Dolce Vita

03.夕刻


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 目が覚めた時は既に夕方だった。朝から食事もしないでやりまくってたからなぁ。さすがにスタミナ切れ。まだ風澄は動けそうになかったし、ひとりでシャワーを浴びた後、幾つかメニューを考えつつ、簡単に準備しておく。大抵、料理を仕切るのは俺のほうなのだが、ほとんどいつもふたりで作っている。ひとりで料理するのは、こういうときと、風澄が出かけているときくらいだ。
 風澄に料理を作るのは楽しい。得意で良かった。それに、細身の割に、彼女はよく食べるほうだ。燃費が悪いせいだろうか。大食いとまではいかないにしろ、なかなかの健啖家と言ってもいいだろう。それなりに好き嫌いもあるけれど、出されたものはきちんと食べる。ひとりだとなおざりになってしまうらしいが、ふたりで居る時に食事を欠かすことはない。まぁ、一緒に居ても、今日のように、食事なんぞそっちのけになってしまう場合もあるんだが。俺自身もよく食べるほうだし、食が細い女の子より余程嬉しい。しかも、意外にも、心底美味しいっていう顔をしてくれるんだよ。まるで花が咲くように鮮やかな表情で笑う。たまに、美味いと思っていてもそれが顔に出ない奴や、むしろ不味そうな顔になっちまう奴も居るけど、風澄は真逆。表情、豊かなんだよな。これも意外なんだけど。美味いと思ってくれるだけで充分と言えば充分なのだが、やはり、作る側としては、美味しいと思ってくれる上に、本当に美味しいという顔で楽しそうに食べてくれることがなによりの喜びだ。そういう意味でも、風澄は本当に作り甲斐がある。
 とは言え、今日は二食抜いてしまったようなものだからなぁ。昨日の夕食はしっかり摂ったのだが、幾らなんでも疎かにしすぎだったかもしれない。いかんいかん。空きっ腹に突然たくさん食べると良くないし、とりあえず、なにか軽くつまむことにする。消化のいいものってなんだっけなと考えて適当に。確か、繊維質じゃないやつだよな。胃液が薄まるから飲み物は少しだけにしておこう。考えてみたら、前にモーニングティーを出したけど、消化の上では良くなかったかもしれない。起きたばかりの時は体温が平熱より一度くらい下がっているものだから、温かいものを飲むのは身体に良いんだが。まぁ、風澄は喜んでくれていたから良しとしようか。
 夕食の支度をしつつ食材を探してみると、最近よく食べていた、イタリア直輸入のローズマリー入りのクラッカーがあった。これなら風澄も気に入っていたし、ちょうど良いだろう。いろいろな具を載せ、カナッペふうにする。試しに食べてみると、即席とはいえ、なかなか美味かった。飲みものは紅茶と思ったが、時間がなかったし、冷蔵庫に常備している水出しのアイスコーヒーでカフェオレを作り、そのままだと冷たすぎるので、電子レンジで軽く温め、一緒に持って行く。
 寝室のドアをノックすると、けだるげな声が返ってくる。
 本棚と収納に囲まれた部屋を染めるのは、夕刻の日差し。カーテンを通して、柔らかな光を注ぐ。
 セミダブルのベッドに横たわるのは、愛しい彼女。
 飾り気の全く無い、機能重視の殺風景な部屋だと自分でも思うのに、風澄が居るだけで、そこは俺にとってふたりきりの楽園に変わる。
 禁断の果実なら、きっと彼女自身。
 だけど、誰に唆されたわけでもない。惹かれたのも誘われたのも、俺のほう。

 至高の芸術作品であろうと、彼女以上に俺の心を動かすものは無いに違いない。

 彼女は、いとも容易く俺の心を奪う。
 初めて逢った、あの日から。

 穏やかな光の中、こちらを向いて横になっている彼女の、崇高なまでの稜線。
 身体を覆い隠している薄手のタオルケット越しに、緩やかな曲線を描く肢体がはっきりと見て取れる。
 枕と寝具を引き寄せているのは、むき出しの腕。
 緩やかに波打つ、明るい色の豊かな髪。
 閉じたままの瞼に、長い睫毛。あどけない寝顔。
 毎日のように見ている姿なのに、思わず見惚れてしまう。
 そして、それが今の日常であること。
 かつて、あれほど遠い存在に思えた彼女が、今はこの手の届く場所に居るという、まるで奇跡のような事実を再確認し、あまりの幸せに浸らずにはいられない。
 この世でただひとり、俺の大切なひと。

