Dolce Vita
07.不安
* Kasumi *
翌朝、目覚めると、部屋には雨音が響いていた。そういえば、台風だったか低気圧だったかの影響で、昨夜の天気予報で今日は一日雨模様だと聞いた気がする。
だけどそんなことはどうでもよかった。私たちには。
私の発表の準備がすっかり終わってしまったのをいいことに、また陽のあるうちから一度目。昨夜はしなかったとはいえ、昨日だって一昨日だって、何度もしてるのに。自堕落な生活だと思いながらも止められない。
触れ合う肌が心地よくて、昼食も摂らずにそのままふたりで抱き合っていた。
私は、いつの間にかうとうとと眠ってしまっていたらしい。
彼に抱かれるようになってから知ったのは、目覚めた時に満たされている自分。
ひとりで眠り、目覚める朝とは明らかに違う。
身体の隅々まで満足感が広がっていて、はしたないかもしれないけれど、心まで悦びに満たされてる。
その感触を味わっていたくて、ゆるゆるとまどろんでいたのだけれど、ふと気づいて一気に覚醒した。
そこにあるはずのぬくもりがない。
――誰もいなかった。
がばり、と飛び起きて、あたりを見回す。
自分の部屋だ。
あれ? と思ったのは、最近ここに帰ってきていなかったから。帰省した翌日から昨日の夕方まで、ずっと昂貴の部屋で過ごしていた。そろそろ自分の部屋の換気や掃除も気になって、どうせならということで、昨日の夕方こちらに戻り、彼と一緒にこの部屋に泊まった……んだけど。
昂貴の部屋ほど広くないとはいえ、学生一人で住むには贅沢すぎるサイズのマンションの一室。ふたつぶんのベッドが並ぶ広さにひとつしか置いていないせいだろうか、家具は揃っているのに、どこか、がらんとした寝室。
ベッドサイドに置いてある姿見に映るのは、一糸まとわぬ自分。
「!」
胸元に幾つもの、行為の痕。
そこだけじゃない。身体じゅうに、全身の『普通は見えないところ』に、くまなく刻まれている。
……夢じゃない。
あの全てが、偽物だったわけじゃない。全部現実だった。
あたりまえだけれど、確認してほっとする。この数日、彼と過ごした甘い時間があまりに素敵だったから。怖いほど。……あれが全部夢だとしたらなんて、とても考えたくない。
じゃあ、どうして?
心臓が早鐘を打ちだす。気配がない。このうちのなかには、誰もいない。
ずっと一緒にいたのに。
どこにいるの?
あたりを見回すと、ベッドの周りに落ちているはずの服が見当たらない。気づけば、パジャマも部屋着もいつの間にか綺麗にたたまれて、部屋の隅に置いている丸テーブルの上にあった。私の部屋に置いてある、彼のパジャマさえも。
どうして、脱ぎ散らかしたままじゃないの?
いつもは綺麗好きな彼が嬉しいのに、こんな時は悲しくなる。
まるで、帰ってこないひとみたいで。
きっと、たいしたことじゃない。
大学に行ったとか。あるいは、なにか用事を思い出したとか。
それとも。
目が覚めて、いたはずのひとがいないと、すごく不安になる。
そこにいた証だけ残して消えてしまったりしないで……。
雨の音が、余計に不安を掻き立てる。
なにも身につけていない自分が心もとなくて、寒いわけじゃないのに、タオルケットを身体に巻きつける。パジャマや部屋着なんて着たくなかった。彼の温もりを少しでも感じたかった。
ベッドに掛けて足元を見ると、すぐ傍に私のスリッパが揃えられていたけれど、彼が使っているものは無かった。
立ち上がると、周りを見渡せてしまうから、余計にひとりだと感じる。
寝室を出て、あたりを見回したけれど、やっぱり彼の気配は感じられない。
マンションの構造上――たぶん、ここは角部屋じゃないから採光のためだと思うのだけれど――リビングからダイニングにキッチンまで、一目で見渡せるつくりになっている。だからこそ、一瞬でわかってしまう……昂貴がいないということが。
他の部屋が無いわけじゃない。でも、そこにいるとは思わなかった。何故か、明らかな確信があった。
この部屋で、ひとりじゃなかったことのほうが少ない。
見慣れてる光景のはずなのに、どうしてこんなに広く感じられるのだろう?
