共に生きる者

12.Annex -The Loverly Night-


Line
* Kasumi *
「あ……っ」
 部屋に入るなり、甘いキスが始まった。
 抱きすくめられた身体から、力が抜けていく。
「ん……っ、あぁ……だめ……っあ」
 繰り返されたくちづけは、次第に激しいものへと変わる。
 深く私を貪る彼にしがみついて、立っていられなくなりそうな身体をなんとか維持するけれど、きっと時間の問題。倒れそうになったら支えてよね。あなたのせいだからね?
「……このまま、ここで押し倒したいな」
 口唇を離して呟くと、また彼はキスを再開する。
 って、ここでって……玄関よ!? なに考えてるのよ、まったく。だけど触れ合いたくてたまらないのは私も同じ。恥ずかしい一方で、それほどまでに求められていると知って、はしたないけれど、どこか嬉しく思う私が居る。
「やあぁ……シャワー、も……浴びて、ないのに……んっ」
 いくら夕方でも、今は真夏。歩いて帰ってきたんだもの、汗をかいていないわけがない。
「……いいじゃないか、今更、そんなこと……それとも、っは、一緒に入る?」
「っ……ふぁ、あ、ん……っあぁ……」
 こんなキスされてるのに、返事なんて、できるわけないじゃないの。
 でも、返事ができたとしても、なにも言わなかったかもしれない。
 抱き合えば、それだけで伝わる。皮膚を通して、熱を感じたら。言葉で説明するよりも、ずっと素直な気持ち。
「……久しぶりに、そうしようかな……ん……」
 実家に帰る前にも一緒に入ったのに、どこが久しぶりなのよとも思うけれど、気分的には間違ってない。ずっと一緒に居たからこそ、たとえ数日でも離れていたのが寂しくて。
 そして彼は、そのまま本当に立っていられなくなった私を抱き上げて、お風呂場に連れて行った。もちろん、お姫さま抱っこで。この数日、密かに望んでいたことが簡単に叶えられてしまうなんて、まるで見透かされていたみたい……。
 さすがに抱きついたままではシャワーを浴びられないし、脱衣所で降ろされたけど、それでもキスは続けながら、彼は私を覆い隠していた洋服を脱がせていく。汗で身体にはりつくようだった生地が離れて、わずかにひんやりとした空気を感じたかと思うと、そこに彼の指が触れた。
「や……あぁん、あ……こぉ、きぃ……」
「……ん……っあ、かすみ……」
 荷物の整理とか。
 ご飯の支度とか。
 考えなきゃいけないんだけど。
 でも一度、抱き合ってからでもいいよね。
 いつかホテルで過ごした夜みたい。なんの不安も躊躇いも無く、ただゆるゆると昂貴のあたたかな腕に浸ってる。
「……あれ?」
「ん……なぁに?」
 私を抱き寄せた左腕はそのままに、首筋に触れていた右手の動きが止まる。どうかしたのかなと思って尋ねると、彼は優しく髪を撫でて。
「なんか今日は普段と少し印象が違うなと思ったけど、髪型のせいか」
「あぁ、これ?」
 今日は暑かったこともあって、髪をハーフアップにしていた。耳の上で髪をすくい、スティックでまとめておだんごを作り、他は後ろに流している。前髪はいつもと同じだし、全部まとめるわけじゃないから印象はそれほど変わらないけれど、ただバレッタで留めるよりアレンジの幅が広がるし、なにより可愛くできるの。たくさん種類があったけれど、私はピンクとクリアのストーンがお花のかたちにあしらってあるものを選んだ。きらきら光って、見るだけでも綺麗なのよ。
「帰省中、母と一緒に出かけて、たまたま通りがかったヘアアクセサリー屋さんで見つけたの。やり方を教わったら、思ったよりずっと簡単で、思わず買っちゃった」
「へぇ……」
「他にもね、まとめずに下ろしたり、全部アップにすることもできるの。どう?」
「うん、いつもより輪郭がはっきり出て、新鮮だし……似合ってるよ」
 ちょっとお値段は張ったんだけど、その場でアレンジのしかたを教えてもらえたし、見た目も可愛くて、一目で気に入っちゃったの。もちろん納得して買ったんだけど、そう言ってもらえるとすごく嬉しい。
「そういえば、髪、ちょっと切った?」
「揃えただけだけど、このスティックを買った日にね。それからお買い物をして、夜は家族みんなでお食事したの」
 本当に一日だけなんだけど、せっかく家族がみんな揃ったからって。実家のごはんも好きだし、帰省した日のお寿司も美味しかったけど、やっぱり外食って楽しい。