「風澄ー、起きろー」
「ん……」
 彼女はころんと転がって仰向けになり、目を擦(こす)った。おいおい、擦っちゃだめだろ。目に良くないんだから。……って、俺は風澄の母親かい。面倒なら見てるけど。
「……んー……おやすみぃ……」
 また転がって、今度は横向きになる。背中向けられた。俺のつけた痕が映える、白い肌。それにしても、おやすみって……。本当にコウモリ生活者だな、と俺は『宗哉』の言語的センスに感心した。そう思ってからちょっと憮然としたけど。悔しいもんは悔しいんだから仕方ないだろ? まぁいいか、風澄は俺のすぐそばに居るんだしな……しかもこんな無防備な格好で。いろいろ見えるぞ風澄。さんざん見てるけど。
「風澄ちゃーん、ご飯だよー」
 サイドテーブルにトレイを置き、ベッドに座って話しかける。う〜ん、いい眺めだ。
「んー、ちょおだあぁい……おなかすいたあぁ……」
 行為の最中の、舌足らずな喋り方のままだ。寝ぼけてるなこれは。おなかすいたって、寝るんじゃなかったのかおまえは。一体どっちなんだ。そう突っ込もうかと思ったが、せっかく作ったカナッペは是非とも食べて欲しい。
「風澄、今日の夕飯なにがいい?」
 頭を撫でたり、髪を梳いたりしながら優しく話しかける。内容は伝わっていなくても別にいいんだ。この時間が心地よいから。
 風澄の寝顔はほんとに可愛いぞー。彫りは深いほうだし、顔立ちがはっきりしているし、睫毛が濃くて長いから、まるで目を閉じた人形のようだ。
「んー……?」
「とりあえず、なにか腹に入れようと思って簡単に作ったけど、ディナーのメインディッシュの希望は?」
 あ、これじゃイタリア式じゃないな。まぁいいか。
「んー……」
 わかっているのかいないのか、同じような言葉ばかり繰り返す彼女。まだ眠気が勝っているらしい。とは言え、さっきは疑問形の語尾上がりだったけれど、今度は語尾下がりだから、だいたいのところは伝わっているようだ。
「なんでもいー……昂貴の作ってくれるもの好きだからぁ……」
 やばい……これは嬉しすぎるぞ。
 この一月半で、風澄の味覚をしっかり把握したからな。俺とそれほど大幅には変わらなかったし。コツは味を濃くしすぎないことと、刺激の強いものを使わないこと。そういうのは一口で駄目だったりする。最初の頃、俺が風澄の好みの加減を間違った時に無理して食べようとしてたけど、そんなことさせたくないしな。
 しかし、この状況って新婚の夫婦みたいじゃないか? 基本は立場が逆だろうけど、これはこれでアリだろう。そう思った瞬間、俺は煩悩炸裂状態になってしまい、調子に乗って、またもや冗談半分に言う。本心を。
「俺は風澄が食べたいんだけどね」
「んー……」
 今度は語尾がまっすぐだ。これはどういう意味だろうと考えていたら。
「……あれだけ食べて、まだ足りないのぉ?」
 おぉ、会話は成立しているな。この調子なら、しばらくしたら目が覚めるだろう。
「満足してるけど足りないな」
 いつも、風澄の側にいれば満たされている。だけど求めずにはいられないから。
「んー、それ、矛盾してまーす。ろじかるにいきましょう、ろじかるにいぃ」
 いや、既に今の君の口調が論理的じゃないって。
「風澄は?」