日本、しかも東京の住宅事情から言って怒られてしまいそうだけど、ものすごく広い家で育ったせいか、私は狭い部屋が苦手だった。ここは家具や収納の数は揃っているのだけれど、もとが広いから、私ひとりの荷物じゃたかが知れていて、結局、がらんとした空間が広がっている。
物が詰まっているよりずっといいと思ってた。
なのに、まるでだだっぴろいだけの空間に放り出されたような気さえしてくる。
心細くて。
雨音。やまない。窓に打ち付ける雨と風。うるさくはない。だけど怖い。立っているだけで、わけのわからない恐怖が呼び起こされる。
あのひとと一緒に過ごしている時は雨の降る日が好きなのに、ひとりきりの今は心細いだけ。
どうしてこんなに不安になるの?
――ガタン。
前触れなく響いた音に驚いて振り向くと、そこには私が探していたひとがいた。
扉を閉じて施錠し、玄関からこっちを見たかと思うと、私の格好にぎょっとして、すぐさま靴を脱いでスリッパを履き、近づいてくる。
「どうした?」
私、まだなにも言ってないわよ?
なのにどうして、そんな嬉しそうな顔するの?
『寂しかったんだろ?』って表情。
「……なんでもない」
片手にビニール袋と、私のキーホルダー。
私たちは今も、合鍵を交換していない。でも、最近は半同棲状態だったから、相手が寝ていたりシャワーを浴びていたりする時でも出入りできるようにと、お互いのスペアの鍵をわかりやすいところに置くようにしていた。
……お買い物に行くなら、メモくらい書いていってよ。
不安になって損したわ。……今こうして一緒にいるからこそ思えることだけど。
あのまま、もし彼がずっと帰ってこなかったら、私はどうしていただろう。
どうなってしまっていただろう……。
想像さえしたくない。だから、目の前にいる彼に、素直に甘えられない。
「ふぅん?」
きっと、私がどうしてたかなんて全部、わかっちゃってるんだろうな。
わかってもらえてるって、自惚れたり、それで伝える手抜きをしたりはしたくないんだけど、そんなことしなくても、彼は私のことを見抜いてしまう。
かと言って、私がわかってもらえてるぶん、私が彼をわかってるかって言ったら、全然わかっていないような気もするんだけど。
口惜しいな。やっぱり敵わないんだ、このひとには。
なんだか私ばっかり振り回されてるみたい。
今すぐ抱きつきたいのに、素直になれない。
こういう時は、つい意地を張っちゃう。私、三人兄弟の末っ子の、完全なる『妹』のくせに、すごくそういうの苦手なの。甘えたり素直に言ったりお願いしたり。
「呼べばよかったのに」
「え?」
いつでも呼べば来るとでもいうかのような言葉に、一瞬どうしていいかわからなかった。携帯を目の前で振られて、初めて意味に気づく。……恥ずかしい。私ったら、なにを考えているのかしら。
「携帯。かければよかったのに」
そうか。忘れてた。
なにやってるんだろう私。ほんと、馬鹿みたいだわ。
キーホルダーが無いことにも気づかなかったし。もし彼が帰らないつもりなら、そのまま出て行けば良いんだもの。それに、よく見たら、昂貴の鞄だってダイニングに置いてある。携帯とお財布と鍵だけ持って出かけてたんだ。
「おまえ、電話してきたことないし」
「昂貴だって、一度だけでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
必要なかったのよね。夏休み前は必ず次に逢う予定を約束していたし、最近はずっと一緒だったから。夏休みに入るまでと、実家に帰省していた時に、メールは結構やりとりしたけど、電話は一度きり。あんなコールが最初っていうのは不満だけど、声だけなんて嫌。最寄り駅だって、たった二駅しか離れてないんだもの。電話するくらいなら逢いたい。そばにいたい。
「だいたい、お互い電話嫌いなんだもの」
「まぁな」
ふ、と笑って、彼は髪を少しうるさそうに掻きあげた。
その仕草を不思議に思い、手を伸ばすと、髪に湿り気を感じた。頬にも水滴?
