Dolce Vita

10.Annex -You are My Madonna- 前編


Line
* Kouki *
 ……不覚だ。

 風澄の住んでいるマンションの一室。場所を明確にするならばベッドルーム。
 現在、そこに設(しつら)えられたベッドを占領しているのは、所有者本人ではなく、こともあろうに、この俺である。
 ぼんやりと寝室の天井を見上げていると、測定の完了を知らせる電子音が鳴った。普段の自分からは考えられないほど緩慢な動作で体温計を抜き取り、覗き込む。その小さな表示窓に並ぶ文字は『37.8℃』だった。
 確かに、寝る前にちょっと寒気がするなとは思ったけど、まさか夏風邪をひくだなんて。
 そもそも風邪なんて何年ぶりだろう。
 ……しかも風澄に看病されてしまうとは……シクシク。情けない……。

 そういえば、ここ最近はろくに運動していなかったもんな。
 身体がなまっているのかもしれない。
 ベッドの上では以前と比較にならないほど動いていたけれど。なんてな。

 それにしても、昨日の風澄はいつにも増して可愛かった……いやマジで。

 ちょっと出かけていただけなのに、あんな心細そうな目で俺を見上げて。
 タオルケットを巻いただけの無防備な姿が、たまらなくいとおしくて。
 その上、あんな誘いにも応えてくれるなんて。
 可愛くてしかたなくて、夢中で抱きしめた。

 なのに今はこのていたらく……。

「昂貴、起きてる?」
「……おぎでる」
 起きてる、と言ったつもりだったんだが、口から出たのは濁音交じりの台詞。咳と鼻水はあまりないが、咽喉はガラガラだ。
「どう? 何度だった?」
 ベッドに座ると、彼女は心配そうな顔で、俺の額に手を当てた。少しひんやりとした体温が心地よい。しかし、さすがに答える気力が無かったので、体温計を渡すと、風澄は手に取って数字を読んだ。
「平熱が三十六度五分とはいえ、やっぱりちょっと高いね。身体はどう?」
「だるい……あと、頭痛も……」
 本調子ならば、風澄を押し倒して『これくらい元気』とでも言うところなのだが。
「病院に行ったほうがいいかしら?」
「七度台だし、さすがにそれは面倒だな……」
「じゃあ、今日は一日様子を見ることにして……とりあえず、なにか食べるよね? お薬も飲まなきゃいけないし」
「ああ、軽く、頼む……」
 なにを隠そう、起きぬけでばったり倒れてしまったんだよな。はぁ。情けない。
 まぁ、風澄の手料理が食べられるなら役得と思おうか、などと考えていたら彼女は。
「チキンスープでいい?」
 そんなことを笑顔で言うものだから、俺はつい苦笑してしまった。
 さすがだなぁ、本当。
「できれば、今はおかゆのほうがいいなあ」
「了解。卵は入れる?」
「あぁ、良いな、それ……」
「待っててね、すぐ作るから」
 風澄も朝食を済ませていないのに、いいんだろうか。しかし、まだベッドから出る気力はないし、体調の悪い人間を放っておける彼女でもない。ここは好意に甘えておこう。
「……本当は風澄を食べたーい……」
 背を向けて部屋を出る彼女の後ろ姿を眺めつつ、ぼんやりと呟いてみたのだが、聞こえたかどうかはわからなかった。

