Dolce Vita

08.予感


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 取ってきたタオルを彼に渡したら、そのままベッドに連れ込まれた。
 するのかなと思ったら、したのは、他愛のないお喋り。
 ベッドの背に寄りかかった彼の腕の中で。
 同じ方向を向いてるから、視線は合わないけれど、彼の腕は見えるから。
 心細かったぶん、遠慮なく手を繋いで、近づけるだけ近づいた。
 私の背中に、彼の胸。

 風邪で思い出したけど、と彼は話を始めた。
 初めて単身で留学することになった大学時代に料理を憶えた。
 今のおまえとあまり変わらない頃だよ、と。

「海外に行って、短期の旅行ならいいけど、何ヶ月も居るのに自分の食べたいものが食べられないと、ちょっと辛いだろう? それと、前に、アメリカ人の旦那を持つ日本人の妻のエッセイを読んでさ、旦那が風邪をひいたときにおかゆを作ってあげたら『そんなもの要らないからチキンスープをくれ!』って言われたんだって。このときは笑って済ませたけど、実際自分が風邪ひいたときにチキンスープが出てくるのってどうなんだよって考えるとひとごとじゃないよな。だから留学する時になって『風邪ひいたときにチキンスープを飲みたくなかったら自炊するしかない』って思ってさ」
 そうして始めてみたらハマってしまって、院に入る頃には母親にさえ一目置かれたりしていたらしい。
「だけど、意外や意外、チキンスープも結構いけるんだよ。適当に菜っ葉切って、気力がない時はそれも入れないで、残り物の白米にかけたりパンを浸したりして」
「あぁ、この前言ってた、イタリア特有の水気のないパンね」
 勘弁してくれって言ってたけど、イタリアに居た時は食べてたのかな。それにしても、風邪ひいたときにチキンスープを飲みたくないからお料理を憶えたのに、結局風邪ひいてチキンスープ出されてるんじゃない。そう言ったら。
「俺が好き好んでチキンスープを作ったわけじゃない。うっかりその話をしちまった相手に、面白半分で持って押しかけて来られたんだよ!」
 だって。もしかして、当時の彼女だったのかな。
「まぁ、もともと好き嫌いはほとんどないし、研究が佳境に入っている時はともかく、食べものや飲みものには拘るほうだったし……きっかけが留学だっただけで、いずれは憶えたと思うけどな」
 料理のおもしろさは、化学だという。
 そういえば、彼の父親は化学者だと前に聞いた。その影響で、小さい頃から色々教わったらしい。父親の膝の上にいた頃から元素の周期律表に親しんで、よくはわからないけど、世界を作っている根本の物質がこれでできているのだと知って興味を持ったそうだ。
「理系科目全般も得意だったし、自分でも、いずれはそういう方向に進むんだろうなと思ってたな、昔は」
「じゃあ……どうして文学部に進んだの?」
 そう聞いたのは、彼が自分の意思で美術史学の道を志したことを知っているから。妥協や挫折の結果じゃない、自ら望んで選んだ道だと。
「……理系の学問自体は面白かったんだ。けど……」
 答えのある学問ばかりやってきて、ある時、いや、そんな簡単じゃないだろう、と思ったのが最初のきっかけ。姉が理系に行ったから、じゃあ違うところにと思って文系を目指すことを決めて、その後は消去法。それだけの理由。そして専門分野として考えていたのは、学者だらけの家族親戚の中で誰ひとり専攻していなかった学問――それを選んだのだと言っていた。
「もともと美術館に行くのは好きだったんだ。絵にも興味があったし。それに、日本やアジアより西洋に関心があった。きっかけはそれだけで、美術史学がどんな学問かなんて知りもしなかった。普通に、歴史学のひとつだろうと勘違いしてたし」
 それは私も同じだった。だいたい、周囲に学んでいるひとがいなかったら、『美術史学』と言われて正しい解釈ができるひとのほうが珍しいと思う。
「意外だったな。だからこそ惹かれた。哲学的なだけでなく、むしろ理系的な側面があったから、余計に面白くてさ。性にも合ったし」
 なにしろ美術史学は『サイエンス』だからと、ふたりして笑い合う。美術史学を修めた者だけが知る、それはこの学問の特質。
「だから俺は、おまえが思うほど偉いやつでも、すごいやつでもないんだよ」
 自嘲するように、彼は言った。……でも。
「そんなことないわ。私なんて、昂貴にどれほど大きな影響を受けたか……」
 自分は、ただの大学生で。幾ら専門分野を絞り、大学院受験を決めたところで、ただの『志望者』でしかなくて。ゼミ内でいかに評価されていようと、それはせいぜい将来を期待されている程度のもの。
 まだ何者にもなっていない。
 研究者としてどう在りたいか、どう在るべきか。目指すものも、理想の姿も、わからない。それ以前に、本当にこの道を往けるのか――それすらもわからない。
 そんな時に出逢ったのが、昂貴だった。
「それに、知り合う前、河原塚先生に昂貴のレジュメや論文を見せてもらった時、本当に驚いたのよ。こんなひとがいるんだって」
「で、実物がこんなんだったから、がっかりしたんだろ?」
「なぁに言ってるのよ、昂貴ったら」
 思わず笑っちゃった。わかってるくせに、そんなこと思ってないって。
 そりゃあ、想像していた『高原昂貴さん』の人物像から程遠かったのは本当だけど、落胆なんてしてない。ただ、自分でも予想外の出逢いになったというだけ。そして、彼に対する尊敬の気持ちは今でも膨らむ一方だから。
「がっかりなんてしてないもん。昂貴は、私の憧れで、目標なんだからね?」
 こんなこと、幾ら彼に対してでも、なかなか言えやしないけど。
 私が歩むのは私の道。でも、いつかあなたと肩を並べて歩めたらと、この道の遥か先を往く彼を追いながら、願う。
「研究の手法だって、切り口だって、昂貴みたいに完成度の高い研究をしているひとがどれほど居るかしらって、ずっと思ってる」
 私はまだ、専門の文献に触れ始めたばかりで、この世界をそれほど知っているわけじゃない。でも。
 このひとだ、と思ったの。
 だって、彼の研究の成果は、他の誰とも違っていたから。