「濡れてる?」
「あぁ、さっきは小雨だったし、近場だから面倒でさ。でも、思ったより降られたな」
「勝手に使って良かったのに。ピンクの花柄の傘とか似合うんじゃない?」
ふざけてそう言ったら「下手したらおまえより似合うかもな」だって。
私の一番のお気に入りの傘をさしてる姿を想像して、つい吹き出しちゃった。
合わせてくれる。顔も身体も中身も男らしいひとなのに。
あぁ、そうか。笑わせてくれたんだ。リラックスして、いつもの私たちに戻れるように。
やっぱりあなたは優しいね。
「そのままじゃ風邪ひいちゃうわよ?」
タオルを取ってこようとした私を引き止め、向かい合わせにして、両手で腰を抱き寄せる。その腕に私も手を絡ませて、ゆったり揺れながら見詰め合う。なに?
「言ってくれないのか?」
きょとんと見つめて首を傾げると、彼は悲しそうにため息をついて。
「おかえりなさいは?」
忘れてた。だって、出かけたことも知らなかったんだもの、仕方ないじゃない。
「……………………おかえりなさい」
「心がこもってなあぁい」
かくっと下を向いて、泣き真似なんかしてる。こういうときの昂貴って、本当に子供みたい。図体大きいくせに、まったくもう。
仕方ないから、恥ずかしいけど首ごと顔を抱き寄せて。
顔見てなんて言えないから耳元でね。
いつものお返し。
「……おかえりなさい」
そう囁いたら、彼は照れるどころか私をぎゅっと抱きしめて。
「ただいま」
って。……ハートマークついてませんでしたか今。
なんて思っていたら、そっと頬にキスをされる。
「ひとりにしたお詫び。……しばらく起きないだろうと思ってたんだけどな。でも、超特急で帰ってきたんだけど」
などと言いながら、ぽんぽんと私の頭を撫でる。
つまり、私が目を覚ました頃に出かけたの? むうぅ。やっぱりあんなに不安になって損したわ。
「もうちょっと見たかったんだけどなぁ」
ここで『立ち読みしてた雑誌』とか言ったら本気で怒るからね。そんなこと考えながら言葉の続きを待ったら。
「風澄の寝顔」
……っ!
ううう、そりゃあ、私も昂貴の寝顔、ついじっくり見ちゃうけど、やっぱりひとに見られるのはちょっと……だって、一体、どんな間抜けな顔を晒しているかわからないし。
「可愛いんだこれが……」
うわ顔のデッサン崩れてる……いつもきりっとしてるのに。それこそ寝顔でさえ、そういうところは変わらないのに。
「あ、でも」
なに? またなにか馬鹿なこと言おうとしてるんでしょう。
「俺以外の奴に見せるなよ」
がっくり。見せるわけないでしょうが、そんなもの。
あなたとしかしてないって言ったでしょ?
完全却下! 断固阻止! とか言いながら冷蔵庫に買ってきたもの入れたりしてる。
……寝室に箱をひとつ持っていくのも、しっかり見ちゃった。
あ、そうか。そのために出かけたんだ。そうなんでしょう?
そうじゃなかったら、あの状況で私をひとりにするひとじゃないもの。
私のために? 彼のために? ……ううん、ふたりのために。そう思ってもいい?
