、まるで高い壁に遮られているかのように近づけなかった。
できることと言えば、立ち尽くしたまま彼女を見つめるだけ。
その耳に言葉を伝えることも、その表情を変えることもできなかった。
あの日と同じように。
それは過去の光景。
この心を一瞬にして奪った、俺のファム・ファタールと巡り合った時。
間違いなく、俺の人生の分岐点。
この日から、世界すらも変わった。
しかし、これまた随分と懐かしい夢だな。
そう思ったところで、やっと自覚があることに気づく。
――あぁ、明晰夢か。
珍しいこともあったものだ。
彼女と知り合うまで、この時のことを思い出すのは日常茶飯事だったし、彼女の夢を見ることもあった。けれど、この日のことを夢に見たことは滅多になかったのに。
蘇らせる努力すら必要としない、それは未だに鮮やかな記憶。
懐かしい彼女の姿を、じっと眺める。
悲しげで、寂しげで、だけど決して泣いてはいない。そのことにこそ心が痛む。見ている俺の胸まで締め付けられるほどの、身を切るような切なさ。
あの頃はわからなかった彼女の表情の理由を、今はもう、知ってしまっているから。
彼女自身は、俺のほうを見てはいないけれど。
風澄。
話をしたかった。
笑って欲しかった。
名前を呼びたかった。
名前を呼んで欲しかった。
俺がここにいることを、知って欲しかった。
……触れたかった。
五メートルにも満たない距離が、遥か彼方に思えたあの日。
それは三年の時を経て、一ミリの隙間さえ消えてなくなった。
心の距離さえも、知り合った頃と今とでは、まるで違う。
歪んだ形で始まった関係なのに。
思えば、俺と風澄の専門であるバロック時代――この『バロック』とは、本来、バロック・パールのことを指す。本来、真球を思わせる丸い玉であるはずの真珠の中で、捩れを有するもの。すなわち『歪んだ真珠』のことだ。
人の手による加工を一切必要とせず、ありのままの姿をもって至高の美を有する存在の、言わば、なり損ない……。
バロックの象徴――歪み、捩れ。
ルネサンスの技巧の果てに、マニエリスムを経て、辿り着いた境地。それがバロックだ。
風澄も俺も、理由は違えど、その歪みに惹かれた者同士。その言葉は、まるでこの関係を象徴しているようで、知り合った頃、皮肉さに口許まで歪んだものだ。
けれど。
真珠にありうべからざる歪みと捩れ。
おそらくは、美を損なうものとして敬遠されるのが常だろう。
だが、それは、全く同じものが、この世にひとつとして存在しない証でもある。
玉に瑕などとも言うけれど、その瑕を持つ玉にこそ心を奪われてしまったなら、もはや玉になど惹かれない。
その身に棘を有する薔薇にこそ惹かれる理由と、それはどこか似て。
歪みにすら美を見出し、愛さずにはいられないのだと。
そして、いかに歪み、捩れていようと、それでも美しく在ろうと、斯く在りたいと、自らの存在をもって自らの尊厳を護ろうとするが如き在り方にこそ、並び立つ存在すら赦さない、孤高の美しさが在るのだと。
その気高くも稀有な美しさにこそ、魅了される。
もしかしたら、そんなところにあったのかもしれない。
俺がバロック時代に惹かれた理由と、風澄に惹かれた理由は。
彼女の姿を、再び眺める。
俺が初めて恋に落ちた瞬間。
三年前、この心に芽生えた想いは、募り続けて今に至る。
かすみ。
それは、たった三文字の、この世で一番美しく、愛しい存在をあらわす言葉。
今なら、あの頃したくてもできなかった全てのことができるのに。
……いや、ここでなら、三年前の彼女に届くのだ。
苦笑して、そっと手を伸ばす。
触れたら途惑うだろうか。抱きしめたら怒るだろうか。それとも。
すると。
「!」
一歩踏み出した瞬間、三年前の彼女を掻き消すように、いきなり、景色が変わった。
今度は暗闇に包まれる。