 幾つかの論文を読んでいくうちに『他に類似作品は存在しない』『他の文献では言及されていない』……そんなふうに書かれた一文を目にすることがあった。
 私に少々懐疑的な傾向があるせいだろうか、本当にそうだろうかと疑念を抱き、文献を読み漁った結果、その反証となる資料を見つけたことが実際に何度かある。
 私はその時、発見の喜びなど微塵も感じず、ただ、憤慨していた。
 『たかが学部生が図書館で資料を引っ繰り返して辿り着けるものを、専門たる人が見つけられないなんて』と。
 なんて不徹底だろう、浅薄にも程がある。……そんな非建設的な思考に身を委ねても仕方がないのだけれど、反面教師とするには私は未熟過ぎて、口惜しい気持ちのほうが大きかった。
 でも、昂貴は。
 彼の研究は。

 ――高い塔は、近寄れば近寄るほど、仰ぎ見ただけで首が痛む。私のしていることは、地上から頂点を目指すようなもの。最初から最上階を目指すのは無謀としか言えない。道のりの遠さを知っていれば知っているほど、気力も体力も追いつかず、志半ばで、挫折を余儀なくされるだろう。
 高すぎるハードルより、越えられるハードル。そのほうが優しいし、なにより易しい。より高次を目指すにしても、越えられるか越えられないか、そんな程度のハードルを設定し続けるくらいが適度で。
 私は、あまりにも早く、彼に出会ってしまったのかもしれない。
 もしも今、彼と同い年だったら。せめて、大学院生だったら。そんなふうに思うこともあるけれど、どうしようもない。いつか、二十一歳の自分が二十六歳の彼と出逢えたことを幸運と思える日が来るように、自分を高めていくしかないのだから。

「……風澄にそう言ってもらえるなら、嬉しいよ」
 彼の腕が、そっと私の身体を包む。
 タオルケット越しでもわかる、温もり。
「それに、きっかけはどうあれ、博士に進むほど、面白かったんでしょう?」
「そうだな。うん……面白いよ、確かに」
 そう聞くと、頷きながら彼は言った。
「法学部でも経済学部でも商学部でも、興味はあるんだよ。だけど、最初から一つに絞るほどじゃなかったし、そればかりやらなきゃいけないのかって思ったら、とても行く気になれなくてさ。実際はそんなに簡単な話じゃないんだろうけど。ただ、高校生の時は、まだ具体的に何を学びたいっていう希望もなかったから、できるだけ色々なことができるところにしようと思ったんだ。ほら、うちの大学の文学部、学科専攻にわかれるのは二年からだろ。美術史学を目指して、第二外国語をイタリア語にして、夏には短期交換留学に参加して、更に一年間じっくり考えて、やっぱりこれだって思ったんだ」
 そうして、文学部に入り。
 知らなかった学問を知り。
 興味を持った。