いやらしいかな、やっぱり淫乱かな。
だけど、そうしたのはあなただし、それでいいのよね。
そのことを嬉しいと思ってもいいかな。
翌朝、目覚めると、部屋には雨音が響いていた。そういえば、台風だったか低気圧だったかの影響で、昨夜の天気予報で今日は一日雨模様だと聞いた気がする。
だけどそんなことはどうでもよかった。私たちには。
私の発表の準備がすっかり終わってしまったのをいいことに、また陽のあるうちから一度目。昨夜はしなかったとはいえ、昨日だって一昨日だって、何度もしてるのに。自堕落な生活だと思いながらも止められない。
触れ合う肌が心地よくて、昼食も摂らずにそのままふたりで抱き合っていた。
私は、いつの間にかうとうとと眠ってしまっていたらしい。
彼に抱かれるようになってから知ったのは、目覚めた時に満たされている自分。
ひとりで眠り、目覚める朝とは明らかに違う。
身体の隅々まで満足感が広がっていて、はしたないかもしれないけれど、心まで悦びに満たされてる。
その感触を味わっていたくて、ゆるゆるとまどろんでいたのだけれど、ふと気づいて一気に覚醒した。
そこにあるはずのぬくもりがない。
――誰もいなかった。
がばり、と飛び起きて、あたりを見回す。
自分の部屋だ。
あれ? と思ったのは、最近ここに帰ってきていなかったから。帰省した翌日から昨日の夕方まで、ずっと昂貴の部屋で過ごしていた。そろそろ自分の部屋の換気や掃除も気になって、どうせならということで、昨日の夕方こちらに戻り、彼と一緒にこの部屋に泊まった……んだけど。
昂貴の部屋ほど広くないとはいえ、学生一人で住むには贅沢すぎるサイズのマンションの一室。ふたつぶんのベッドが並ぶ広さにひとつしか置いていないせいだろうか、家具は揃っているのに、どこか、がらんとした寝室。
ベッドサイドに置いてある姿見に映るのは、一糸まとわぬ自分。
「!」
胸元に幾つもの、行為の痕。
そこだけじゃない。身体じゅうに、全身の『普通は見えないところ』に、くまなく刻まれている。
……夢じゃない。
あの全てが、偽物だったわけじゃない。全部現実だった。
あたりまえだけれど、確認してほっとする。この数日、彼と過ごした甘い時間があまりに素敵だったから。怖いほど。……あれが全部夢だとしたらなんて、とても考えたくない。
じゃあ、どうして?
心臓が早鐘を打ちだす。気配がない。このうちのなかには、誰もいない。
ずっと一緒にいたのに。
どこにいるの?
あたりを見回すと、ベッドの周りに落ちているはずの服が見当たらない。気づけば、パジャマも部屋着もいつの間にか綺麗にたたまれて、部屋の隅に置いている丸テーブルの上にあった。私の部屋に置いてある、彼のパジャマさえも。
どうして、脱ぎ散らかしたままじゃないの?
いつもは綺麗好きな彼が嬉しいのに、こんな時は悲しくなる。
まるで、帰ってこないひとみたいで。
きっと、たいしたことじゃない。
大学に行ったとか。あるいは、なにか用事を思い出したとか。
それとも。
目が覚めて、いたはずのひとがいないと、すごく不安になる。
そこにいた証だけ残して消えてしまったりしないで……。
雨の音が、余計に不安を掻き立てる。
なにも身につけていない自分が心もとなくて、寒いわけじゃないのに、タオルケットを身体に巻きつける。パジャマや部屋着なんて着たくなかった。彼の温もりを少しでも感じたかった。
ベッドに掛けて足元を見ると、すぐ傍に私のスリッパが揃えられていたけれど、彼が使っているものは無かった。
立ち上がると、周りを見渡せてしまうから、余計にひとりだと感じる。
寝室を出て、あたりを見回したけれど、やっぱり彼の気配は感じられない。
マンションの構造上――たぶん、ここは角部屋じゃないから採光のためだと思うのだけれど――リビングからダイニングにキッチンまで、一目で見渡せるつくりになっている。だからこそ、一瞬でわかってしまう……昂貴がいないということが。
他の部屋が無いわけじゃない。でも、そこにいるとは思わなかった。何故か、明らかな確信があった。
この部屋で、ひとりじゃなかったことのほうが少ない。
見慣れてる光景のはずなのに、どうしてこんなに広く感じられるのだろう?