「んー?」
「風澄は俺のこと、食べたい?」
「昂貴は、筋肉質だからぁ……おいしくなさそう……」
 ……おい、そうじゃねえだろ。
 確かに風澄は細身なのにしっかり肉もついてて出るとこ出ててへこむとこへこんでて柔らかくて触り心地も良くて見るからに美味しそうだけど。
 って、違うだろ。だから、そうじゃなくてさ。
「俺の味って、どんな?」
「……ひとはみんな、汗をかいたらしょっぱいでーす」
 体液だからな。まぁ、幾ら真夏とは言え、空調の効いた室内で、汗の成分中に塩分が含まれるようなことはまず無いが。……って、だから違うっつーの!
「……風澄ちゃあぁん? あんまり答えを引っ張ると……しちゃうよ?」
「えぇー? なにをー?」
「セックス」
「ふーん……って、ええぇっ!?」
 ぱちっと目を開け、がばっと起きる。そこで彼女は自分の姿に気づき、布団を身体に巻きつけた。もうさんざん見てるんだが、やっぱり隠すんだよなぁ。そういう恥じらいを失わないところが風澄の風澄たる所以なんだろうけど。おはよー、風澄、ぐっもーにーん。いや違うな、俺たちはイタリア語をやってるんだから、おはようございますはBuongiornoだ。今は夕方だから正確にはBuonaseraだが。俺たちはたぶん『親しい間柄』ってやつだから、Ciaoでもいい。これだったら時間を問わずに使える。じゃあCiaoにしよう。
「どうしてそんなに元気なのよあなた……」
「Ciao, Kasumi」
 しっかり目が醒めたらしい彼女に、ふざけ半分に、指先をちらっと振って挨拶してみる。肩をすくめて呆れながらも風澄は言った。
「ほんと、昂貴って、チャオっていう柄じゃないわよね。そもそもイタリア語っていうイメージじゃないし」
「そうか?」
「あくまで、見た目の印象だけど。むしろ、ドイツ語のほうが似合いそうよ」
「まぁ、実際、ドイツ語は得意だしな」
「え? そうなの?」
「風澄がやってた言語ならだいたいできるし、留学中に自ずと憶えた。英独仏伊で困ることはあまりないだろうな。他にも、スペイン語とかオランダ語とか、うちの大学で勉強できるやつならヨーロッパ系は大抵かじったことがあるぞ」
「はぁ……ほんとに語学得意なのねえ……」
 がくりと脱力する彼女。無理もないだろう。俺は語学全般は得意中の得意だが、風澄は大の苦手なんだし。正直、教えてやれることが嬉しくてたまらなかったりするのだが、風澄には内緒だな。同じ道を歩む上でも、イタリア語は是非ともできるようになって欲しいと思うけど、不安もある。そうしたら、いずれ"Ti amo."の意味もわかってしまうだろうし、気づかれたときの反応が怖いから……。大学院の入試の選択外国語をイタリア語で受験すると決めたようだし、もしかしたら、そう遠くない未来に、彼女が答えに辿り着く日が来るかもしれない。
 ……俺の告白は、どうなるんだろう。
 相手の知らない言葉での告白というのも妙な話だが。と言うか、あれを告白と言って良いのかどうかは、俺自身にもよくわからんが。
 どうしても云えない、受け容れられるはずもない想いを、それでも伝えたくて、彼女の知らない言語に託して告げただけ。
 それでも願っていた。
 いつか気づいて欲しいと。