 私も、知らなかったな。大学に入るまで。
 たまたま穴埋めで取った授業が思わぬ出会いとなり、そのまま専攻を選んで今に至る。
 我ながら、なんて適当に進路を選んだんだろうって思うこともあるけれど、なにもかもどうでもよくなっていたあの時、それでも一番やってみたいことを探した結果が、美学美術史学専攻への進学だった。
 今でも、どうしてこの道を選んだのか聞かれた時、一年生の時にたまたま西洋美術通史の授業を履修して興味を持ったからと言うと、みんな一様に驚く。昔からずっと目指していたんだと思っていた、と。
 昂貴にしか話していない、この専攻を選んだ真の理由を言ったところで、いい加減極まりないと思われるだけだろう。
 でも、きっかけなんて、どうでもいいのかもしれない。
 くだらなかったり、適当だったりしても。
 自分の他の全ての可能性を捨てて、ひとつの道を選べるくらいに、興味を持てることに出会えたのだから。

「でも、だからって、どうして昂貴はわざわざ美術史学を選んだの? 家族や親戚のうち誰も専攻していない分野っていうだけなら、他に幾らでもあるじゃない。うちの大学だけに限っても、変わった学問は色々あったでしょう?」
「……う」
 そう聞くと、昂貴は何故か言葉を濁した。
 と言うか、むしろ、言葉に詰まってる?
「……笑うなよ?」
「って、なに?」
「じ、実は俺……」
 常にない態度を不思議に思い、背後の彼を見上げたけれど、昂貴は目線を泳がせて、あらぬ方向を見るばかり。
「……美術の成績、五段階評価で『1』と『2』しか取ったことがないんだよ……」
「え……っ、えええええー!?」
 美術って、デッサンとか水彩とか、いわゆる実技の成績よね?
「な、なにそれ、それが本当の理由なの!? 美術が苦手だから!?」
「別にそれだけじゃないっつーの! まぁ、一部ではあるが……」
「ちょ、ちょっと、昂貴ったら、それだけの理由で美術史学を選んだのおぉ!?」
 悪いとは思ったけれど、とても堪えきれなくて、思わず私は吹きだしてしまった。
「なんでそんなに笑うかなぁ……」
「だ、だって、ほら、お料理が得意な人って絵も上手だって言うじゃない? どういう相関性があるのか知らないけど。昂貴って器用だし、だからてっきり、絵を描くのも上手なんだろうなぁって思ってたのに……や、もう、笑いが止まらない、あはははは!」
「だから笑うなっつーの!」
「これが笑わずにいられるわけないじゃないの〜!」
 ほとんどひきつけを起こしたみたい。こんなに笑ったのいつ以来かしらって思うくらい、文字通り、爆笑しちゃった。
「あぁ、もう、笑いすぎてお腹痛い、でもおかしい〜!! あははははは!」
「……ふぅん? まだ笑うか。いいさ、じゃあこうしてやる」
「あ……」
 いきなり、後ろから顎を引き寄せられる。
 細められた目。半開きの口唇。頬にかかる熱い吐息。
 たったそれだけで、私は彼の手に堕ちた。
 まるで、スイッチが切り替わるように簡単に。

 口唇が重なった瞬間も、絡めた視線は離さない。侵入してくる甘い刺激。普段よりも音が立つのは、無理な体勢のせいか、それともわざとなのか。いつものようにもっと深く欲しくなって、少しでも近づこうと、彼に手を伸ばす。だけど思うように動けない。咽喉も苦しい。もどかしくて、腕の中で身体の方向を変えようとしたら、昂貴のほうから抱き寄せてくれた。そのまま私を枕の上に乗せると、ベッドの背に寄りかからせ、覆いかぶさるようにキスを繰り返す。私は首に腕を回して、躊躇わずに応えた。
 片腕で腰を抱くと、もう片方の指を掛け、私を包んでいたタオルケットをそっと剥がしていく。生地がゆっくりと擦れて、快感が背筋を走る。まるで優しく愛撫されているみたい。たった一枚の布はあれよあれよという間に取り払われて、私の素肌が晒された。
 硬いベッドの背と、壁。枕の上で、身体を半分起こした状態で彼の腕の下にいる。目線を少し下に向けるだけでも自分の身体が丸見えになって、すごく恥ずかしい。昂貴は着てるのに。だから彼のシャツのボタンを外したら、昂貴は少し驚いた顔をして、すぐに嬉しそうな表情になった。
 だって、触れたいんだもの。
 このひとの素肌を私の素肌で感じたいの。
 だけど私も触られてるから、手は伸ばしにくいし力は入らないしでうまくできない。そうしたら、昂貴が自分で脱いでくれた。
 真夏の昼下がりとは言え、外は雨、しかもカーテンを閉め切っているとなれば、部屋の中はだいぶ暗い。だからこそ、僅かな明るさが、彼の身体の陰影を浮き彫りにさせる。まるで青年立像の彫刻のように。
 ……やっぱり、綺麗な身体。
 逞しくて、引き締まってて、筋肉質で、すごくバランスが取れてる。でも、色白なところを差し引いても、綺麗という言葉だけで表現するほど、彼のイメージは繊細でも柔弱でもない。かと言って、屈強と言うほど極端でもない。もっと相応しい言葉を捜すなら……そう、精悍だ。どこからどう見ても男性の身体つきなのに、どこか美しさを感じるのは。
 男のひとなんだけど。
 その胸元には、請われてつけた私のくちづけの痕がある。
 以前、私からのキスをと言われた時のように、戯れの中で誘われ、途惑いながらも、初めて異性の肌に残したキスマーク。
 彼自身のまとう空気は、あやしげなものとはほど遠いのに、それだけで、まるで色気にも似た、えもいわれぬ雰囲気が漂う。
 求め合う者の存在を無言で語る痕跡。
 その相手は今、私ひとり。