「爪も、普段は一色なのに、今日はアートしてあるし」
「ほんとに昂貴って、きちんと気づいてくれるから素敵よね」
 完全に乾くまで行動しにくいから、ネイルサロンには行かなかったんだけど、お買い物をした時にネイルアートグッズを見つけたの。お店に飾ってあった見本を思い出しつつ、塗りなおしも兼ねて昨夜やってみたら、難しかったけど綺麗にできた。ごてごてしたのは苦手だし、お料理しにくいから、本当にワンポイントだけど。
「俺は姉が居るし、それと、実家の隣に弟と同い年の女の子が住んでてさ、姉と一緒に遊びながら、今日はネイルシールだ、今度はラインストーンだって、よく見せられたよ。『いい男の条件は、女性の変化に気づくこと』とか言って、気づかないと怒られたり」
「ううう、私、気づかないタイプだわ……」
「同性の場合は別だろ。感想なり批評なり欲しいなら自己申告すりゃいいんだし」
 そうねぇ、確かに、自分から男性には言いにくいかも。気づいてくれないんじゃ寂しいし、やりがいも無いけれど、言ったら言ったで、頑張ってる自分を褒めて欲しい子みたいになっちゃいそうだもの。だからこそ、昂貴みたいに気づいてくれるひとって嬉しいわよね。
 じゃあ昂貴はどうなのかなって、変化を探してみたけれど、ごめんなさい、わかりませんでした。強いて言えば、着てたシャツの綺麗な色に、見覚えがないことくらいかな。濃い色のデニムによく合った、彼の好きな"il celeste"――澄みきった天空に広がる色。
「もっと鑑賞したいのはやまやまなんだが……髪、解いていいか?」
「……うん」
 こんな時間は好きだけど、この先の行為も待ち遠しいから。
「どうやれば?」
「スティックの柄を持って、引き抜くだけ」
「こうか?」
 長い指が、スティックを易々と引き抜いていく。維持するもののなくなった髪が崩れ、顔や首筋に落ちかかる。
「へぇ、簡単に解けるんだな」
「髪留めのゴムが中途半端に抜けるし、髪に変な跡が付いちゃうんだけどね」
「あぁ、本当だ。でも髪を洗えばすぐに落ちるだろ」
 解いた髪を梳きながら、彼は笑って私を見やった。
 数日ぶりの、優しい笑顔。
「ほら、来いよ」
 全部脱がされて、じんわりと汗の滲む肌をくっつけたまま、抱きついていたんだけど、お風呂場のほんの少しの段差は、越えないわけにはいかない。
 しかたがないから、一歩進む。
 前は、抱き上げられでもしないと、とても入れなかったのにね。
 すっかりこういうのにも慣れちゃったっていうことなのかしら。……それもどうなのよ、私。
 今日の一回目は、ここでされちゃうのかなぁ。
 ……私の体力、もつかしら……。

 * * * * *

 お風呂場の扉を閉めるやいなや、彼は私の胸にくちづけた。
「ふぁっ……は……っ、ん……や、だめ……だってば……!」
 そのまま両手に包み込んで、昂貴は愛撫を続ける。数日ぶりの行為に私の身体は敏感に反応して、思わず退いてしまったのだけど、彼はそんな私の背中を浴室の壁に添わせ、首元にキスをして、ゆっくりと口唇で身体をなぞっていく。その動きに合わせるように、胸に触れていた指の片方が、胸元から背筋へ辿る。のけぞって壁面のタイルに触れた時の冷たい感触さえ、今の私には快感の要素になってしまう。
「あ……っ」
 昂貴の口唇が、やや薄くなっていた左胸のキスマークに辿り着く。実家に帰る日の朝に交わした行為で、数日間できないからと、きつくつけられた痕。ここだけは、昂貴と知り合ってから、薄くなることはあっても消えることは今まで一度も無かった。軽く触れた後、彼は優しく何度も吸いついて、昂貴の印をを刻み込んでいく。
「もうっ、シャワー浴びるんじゃなかったの!?」
「無理」
 はっきりと紅く色づいた場所から口唇を離し、これでキスマークの重ね付けは完了というように一度だけ軽いキスをしたところで、やっと昂貴は私を解放した。そこで彼に一応抵抗を試みるけれど、昂貴は間を空けずに、きっぱりと即答する。
「こんな風澄を離すなんてできない……」
 再び私の身体に指を伸ばし、心から慈しんでくれる彼に、やっぱり恥ずかしさよりも嬉しさを感じている自分がわかる。
「やっとできるのに……」
 ええと、それは、私も同感なんですけど。
 でも、このままはいやー! 朝からシャワー浴びてないんだもの!