 あの夜、思わず告げた言葉。
 翌朝、意味を問われて、平静を装って誤魔化したくせに、数週間後、俺は再び彼女に告げた。今度は、はっきりと。
 確かに近づき始めた距離への期待だったかもしれない。

 彼女も、一度だけなら、きっと気にも留めていなかっただろう。
 たとえ意味を知ったとしても、聞き間違いだと思ったはずだ。

 だけど、それが二度となれば、話は違う。
 誤魔化しきれるものじゃない。

 きっと風澄は気づいてる。言葉の意味はわからなくても、その重要さを。

 あの言葉の意味に気づいて欲しいと思う一方で、怖いと思う気持ちも確かで。

 もし、その日が来たら……
 そうしたら、俺たちはどうなるんだろう?
 そして、彼女の出す答えは……?

 俺はただ、風澄の傍に居たいだけ。
 多くは望むまいと言いながら、それでも、願わずにはいられない。
 せめて、彼女の答えが、拒絶以外のものであるように、と……。

「まぁ、そういう私自身も、イタリア語っていうイメージじゃないと思うけど」
 確かになー。国からして、風澄のイメージとは違う。
「風澄なら、フランス語なんか似合うと思うぞ?」
「二度とやりたくないって思ったくらいに苦手だったのにねぇ」
 溜め息をついて苦笑する。風澄がこれまでに最も苦戦した教科はフランス語だそうで、二年の時に第三外国語として履修したのだが、あまりにも合わなかったため、その年の単位を諦めたという。真面目な彼女が放棄するくらいだから、どれほど苦手だったのか、想像に難くない。だが、それでも自分で勉強して、三年になってから再び履修し、今度は単位が来たそうだ。普通なら避けるだろうに、やはり生来の努力家ということだろう。
 しかし……もし風澄が二年の時にフランス語の単位を取っていたとしたら、当然、三年次にはイタリア語を履修して、こちらも単位を取得していただろう。そうしたら、今は上級のイタリア語を履修していたに違いない。となると、俺が基礎からイタリア語を教えることもなければ、大学院入試の第二外国語をイタリア語で受験するというのも今ほど大変なことじゃなかっただろうし、こちらも俺が教える必要はなかったかもしれない。それどころか、既に"Ti amo."の意味を知っていた可能性だってある。
 あくまで仮定の話なのだが、フランス語の単位ひとつで、ここまで違うわけか。
 ……風澄が一度フランス語に挫折していたことに、俺は感謝すべきかもしれない。
「別に、自分のイメージに合うから勉強するわけじゃないもんな」
「そうね、大切なのは、興味を持てるかどうかだし」
 きっかけはともかく、興味という意味でなら、俺も風澄も、誰にも負けはしないから。
「でも、私、頑張るから。イタリア語も、それ以外の言語も。語学は苦手だけど、西洋美術史学を勉強したいもの」
「大学院入試もあるもんな」
「うん。本気で取り組む良い機会だと思うの」
 もう一度、苦手だけどねと繰り返して、彼女は肩をすくめて笑う。
 苦手だとわかっているのに、それでも挑戦しようとする彼女の意思の強さに、感服せずにいられない。
 得意だから幾つもの語学を習得した俺と、苦手だけど習得しようとする彼女。比較することではないけれど、どちらがより困難な道か、想像するまでもないだろう。
 もちろん、どんな道を選ぼうと、大なり小なり苦労というのは付きものだろうけど。
 ただ、俺も風澄も、自分の望む道を選んだだけ。
「だけどさ、雑学は風澄のほうが詳しいよな」
「そう?」
「ああ。専門でも専門外でもなんでも、興味を持てばどんどん調べるだろ。面白いし、参考になるよ。次の学会でもつかみに使えるかもしれない」