 彼の重みに、ベッドが音を立てる。近づく影。伸ばされる指。優しく頬を包む手の温かさが心地良くて、そっと摺り寄せ、目を閉じた。
 ごく軽く重ねられた口唇は、幾度かついばむと、耳元に触れ、首筋を辿っていく。
「ん……っ、あ……」
 ゆっくりと肌を伝う口唇の感触に思わずのけぞったら――ゴツッ。
「ぁ痛っ!」
 頭ぶつけちゃった。雰囲気にそぐわない素っ頓狂な声に、彼は一瞬自分のせいかと驚いて私を見やったけれど、すぐに気づいてくすくす笑う。そして、寄りかかっても痛くないようにと、すぐそばに置いてあったクッションをベッドの背の上に置いた。
「これでいいか?」
 体勢を変える気はないみたい。うううー、この格好なんだか恥ずかしいんだけど。
「ううう、このままするの?」
「する。断固続行」
「……ううう〜」
「痛くないだろ?」
「……痛くなければいいってものじゃないもん」
 小声でそう言ったら、にやりと笑って。
「じゃあ、俺に抱きついてろよ」
「なっ……!?」
「ほーら、腕こっち」
 そして、シーツを握っていた私の両腕を、自分の首に絡ませる。私を抱き起こして、にやにや笑いと優しい笑顔のどちらとも取れるような目で、じぃっと私を見つめて。
「こうしてくっついていれば、見えないだろ?」
 ……やっぱり、わかってるんだ。
 恥ずかしかったってこと。
 だけど彼は。
「俺としては、見て欲しいんだけどな」
「っ……絶対嫌っ!」
 冗談じゃないわよっ、ここで下を向いたら、昂貴のが目に入っちゃうじゃないの! まぁ、実を言うと、見たことがないわけじゃないんだけど、なにしろちらっと視界の隅に入っただけだったし、とてもじゃないけどまともに見ることなんてできないわ。そういえば昂貴、口でして欲しいって……アレを、よね!? 嘘おっ、あんなのどうやったら口に入るのよぅ! あ、でも、別に咥えられなくてもいいのかしら? 指を舐めた時みたいにしてくれないかって言ってたし。でもねぇ、いつも疑問に思うんだけど……そういうことするのって普通なの? ううう、どうして私、してもいいなんて言っちゃったのかしら馬鹿馬鹿馬鹿あぁ。でも、それで昂貴が喜んでくれるなら、ちょっと考えちゃうかも……やり方とか、あるのかしら……って、私ったら、なに考えてるのよー!?
「見るのは嫌か。それじゃあ……触ってみる?」
「……、は!?」
 予想外どころか、あまりにも想像外の一言に、思考が凍結。
 ちょっと、今、このひと、さりげなく、とんでもないことを口にしませんでしたか!?
「だってさ、してくれるんだろ?」
「それは、いつかっていう意味で……!」
「そりゃ俺だって、今から舐めてくれとは言わないよ。でもさ、見て触った上でする行為なんだし、どちらか一方くらいできないと『いつか』すら無理だろ?」
 数日前の会話を反芻。
 ええ、確かに言いました。いつかしてもいい、と。
 そういう行為自体の経験は無いけれど、幾ら性行為に関する知識に疎い私でも、だいたいの想像はつくわけで。
 彼の言うとおり、それは確かに、見て触った上でする行為なわけで。
 現在の私はと言えば、その双方を拒否している状態なわけで。
 加えて言えば、口でするということは、見る触るどころの話ではなく、その更に上を行く行為なわけで。
 見ることも触ることもできない今の私では、絶対に無理なのは明白なわけで。
 も、もしや、この場合、彼の台詞は、正論と言うのでは……。
「……ず、ずるいっ……!」
「論理は破綻していないと思うが」
「そういう問題じゃないってば! なんか論点がずれてるもん!」
「そうか? 具体的にどこが?」
「全てが!!」
 と言うか、上手いこと論旨をすり替えられた挙句、たとえ一瞬であっても納得してしまいそうになった時点で、なんか、私、完全に彼のペースに乗せられちゃってる気がするんですけど。……って、それ、いつものことじゃないの、私!
「目で見るのも手で触るのもダメなら……ほら、風澄……わかる?」
 そっと脚に触れる、存在感。って、なんてことしてるんですかあなたってひとは!
「やぁ、押し付けないで……!」
 これまでに交わした行為の中で、知りすぎるほど知っている、その感触。
 それをあらためて認識させられる恥ずかしさは、いたたまれないなんてものじゃない。
「そんなに嫌がられると複雑だなぁ……いつも焦らした後はあんなに可愛くおねだりしてくれるのに」
「あなたが言わせてるだけでしょ!」
 それに、その時だって、欲しいと思うのは『彼』なのに。
 綺麗ごとかもしれない。事実を無視しているのかもしれない。でも、やっぱり違う。
 だって、どんなに快楽に身を浸していても、求めているのは。
 口にするのは、誘うための言葉。時には遠まわしに、時にはストレートに。どう表現しようと、望みは一つ。だけど。
 そうじゃない。そうじゃないの。そういうことじゃないの。お願いだから、誤解しないで。自分でも上手く説明できない気持ちを、彼はきちんと、汲み取ってくれる。
「……わかってるよ。大丈夫」