 * * * * *

「できたよー」
 思いのほか早く彼女は戻ってきた。小さなトレイにガラスの蓋つきの耐熱の器と小皿、木の匙が乗っている。調味料に醤油まで。なんだか手馴れてるな。自分でもこうして作っていたのかもしれない。
 風澄はまず、ベッドサイドの姿見の前に、部屋の隅に置いてあった小さな丸テーブルと椅子を運び、そこへトレイを載せた。これはもともと彼女が次の日に持っていく荷物などを揃えておくためのもので、俺のパジャマや部屋着、それから、念のため、緊急の際でも慌てなくて済むよう、ふたりぶんのバスローブを置いているのだが、ちょうど良いから食卓代わりにしたんだろう。
 この部屋の寝室は広い。シングルベッドなのがもったいないほど。勉強部屋が別にあるせいか、物が少ない上に、クローゼットはウォークインタイプだし。あとはライトを置いているサイドテーブル、タンス、ドレッサーくらいで、小さめのテーブルと椅子があっても全く邪魔にならないのだ。
 俺が住んでいるマンションはと言うと、ベッドルームは勉強部屋でもある。クローゼットにタンスに机に本棚と、物が詰まっている部屋だ。風澄に提供している空き部屋とは別に客間が複数あるのだが、もともとが親戚の家だからだろうか、どうにも自分の生活範囲を広げる気にならなかった。それなら持ち主の許可も無く風澄と半ば同棲状態になっているのは良いのかと聞かれると耳が痛いが。まぁ、所有者本人は、家を維持してくれれば、マンションの契約に抵触しない限り好きに暮らして構わないと言っていたし、これまでも、浅井とか、友人を泊めたことは幾らでもあるんだが。
 でも、あの部屋にあがった女の子は、家族や親戚を除けば風澄だけだ。姉の真貴乃はもちろん、遥香も来たことがあるけれど、あいつはもともと家族みたいなもんだからなぁ。昔から知っているせいだろうか、侑貴の幼馴染みの彼女と言うより、妹と言ったほうが感覚的に近い。まぁ、いずれ遥香は、本当に義妹という名の家族になるんだろうが。それに、遥香が来る時はいつも侑貴か弟と一緒だし。
 あの部屋でひとり暮らしを始めたのは、だいぶ前のこと。とは言え、別に家を出ようと考えていたわけではない。既に何度か留学経験はあったが、実家も気に入っているし、それなりに交通の便の良いところだし、なにより学生だしで、家を出る必然性もなかったからだが。それならどうしてひとり暮らしを始めたかと言うと、もともとここに住んでいた親戚が海外の大学に招聘されることが決まり、いずれ日本に戻るつもりなので、管理も兼ねて住んでくれる、できれば親戚の誰かに貸したいという話を聞いて、他に誰も居ないならと俺が借りることにしたのだ。まだ俺が風澄のことを知らない頃。つまり『そういう相手』が居た時期でもあるわけだが……それでも、この部屋に異性が来たことはなかった。もともとは親戚の持ち物だからと言って、たとえ恋人であっても、招き入れることをやんわりと拒んできた。だけど、相手もひとり暮らしならともかく、そうでないなら面倒なだけなのに、どうして俺はそんなことをしたんだろう。もともとは親戚の家というだけで、親戚と一緒に住んでいるわけではないのに……。
 自分でも上手く説明できなかったその理由が、今はよくわかる。自分の生活圏に他人が入ってくるのが嫌だったのだ。そして、その中に、他人が居場所を確保してしまうことが。別に、客が来るのが苦手だというわけではない。実際、客を呼んだことは幾らでもあるんだから。でも、恋人を招き入れるのはどうしても嫌だった。同じ来客者であっても、恋人と友人とでは生活に踏み込まれる度合いが違う。この部屋に友人が居付くことは無いだろうが、それが恋人なら、半ば同棲状態になってしまう可能性は幾らでもある。そんな状況に陥ることのないよう、無意識のうちに拒絶していんだ。きっと、それこそが俺の本心のあらわれだったんだろう。恋人に対して、どこまでも冷静で、いつだって醒めていた俺。『恋愛をしている』のではなく『恋愛をしているつもり』でしかなかった、俺の本心――。
 だって、その相手が風澄なら、こんなに嬉しいことはないと思うのに。
 一緒に過ごすうちに、俺の部屋に増えていった彼女の物と、彼女の部屋に増えていった俺の物。彼女の生活圏の中に俺の存在を認めてもらっているんだと思うと、それだけで嬉しい。共有している心と時間の証のひとつだから。
 まぁ、そんなわけで、元カノに悪かったなぁと思う自分も居るのだが……その頃の元カノの顔だの名前だのがほとんど具体的に思い浮かばないという事実のほうが、よっぽど酷いかもしれない。
 だけど、どんなに残酷でも、それが俺の本心なんだ。俺にとって意味があるのは、風澄とのことだけだから……。
 そういえば、風澄がこのマンションでひとり暮らしを始めたのは、宗哉に失恋した直後だという。ちょうど三年前、大学の夏休みが明けるか明けないかという頃だ。つまり、俺が風澄に一目惚れをした後のことでもある。
 たぶん、風澄の部屋に入った男も、家族や親戚を除けば、おそらく俺だけだろう。
 と言うか、そうだといいなぁ。
 ……あれ、もしかして、俺って器が小さい? 了見が狭い?
 まぁいいか、それもこれも、風澄のせいだもんな。
 熱のせいで、ぼうっとしているというのに、なにを考えているのやら。