日本、しかも東京の住宅事情から言って怒られてしまいそうだけど、ものすごく広い家で育ったせいか、私は狭い部屋が苦手だった。ここは家具や収納の数は揃っているのだけれど、もとが広いから、私ひとりの荷物じゃたかが知れていて、結局、がらんとした空間が広がっている。
物が詰まっているよりずっといいと思ってた。
なのに、まるでだだっぴろいだけの空間に放り出されたような気さえしてくる。
心細くて。
雨音。やまない。窓に打ち付ける雨と風。うるさくはない。だけど怖い。立っているだけで、わけのわからない恐怖が呼び起こされる。
あのひとと一緒に過ごしている時は雨の降る日が好きなのに、ひとりきりの今は心細いだけ。
どうしてこんなに不安になるの?
――ガタン。
前触れなく響いた音に驚いて振り向くと、そこには私が探していたひとがいた。
扉を閉じて施錠し、玄関からこっちを見たかと思うと、私の格好にぎょっとして、すぐさま靴を脱いでスリッパを履き、近づいてくる。
「どうした?」
私、まだなにも言ってないわよ?
なのにどうして、そんな嬉しそうな顔するの?
『寂しかったんだろ?』って表情。
「……なんでもない」
片手にビニール袋と、私のキーホルダー。
私たちは今も、合鍵を交換していない。でも、最近は半同棲状態だったから、相手が寝ていたりシャワーを浴びていたりする時でも出入りできるようにと、お互いのスペアの鍵をわかりやすいところに置くようにしていた。
……お買い物に行くなら、メモくらい書いていってよ。
不安になって損したわ。……今こうして一緒にいるからこそ思えることだけど。
あのまま、もし彼がずっと帰ってこなかったら、私はどうしていただろう。
どうなってしまっていただろう……。
想像さえしたくない。だから、目の前にいる彼に、素直に甘えられない。
「ふぅん?」
きっと、私がどうしてたかなんて全部、わかっちゃってるんだろうな。
わかってもらえてるって、自惚れたり、それで伝える手抜きをしたりはしたくないんだけど、そんなことしなくても、彼は私のことを見抜いてしまう。
かと言って、私がわかってもらえてるぶん、私が彼をわかってるかって言ったら、全然わかっていないような気もするんだけど。
口惜しいな。やっぱり敵わないんだ、このひとには。
なんだか私ばっかり振り回されてるみたい。
今すぐ抱きつきたいのに、素直になれない。
こういう時は、つい意地を張っちゃう。私、三人兄弟の末っ子の、完全なる『妹』のくせに、すごくそういうの苦手なの。甘えたり素直に言ったりお願いしたり。
「呼べばよかったのに」
「え?」
いつでも呼べば来るとでもいうかのような言葉に、一瞬どうしていいかわからなかった。携帯を目の前で振られて、初めて意味に気づく。……恥ずかしい。私ったら、なにを考えているのかしら。
「携帯。かければよかったのに」
そうか。忘れてた。
なにやってるんだろう私。ほんと、馬鹿みたいだわ。
キーホルダーが無いことにも気づかなかったし。もし彼が帰らないつもりなら、そのまま出て行けば良いんだもの。それに、よく見たら、昂貴の鞄だってダイニングに置いてある。携帯とお財布と鍵だけ持って出かけてたんだ。
「おまえ、電話してきたことないし」
「昂貴だって、一度だけでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
必要なかったのよね。夏休み前は必ず次に逢う予定を約束していたし、最近はずっと一緒だったから。夏休みに入るまでと、実家に帰省していた時に、メールは結構やりとりしたけど、電話は一度きり。あんなコールが最初っていうのは不満だけど、声だけなんて嫌。最寄り駅だって、たった二駅しか離れてないんだもの。電話するくらいなら逢いたい。そばにいたい。
「だいたい、お互い電話嫌いなんだもの」
「まぁな」
ふ、と笑って、彼は髪を少しうるさそうに掻きあげた。
その仕草を不思議に思い、手を伸ばすと、髪に湿り気を感じた。頬にも水滴?