 それでも口に出して求められるのは嬉しいからと、状況に不似合いなほどの穏やかな笑顔と優しい声で。
 能動と受動の差なんだろうか。どう頑張ったところで、その図式はなかなか揺るがせられるものではないのだから。
 わかっているくせにと泣きたくなることも、知っていて言わせるのかと恨めしく思うこともあるけれど、それでも私は、彼の望みどおりに、彼を求める言葉を口にしてしまう。
 彼は、その言葉の意味を、誤解も曲解もしないから。
 ちゃんと、受け取ってくれるから。
「身体で受け容れられるんだから、大丈夫だろ?」
「やっ……」
 油断した瞬間、ごく軽く、擦り付けられる。
「ちょっ、やだ、やめてったら……もおっ、ほとんどセクハラじゃないの、こんなの!」
「俺としては、れっきとした性行為のつもりなんだけどなぁ。プレイの一環と言うか」
「そ、そんな言葉を使う時点で既に変態行為以外の何物でもないでしょうが!」
「まぁ『セックス』と『性行為』と『えっち』が同じ意味だとすれば、日本語的には、性行為イコール変態行為ということになるし、あながち間違ってもいないか」
「……は?」
「聞いたことない? 『えっち』の語源は変態の頭文字だって」
「えええっ!? そうなの!?」
 どうしてえっちが性行為を指すのかは疑問に思ってたけど……って、なんでよりによってそんな言葉がそんな意味になってるのよぉ!
「つまりな風澄、性行為を交わすということは、すなわち、変態行為を交わすということに……」
「なるわけないでしょ!」
「ダメか」
 だいたい、真面目な顔して、なんてことをのたまってるんですか、このひとは!
「とは言え、セクハラの基準なんて、結局は、女の子の気持ち次第だし。性行為自体、どんなに合意の上だって男が言い張っても、どれほど感じさせても、女の子に否定されたら、それは合意の上の行為とは言えないもんなぁ」
「わかってるなら、やめてよ……こういうのは嫌なんだってば……」
「本当に? どうしても、嫌か?」
「そりゃあ、昂貴とえっちなことをするのは、ちゃんと、合意の上だけど……だからって、こういうのは……」
 ふと視線を上げると、そこには、にやにや笑いながら、私を見やる彼。
 してやったり、って表情。
 そこで、やっと気づいた。昂貴の小さな企みに。
「っ……やっぱりずるい!!」
「いやぁ最近の風澄はそりゃもういろいろな意味で素直で嬉しい限り」
「だからそれは昂貴が言わせてるんでしょっ!!」
「強要した憶えはないぞ?」
 しれっと返す彼に、思わず脱力する。だからこそ性質(たち)が悪いんでしょうが。
「今度は『俺との行為は合意の上』って言質も取ったからな?」
「そんなこと、わざわざ確認するまでもないでしょっ!?」
 思わず開き直って怒鳴りつけると、彼は一瞬きょとんとした後、くすくす笑い出した。
 私には笑うなよと言っておいて、吹き出してしまった私の口唇を塞いだくせに、自分は笑ってばかりって、どうなのよ? ちょっと酷いんじゃないの? なんだか納得いかない一方で、抗議する気にはなれなかった。
 だって、さっきとは違う。私が彼の計画通りに動いて喜んでる笑い方じゃない。
 まるで、嬉しくて、思わず笑顔になっちゃう感じで。
 彼は時々、こういう笑い方をする。そんな時、どうして彼が喜ぶのかわからなくて、自分の台詞を反芻するけれど、特別な理由が思い当たった試しはない。だけど、屈託なく笑う彼に、なぜか私まで嬉しくなる。その笑顔にほだされてるのかな。
「そうだよな、なにを今更、だ」
 そう言って、彼は私を、ぎゅっと抱きしめた。
 やっぱり、昂貴はずるいよ。
 そんな笑顔で、温かい腕に包まれて、こんな優しいキスをされたら。
 これ以上、怒れなくなっちゃうじゃない。
「そうよ、なにを今更、よ」
 温かい身体に凭れ、首筋に頭を乗せ、頬を摺り寄せて、深く息を吸い込む。いつの間にか馴染んでしまった、どきどきするのに、どこかほっとする彼の香り。いつまでもこうして抱きしめていて欲しくなるくらいに。
 そう……合意の上よ。
 このひとに抱かれたいの。抱いて欲しいの。
 たとえ間違っていようと、やっぱり、それが私の素直な気持ちなの。
 行為を交わした相手に『抱いて欲しい』なんて思ったの、あなたしか居ないんだから。
 どちらからともなく目が合って、今度は、ふたりしてくすくす笑った。
「だから、今日は見るか触るか、どちらか一方で良いからさ。な?」
 なのに彼は、穏やかな雰囲気も、うっとりと香りに酔っていた私の気持ちも容赦なく無視して、相変わらずとんでもない要求をする。
「なにが『だから』なの!? しかも、なんなのその二択!?」
 どっちを選んだってとんでもなく恥ずかしいじゃないの!
 だいたい、なんでいきなり逃げ道のない究極の選択なんか迫られてるんですか私は!
「――忘れないで、風澄。これも俺の身体の一部なんだ」
 当たり前のはずの一言に、はっと気づく。
 欲しいと思うのは『彼』だ。
 彼自身、すなわち彼の精神と肉体。可分のようで不可分な、その双方。
 彼の存在の全て。
 けれど、それだって『彼』の身体の一部なのに。