「起きられる?」
 ベッドの枕もとに横座りし、俺の顔を覗き込む風澄。
 普段なら、そのまま抱き寄せてキスをする距離だ。
「なんとか……」
 だるい身体ながら起き上がり、クッションを置いてベッドに背を凭れると、なんと彼女は。
「はい、あ〜ん」
「……え?」
 口元に迫る木の匙。
 って、おい……
 まさか、これを!?
「昂貴?」
 どうしたの? という調子で首を傾げる風澄。あぁやっぱ可愛い。いや、そうじゃなくて。
「……」
 俺はもう、どうしていいかわからなくて、すっかり固まってしまった。そうしたら。
「なに、もしかして……昂貴ったら、照れてるの!?」
 堪えきれずに吹き出したかと思うと、彼女は腹に手を当てて、発作の如く笑い出した。それはもう滅多に見られないほど盛大に。昨日、俺が美術の実技が全くできないと知った時みたいだ。つぅか、幾らなんでも笑いすぎだろうが。
「悪かったなぁ……」
 いや照れるだろ普通!
 まったく、子供じゃあるまいし。
 だいたい風澄だって俺にコレをやられたら絶対照れるぞ。固まるぞ。嫌がるぞ?
 くそぅ、いつもと立場が逆だ……。
「だって、アイスクリームを一口わけっこするほうが、よっぽどすごいでしょ?」
「いや『食べてるひとから一口もらう』のと『食べさせてもらう』のとは、まるで違うだろ!」
「そうかなぁ、風邪をひいているひとの看病でごはんを食べさせてあげるより、同じ食器を使うことのほうが、程度が上だと思うけど」
「いや別に問題は程度の上下じゃなくてだな……」
 だいたい、アイスクリームは俺にとっては『あわよくば間接キス』という下心なわけで。ディープキスすら風澄からしてくれる今、間接キスを狙う自分もよくわからんが。たぶん、それを許容してくれる風澄を確認したいんだろうな。
「いいから、はい、あ〜ん?」
 余裕の笑みが小憎らしくもあるけれど、まぁいいか、この際。
 こんなのもたまには良いかもしれない。
「どう?」
「柔らかいのに、ほどよく米の食感も残ってる。すごく食べやすいよ」
「ほんと? 良かった、実は久しぶりに作ったから、ちょっと加減が不安だったの」
 あたたかいおかゆに、食欲をそそる、卵と醤油の香り。
 普段の俺たちの食事は洋食がほとんどだから、こんなシンプルな和食というのは、かえって新鮮だ。懐かしささえ感じる、素朴な味。やっぱり日本人ってことかね。そういえば、俺自身も、洋食党とは言え、隠し味に醤油を使ったり、昆布だしを使ったり、普段から意外と和風のアレンジを効かせてるもんなぁ。
「なんだか昂貴、子供みたい」
「おいおい……五歳上の大の男を捕まえて子供呼ばわりかよ」
 くすくす笑いながら、かいがいしく、俺の口元に匙を運んで食べさせる風澄。
 なんだか妙に楽しそうだ。普段とは逆に、自分が主導権を握っていることが嬉しいんだろうか。あるいは、いつもと違う俺を見るのが面白いとか? この前、生理中で貧血気味だった風澄の面倒を見るのが楽しかった俺と、同じことかもしれない。もちろん体調は心配なのだが、弱っている時に傍に居られること、自分を頼ってくれることが嬉しいんだ。
 そういえば、俺は風澄の世話を焼くのが好きだが、風澄にこんなふうにしてもらったことはあまりなかった。
 まぁ、子供扱いされてもしかたがないか、などと思っていたら、なんと彼女は。
「うーん、だって、なんだか可愛いし」
「可愛っ……!?」
 おい。
 ちょっと待て。
 俺が可愛いだぁ!?
 そんなことを言うのは真貴乃だけで充分だっつーの!

 しかも好きな女に言われてしまった……大ショック。

「あっ、ごめんね、嫌だった? あのね、馬鹿にしてるんじゃないの、ただ、なんだかいつもと違うから……ね? 昂貴ぃ……」
 固まっていた俺に、わたわたと慌てて風澄はとりなす。
 いや、いいんですけど。構いませんけども。その言葉に悪意が無いことは充分わかっているし、馬鹿にされたとも思ってない。だがしかし。
 ……ううう、複雑。
「いや、いいよ……まぁ、嬉しくはないけど」
「ごめんね? そんなつもりじゃなかったんだけど……」
 見るからに彼女はしょんぼりしてしまう。
 気分を害したわけではないにしろ、多少なりとも気落ちしてしまうのが、男というものなわけで。つぅか、可愛いと言われて喜ぶ男はそう滅多に居まい。だいたい、俺が可愛さを追求しても恐いだろう。
 ……しかし、俺って、本当に風澄に男扱いされているんだろうか。
 なんだか不安になってきた……しくしく。
「でもね昂貴?」
「んー?」
 いささか捨て鉢な気分になっていた俺の口から出たのは、やたら気の抜けた声。もちろん熱のせいでもあるが、そうでなくても、落ち込むだろう普通。
「男のひとには不満かもしれないけど、女性が男性を可愛いって言うのは、十中八九、好意だからね」
「……、ああ」
 拍子抜けして、思わず反応に途惑った。
 女性にとって『可愛いは褒め言葉だからね』ではなく『好意から出た言葉だからね』と。
 なるほど、そういうことか。言葉に対する認識が異なるのではなく、意味自体が異なると考えれば、わかりやすいかもしれない。
 とりあえず、異性として認識してもらってはいるらしい。
 ……って、そりゃそうか。あたりまえだよな。これまでに何度セックスした仲だっつーの。
 なにを今更ってやつだよなぁ。馬鹿か俺は。まぁ、夏風邪を引いちまったから馬鹿決定かもしれないが。
「はい、お薬。とりあえず、この部屋に置いてあったのを持ってきたんだけど、飲み慣れたお薬ってある? 買ってこようか?」
「いや、そういうのは特に無いから……ありがとう」
 コップを受け取り、水を口に含んで粉薬を流し込む。苦い。
 せっかく風澄の手料理を食べた後なのに、口中に残るのは薬の味か。もったいないな。
「とりあえずお薬はあるし、お米もあるし、昨日冷凍したごはんも残ってるし……あとは、なにが要るかしら。スポーツドリンクと冷却シートに、卵と、桃の缶詰……あ、今の季節なら生の桃でも良いわね」
「いいって、そんなにしなくても……大変だろ……?」
「病人が遠慮しないの。気にしないで、ゆっくり休んでて」
 口調は穏やかだが、反駁(はんばく)を許さぬという調子。それこそが、彼女の優しさなんだろう。
「そういえば、風澄の食事は……?」
「だから、体調の悪い人がそんなことまで気にしないの。それに、さっきおかゆを作っている間に軽く食べたから、大丈夫よ」
 それって、ヨーグルト一杯とかコーンフレーク一皿とかパン一枚とか、そんな程度じゃなかろうか。俺より栄養バランスが悪いぞそれは。第一、そんな合間に摂っただけじゃ気が休まらないし、食べた気もしないだろうに。
 だけど、そう言っても、彼女は笑顔で先ほどと同じ台詞を繰り返すだけという気がして、やめてしまった。なにより、かえって気を使わせてしまいそうだったから。それに、大事な時期なのだし、俺の看病はともかく、自分の体調管理を放り出す風澄でもないだろう。
 そこで彼女は、なぜかクローゼットに入り、一泊程度の旅行向けと思われる、小さめのキャリーバッグを持ち出してきた。
 なにをしようとしているんだろう。
 ……って、俺を置いてどこかに行っちまうのかあぁ!?
 いやいやいや、この風澄に限って……まさか……うん。
 それに、なんたって、時期が時期だし。
 こんなプレゼン間近に旅行やら何やらに行ける彼女ではない。と思う。たぶん。
「じゃあ、私、ちょっとお買い物に行ってくるけど、すぐ戻るから。家の電話とドアホンは出なくて大丈夫だからね」
 ああ、買い物鞄の代わりのキャリーバッグか?
 焦っちまったじゃないか。いや、彼女の意図はわかりませんけども。
「もう少し寝るといいわ。携帯を持っておくから、なにかあったらかけて。すぐ来るからね」
 そう言って彼女は、マナーモードだとうるさいだろうからと俺の携帯をサイレントモードに設定し、丸テーブルに置くと、頬にキスをして、寝室を出て行った。
 そっと扉を閉める間際に、優しい笑顔で、軽く手を振って。