 実家でシャワー浴びて来れば良かったのかしら。だけど、このマンションに辿り着くまでに汗をかかずにいられるわけがないし、結局のところ、どちらにしたって大差は無い。
「風澄だって、したかっただろ?」
「だからって、三日ぶりがお風呂ってどうなのよ?」
「三日ぶりじゃなくて二日半ぶりだろ、朝までしてたし」
「余計悪いわよっ! だいたい、なんでお風呂なの!?」
「それは風澄がシャワーも浴びてないのに〜って言ったからだろ?」
 んもおおぉ、口調どころか声色まで真似ないでよ! まるで似ていない気もするし、無駄に似ている気もする……ううう。
「俺は玄関が良かったんだけど。でなきゃ廊下」
「いやあぁ〜! やっぱりへんたあぁい!」
「だからさ、俺を変態にしてるのは風澄だって」
「もぉ、いつもいつもそうやって私のせいにばっかりしてぇ……」
 ずるい。ずるいよ。
 でも求められるのは嬉しいし。
 うわあぁん、私、今ものすごい自縄自縛に陥ってる気がする。
「あんっ……!」
 痺れを切らしたのか、有耶無耶にしようとでも言うのか、私の意志なんか無視して好きにしようとする彼。こ、これじゃあ本当にこのままされちゃうー!
「やぁもぉっ、わかった、わかったから……」
「わかったから、なに?」
 それでも譲れない条件っていうのは、あるんだからね。
「するから、ここでしていいから、だからせめて、洗ってからにしてぇ……」
「……………………、仕方ない、妥協してやる」
 なんなんですか、その間はっ。

 * * * * *

 昂貴と初めて一緒にお風呂に入ったのは、一ヶ月くらい前のこと。
 するかしないかは別として、それから何度も連れ込まれたけど、昂貴と一緒に入ることにあまり抵抗がなくなったのは、ふたりでホテルに泊まってから。
 ……って言うか、あれ以来、別々に入ったことってあったかしら。
 やっぱり、慣れたっていうことなのかなぁ……なんかいやだなぁ、それ……。
 でも、たぶん、一緒と別々のどっちが良いかって聞かれたとしても、今は、一緒に入るほうを選ぶと思う。……本当に、どうしちゃったのかしら私ってば……はぁ。
「あ……、ふあぁんっ……」
 お互いの髪を洗った後。
 昂貴は、浴室の椅子に私を座らせ、自分は蓋をしたままのバスタブのへりに腰掛け、私を後ろから抱きすくめた。彼の手の届くところに愛用のボディソープがある。濡れた身体に、ひんやりとした液体が伝って零れ落ちていく。座っていたはずの私は、いつの間にか、ほとんど抱き上げられるようにして彼の腕の中に居た。お風呂の蓋って座るところじゃないのに、大丈夫なのかしら。重量オーバーしていないといいけど、そういうところを疎かにする昂貴じゃない。そんな心配も、彼の行為で、すぐに頭から飛んでしまった。
 泡だらけの手が、ボディソープの滑りを借りて、いつもより何倍もなめらかな動きで身体を這い回る。
 身体を洗うという目的は、もうとっくに達成している。
 でも昂貴は決して手を休めない。
 鎖骨の窪みを指でなぞり、肌を撫でられたかと思うと、胸を包み込む。
 ……彼の身体が熱い。
 腰を執拗に撫でていた手が、ゆっくりと身体を辿り、太腿の外側を擦る。
 ……彼の吐息が熱い。
 バスルームに充満する熱気で、頭がぼうっとする。
 ボディソープの泡立つ音と私の喘ぎ声が響く。

 私をいかせようとしているの?