彼女が三年間ずっと悩まされ続けてきたという悪夢は、こんな感じだろうか……。
しかし、真っ暗なままというのはどうにも落ち着かないし、つまらない。だが、明晰夢なら操作も可能なのではないかと、ひたすら風澄の姿を思い浮かべてみる。
なにしろ今日は、現実の風澄と口唇でのおやすみのキスすらできないのだから。夢の中でくらい許してくれよな、と呟いて、彼女があらわれるのを待つ。
すると、ふと、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。思わず振り返ると、そこには。
「風澄……」
それは、三年前の記憶よりも、だいぶ幼い印象の風澄。写真すら目にしたことがないのに、その姿は、妙にはっきりしていた。
願いどおり彼女が出てきてくれたけれど、俺は嬉しいとは思わなかった。
なぜなら、風澄はひとりではなかったから。
その彼女と手を繋ぎ、楽しそうに話をしているのは――
「……杉野……」
それは高校二年生の秋から三年生の夏までの約一年間、すなわち『恋人同士』だった時の、風澄と杉野だった。
俺が風澄の存在すら知らなかった頃。
――これが、過去の風澄。
あの腕に、抱かれたのか。
あいつと視線を絡めて、あいつの腕の中に居た日が、確かにあったんだ。
どうして、その頃一緒にいられなかったんだろう。
どうして、もっと早く出逢えなかった?
もしも、同じ年に生まれて、同じ環境で生きて来られたなら。
そうしたら、他の男になんて目を向けさせなかったのに。
そうしたら、あんな辛い想いはさせなかったのに。
彼女の昔のことなど気にしていなかったはずなのに、それでも時折り、口惜しいような、やるせない気持ちになる。
遡行することなど叶うはずのない、時の流れ。無意味な仮定と、無益な思考。そんなものに身を委ねるほど馬鹿なことはないと思いながらも。
考えても仕方のないことだ。けれど……。
だが、これは過去だ。
そりゃあ、なかったことにはできないけれど、未来にはありえない。風澄自身が明言してくれたのだから。俺がそれを信じなくてどうする? だいたい、明晰夢のくせに、これはないだろう。現実ならば致し方ないとしても、俺はMっ気なんかゼロだってのに。せっかく出てきてくれた風澄には悪いけど、こんなのはごめんだ。
俺が逢いたいのは、やっぱり『今』の風澄なんだ。
しかし、たとえ夢といえど、過去には確実に存在した時間なのだと思うと、やっぱり複雑だ。第一、見ていて気分の良い光景じゃない。
こんな気持ちにさせられたのでは、キスだけじゃ足りないな。覚悟しろよと居もしない風澄に呟くと、再び景色が掻き消されていく。
ほっとしたのも束の間、目の前に展開されていたのは、これまでを遥かに上回る、地獄のような光景だった。
ベッドに広がるのは、緩やかなウェーヴを描く、明るい栗色の長い髪。
色白の肌は、悦びの中、淡い薔薇色に染まり、
その腕は、自らを慈しむ相手を包み込む。
それは確かに、俺が想像したとおりの『今』の風澄だった。
二十一歳の、リアルタイムの彼女。
だが。
「な……っ!」
その風澄を組み敷いているのは、明るい色の髪をした、やや細身の男。
どこか日本人らしからぬ、中世的な印象の顔立ち。
何度も見た、あの絵と同じ顔。
だが、なによりの衝撃は――その表情が、あの絵とはまるで違っていたことだった。
その瞳に映るのは、腕の中に在る女性だけ。いや、たとえ視線を離しても、心は彼女に占められて、他者の入り込む余地など全く無いのだろう。そのことが容易に想像できるほど、その目は彼女だけに向けられていた。
そんな自身が、穏やか過ぎるほどの優しい微笑みを浮かべていることなど、きっと、まるで意識していないだろう。
ただ、焦がれた存在に見惚れているだけ。