 俺が思い出したのは幼い頃のこと。幼稚園や、小学校低学年くらいの記憶。
 子供に多い病気には大抵かかったことがあるけれど、俺は基本的に身体は丈夫なほうで、滅多に風邪なんかひかなかったのだが、こんなふうに母親や姉に看病されたことがあった気がする。もっとも、基礎的な体力があるおかげで、数日で治ってしまうのだが。
 成長してからは、風邪をひこうが体調を崩そうが、自分ひとりでもなんとかなった。そもそも、そういう時に誰かを頼ろうとは思わなかった。辛い以上に面倒だったし。本調子でない自分を見られるのが嫌だったのかもしれない。
 でも、体調の悪い時に、気の置けない誰かがすぐ傍に居てくれることで、気持ちが和らぐのは事実だろう。それが風澄なら、なおさらだ。

 そういえば、昔、聞いたことがあるな。
 男は女に母性を求めるものだと。
 風澄の容姿は至極女性らしいし、おとなしく控えめな側面もある。だが、意思が強く、頑固だし、どちらかと言えば気性の激しい子で、それほど母性的な印象はない。あまりかいがいしく他人の世話を焼くタイプでもない。しっかりした子だし、甘えること自体は下手だけれど、どちらかと言うと甘やかすより甘えるタイプだ。末っ子のせいだろうか。
 俺はというと、第二子であり中間子でもある長男なのだが、姉に世話をやいてもらった憶えはあまりない。料理のできない姉のために食事を用意して、そのお礼に紅茶を淹れてもらったことは幾らでもあるが。それに、弟が居るし、隣家には弟と同い年の二人姉弟が居るしで、よくこの三人の勉強やらなにやら面倒を見ていたから、世話をやくことには慣れている。
 風澄を甘やかすのは楽しいし、そんなところも可愛く思えたのだけれど、やっぱりこういう母性的な面もあるんだな。
 どうして、そんな彼女に安心するのだろう。
 他の女にされたら鬱陶しいと思うだけなんだろうに。
 母親に似ているわけでもないんだが。

 そういえば、三年前、風澄のことを初めて知った時に思い浮かべた絵の中に、聖母マリアがあった。ヨセフと婚約中、男を知らぬ身で、その身に救世主を宿したという聖女。
 聖母マリアを描いた作品と言えば《受胎告知》と、あとは《聖母子》や《聖家族》や《聖母被昇天》あたりだろうけど、その時、俺の頭に浮かんだのは、『純潔』をあらわす、一般的にはマイナーな主題の中の一枚だった。
 その主題は、生命の誕生において不可分な、性欲の存在を否定するもの。
 特に美術史学上では評価されていない作品だったけれど、穢れなき少女の、愛らしくも凛とした表情に惹かれて、思わず見惚れたものだった。きっと、あの幼さを残した可愛らしい姿が、まだ十代だった、かつての風澄に重なったのだろう。

 不思議だな……
 彼女は、サロメのようでもあり、聖母マリアのようでもある。
 混在する清純さと妖艶さ。

 どれほど性行為に耽り、欲望に溺れようと、風澄から爽涼な空気を奪うことは、きっと誰にもできない。
 この世界の誰より、彼女の淫らな姿を目にしているはずの俺でさえ、そう思うのだ。