 求める自分を『お願いだから誤解しないで』と思っているくせに、
 私は、その事実から、目を逸らすの?

「……そんなに、して欲しいことなの……?」
「あぁ。風澄には、な」
 行為の『初めて』には、いろいろある。
 でも、経験済みの男女に残された『初めて』は……。
 私自身は、それほど男性経験豊富なわけじゃない。彼以外で知っている男性は三人、そのひとたちと交わした行為は、二桁に届くか届かないかというところだろう。
 彼と交わした行為は、それをはるかに上回る。回数も、内容も、その濃度も、較べようがないくらいに。
 だけど、多くの女性と関係してきたであろう彼に残された『初めて』と、私自身の『初めて』を、同時に捧げ合えることなんて、あと幾つあるんだろう。
 彼が、私としか交わしていない行為が……。

 したいかって聞かれたら、正直、したくない。
 でも、それで昂貴が喜んでくれるとしたら。
 このひととだったら……。

 あの時、それほど長い時間じゃなかったけど、考えた。
 して欲しいと言う彼。できればしたくない私。でも、彼が、私にはしてくれる行為。
 ……それなら、きっと私は、できる、って。

 ――目にしたことは、ゼロじゃない。だから……。

 唾液を飲み込み、目を伏せ、意を決して、彼に手を差し出す。
 その意図を汲んだ彼が、私の手を取り、そっと、その場所へと導いた。

「……っ……!」
 指先に触れた瞬間、お互いに震えが走った。
 静電気にも似た緊張感。

 握らせるのでも、包ませるのでもなく、あくまで、触れさせる程度。
 初めて指先で知る、彼の感触。
 熱くて、硬い。
 そんなこと、知っていたはずなのに。

 『量感』という言葉がある。英語で言うならvolume――すなわち、体積や容積、大きな塊のことを指す。美術史学上では『存在感』とでも言ったような意味だ。本来なら量感という言葉にはmassiveのほうが近いのだろうけど、美術史学ではvolumeを使うのが慣例となっている。
 そう――私は今、まさに、彼自身の『量感』に圧倒されていた。