「ほんと? ちょっと嬉しいな、それ」
 意外に思われるかもしれないが、話術や社交術といったコミュニケーション能力も、研究者にとって非常に大切なもののひとつだ。学会なんかでひとと関わる機会はたくさんあるし、研究発表も、どのようなプレゼンをするかによって評価は格段に異なる。自分自身の学究の成果を生かすも殺すも自分しだいなのだ。
 風澄は交友範囲が非常に狭いほうだし、人付き合いは苦手、世渡りも下手なタイプのようだが、去年の発表の巧みな話術には俺でさえ感心したものだった。
 それにしても、本当に風澄って、器用なんだか不器用なんだかなぁ。
 まぁ、俺には心を開いてくれているようだし、そんなところも可愛いのだが。
「そろそろ起きられるか?」
「うん、もう大丈夫……あ、服取って」
「そのままでもいいのに」
「それは嫌」
 くすくす笑って、軽い目覚めのキスをする。俺のシャツを渡すと、身体に巻きつけていた布団を除け、羽織ってベッドに腰掛けた。風澄の背が高いとはいえ、丈の長いやつだったから、だぼだぼとまではいかないにしろ、下着の部分まで全部隠れてしまう。うーん素足がいいねえ。
「あぁ、よく寝たぁーっ」
 んんん、と言って伸びをする。おいおい、また見えるぞー。
「ほら、おめざ」
「ん?」
 ひょいっと彼女の口にクラッカーを運ぶ。とりあえずは食べやすさを優先して、なにも乗せていないほうだ。と言っても軽くローズマリーとオリーヴオイルの味がするんだが。
 少し途惑った様子だったけれど、俺の意図に気づいたのだろう、そのままゆっくりと齧っていく。手から直接って、まるで小動物の餌付けをしているみたいだ。可愛いなぁ……。
「おいおい、指まで食うなって……うわっ」
 見る間にクラッカーは小さくなり、彼女の口唇が俺の指先に触れた。
 そこで、もう良いだろうと思って指を離すと、風澄は、すうっと目を細め、優しく俺の手を取り、口唇をそっと先端に触れさせたかと思うと、なんと、指を舐め始めた。
「っ……、か、すみ……」
 淡く彩られた爪が俺の手を包み、撫で擦る。
 何度もくちづけを交わした、綺麗なピンク色の口唇が、俺の指を辿っていく。
 ちょ……これ、ヤバい。心臓にクる。さすがに視線は合わないけれど、薄目を開けて、まるで誘っているようなしぐさで、熱い舌が、柔らかな口唇が、ゆっくりと這い回る。
 子供が甘えつくようでありながら、とてつもなくいやらしい行為のようでもある。
 舌先で探り、時に音を立ててキスをして。
 口唇で丹念に刺激する、その様子はまるで……。
「……ごちそうさま」
 隅々まで舐めまわされた後は、クラッカーの欠片すら残っていなかった。風澄の唾液でぬめる指。って、上手すぎないか、これ? まさか……まさか、フェラをしたことがあるとか言わないよな!?
「はー、美味しかったぁ。お腹空いてたのよ」
「おい……俺の動悸はどうしてくれる……」
「塩味ーってね」
「……それだけかよ?」
「知ってる? 身体の中で一番敏感な性感帯は指なんだって」
 うわぁ……翻弄されてるよ俺……。
「初めてやってみたけど、その反応なら気持ちよかったのよね?」
 悪戯っぽく笑う彼女。風澄にはこの表情がよく似合う。眉がきりっとしているのに、ややたれ目気味だからかもしれない。ちなみに、俺も結構たれ目のつり眉。顔の系統は全く違うんだけどな。
 翻弄されるものいいけれど、やられっぱなしじゃ、ちょっとな。負けたくなくて、俺もにやりと笑って答えを返す。
「あぁ、気持ちよかったよ……だから」
「え?」
 ぐい、と風澄を抱き寄せて、耳元で囁く。
「今度は俺のに、してくれないか?」
 ……間三秒空けて、風澄の絶叫が響いた。