 何度も何度も、狂い啼かせたのに……。

 彼女の優しい笑みと、頬に残る口唇の柔らかな感触を思い出しながら、俺は再び眠りについた。

 * * * * *

 ……意識が浮上する。
 眠りから醒め、ゆっくりと、視界が開けていく。
「……あ、目が醒めた?」
 ずっと傍についていてくれたのだろうか。彼女が俺を覗き込んでいた。
 その姿が少し普段と印象が違う気がして、よく見てみると、入浴時のように、長い髪を軽くまとめてバレッタで留めていた。普段はほとんど下ろしたままで、まとめるとしても一部分だけなのに、珍しい。そう思ったところで、俺の看病をするためだと気づく。
「おかえり……」
「え? ……あ、うん、ただいま」
 汗で顔にはりついた髪をのけると、いつの間にか、額に冷却シートが貼られていた。買い物から帰ったばかりかと思っておかえりと言ったのだが、違ったようだ。時計を見やると、思ったより時間が経っている。もうすぐ昼だ。
 どうやら、俺は彼女が出かける前に既に眠っていて、帰ってきた時には熟睡中だったらしい。ずっと様子を見つつ勉強をしていたそうで、すぐそばに、プレゼンのレジュメと、イタリア語の教科書とノートと薄手の伊和・和伊辞典が置いてあった。
「はい、体温計」
「ん……ありがとう」
 起き上がり、ベッドに背中を凭れて再び計測。少しは下がっていると良いんだが。
 そこで周りを見ると、ベッドサイドに寄せられた丸テーブルの上には、スポーツドリンクのペットボトルが一本。そして、バスルームに置いている風呂椅子と揃いの花柄のアクリル製の洗面器に、タオルが数枚。視線を下にやると、床には洗面器と同じ柄の、少し背の高い容器(本来はダストボックスらしいが、風澄は収納に使っていた)に、大量の保冷剤が入れられ、予備のスポーツドリンクが一本、簡易ワインクーラーの如く冷やされていた。
 用意の良い子だなぁ……。
「体温は?」
「……変化無し」
「三十七度台とはいえ、まだまだ高いわね。それくらいの体温のほうが身体は活性化しているとも言うけど、熱があるのは辛いものだし……調子はどう?」
「朝よりは少し楽になったと思うけど、そんなに大幅には変わらないな。ただ、ちょっと咽喉が渇いた」
「じゃ、これをどうぞ」
 キャップを開け、スポーツドリンクを手渡してくれる。
 どうして1.5リットルじゃないんだろうと思ったのだが、500ミリリットルのペットボトルだから、だるい身体でも持ちやすい。しかも、飲み口から引き出せる程度の、ちょうど良い長さのストローが挿してある。風澄は、ペットボトルのお茶などを家で飲む時はコップに移すが、外では大抵こうしてストローを挿しておくんだそうだ。確かに、ペットボトルの開け口からそのまま飲むというイメージではない。
「スポーツドリンクは幾つかあったけど、風邪を引いたときには一番スタンダードだって聞いたから、これにしたの。味は大丈夫?」
「俺もよく飲んでたよ、これ。でも……重かっただろ?」
「キャリーバッグを使ったから」
「ああ……やっぱり、そのために持っていったのか」
「昂貴と一緒だと、ほとんど荷物を持ってもらっちゃうから必要ないけど、ひとりでお買い物をする時にはね、よく使うの」
 なるほど。だからこの部屋に置いているんだな。確かに女の子には便利だろう。
「あれ……? ちょっと、昂貴……」
 湿り気のある肌に、冷やりとした風澄の指先が触れる。
「うわ、すごい汗……拭かなきゃ。起きられる?」
「ああ……」
 だるい身体を起こし、ベッドに掛ける。多少はおさまったとは言え、頭痛がする。やはり本調子からは程遠いなと考えながらぼんやりしていると、風澄は俺のパジャマのボタンを外していった。
「ちょ、風澄……それくらい、自分でやるって」
「早くしないと酷くしちゃうでしょ」
 きっぱりと言い切る彼女に、俺のほうがたじたじしてしまう。
 セックスの前に脱がしてと言っても、絶対にしてくれないだろうに。
 なんたって、ついこの間、自分から俺のシャツのボタンを外した彼女に、俺のほうが驚いたくらいなんだから。
「……変なこと考えてないでしょうね?」
 う。
 バレたか。
「しょうがないだろ、男なんだから……」
「風邪ひいた時くらい、そういうことに結びつかない思考ができないものかしらねぇ」
 肩をすくめ、やや呆れた顔で俺を見やる彼女だが、やはりどこか心配そうだ。
 それでも手は休めず、汗だくのパジャマを脱がし、洗面器の上で水に浸したタオルを絞り、俺の身体をどんどん拭いていく。
 べたついた身体に、水で湿ったタオルが心地良い。
 本当に、こういうところが女の子だよなぁ。
 いざとなると大胆だ。思い切りが良い。
「後は自分でしてね」
 さすがに下半身は無理ですか。……って、そりゃ無理だろう。こないだ初めてそこに触ったくらいなんだから。
 いずれはそんなこともしてくれるようになるんだろうか。
「予備のパジャマを持ってきたから、身体を拭いてから着替えて。シーツも替えるね」
 俺がベッドから降りて丸テーブルと揃いの椅子に座ると、別のタオルを絞って俺に手渡し、使っていたボックスシーツを手際よく剥いでいく。タオルで顔を包むと心地良い。汗を拭いて、再び水分補給。冷たすぎないから飲みやすい。そして、開封したペットボトルを予備のものと一緒に冷やしておく。なるほど、これは便利かもしれない。スポーツドリンクは甘さが強いぶん、ぬるくなると味が落ちる。でも、氷だとすぐ溶けてしまうし、零した時に面倒だ。それに、これなら冷えすぎることもない。
 簡単だし、合理的だ。熱伝導やらエントロピーやらを持ち出すまでもない。もしかしたら経験則かもしれないが、本当に賢い人間というのは、得た知識を日常生活にも生かすことができるという良い例だろう。ただ詰め込むだけの勉強しかしてきていない人間や、学問一辺倒の人間は、こうはならないから。
「お中元の残り、バスタオルはもちろんだけど、シーツも貰ってきて正解だったわー」
 リネン類を収納している棚から洗い替え用のシーツを出して、ベッドメイキングの準備をする彼女を感服の念で眺めたけれど、当の本人はまったく気づいていないらしい。
 やっぱり、風澄はすごいな。知能も機転も、並外れたものがある。
 充分に知っていたことのはずなのに、再確認すると、やはり嬉しい。感心する気持ちもあるけれど、こんな女性に巡り逢えたこと、その傍に居られること、そして、そんな彼女に恋をしていることが誇らしい。
 どんなに何気ないことでも、それが風澄だと惚れ直す理由になるんだから、単純もいいところだけど。
「そろそろお昼ね。食欲は?」
「あんまり……寝てただけだからなぁ……」
「桃と、桃の缶詰を冷やしておいたんだけど、どっちがいい?」
「って、両方とも買ってきたのか?」
「だって、どっちが食べたいかって、その時にならないとわからないでしょ? 私も好きなものだし、昂貴の食べたいほうを選んで欲しかったから」
 なるほど、無駄にならないものには使うんだな。彼女は別に吝嗇なわけでも倹約家なわけでもないんだが、生い立ちや見た目から考えると意外なくらいに生活が地味だから。たぶん、根本的に奢侈に興味がないだけなんだろう。
 そういえば、もともと、食事をきちんと作って摂るかは別としても、素材には拘るもんな。食材を無駄にするのも嫌がるし。
 それに、この前、今の時期に出ている果物の中では桃がいちばん好きだと言っていたっけ。旬のものを摂る機会と思えば、ちょうどいいか。
「じゃ、用意しておくわ。着替え終わったら来てね」
 俺は着替え中に風澄がここに居てくれても構わないが。
 ……などと言おうかとも考えたけれど、さすがに余裕がない。
 それにしても、事後や行為を交わした翌朝、お互いに衣服を整える時より、今のほうが距離が近い気がするのは何故だろう。物理的な距離だけでなく、『男と女』という意味からも、遠いはずなのに。
 ふと、不思議に思った。