「濡れてる?」
「あぁ、さっきは小雨だったし、近場だから面倒でさ。でも、思ったより降られたな」
「勝手に使って良かったのに。ピンクの花柄の傘とか似合うんじゃない?」
ふざけてそう言ったら「下手したらおまえより似合うかもな」だって。
私の一番のお気に入りの傘をさしてる姿を想像して、つい吹き出しちゃった。
合わせてくれる。顔も身体も中身も男らしいひとなのに。
あぁ、そうか。笑わせてくれたんだ。リラックスして、いつもの私たちに戻れるように。
やっぱりあなたは優しいね。
「そのままじゃ風邪ひいちゃうわよ?」
タオルを取ってこようとした私を引き止め、向かい合わせにして、両手で腰を抱き寄せる。その腕に私も手を絡ませて、ゆったり揺れながら見詰め合う。なに?
「言ってくれないのか?」
きょとんと見つめて首を傾げると、彼は悲しそうにため息をついて。
「おかえりなさいは?」
忘れてた。だって、出かけたことも知らなかったんだもの、仕方ないじゃない。
「……………………おかえりなさい」
「心がこもってなあぁい」
かくっと下を向いて、泣き真似なんかしてる。こういうときの昂貴って、本当に子供みたい。図体大きいくせに、まったくもう。
仕方ないから、恥ずかしいけど首ごと顔を抱き寄せて。
顔見てなんて言えないから耳元でね。
いつものお返し。
「……おかえりなさい」
そう囁いたら、彼は照れるどころか私をぎゅっと抱きしめて。
「ただいま」
って。……ハートマークついてませんでしたか今。
なんて思っていたら、そっと頬にキスをされる。
「ひとりにしたお詫び。……しばらく起きないだろうと思ってたんだけどな。でも、超特急で帰ってきたんだけど」
などと言いながら、ぽんぽんと私の頭を撫でる。
つまり、私が目を覚ました頃に出かけたの? むうぅ。やっぱりあんなに不安になって損したわ。
「もうちょっと見たかったんだけどなぁ」
ここで『立ち読みしてた雑誌』とか言ったら本気で怒るからね。そんなこと考えながら言葉の続きを待ったら。
「風澄の寝顔」
……っ!
ううう、そりゃあ、私も昂貴の寝顔、ついじっくり見ちゃうけど、やっぱりひとに見られるのはちょっと……だって、一体、どんな間抜けな顔を晒しているかわからないし。
「可愛いんだこれが……」
うわ顔のデッサン崩れてる……いつもきりっとしてるのに。それこそ寝顔でさえ、そういうところは変わらないのに。
「あ、でも」
なに? またなにか馬鹿なこと言おうとしてるんでしょう。
「俺以外の奴に見せるなよ」
がっくり。見せるわけないでしょうが、そんなもの。
あなたとしかしてないって言ったでしょ?
完全却下! 断固阻止! とか言いながら冷蔵庫に買ってきたもの入れたりしてる。
……寝室に箱をひとつ持っていくのも、しっかり見ちゃった。
あ、そうか。そのために出かけたんだ。そうなんでしょう?
そうじゃなかったら、あの状況で私をひとりにするひとじゃないもの。
私のために? 彼のために? ……ううん、ふたりのために。そう思ってもいい?
いやらしいかな、やっぱり淫乱かな。
だけど、そうしたのはあなただし、それでいいのよね。
そのことを嬉しいと思ってもいいかな。
To be continued.
2010.03.28.Sun.
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