 それとも、私のおねだりを待っているの?

 どちらにしても、結局はあなたの思い通り。
 あなたの腕に溺れてる。

「んんっ、ん、あ……やぁ……」
 肌に触れていた彼の指が、ゆっくりと下腹部へと辿っていく。これまで幾度も彼に与えられてきた深い悦びを思い出し、期待で胸が高鳴る。昂貴のわずかな動きにさえ身体が反応してしまうほど。口内に満ちていく唾液を飲み込むたびに、鋭く強い、あの感覚が待ちきれなくなる。
 そろそろかなと思うと、彼の片手が胸を覆った。中心を摘み、指先で軽く引っかき、かと思うと胸を持ち上げ、優しく包み、やわやわと撫で、今度は手のひら全体で触れるか触れないかという調子で先端を刺激する。ボディソープをまんべんなく広げながら、大きな手が全身を撫でまわしていく。あまりの心地良さに、目を閉じて彼の胸に頬を摺り寄せた。今度は胸へと私の感覚が集中していく。
「ふぁ、ん……あぁっ!」
 熱い腕に浸りきったその途端、下腹部へと伸ばされた指が敏感な部分を探り当てた。触れられることを待ち望んでいたし、心の準備もできていたのに、不意打ちで与えられた刺激に、思わず声をあげてしまう。触れられるたびに身体が跳ねる。
「……イきそう?」
「っ、んっ……」
 息も絶え絶えになりながら頷くと、彼は口許に笑みを浮かべ、指先でまさぐり始めた。
 内部には挿れず、いじられたのは先端だけなのに、女性の身体の中で最も直接的かつ急激な快感をもたらす部分は、あっという間に私の身体を快楽の渦へと引きずり込んでいく。全身への愛撫とあいまって、私は、あっけないほど簡単に達してしまった。
 荒い息を整えている間も、彼は手を休めない。
 私たちが本当の本当に求めている瞬間は、この先だから。
「……いいか?」
「ん……」
 だるい身体を彼に預けて、わずかに目を開けたままくちづける。続きをしてと言うように。
 呼吸が落ち着いてきたところでシャワーを浴び、きちんと泡を落とすと、彼は自分の準備をして、私を抱き起こし、浴室の壁に背中を添わせた。
 どうして浴槽に入らないのか疑問に思っていたんだけど、よく考えたら、お風呂を洗っていなかった。と言うか、実家に帰った日の朝にふたりで入った後、お水を抜いただけ。
 本当に、そういう細かいところまで気が回る人なのよね。
 やっぱり、昂貴はすごいな。
「……して?」
 あぁ、私、本当に昂貴の腕の中に居るんだって実感したら、早くひとつになりたくてたまらなくなる。身体は満たされたばかりなのに。
 誘う言葉に、昂貴は笑顔で頷いてくれた。
 どうするのかなと彼の行為を待っていたら、昂貴は片腕を壁について身体を支え、私の腰を引き寄せ、もう片方の手を私の片脚の太腿に回し、ゆっくりと持ち上げた。
 彼の行動に、何をしようとしているのかわからずきょとんとしていたら――
 え、と思った瞬間、圧倒的な量感が進入してきた。

 * * * * *

「っ……あ、あぁ、やあ……ふあっ、あぁ! やあああぁっ……!」
 そして、すっかり身体を綺麗にした私たちは、今度はそこを汚していた。
 お互いの体液で。
「ひっ、く……あぁん、や……はあぁっ、も、だめ……」
 当たる肌と肌。響く液体の絡む音。
 髪や身体を洗うことが前戯だったようにすら思える。
 さっきと同じように、浴室の壁に私の背をつけているけど、違うのは、私の片足を持ち上げたところに昂貴のが入っていること。
 壁面のタイルが、私の体温と湯気のせいで、今は冷やりともしない。
 彼の首に手を絡ませて、熱く息をついて、視線を絡ませて見つめあう。