 * * * * *

 寝室を出ると、風澄は脱衣所で洗濯の準備を始めたところだった。
 シーツと、さっきまで着ていたパジャマと、身体を拭いたタオルを洗濯機へ。俺が持ってきたぶんを渡すと、洗剤を量って洗濯スタート。
「まだお昼だし、外に干せるわ。お天気はすごく良いし、暑いから、きっとすぐ乾くわね」
 それから扇風機を使い、寝室の簡単な換気とベッドメイキングをして、食事の準備。
 結局、桃と桃缶を両方とも半分こにすることにした。先に出されたのは、ちょうど今日が食べごろだという桃。それから、甘すぎない白桃の缶詰。両方とも食べやすい大きさにカットして出してくれた。
 どちらも適度に冷えていて、美味い以上に、熱っぽい身体にとてもありがたかった。
 フォークを片手に「また手伝う?」と言った風澄の悪戯な笑みには、苦笑で返すしかなかったけれど。
「風澄、自分の昼飯は……? さすがに、桃だけじゃ足りないだろ……?」
「昂貴ったら、気にしないでって言ってるのに」
 苦笑する彼女だが、心配もある。俺の世話にばかり集中させては申し訳ないし、この大事な時期に、予定を狂わせてしまっては迷惑だろう。それに、そのせいで風澄が体調を崩すようなことがあっては大変だ。彼女自身は、そんなことおくびにも出さないだろうし、考えてすらいないだろうが……。
「でも、今は充分だから。大丈夫よ、あとで適当に食べるわ」
 普段は、よく食べるほうなのに。
 そう思ったけれど、彼女の顔を見たら、それ以上は言う気になれなかった。少なくとも無理をしているわけではないのは確かだし、そっか、それなら良いんだけど、とだけ口にした。