好き、大好き、と繰り返して、夢中でキスに応える彼女。
それは俺との行為においては決して口にされることのない言葉。
男が耳元で囁くのは、きっと風澄の名前。
肌を撫でる指も慈しむ口唇も、全てが深い愛情に満ちて。
愛しくて、ただ愛しくて、まるで、彼女がこの世に在り、隣に在る、そのことだけで至福の喜びが約束されているかのような。
『風澄さえ居れば、俺はもう、他になにも要らない』
そんな想いが、伝わってくる。
――こんなの『セックス』じゃない。
そんな軽い言葉で、表現できるわけがない。
『性行為』なんて乾いたものじゃない。『寝る』と言うほど浅くない。まして『えっち』なんて生温い言葉、相応しいわけがない。
知っている限りの性交渉をあらわす言葉が、全て異質に思えて、
頭に残ったのは、たったひとつ。
『抱く』という言葉だけ。
その、現実を無視するほどに詩的で甘やかな、言葉そのままの行為――。
性欲に突き動かされ、本能のままに交わすはずの、この世で最も原始的な行為が、
愛情を確かめ合い、生きる喜びを分かち合うための、
神聖な儀式のようにさえ、思えてくる。
「あぁっ……ん、あ、あっ……んんんっ……!」
そして、自分を抱きしめる腕に縋りつき、身体を仰け反らせ、
脚を広げ、胎内の奥深くまで受け容れて、
甘い声で喘ぎながら彼女が呼んだ名前は――宗哉。
俺の腕の中で嬌声をあげて、
俺の名前を呼ぶ時と同じ声で。
――これが、風澄の本当の望み。
俺なんかではなく。
だから……どんなに早く出逢えていたって、同じなんだ。
心を捧げた『宗哉』と、身体を繋いだ俺の、
どちらが風澄にとって大きな存在なんだろう。
彼女の心の中で、『宗哉』の占める割合と、俺の占める割合を比較したら、
そうしたら、どうなる?
出逢った時など論外だ。行為を交わした後でも負けている。
――いや、きっと、今でも……。
でも、これは過去じゃない。現実でもない。
知っている。風澄とこの男の間には、なにもなかったと。
――だが、未来には――?
三年前、風澄の告白が受け容れられることはなかった。
それは確かな事実なのだろう。
けれど、それは『宗哉』が風澄に恋心を抱いていなかったという証拠になるのだろうか?
本当に『宗哉』は、風澄のことをなんとも思っていなかったのか?
こんなにも心を惹きつけてやまない存在に、愛情を欠片も傾けなかったのか?
風澄を愛しいと、思わなかったのか――?
目の前で愛し合うふたりは、どこからどう見たって、相思相愛の恋人同士なのに……。
いや、違う。あれは風澄を抱いている俺だ。『宗哉』じゃない。
あれは俺の抱き方。心から風澄を慈しむ時の愛し方と同じ。
俺の中のわずかな恐怖心が、自分自身をあの男に置き換えただけ。
――明晰夢のはずなのに。
もう、キスなんてできなくても構わない。それ以上のことなんてしない。
だから、せめて、俺の知っている風澄に逢いたい。
目の前の光景を振り払うように瞼を伏せると、しだいに密事の音が遠ざかっていき、また様子が変わった。
なかなか頭から離れない残響に怯みつつも目を開けると、今度は、普段どおりの風澄が、すぐそばに居た。
俺を見るや、輝くばかりの笑顔で抱きついてくる。
つい先ほどまで目にしていた地獄の如き光景が嘘のよう。
そう、これが、俺の知っている風澄だ。
嬉しくて、抱きついてくる彼女を受け止め、頭を撫でる。
心地良さそうに頬を寄せる彼女の額に、そっとキスをした。
「……ねぇ、キスして?」
「してるだろ? ほら」
今度は、くすぐったそうに避ける彼女の頬に口唇を落とす。
「もぉ……わかってるくせに」
くすくす笑って、風澄は自ら口唇を重ねた。
戯れるようにわずかに重ねては離れ、重なりきらないぎりぎりの距離で触れ……そんなキスを幾度も繰り返した頃、やっと深いくちづけを交わす。