 自分の身体を支えているのは、背中と片脚だけ。あとは彼に頼るばかり。
 ものすごく無理のある体勢なのに、やめたいとは思わない。
 数日ぶりに逢う彼。数日ぶりに交わす行為。
 あの瞬間を味わいたくて、待ちきれない。

 こんなふうにするのは初めてで、どうしていいかわからない。向かい合って立ったままでも性行為ができるなんて、思いもしなかった。ただ必死で彼を受け容れるだけ。
 けれど、嫌かと問われた時、私は首を横に振った。
 嫌じゃない。彼となら。
 だから教えて、昂貴。
 もっと奥深い性の世界を、
 もっともっと、あなたという存在を、
 ――私の心と身体に刻みつけて――。

「ふあっ……?」
 徐々に近づいてくる絶頂を感じて身をよじったところで、いきなり抜かれて拍子抜け。
 焦らすにしては唐突過ぎて、どうしたのかと思ったら、今度は浴室の壁に手をつかされて、後ろから。後背位っていうのかな。
「……さすがに、体勢きついからな」
 それはそうかも。私は不安定な体勢とは言え、壁に寄りかかっていれば良いけれど、昂貴はずっと支えていなきゃいけないものね。滑ったりしたら危ないし。
「あんっ、こ……こぅきぃっ……、んん……っ!」
 侵入してくる彼自身に、思わずのけぞる。繋がり方が違うだけなのに、さっきとは異なる快感が身体中に広がっていく。
 後ろからするのは、最初は好きじゃなかった。
 怖かったのかもしれない。お互いの関係も気持ちも全てわからなくて不安だったから。
 昂貴の顔を見たかった。私を抱いているひとの表情を。そうしたら自分の表情も見られてしまうのだけど、そんな気恥ずかしさより、不安のほうが大きかった。
 私を抱きしめているひとは、本当に私を見てくれているのだろうか――と。
 でも、今は嫌いじゃない。どういうふうにされるのも。
 お互いが、お互いだけを見ていると、知っているから。
 抱き合ってするのがいちばん好きなのは変わらないけど、彼が必死なくらい全力で私を貪っているのがわかるから、こういう行為も好きかもしれない。
 体勢は辛いし、繋がっている部分が馴染み難いから、少し痛みを感じることもあるけれど、それさえ甘くて……。
「……かすみ……」
 熱い吐息が首筋に触れる。私の名前を耳元で囁く声。
「っは……こうき、っ……」
 優しく胸を包み込む、彼の大きな手。
 後ろからだと、最中に必ずじっくりと胸を揉まれる。胸って要するにお肉だから、うつ伏せになれば多少は増えるし、あお向けになれば多少は減る。
 本当かどうか知らないけど、日本人女性の標準はCカップだって聞いたことがある。私もそうだし。でも、一番多いのはDカップなんだって。
 だからかな。つい、もう少しあってもいいのにって思っちゃう。
 重力で増えた胸を持ち上げては楽しむ彼に、ほんの少しだけ残念な気持ち。
 もっとあったら、昂貴は喜んでくれたかな、楽しませてあげられたかなって。
 胸って、大きくても小さくてもコンプレックスになるものだから、贅沢を言っちゃいけないんだろうけど。
 男のひとに触られると増えるっていうけど、こんなに触られてるのにちっとも増えない。
 あんまり大きくなると肩が凝るし洋服に困るから、今のままのほうが楽なんだけど……
 昂貴が喜んでくれるなら、あるほうがいいな。
「んっ、は、あ、あっ……ん」
 そんなことを考えていたら、いつの間にか彼の手が胸から腰へと移動していた。
 くすぐったさより気持ちよさのほうが勝る微妙な触り方にぞくぞくする。
 あれ、動き、ゆっくりになってる?