 しばらく、食休みしつつ、彼女が家事をこなすさまを眺めていたのだが、よく寝たおかげで、あまり眠気がない。眠くなるまで少し居間でのんびりしていようかと思っていると、風澄がレモネードを作ってくれた。咽喉に優しい、飲みやすい味。
 それから、風澄は再びイタリア語の勉強に取り掛かった。前期の試験以来、まめに復習をしていたが、大学院入試をイタリア語で受験すると決めてからは日課になっている。教科書や参考書だけでなく、卒論の資料も、なるべくイタリア語に慣れたいからと言って、文献を積極的に読んでいた。知り合った翌週、二度目に逢った日は、俺が洋書を読んでいるのを見ただけでげんなりしていたのに。
 文献も、ただ読むだけではない。まず最初にざっと目を通して内容を予測し、要点をまとめ、それから実際に辞書を引いて自分で訳していく。これはイタリア語だけでなく、あらゆる外国語の読解と習得に適した方法だと思う。勉強方法というのはひとそれぞれだろうが、特に語学は、その言語に慣れること、その言語に触れる習慣を作ることが第一だ。もちろん、後で俺が見て、解説をするのだが、ほとんど原典購読の授業をしているようなものだ。ゆっくりと、だが着実に習得していっているのがよくわかる。
 今日も彼女の勉強を見てやろうかと思い、ノートを覗き込むと「病人は休むのがお仕事!」と言われてしまった。確かに、さすがの俺も、こんな状態ではなかなか頭が切り替わらない。現地に居た時はそうでもなかったのだが、やはり、日本に居るのとイタリアに居るのとでは違うということだろう。一週間程度の海外旅行でも、初日と最終日では頭の働きがまるで違うのと同じ。イタリア語の文献はしょっちゅう読んでいるし、通訳代わりとして駆り出されることもあれば、現地の知り合いとメールのやりとりもしているが、頭が『現地モード』になっていないのだ。
 とは言え、別に語学力が低下したわけでもないし、俺は現状で困ることはない。だが、風澄はこれからだ。
 中間発表が終わったら、どうやって教えようか。大学院入試まで、あと一ヶ月。彼女は語学が苦手だとは言え、もともとの能力は高いし、これだけ努力家なのだ。きっと受かると思うし、是非合格して欲しいと思う。そのための協力は惜しまない。できれば余裕で合格させてやりたいな。今から考えておくのも良いかもしれない。例の『高原昂貴流スパルタ教育』は却下だろうけど。

 この子は今、俺の五年後を歩んでいる。
 だけど、その能力が五歳の年の差などで埋められないことを、俺は知っている。
 それは天賦の才とも言うべき資質。

 彼女は、俺が憧れで、目標だと言ってくれたけど、俺にとっては風澄こそがそうなのだと言ったら、どんな顔をするだろう? 冗談でしょと一笑に伏すか、とんでもないと慌てるか。お世辞でも嬉しいけど、幾らなんでも言いすぎよとでも返すかもしれない。
 それが紛れもなく本心なのだと知ってもらうには、彼女自身の力で彼女自身の能力を開花させる日を待たねばならない。
 そして、できることなら、その瞬間を誰よりも一番近くで見ていたい。

 風澄。
 おまえが俺に追いつくのは、いつになるだろう?
 たぶん、そう遠い未来じゃない。
 俺は、その日が楽しみでしかたないんだ。

 そうしたら、俺たちは、きっとこの道を一緒に往ける。
 同じ場所に立って、対等の立場で、肩を並べて歩んでいける。

 急ぐ必要もないし、焦らず着実に歩んでいって欲しいけれど、
 その日が早く来ればいい。

 そんなことを考えながら彼女を眺めていたら、意外と時間が経っていたらしく、だんだんと眠気を感じてきた。
 寝る前に再び体温を測ったが、やはり、あまり変化がない。
 よく眠れると良いんだけどと言う彼女の手の優しさに、ほどなく、俺は再び深い眠りに落ちていった。

 * * * * *

「ん……」
 気づくと、すっかり部屋は暗くなっていた。
 少し身体を起こし、枕もとの時計を見ると、もう午後十時近い。ずいぶん眠ったようだ。しかし、そんなに経っているとは思わなかった。今日は一日中休んでいたわけだから、どうにも時間感覚がつかめないのも当然なんだが。
 風澄は風呂にでも入っている頃だろうか。
 そういえば、今夜はどうしよう。風澄のマンションにはベッドがひとつしかないのだ。居間のソファは大きいものがあるし、寝るのに不自由はないだろうが……。
 ぼんやり考えていると、小さなノックの音と共に部屋のドアが開いた。
「昂貴、起きてる?」
 ひょこっと顔を覗かせた彼女はパジャマ姿だった。まだタオルドライだけなのだろう、肩にかけたバスタオルで湿り気の残る髪を拭いている。
「ああ……」
 なんでわかったのだろうと疑問に思ったのだが、時計を見上げた時にベッドが軋んで気づいたらしい。
「ごめんね、よく眠ってたから、起こすに忍びなくて。もう遅いけど、夕食はどうする? お薬も飲まなきゃいけないし」
「じゃあ、さっきのおかゆをもう一杯……」
「うーん、そうねぇ、でも、同じものばかりじゃ良くないだろうし……あ、今度は鰹節と一緒にどう? 小さいパックをさっき開けたんだけど、たくさん残っちゃって。食べ切ってくれたらありがたいし」
「って、鰹節なんか何に使ったんだ?」
「夕食よ。冷奴に使ったの。あと、ごはんと焼き魚とお味噌汁と、買ってきたお惣菜」
「和食か、珍しい」
「おかゆを作ってたら、たまには和食もいいかなと思って。手抜きだけどね」
 それでも、俺と知り合う前なら、全部、適当に済ませていただろうと彼女は呟く。その『適当』は、決して良い意味を指すものではなくて、どうでも良いことで、二の次で。
「ふたりで食べられるものは、昂貴と一緒に食べたほうが楽しいもの」
 その時の彼女は、初めて俺がこの部屋に来て、冷蔵庫の隙間の理由を問うた時と、同じような表情をしていた。