俺の腕が彼女の腰を、彼女の腕が俺の首を抱き寄せ、お互いの体温を感じながら。
彼女からキスを求められるのも、彼女からキスをするのも、既に一切ではなかった。
今日、初めて味わう彼女の口唇は、夢の中でもたまらなく甘美で。
交わせば結局、溺れてしまう。
さっきは、キスできなくても構わないと思っていたくせに、現金なものだ。
一方が離れようとすればもう一方が引き止めて、より深くをとねだって、それに応えて。
押しては引いてと、探り合うように、キスを何度も何度も繰り返す。
ひとしきり堪能したところで、やっと口唇を離した。
「……ねぇ……して? お願い」
なにをして欲しいのかなんて、聞きはしない。
はっきりと言わないからこそ、その意味はひとつ。
「随分と積極的だな、風澄……」
見つめ合いながら、長い髪に指を絡ませ、優しく撫でる。
それ以上のことなんてしないと言ったくせに、舌の根も乾かぬうちにその気になっているのだから、救いようがない。
「だって、私をそんな女にしたのはあなたでしょう?」
「……それは確かにな」
明晰夢ではなかったが、風澄を抱く夢なら初めてじゃない。知り合う前も、知り合った後も、何度も見た。もはや現実でも珍しくない行為。それでも今日は触れられない。本物の彼女と抱き合うのが一番に決まっているけれど、せめて。
あぁ、だが、この夢の中でなら、無粋な隔てすら無く、彼女と身体を繋げられる。決して経験することのないであろう未知の感覚すら味わえるのかもしれない。それどころか、俺を愛する言葉だって聞けるのかもしれない。
先ほど目にしたあの男との行為よりも、遥かに熱く。
なんて甘美な誘惑。そんな空虚な喜びなど求めていたわけじゃないのに。
本能が、これは夢なのだからと囁く。
頭の中を、不埒な妄想が浸食していく。
「あなたのせいなんだから……責任、取ってくれるわよね……?」
もちろん、願ってもないよ――と、
そう言おうとした、その時。
「ね――抱いて……宗哉」
「…………!」
――宗、哉……?
その一言が――俺の心臓を握りつぶした。
「宗哉? どうしたの?」
目の前には、不思議そうな表情で俺を見上げる風澄。
――どくん。
自分の動悸が聞こえる。心臓が早鐘を打ち始める。
鼓動が頭の中で鳴り響く。
恐怖と言っても良いほどの、背筋を駆け上る悪寒。
視界が――揺らいでいく。
これは熱のせいじゃない。
夢だ。これは夢だ。現実じゃない。
なのに世界が、均衡を失って――
「違う……」
俺はただ、それだけを呟いた。
「違うよ、風澄……」
頭を振って、ただ、否定の言葉を。
「風澄、俺は『宗哉』じゃない――昂貴だよ!」
「……何を言っているの、宗哉?」
それは、いつも目にしている彼女だった。
ソウヤの三文字をコウキに変えれば、なにひとつ変わりない。
けれど、その三文字が、自分を自分たらしめているのだと――
「『コウキ』って、誰? 宗哉のお友達?」
誰……!?
俺は目の前に居るじゃないか。なのに知らないと言うのか?
それなら今まで、あんなにも触れ合った時間はなんだったと――?
「だから、俺だよ! 高原昂貴だ! 七月、教授に紹介されて知り合って……」
「憶えが無いけど……」
首を傾げ、平素と変わらない表情で、彼女は目の前の俺の存在を否定する。
でも……
初めて風澄を抱いたあの日、俺は、自分を『宗哉』と呼んでいいと言ったのだ。
二度目の行為を交わした時も、俺は、宗哉のことを考えろと言ったのだ。
どちらにしろ、風澄は俺なんか見ていないのだから、それでも構わないと思った。
正直、俺で本当に感じてくれるだろうかという怯えもあったし。
それに、たとえ頭の中で誰を思い描いていようと、風澄を抱いているのは、他の誰でもない、俺なのだから。
――だけど、それでも……!