「全然、違うね……私と……」
 自分の身体に、こんな器官は存在しない。
 挿入するための器官と、受け容れるための器官。体の組織の成り立ちを考えれば、それは表裏一体で、本来は差異が無いはずなのに。
「……男と女だからな」
 身体を繋いで、そして、生命を繋いでいくための器官。
 その瞬間は、薄膜に隔てられて、きっと辿り着くことはないけれど、私たちは、その行為を交わしてる。

 それは傍から見れば滑稽極まりない触れ合いだっただろう。
 特になにをしたわけでもない、単なる接触。皮膚と皮膚。ただ、その位置が違うだけ。
 だけど、その双方が、敏感な性感帯。

「手、離して……もう、限界……」
 恥ずかしいし、どきどきするし、なんかもう、わけわかんない。
 何度もいかされた後みたいに、頭の中がぐるぐるしてる。

 ふ、と温もりが離れる。
 そこで、思わずふたりして息をついた。私は当然だけど、昂貴も緊張していたことに今ごろ気づいて、言い出したのは自分のくせにと心の中で苦笑しつつ、どこかほっとする。いつも余裕綽々な彼にも、そんな一面があるんだなって。でも、あたりまえよね。こんなこと、彼も初めてなんだから。
「こんな調子じゃ、俺も情けないことになりそうだしな」
 離れた熱。だけど、私の指先に残った感覚は、間違いなく彼自身に触れた証拠。
 たぶん、今の私は耳まで真っ赤になっちゃってるんだろうなぁ。心なしか、苦笑する彼の頬も、染まっているような気がする。
「なんとなく、風澄には素質がありそうな気が……」
「そんなのあっても嬉しくなあぁい!」
「俺は嬉しい。ありすぎても複雑だけどな」
 もう普段の調子を取り戻してる彼が、ちょっと恨めしい。
 いつか昂貴にだって思い知らせてやるんだから。
「あぁ……これで『手で触られる』のと『手で触る』の『初めて』は、もう、交換したな」
「そっか……そう、なんだ……」
 気づいたら、ほんとにひとつ、増えちゃった。呆気ないくらい、あっさりと。きっかけは唐突だったし、ものすごく緊張したけど、初めて触れたという事実は、もう覆らない。
 でも、たぶん……昂貴がして欲しいっていうのは、こんなんじゃないよね。
 性行為なんだから、行き着く先は、きっと……。
「頑張ってくれて、ありがとう」
 触れた手を取り、指を撫でると、その甲に彼は軽く口唇を落とした。
「……うん」
 勇気って、ときどき、変なところで必要になる。
「恐いし、恥ずかしいけど……」
 未経験の行為に怯むのは、誰しも当然のことだ。でも、恐いのは彼じゃないし、既知とは言えないまでも、もはや未知のものではない。
「たぶん、無理じゃないと思う……」
 難しいのは、最初の一歩を踏み出すこと。一歩目から二歩目へと進むのは、それよりずっと容易なはずだ。
「だから……いつか、するから……きっと……」
「……あぁ、待ってる」
 こんな状況なのに、あんなことした後なのに、どうしてこんなに爽やかに笑えるんだろう。
 彼の笑顔は、どう考えても、やっぱりずるい。
 意地悪を言ったり、変なことを言い出したりするけれど、拒む気になれない。それ以上に、受け容れたくなる。その求めに、応えたくなる。
「ま、無理はしなくていいからさ。そのうちな」
「……ううう〜、やっぱり変態……」
 くすくす笑って、彼は私の身体を抱き寄せ、行為の再開のキスをする。
 空調が効いているせいか、肌が触れ合うと熱いくらい。
 あぁ、枕にバスタオル巻いてて良かった。このままじゃ汚れちゃうもの……って、私ったら、またとんでもないこと考えてる。あぁもう、昂貴のせいだからね?
「っ、は……ぁ、ん……」
 彼の身体に私を預けて、彼の行為をされるがままに受け容れる。
 ゆっくりと、私の身体の奥に火をつけていく彼の指……。
 挿入もされていないのに、見つめられていることが恥ずかしくて、自分の体勢が恥ずかしくて、目のやり場に困る。思わず視線を外したら、優しいけれど抵抗を許さない指で、促すように顔を寄せられた。
「こら、目、逸らすなよ」
「……だって」
 なによぅ、ちょっと恥ずかしかっただけだもん。昂貴に集中してるし、ちゃんと、あなたのこと、考えてるのに。
「下は向かなくていいからさ。俺のほう向いてろ」
 知り合ってから暫くは、見なくていいと言っていたのに、今は見ろと言う。
 だけど、それが嬉しい。