 * * * * *

「三十七度五分だった」
「あ、少し下がったね……良かった」
 まだ少しぼんやりするけれど、朝よりも楽になった気がする。
「これも風澄のおかげだな。ありがとう」
「困った時はお互いさまだもの。でも、どういたしまして。ただし、油断は禁物よ? 病気だって怪我だって、直りかけが一番大事なんだからね」
 念を押して言い聞かせる彼女に、やっぱり子供扱いだなと苦笑してしまう。
「おかゆができるまでもう少し時間がかかりそうだし、お風呂入る?」
「風呂?」
「大丈夫そうなら、シャワーだけでもと思って。もちろん無理は良くないけど、私は、すっきりするから浴びるほうが好きなの」
「そうだな……だいぶ楽になってきたし」
「それじゃ、さっきのパジャマが乾いてるから、今度はこれに着替えてね。あ、あまり熱くしちゃ駄目よ?」
 差し出された着替えを受け取り、バスルームへ向かう。しかし、どう考えても子供扱いだな、これは。五歳年上の男の立場はゼロかと思いはするが、こういうのも、風澄になら嫌じゃない。もともと、彼女との間に、あまり年齢差を感じたこともないし。
 もちろん、されるばかりでは俺じゃないけれど、今は彼女に甘えておこう。
 うっかり体調が優れないことを忘れて、普段通りにしてしまい、余計に悪くしてしまうこともあるわけだしな。

 軽く済ませて出ると、ちょうどおかゆができていた。チキンスープも悪くないと言ったのは俺自身なのだが、やっぱり、ありがたい。弱った時には故郷の味ってことか。
 ゆっくり味わっている間も、風澄はベッドメイキングと洗濯に追われていた。
 そういえば、あまり風澄には母性的な印象がないと思ったけれど、家庭的な印象もほとんどない。と言うか、外見のせいか、育ちのせいか、そもそも生活感が薄いのだ。
 なのに、どうしてだか、今の風澄に違和感がない。
 髪をまとめて、エプロンをして、部屋着代わりに羽織っている俺のシャツの袖をまくって留めて……そんな格好で部屋をぱたぱたと動き回る様子に、まるで、ずっとこうしてきたかのような気さえする。
 一緒に過ごすようになって、まだ二ヶ月も経っていないのに。
「はい、これで仕度も終わり。夜中のうちに乾燥まで終わるから、明日の朝は大丈夫よ。でも、この部屋には昂貴のパジャマが二着しかないから、夜中に目が醒めた時は、これに着替えて」
「え?」
 そう言って風澄が差し出したのは、見覚えの無い柄の男物のパジャマだった。
 まさかこんなものまで買ってきてくれたのかと思ったのだが、少しばかり使用感がある。風澄は肌が少し弱いせいか、直接触れるものは新品でも洗っておくから、そのせいかとも考えたが、さっき寝具を洗っていた時には見なかったし、二度も洗って干せるほどの時間はなかった気がする。ということは……わ、僅かに嫌な予感が……いやいや、まさか、風澄に限って……うん。
「この部屋に置いてあった、父や兄の使っていたパジャマを出してきたの。特に、火澄兄は昂貴と同じくらいの身長だから、たぶん着られると思うのよね。あ、ちゃんと洗濯してあるし、嫌だったらいいんだけど……」
 ああ、そういうことか……ほっ。
 そうだよなぁ、なんたって風澄だし。だいたい、この部屋に住む一年前から独り者なんだから。ほんと、なに考えてんだかなー、俺。
「いや、そんなことはないよ。ありがとう」
「あとは……ええと、シーツも替えたし、お布団も、タオルケットは何枚かあるから替えておいたの。気持ちよく眠れると思うわ」
 もうもう、至れり尽せり……。
「でも、風澄は……?」
「ひとりでベッドを使ったほうが、疲れは取れると思うの。この部屋のベッド、シングルだから小さいし」
 一緒に眠りたいけれど、うつしてしまったらと思うとそうも言えない。
「それなら、一日中ベッド使ってたし、俺はソファでも……」
 しかし、最後まで言い切らないうちに、彼女に睨まれてしまった。少々たじたじとなって黙ると、わかれば良いのよという様子で頷いて、風澄は笑う。
「だから、枕とお布団だけ持っていくね」
 そう言って、彼女はスペアの枕と、予備のタオルケットをウォークインクローゼットの収納から出してきた。
「ん……ごめん」
「携帯は近くに置いておくから、いつでもかけて。気にしないで、ゆっくり休んでね」
「ありがとう……おやすみ、風澄」
「おやすみなさい」
 昼間、出かけた時と同じように、そっと頬にキスをして、彼女は寝室を出て行った。
 浅さ深さはともかくも、口唇でのキスを交わさずに、おやすみと挨拶したのは、いつ以来だろう。いや、俺の一方的なものを含めても、たぶん初めてだ。知り合った日の夜でさえ、半ば気を失うように眠った彼女にくちづけをして抱きしめたのに。
 そもそも、彼女と一緒に過ごしているのに、もう丸一日キスを交わさずに居るなんて。
 そりゃ、こんな時に、口唇でのキスなんてしないほうが正しいに決まってる。でも……。

 上がった体温で熱いはずなのに、久しぶりの夜の一人寝のベッドは、少し寒かった。
Line
To be continued.
2010.07.23.Fri.
<< Prev * Rosy Chain * Next >>
* Novel *
* Top *


* 返信希望メール・ご意見・リンクミスや誤字脱字のご指摘などはMailへお寄せくださいませ *

ページ上部へ戻る