「……あ……」
 どうしたのかなと後ろに顔を向けたら、彼の口唇が近づいてきた。
 そのままキス。
 してる間にするくちづけは、なんだか安心する。性欲を解消するためだけにセックスしてるわけじゃないっていう気がするから。
「……っ、ん……んぅ……っは」
 激しい行為のさなかの、優しいキス。
 触れるだけの軽くついばむようなくちづけを、何度も何度も繰り返す。
 口唇を重ねているのに、それでも時々昂貴は動いて、私の身体を味わい続ける。
 私はのけぞり、彼は覆いかぶさるような無理な体勢なんだけど、ずっとしていたいくらい。
 幾度も交わしたところで、彼は動きを再開した。
 いきなり最高速度で。
 深く貫かれてしまっては、支えていた手じゃ足りなくなって、肘から突く。まるで浴室の壁に縋るように。
「はぅ……んっ、はっ、やぁっ……!」
 あぁ、あんまり突かれると、先にいっちゃう。
 だめだってば、一緒にいくんだから。
 あぁ、奥に当たってる。
 声がお風呂場に響いて、余計におかしくなっちゃうの。
 すごく気持ちよくて、どんどん頭が変になって、
 私、なんてえっちなことしてるんだろうって思うと余計に感じちゃう。
 それで昂貴も気持ちよくなってくれているんだと思うとますます嬉しくて。
 あぁ……救いようがない。
 でもいいの。昂貴がそれでいいって言ってくれるから。
 ……だめ、もう我慢できない……。
「やあぁん、も……いっちゃう……っ」
「……っ、俺も……っ!」
「あ……っああぁ……!」
 そのときは、声も出ない。直前まで叫んでいても、その瞬間は。
 全身の筋肉が緊張して、頭の中が真っ白になって、スパークするの。
 圧倒的な快感が全身を一気に貫いていく。
 がくがくと震える身体。力が抜ける。自分で自分を支えていられなくなる。
 そして、昂貴がぶるっと震えると、薄い膜越しながら熱いものを感じる。
 しだいに、彼の脈動が引いていく。
 でも、彼との行為は、そこで終わらない。
 繋がったまま、幾度もキスをして、行為の余韻に浸ってしまう。
 本当はいけないのよ?
 終わったら、すぐ離れなきゃ駄目なんだから。
 なのに、身体じゅうに残る悦びが心地よくて、ついそのままでいちゃう。
 そして彼は、抜くときには決して予告してくれない。
 私の声がいいんだって。聞きたいって言うの。
 だからいきなり。
「ひゃぁんっ」
 ろれつの回らない私を楽しんで、くすくす笑う。
 シャワーで自分の始末をしている彼を少し睨むと、抱きしめてキスしてくれた。
 さっき、体勢が辛くて深くできなかったぶんを取り返すように、じっくりと。
 名残惜しくて、口唇を離しても舌と舌をくっつけあっちゃう。
 よく考えると汚いよね。
 でも、どうしてかな。昂貴だと抵抗なく受け容れちゃうの。
 昂貴と知り合って、えっちなことをするようになってから知ったのは、『恥ずかしい』と『嫌』が、必ずしもイコールじゃないっていうこと。
 恥ずかしいけど、して欲しい。矛盾しているようだけど、これが本心。
「あっ……だめぇ、そこ……」
「……どろどろだな」
 いきなり指を挿れられた。
 そんなこと、言われなくたって、わかってるもん。
 誰がそうしたのよぅって睨んだら、やっぱりキス。
 今度は軽いの。
 向かい合って彼の顔を見つめていられるのが、やっぱりいちばん好き。
「やっ……だめえぇっ!」
 やぁん、指動かさないでえぇ!
「綺麗にしないとな」
 やだ、変なふうにシャワー当てないでよ。また欲しくなっちゃうじゃない。
 だけど抵抗なんてできるわけない。
「あぁん……っう、ひっ……あうっ、あぁあん……やぁ……!」
 もう、また感じさせられちゃう。
 ううう……いっちゃったばかりなのにいぃ。
 こんなことされて、綺麗になんか、なるわけないじゃないの。
「……どうして欲しい?」
 そうして、私の恥ずかしいところ、さんざんいじった後にそう言うのよ。
 わかってるくせに。こんな状況で放っておかれたら、たまらないじゃないの。
 だからついお願いしちゃうのよね。
 あぁほんと、このひとの狙い通りになっちゃってるなぁ、私って。
「……して?」
 どこまで言えば許してくれるのかは、その日しだい。と言うか、昂貴の気分しだい。
 今日は初級レベルで許してくれた。
 最上級レベルだと、本当にとんでもないこと言わされちゃうのよ?
