Dolce Vita

05.リハーサル


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 真夏の昼過ぎとは言え、カーテンを閉めて明かりを落とせば、部屋はそれなりに暗くなる。スライドを映すには少々明るいかもしれないが、真っ暗ではレジュメも見にくいし、充分だろう。
 投影機のスイッチを入れると、居間の家具を除けて作ったスクリーン代わりの壁の隙間に、あの作品が映し出された。

「この作品、すなわち《洗礼者聖ヨハネ》は――」
 風澄のプレゼンのリハーサルは、作品の紹介から始まった。
 画家自身の略歴、作品の制作年代、描画方法、素材、サイズ、現在この作品を所有している美術館、来歴など、基本的な情報を列挙していく。

 以前、俺が無理矢理見せて以来、ほとんど毎日のように目にしていた、あの絵。
 まるで俺たちを『宗哉』が眺めているようで複雑な気持ちになったけれど、そこで風澄に目を向けると、彼女は、浮かび上がる《洗礼者聖ヨハネ》を、まっすぐに見つめていた。
 決して楽なわけではないだろう。
 けれど、今の風澄は、もう、視線を逸らそうとはしない。

 この絵をただの絵だと思えるようになってみせる――風澄が自分自身に誓ったこと。
 つい数ヶ月前までは、目にすることすら辛いと思っていたはずの作品なのに。

 最初は、ただの思いつきと、自分自身の心の奥の密かな恐怖から。酷なことかとも考えたが、荒療治だと言い訳していた。画集の中の写真なんて、単なるドットの集合体。結局は、ただの印刷物。そのくせ、その無数の点の色や位置だけで、彼女の胸を簡単に抉る。その事実に苛立ちも感じながら、何度も何度も、彼女の拒否や抵抗すら捩じ伏せて見せ――そして今は。
 その意味を思えば単純に嬉しいし、安堵する気持ちもある。
 なにより、繊細なようで強靭な、彼女の精神力。
 過去への決別に対する確かな意志の、明らかな証明だから。