「やめろ……やめてくれ、風澄っ!」
それでも――嫌だ。
そんなことには、もう耐えられない。
彼女にとって最も近しい存在であるという喜びを知ってしまった今は。
俺はいつからこんなに貪欲になった?
三年間、ただ、その傍に居られる日が来ることを願っていたんじゃなかったのか。
それが叶った現在を幸せだと思う一方で、それで充分だと言う自分に欺瞞を感じる。
これ以上など望まないと言いながら、いつだって、それ以上を望んでる。
風澄の、
たったひとりの存在に、なりたいと。
「なんの冗談か知らないけど、なぁ……風澄、頼むから……」
だって、風澄、
普通にして欲しいと言ったのは、おまえじゃないか。
おまえは、あんなに甘い声で、俺を呼んだじゃないか。
おまえは、あんなに深く、俺を求めたじゃないか。
俺の腕の中で、俺だけを見ていたのは、他でもない、風澄自身じゃないか……!
「俺が何か風澄の気を悪くするようなことをしたなら、謝るから……!」
だから風澄、
どうか、これだけは……!
「……え?」
きょとんとした顔で、俺を見上げる目は、
「私、なにもふざけてなんかいないわよ?」
首を傾げて、俺を見上げる目は、
「宗哉こそ、どうしたの? なんだか変よ?」
屈託のない笑顔で、俺を見上げる目は、
いつもと、なにひとつ変わらないのに、
その目に映る『俺』だけが違う。
「じゃあ、俺は一体、風澄のなんなんだ……?」
「やぁだ、なに言ってるの宗哉? 私の彼氏に決まってるじゃない」
さも当然のことのように、彼女は笑顔で言ってのけた。
「私が大学に入ってすぐに付き合い始めたから、もう三年になるのよね」
こうして考えてみると、意外と早いものよねと、彼女は笑う。
現実の風澄にとって、辛くてしかたがなかったはずの三年間は、目の前の風澄にとっては、幸せな恋の記憶。
「いろいろなことがあったわよね……ほら、付き合い始める前なんて、私、宗哉があの子とつきあってるんだって思い込んじゃって……」
『あの子』とは、かつて風澄に聞いた『宗哉』の彼女のことだろうか。現実の『宗哉』にとって、世界で最も大切な、たったひとりの存在だという女性。
「今、こんなに幸せなのに、時々不安になるの……」
心細そうに、ぽつりと彼女は呟く。
「だって、もし、あれが現実になったらって思ったら……!」
それこそが……それこそが、紛れもない現実じゃないか……!
そう叫びたい気持ちだった。
なのに、目の前の彼女は、俺が見たことも無いほど幸せそうに微笑む。
その輝きを見ては、とても言葉にできない。
夢であろうと、心がぐらつく。
俺は、風澄の笑顔が好きだった。
笑っていて欲しかった。
彼女の本当の笑顔を……心からの笑顔を、見たいと思っていた。
たとえ、それが俺の腕の中でなかったとしても、
風澄の幸せならば、俺は……。
だけど。
言葉にはできなくとも、せめてこの想いが伝わるようにと願って、
あんなにも慈しんだ女性を、他の男に……?
そんなこと、できるはずがない。
鎖で繋いで、縛りつけてでも、離したくない。決して。
でも――。
風澄は、自らの矜持のために、そして、宗哉の幸せのために、身を引いた。
俺は、彼女を護りたいと思っていた。
少なくとも、風澄が俺の隣に在り、一番近しい人間として俺を選んでくれるうちは。
じゃあ――俺が、風澄の幸せを邪魔しているとしたら?