 * * * * *

「ほんっと信じられない! そんなことできるわけないじゃないっ」
 食事しながらぷりぷり怒ってる。怒りながら食べると身体に悪いぞ?
「いいじゃないか、俺だっていつも口でしてるんだし」
 俺はむしろ嬉しかったんだけどな。だって、他の男にしてないってことだろ?
 まぁ、風澄は、ついこの間まで、自分からキスしたことすらなかったのだ。そんなことまで経験済みであるはずもないんだが。
 そういえば、前に、風澄からキスして欲しいと頼んだ時も、俺が及第点をあげられるキスでなければ舐めてもらうというようなことを言ったっけ。別に本気でさせるつもりではなかったのだが、あの時の彼女の嫌がりっぷりは忘れられない。
 何度も繰り返して、彼女のほうからも本気でキスをしてくれるようになったのだが……もしや、あれは、自分からキスするほうが口でするよりはマシだから頑張ってたのか? そうだとしたら、それはそれで複雑だなぁ……。
「っ……だっ、誰も頼んでないでしょう?」
「でも悦んでるよな毎回?」
「ううう……あぁもうっ、どうして食事中なのにこんな会話なのよーっ!」
「だから、それはおまえが……」
「昂貴が変なこと言い出すから悪いんだもんっ」
「だって、されたことないんだよ」
「……は?」
「口で。嫌がる女は確かに多いだろうけどさ。俺は風俗とか行ったことないし」
 今時珍しいと思うんだけど、本当なんだよな。女に不自由してなかった一方で、興味も執着も無かった上、俺はイニシアチブを女に取られるのが好きじゃなかったから。しかもなあ、ソレを誰かの口に入れるってことは、やっぱ相当信頼してないとできないわけでさ。だって噛まれたら死ぬほど痛いだろうし。してあげようかって言われたことはあったんだが、なんかそういう気になれなかった。惜しいことをしたかもしれないが、風澄じゃないんだからどうでもいい。したことないのって結構貴重だと思うんだが……嬉しくないけど。
「だから、俺のフェラ童貞あげるから、風澄のフェラ処女ちょうだい?」
 うーん我ながら下品な台詞。
「嫌っ! 絶対嫌っ!」
「はぁ……そこまで頭ごなしに嫌がるかねえ……」
 そんなに嫌なもんですかね。まぁ男は自分の身体の一部だし見慣れてるけど、女の子にとっては直視したくないものなのかもしれない。風澄なんて、前にちょっと視界に入っただけで顔をそむけていたもんなぁ。
「俺たち初めて同士じゃないしさ……」
 てなわけで、俺は泣き落としにかかった。
「せめて口と後ろの初めてくらいは……」
 ガシャンッ! と音がした。風澄の皿にナイフとフォークが見事に落ちている。おぉ、食器は無事だな。そしてギロリと睨まれた。風澄って、怒った顔まで綺麗なんだよな。いや、怒った顔こそが、かもしれない。
「…………サイテー」
「……冗談だってば」
 さすがにさ、そんな理由じゃないって。いや、してみたいのは本心だけど。
 そして黙って風澄は食事を再開した。食器の動き方は先ほどと大差ないが、ずっと下を向き続け、こちらを見もしない。
 ……、やばい。
 言葉を交わさない上、視線すら合わせないというのは、ちょっと危険かもしれない。
 さすがに調子に乗りすぎただろうか。
 いや、でも、俺が変なことを言い出すのは毎度のことだから、いい加減、彼女も慣れっこだろうし。とは言え、誰しも限界というものはあるわけで。もしかしたら、そこを突いてしまったという可能性も無いとは言い切れない。