「……多くの学者が言うように、彼が斬首というものに潜在的恐怖を少なからず感じていたということも、その理由のひとつであろうと思われます。なぜならば……」
 暗い部屋に響く、透き通った声。そのへんのアナウンサーなんて目じゃないくらい、とおりも滑舌も良い。落ち着いていて張りのある喋り方は、プレゼンテーション向けの発声の鍛錬でも積んだのかと思うくらいだ。
「……レジュメにも記載いたしましたように、洗礼者聖ヨハネを描くには二通りの方法があるとされています。この場合は後者、すなわち……」
 スライドを転換する機械音。作品を指し示すポインターの光。
「……なお、参考として挙げました二点の先行する作品についての補足ですが、こちらが真作であり、こちらがレプリカ、すなわち画家本人による複製とされた理由は、X線写真により、描きなおしの痕跡が見られないためです。つまり、こちらの真作を下敷きとした模写作品で……」
 わかりやすく丁寧で簡潔な説明。滞らない流れ。興味をそそられずにはいられない、完成度の高い内容。
「……以上です」
 プロジェクターの電源を切ったところで、プレゼンは終わった。
 本来ならば質疑応答の時間が入るところだが、リハーサルはここまで。
 俺は思わず拍手をしてしまった。去年もすごいと思ったけれど、段違いだ。内容の充実がそれを助けてる。本領発揮ってところだろうか。
「……上出来。立派なもんだ、これだけできれば」
「ほんと?」
「このままいけば完璧」
「昂貴のお墨付きがもらえれば、もう安心ね」
「ああ。……ご褒美、いる?」
 にやっと笑って聞いてみると。
「……ちょうだい」
 風澄から、キスをせがんできた。居間のソファに座っている俺の目線に合わせてかがんで、肩に手を置いて、目を閉じて。でも自分からはそれ以上近づかない。あくまで、ご褒美のおねだり。その姿があまりに可愛かったから、俺は彼女の口唇をそっと指でなぞった。
「あ……」
 そして、ゆっくりと口内に侵入する。歯を撫で上げ、開かせて……舐めさせる。この前、俺がされたのと同じように。
「面白かったよ……プレゼン。レジュメも、説明もわかりやすいし……」
「……っ、ん……」
「風澄の声がさ、部屋に響いて……よく通って、すごく綺麗だった」
「ん……っ、はむ……」
「せっかくだから、もうちょっと詰めようか。念には念を、って」
「っう……」
 閉じられていた瞼が、ゆっくりと開けられる。キスはしてくれないの? っていう目。だから俺は唾液で絡んだ指を抜いて、今度は自分で舐める。風澄の唾液を。
「あ……!」
 かあぁっと赤くなる風澄。自分でしたことを思い出して、更に見つめられながらこんなことをされて……恥ずかしいのだろう。
 なぜだろう。翻弄するのは平気なのに、翻弄されるのが気恥ずかしいのは。
 だけど、悦んでいるのは翻弄されたほうだと、俺も風澄もわかってる。
「美味いよ」
 上手いよ、じゃなくて。
「やぁ……」
 俯く彼女を、その濡れた手で止めて、また口唇に触れる。
 そしてやっと、ご褒美のくちづけを。
 待たせたぶん、たっぷりと。
「あ……っ、ん……ふぁ……っ」
 ソファが沈む感触。のしかかってくる風澄。彼女の腕が、俺の頭を包み込み、縋りつく。首筋を撫で、指に髪を絡め、もっと、もっとと言うように。そんな彼女が嬉しくて、頬に添えていないほうの手で風澄の腰を抱き寄せた。
 深いくちづけを何度も繰り返し、夢中で貪りあう。
 耳に入るのは、唾液が絡む音。そして、お互いの息遣いと、ソファが軋む音だけ。
「このプレゼンが終わったら、本当になにかご褒美やろうか?」
「え……?」
「頑張ってるからさ……本番も上手くいったらだけどな」
 俺の腕の中で、余韻に浸る彼女の髪を撫でながら、そっと囁く。
「んー……でも、特に欲しいものなんてないわよ?」
「じゃあ、作って欲しい料理とか」
「いつも作ってもらってるから……」
「じゃあ、して欲しいプレイとか」
「あなたねえっ!」
「……だめか」
 風澄の好みのプレイなら前にも聞いたけれど、リサーチは繰り返しておくに越したことはないからな。だけど、そう簡単には答えてくれないか。そんなことを考えていたら、彼女はおずおずと口を開いた。
「ひとつだけ……ある、けど……」
「なに?」
「…………お姫さま抱っこでベッドに連れてって、普通にして欲しい」
 少し下を向いて、小さな声で、彼女は可愛くおねだりをした。俺の膝の上で。
「……それぐらいなら、お安い御用」
「きゃあぁっ! 駄目っまだ片付けてな……あんっ」
 抱き上げると同時にキスで封じる。風澄は身長はあるが軽いので、抱き上げるのは意外と楽だ。だいたい、毎回あんな激しいプレイをしているわけだから、支えたり抱き上げたりなんて慣れたもんだ。コツもとっくにつかんでいる。
「言えばいつだってしてやったのに」
「でも、こういうことって、無理矢理してもらっても仕方ないじゃない? それに、慣れちゃうと喜びが薄れそうだし」
「そんなに嬉しいのか?」
「嫌がる女の子なんていないと思うわ」
「へぇ……」
 そういうものか。知らなかった。こんなこと、他の女にはしたことがなかったし、したいとも思わなかったから。風澄を抱き上げると、本当に『お姫さま』って感じでサマになる。なんと言っても、市谷家の一の姫だし。中身はかなりのじゃじゃ馬なんだけど。まぁ、そんなところも可愛くてたまらんのだが。
「昂貴って慣れてるわよね、そういうの。女の子を喜ばせるのが上手っていうか」
「はあ!?」
 俺は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 慣れてるって、どういう意味だよー!? なんか俺、風澄に誤解されてないか? 大丈夫か? それはアリか? アリなのか?
「だって、普通はこんなことしてくれないと思うんだけど、昂貴は自然にしてくれるし。なんて言うのかな、スマートな感じ」
 あぁ、そういう意味か。ほっ。
 遊び人だのナンパ野郎だのと一緒にされていたらどうしようかと思ったじゃないか。
 そりゃあ、本気じゃなかったのは確かだし、いい加減だったことも認めるが、不誠実だったわけでもない。蔑ろにしたこともない。あの頃の俺なりに、相手を尊重していたつもりだ。その程度の気持ちだったことは否定できないにしても。
 まぁ、自業自得だけどな、俺の場合。でも、それも風澄に出逢うまでのことだし。
「……風澄」
「ん?」
「こんなことするのは、風澄とだけだからな」
「……うん」
 首に抱きつかれて、頬にキス。
 あぁ、俺たちって甘々……。

 そんなわけで、『抱き上げられるのが好きな風澄』のためにも、今回はやってみたかった立位で抱き合ってしてみた。立ったままというのは前に風呂場でやったことがあるけど、あれは場所が場所だったから、そうは動けなかったし。それにしても、筋肉と体力があってよかった。うん。疲れるけど密着率は本当に高かった。いいかも、これ。ベッドの端に腰掛けて対面座位してた途中で立ったから、風澄は最初驚いてたけど、反応は良かったし。
 『姫抱っこして普通に』は、プレゼンが終わった日にな。
 そう耳元で囁いて、そのときは一度だけで終えた。
Line
To be continued.
2009.11.07.Sat.
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