「んんんっ……!」
 多少は流されたはずなのに、もう溶けきってる。考えてみたら、シャワーは拭うためじゃなくて、別の刺激を与えるためだったんだ。今ごろ気づいたけど、もう遅い。彼を責める言葉なんて口に出せない。
 指だけで翻弄される。また、浴室に体液の絡む音が響く。
 もう片方の指で、口唇で、私の胸に触れる彼。
 だから、胸は弱いんだったら……!
 ただでさえ、達したばかりで身体が敏感になってるのに、そんなところばかり触られたら、我慢できるわけないじゃない。
「やんっ、あ、あっ……!」
 今日いかされちゃったの、何度目だっけ?
 さんざんされてるのに、どうして感じちゃうのかな。
 何度しても、慣れない。慣れてるはずなのに。
 言葉が出なくなるくらい、ものすごく気持ちいい。
 自分がいっても、私がいっても、優しく触れ続けてくれる彼が嬉しい。
 深い絶頂の後、波打つように幾度も身体に蘇る悦びまで、存分に感じさせてくれる。
 心も身体も、満たしてくれる。
「……上がろうか」
 火照った身体を、シャワーでざっと洗い流して。
 濡れた髪のままバスタオル一枚でお風呂から出る。
 二日半ぶりに戻ってきた部屋は、お風呂上がりとはいえ、さすがに暑い。だからと言ってバスタオル一枚で居るのもどうかと思ってルームウェアに着替えたけど。エアコンをつけて涼みつつ、お互いの髪を乾かす。昂貴は大抵タオルドライで済ませちゃうけど、私はドライヤーを使う。ロングヘアだし、濡れたままだと傷みやすいから。
 シャンプーとボディソープの、柔らかいフローラルブーケが時々香る。
 昂貴の部屋にあるものとお揃いの、品が良くて落ち着く香り。
「それでは二択問題です。続きと夕食、どっちがいい?」
 ほとんど髪から湿り気が飛んだ頃、昂貴に問われた。でも、その選択肢、ちょっとおかしくない? もちろん、なんの続きかなんて聞くまでもないけれど。
「二択なの?」
「二択だろ?」
「…………両方がいい」
 片方だけなんて選べない。
 そう言ったら、彼は笑って。
「そりゃどっちもするけどな、とりあえず優先順位は?」
 ううう、ずるい。
 これじゃ、もっとえっちしたいって言っちゃったも同然じゃないのぉ。
 でも、とりあえず。とりあえずはね。
「……お腹空いた」
「ん、了解」
 ダイニングに置いてある時計を見たら、もう普段の夕食の時間を過ぎていた。道理で、お腹が空いてるわけだわ。
「って言っても、出るときにあらかた片付けちまったしなぁ。何か食べたいもんあるか?」
「もちろん、昂貴におまかせ」
「……そりゃ責任重大」
 残っている食材を一緒にチェックすると、さすがに生のものはほとんどない。たとえ数日とは言え、家を空けるわけだから、帰省直前は計画的に食材を使っていたし。なにしろ、それぞれ帰省するから、お互いの部屋の食材を減らさなきゃいけなくて、ちょっと大変だったのよ。まぁ大抵のものはお料理して冷凍しておけば良いんだけど。
 そういえば、昂貴が初めてこの部屋に来た時にはモデルルームみたいに生活感の無いキッチンだったのに、今や実用と利便の具現のようだわ。でも、決して煩雑じゃない。ひとが暮らす家の、あたたかいキッチンになった。
「スパゲッティにホールトマトの缶詰に、冷凍しておいたひき肉と、モッツァレラのシュレッドチーズもあるし……あ、しまった、野菜がほとんど無いな……えぇと、じゃがいもと玉葱、あとは人参か……まぁ、ホールトマト使うし、これだけあればいいか……」
「なにか足りないものがあるなら、私、お買い物に行ってくるけど」
「いや、どうせならあるものを使ったほうが良いだろ。たまにはこういう制限も醍醐味」
 そんな台詞、帰省する前にも言ってた。食材減らしてた時。
 『制限』を『面倒』と思わず、楽しんじゃう。昂貴ってそういうひとなの。すごく前向きで。
 しかも、制限された中で最大限に能力を発揮するから、尚更すごいのよね。
「そうだなぁ、ちょっとハイカロリーだけど、ひき肉とチーズと玉葱と人参のトマトソースのスパゲッティに、バターと塩で軽く味付けしたマッシュポテトなんて如何?」
「了解っ! ……でも、明日の朝は足りないでしょ? どうする?」
「要らないだろ」
「そう? 足りる?」
「その頃は俺も風澄も疲れきって夢の中」
 そ、それって……えぇと、そういうこと……よね?