 ……ち、沈黙が重い……風澄さああぁん。

 俺が本気でさっきの台詞を言ってしまったことを後悔し始めた頃、風澄は口を開いた。
「……別にね」
「ん?」
「してもいいのよ」
「……、マジでっ!?」
「そこ、喜ばないっ!」
「ハイ」
 ぴしゃりと言われて俺は姿勢を正す。
「だけどね、待って欲しいの。昂貴は、私をいつも気持ちよくしてくれてるし、私も昂貴を気持ちよくできるなら、そうしたい。だけど……」
「うん?」
「やっぱり、いきなりは無理よ。だって見るのもまだ怖いのに……」
「……うん」
 体内に何度も入ってるモノが怖いっていうと変なんだけどさ。女の子のそこも相当グロいっつーか(失礼)すごいし、さすがに初めて見た時はぎょっとしたけど、とっくに慣れたし、男はそういうのに結構強いし、そもそも快感の前ではそんなもの、ものともしない。挿れてしまえば目も眩むような快感が得られるんだし。だいたい、表現として花に例えられることもあるくらいなんだから。つぅか花も生殖器官だしな。蘭とかそのまんまだもんな。ちなみに、風澄はそういう理由で蘭が苦手なようだ。生々しいって言う。まぁそれは余談としても、それに較べて男のって、本当に見た目凶悪だし。どこもあんなふうにならないもんな、女の子の身体って。
「どんどん慣れさせてあげるから」
「それも嫌……」
 額に手をあてて、げっそりしてる。でも、慣れなきゃできないだろ? どうやって慣らしたらいいんだろう。ネットかなんかで調べてみようかな。
「ところで、素朴な疑問なんだけど」
「ん?」
「後ろの初めてって、なに?」
「……………………、そうきたか」
 そうだった。考えてみれば、あれだけで意味を理解できるはずもない。なんたって風澄なんだから。
 しかし、真顔で意味を聞かれてもなぁ。食卓で明言するのもなんだし。
「どういう意味? 後ろからっていう意味じゃないわよね?」
 さすがに、そっちの意味に誤解されたわけではないらしい。なぜって、もう、後ろからしたことは何度もあるからな。口のほうは、これまで、俺にされたことはあるから、それを自分がすると考えれば理解しやすいだろうけど……そっちはなぁ。
「知りたいのか?」
「正直、知りたくないけど、知らないままで放っておくのも気持ち悪いじゃない」
「研究者志望の性分?」
「だとしたら、こんなことでまで発揮することじゃないわよね……」
 肩を落として彼女は溜め息をついた。どうせ、変な意味であることくらい、予想がついているはずなのに。
 研究者志望と言うより、風澄自身の性分と言ったほうが正しいんだろうな、きっと。
「要するに、『後ろから』じゃなくて『後ろで』ってこと」
 余計にわけがわからないという様子で首を傾げ、しばし考え込んだ後、彼女は途端に固まり、俺を見やって、おずおずと口を開いた。
「……って……ま、まさか、そういう意味!?」
「まぁ、たぶん、風澄の推測どおりだと思うが」
「なっ……」
 肯定されてしまい、絶句する彼女。数秒の間に、風澄の顔は、見事なほど一気に耳まで真っ赤に染まった。
「なんてこと考えてるのよあなたってひとは! 冗談じゃないわよ! そんなことできるわけないでしょ! 絶っ対に嫌っ!!」
「いや、それはさすがに冗談」
「嘘よ。どこか本心だったものっ」
 うーん。ばれてる。いや、そういう趣味はないんだけど、風澄だしさ。なんでも知りたいし、なんでもしたいんだよ。だから変態とか言われるんだけど。
 変なことを言い出すのは俺のほうだけど、そうさせてるのは紛れもなく風澄のほうだと思うのは、責任転嫁ってやつだろうか。
「……私だってね」
「ん?」
「別に、好きで昂貴以外のひとを知ってるわけじゃないんだから」
「……うん」
 俺だって、最初から、風澄を独占していたかったし、独占されたかったけど。でも、そうしたら、風澄を気持ちよくなんてできなかったかもしれないしな。まぁ、今更なにを言っても仕方ないことなんだが。ロストチェリーなんて大昔だからなあ……。
「初めて、取っておけばよかったのかな……」
 ぽつりと彼女は呟いた。
 そうだよな……処女も童貞も、捨てられるけど拾えるわけじゃないし。
「後悔してるのか?」
「うーん、後悔とはちょっと違うんだけど、なんて言うのかな、本当に自分がしたいと思ってしたわけじゃなかったから、本当にあの時して良かったのかなって時々思っちゃって。相手に申し訳ない気持ちもあるかな……」
 風澄の過去は、彼女自身の選択の結果ではあるけれど、結局は、相手の希望を受け容れただけ。拒絶しなかったとはいえ、自ら求めたわけじゃない。その心の中に好意以上のものがないのは、たぶん、俺も同じだろうけど……でも。
「俺とはしてもいいのか?」
「……うん」
 別に、俺のことだって好きなわけじゃないだろ、いいのか、と聞いたつもりだったのだけど。
 顔を赤らめながらも、彼女は頷いてくれた。
「なに、今更? わかってなかったの?」
 風澄が、柔らかく微笑んでそう言ってくれた。それが、とても嬉しかった。
 自信、持ってもいいかな。少しくらいは。
「でも変なことは勘弁して欲しいけど」
「善処シマス」
 あんまり自信はないけどな。少なくとも、嫌がることは無理強いしない。……表面上じゃなくて、身体が嫌がっていなければ、だけどさ。
「だけど、昔のことはもういいかな」
 彼女は微笑んで、そう言った。見てる俺が不思議に思うほどの、すがすがしい笑顔で。
「昂貴は気にしないの? 私の初めてが、昂貴じゃなくても」
「そうだな、残念ではあるけど、別に気にならないよ。それに、二十一歳にもなれば非処女くらい普通だろ?」
 と言うか、俺のそっちの遍歴から言って、これまでに関係してきた女の中で最も経験が少ないのは風澄だと思うぞ。俺は処女経験無いし。
「そうでもないんじゃないかしら。ああいうのはきっかけだから」
「ふぅん、そんなもんか? まぁ、独占できなかったことが口惜しいのは本当だけど、どっちでも構わない。だいたい、俺も風澄が初めてじゃないし。それに、今一緒に居られるんだからさ」
「そうね……そうよね」
 俺たちには、今がある。
 今この時、一緒にいられる。そのことのほうが、ずっと大事だった。
 ……『未来のフェラOK宣言』は、やばいぐらいに俺の表情を緩ませたけど。
Line
To be continued.
2008.06.29.Sun.
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