宗哉が風澄を選ぶことはありえない――それこそが、俺の希望の源だった。
だからこそ、わずかな可能性があったのだ。
もしかしたら、振り向いてくれるかもしれない。いつか、風澄が俺を選んでくれる日が来るかもしれない。
どれほど時間がかかっても構わない。
その日が来る可能性があるのなら。
宗哉が風澄を選ばなかったから、俺が風澄の傍に居られる。
宗哉が風澄を選んでいたら、俺は男として認識すらしてもらえなかった。
そんなこと、わかっていたはずなのに。
「……でも、もう、そんなこと、不安に思う必要、ないのよね?」
全く憂慮する必要のない過去の勘違いを、未だに引きずっている自分に苦笑しているのだろうか。さらりと言い切って、彼女は微笑む。
目の前に居る俺の葛藤など、気づきもせずに。
「もうすぐ大学も卒業だもの。やっと結婚できるのね、私たち」
俺を見て『私たち』と言うくせに、その目が映しているのは『俺』じゃない。
それこそが、幸せで幸せでしかたがない、その微笑みの理由――。
「ほら、結婚式の日程、卒業してすぐでしょ。ほんとはね、社会に出ずに結婚しちゃっていいのかなぁって思うこともあるんだけど……それ以上に嬉しいの、私……」
そうか――
風澄が美術史学者を目指したのは、宗哉のことがあったから。
それがなければ、この道を選ぶことは無かったかもしれない。
いや、選んでいようがいまいが、風澄の優先順位は確実に変わるだろう。
大学院への進学も、学者になる目標も、天秤に掛けるまでもない。
あれほど一途に誰かを想う彼女が、世界で最も大切な存在を選ばないはずがない。
きっと、その傍らに在ることを第一に望むだろうから――。
これは、夢であって、夢じゃない。
『宗哉』が風澄を選んでいた時の、もうひとつの未来。
だけど、それはありえないことだ。そう信じてきた。
でも、本当にそうだろうか?
この先の未来で、『宗哉』が風澄を選ぶことが無いと、なぜ言い切れる?
いや、大切なのは可能性の有無じゃない。
風澄がありえないと思っているんだから、それで良いじゃないか。
二度と逢わない。関わらない。そのために、風澄は全てを断ち切ったんだ。
だから、いいじゃないか。
たとえ『宗哉』が、本当は風澄を想っていたとしても。
だが……今、風澄の目の前に『宗哉』が現れないという保証が、どこにある?
風澄に逢うつもりがなくとも、『宗哉』が逢いに来たら?
――俺の幸せは、
もはや日常だったはずの俺の幸福は、
薄氷の上に在るも同然。
いつ崩れるとも知れぬ、限りなく脆いもの。
――それが、この歪んだ関係の代償――。
もしも、彼女の言葉が全て現実で、ただ、名前だけが違ったら。
そして、それが俺の名前ならば。
俺はきっと狂喜しただろう。
たとえ夢であっても、俺は喜んだに違いない。
なのに、夢の中でさえ、俺は選ばれない。
何故――それが俺じゃない?
夢だと解っているのに――どうして、こんなに膝が震える?
「ね、そんな、コウキとか言うひとのこと、今はいいじゃない」
俺の襟元のボタンを解き、彼女はそっと俺の肌を撫でた。
さっき、汗だくの俺のパジャマを脱がせて拭いた時と同じ行為なのに、そこにある意図は全く違う。
明らかな、性行為への誘惑。
俺だって、普段ならきっと喜んで彼女の誘いに乗るに違いない。
風澄から求めてくれたのだから。
そう――彼女が見つめている存在が、他の誰でもない、俺ならば。
『昂貴なんて、知らない』
『そんなひと、どうでもいい』
『昂貴』なんて、要らない――そう言われた気がした。
そうだ。
風澄は、
俺のことなんか――。
「ふたりきりなんだもの……ね?」
これが――俺の望んだこと。
あの日、宗哉と呼んでいいと彼女に言ったのは俺のほうじゃないか。
宗哉の代わりでもいいからそばに居たいと思ったのは、俺のほうじゃないか。
なのに、なにを怯える? なにに震える?
「ねぇ、抱いて――宗哉」
――それでも。
それでも、嫌だ。
こんなのは……嫌だ――!
To be continued.
2010.08.20.Fri.
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