 あの頃は、自分の顔を見られる恥ずかしさ以上に、彼の顔を見たかった。
 どんな表情をしているのか、本当に、私を見てくれているのだろうかって。
 今はもう、目を閉じていたって彼の表情がわかる。
 それでも行為は、見つめ合って交わすのが一番いい。
 こんなふうに、抱き合いながら。

 私の喘ぎ声と、彼の囁きと、お互いの吐息。ベッドの軋み。止まらない水音。
 潤んだ視界の中、彼を見上げる。
 ねぇ、あなたは気持ちいい?
 聞かなくたってわかる。その顔を見たら。
 私で感じてくれているのが嬉しいなんて思ったら、あなたは私を軽蔑するかしら……。

 目が覚めた時の寂しさが嘘みたい。
 彼がいるだけで、こんなに満たされてる。

 大切にされてるって知ってる。
 私も大切にしたい。
 誰よりも、彼を。
 特別だから。
 今、誰よりもいちばん大切なひとだから。

 ……今……?
 本当に、それだけ……?

 昨日も一昨日も彼が大切だった。
 明日も明後日も、きっと。

 一年前は、知らないひとだった。
 じゃあ、一年後は?

 このひとと一緒にいたい。失くしたくない。独り占めしたい。そう思ってた。
 それだけだと思ってた。

 この関係がなんなのかなんて、どうでも良かった。
 恋じゃなくてもいいって思ってた。

 ――だけど、本当に、私は、それでいいんだろうか――?

 ……あれ……?
 私、なにを考えてるんだろう……?
 これじゃあ、まるで……。

 ――私は、うっすらと感じていた。
 彼の与えてくれる快楽の波に揉まれながらも。
 心の奥底からゆっくりと浮かび上がり、姿をあらわそうとしていた、
 それは、ひとつの予感。

 目前に迫る変革なんて、その時の私は、まだ気づくはずもなかったけれど、
 もう、それは、とっくに始まっていた。

 三年前、止まってしまった私の時間。立ち止まり続けた三年間。
 出逢いと共に動き出した時計。揺れる振り子。刻まれる時間。知らず知らずのうちに針は回り、時が巡っていく。

 目醒めの瞬間へと。

 * * * * *

 そして、次の日。
 案の定、昂貴は、ばっちり風邪をひいた。

 あんな濡れねずみのままで放ったらかしにして、しまいには激しい運動なんかするからよ。私にはうつさないでよね? 発表控えてる身なんだから。

 でも、これなら役に立てるかも? と、私が密かに喜んだのは秘密。
 だって、いつもしてもらってばかりなんだもの。
 もちろん笑顔で『チキンスープでいい?』って聞いたわよ。苦笑してた。
 今はおかゆのほうがいいなあ、って。了解。
 『本当は風澄を食べたい』とかほざいていたのは完全無視。

 おかゆは作れるのよ。一昨日の夜に使ったグリュイエールチーズの残りを使い切るべく、昨夜はドリアにしたから、ちょうどご飯を炊いてあったしね。余ったぶんを冷凍しておいて良かったわ。ちなみに、おかゆの作り方を憶えたのは実家に居た時。風邪をひいてから少し良くなってきた頃、変な時間に食事をしたくなって作ったのが最初だったりするのよね。
 みっともないところを見られたと、昂貴は不服そうだったけど、私はちょっと嬉しかったんだけどな。
 ずっと一緒にいられたし、からかうネタもできたし。
 ……彼の寝顔も堪能したしね。

 このひとを大切にするって、こういうことでもいいのかな?
 ねぇ、火澄兄。
 不思議だけど、こうしていたい。だからいいよね?

 でもね、夜中に目が醒めた時、昂貴がちょっとおかしかったの。
 ものすごく夢見が悪かったせいらしいけど、あんな昂貴、初めて見た。すぐ、普段の彼に戻ったけど。なんだったのかしら。

 なんでもいいけど、寝言で名前を呼ばれるのはちょっと恥ずかしいわ。
 でも、他の女の名前なんか呼んだら許さないからね。

 ちなみに、看病の甲斐あってか、その翌日には彼は全快してしまった。
 お礼も含め、あいた一日ぶんを取り返す勢いでえっちされたのは言うまでもない……。

 八月も、もうすぐ終わりに近づいてる。
 甘い生活の中で、少しずつ、歯車は動き始めていた――。
Line
To be continued.
2010.05.30.Sun.
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