 彼の言わんとする意味に気づいて、私は思わず頬を染めてしまったのだけど、そんな反応を見て、昂貴はにやりと笑った。んもおぉ!
「目が覚めた頃にはスーパーも開いてるだろうし、その時に考えたほうが良いだろ。腹が減ってたらコーンフレークでも食べてさ」
 あぁ、そういえば、まだ残ってたっけ。昂貴が初めてこの部屋に来た翌朝に開封したコーンフレーク。市販のコーンフレークって甘いばかりで苦手なものが多いんだけど、これはほとんど甘くないから、果物やドライフルーツとよく合うの。チョコレートを買ってきて、簡単なお菓子を作ったりもした。意外とね、アレンジのしがいがあるのよ。
「しかし、じゃがいも茹でるのって結構時間かかるんだよなー」
「大丈夫よ、そのくらい。ゆっくり作って。私も教わりたいし」
「おお、了解。あと、父親にさ、ハニートーストのレシピを教わったんだ。パンもバニラアイスも残ってたよな? 今度作ってやるよ」
「ほんと!? うわぁ、楽しみー!」
 ……まぁ、これが、思わぬ地雷になるんだけどね……。
 それにしても、父親のレシピって……昂貴みたいにお料理好きな方なのかしら。
「ううう、でも、また、してもらってばっかりな気が……」
「料理は好きだし、こっちも楽しんでるんだから、気にするなって。それに、風澄ほど作りがいと食べさせがいがある子って滅多に居ないと思うぞ?」
「そう?」
「喜んで食べてくれるところを想像すると、つい頑張っちまうんだよなー」
「だって本当に美味しいんだもの、昂貴の作ってくれるものって」
 家庭料理とプロのお料理がバランス良く合わさってるのよね。どちらか一方に偏るんじゃなくて、いいとこ取りって言うのかしら。長所を伸ばすのが上手なのよ。
「ま、後で風澄をたっぷりいただきますから」
 ……はい、どうぞ。
 なんて言ってみようかなとも思ったけど、さすがに無理ね。と言うか、そんな台詞が思い浮かぶようになったこと自体、私もだいぶ成長したんじゃないかと思う。……これを成長と言って良いのかどうかは甚だ疑問だけど。少なくとも妥当な表現じゃ無いわよねぇ……。彼になら、いつかそんな言葉も気軽に言えるようになるのかな。まぁ、それはそれで、どうかと思うけど。
「あ、そうそう、実家でね、お中元の残りを貰ってきたの」
「残り? この時期まで?」
「食べ物だけじゃないわよ。バスタオルとか、シーツもあるし」
「お、そりゃ助かるなー、お互いに」
 ううう……やっぱり、昂貴もそう思ってたのね……。
 だってね、ほら、夏だから、汗をかいたらシャワー浴びたいなーって思うでしょ? それがふたりとなると、枚数がねぇ……。なんで一日一回のお風呂じゃ済まないのかって、それは言わないお約束よ。シーツもね、パジャマを着て寝れば洗い替え用を何枚か用意しておくだけで充分なんでしょうけど、さすがにそれだけじゃ足りないものねぇ……。なんでパジャマを着て寝ないのかって、これも言わないお約束ね。
「食べ物も、常温のものだし、賞味期限は長いものだから大丈夫」
「いや、そうじゃなくってだな……よく残ってたなと……うちなんて数日で食べきっちまうし」
「うーん、そうねぇ、うちは量が多いから……」
「あぁ、そうか……」
「多すぎて困ることもあるから、なるべく避けてもらってるらしいけど、気持ちがこもっているひとのはね、無下に断るのもどうかと思っているみたい」
「ま、気は心だからなー」
 プレゼントって、貰うだけじゃなくて、贈るのも楽しいと思うの。義務になったら辛いけど。なにを選び、どういうふうに渡したら喜んでくれるのかなって考えて、工夫をこらすのも面白いし。最華とか、付き合いの長い子に対しては開き直って希望を聞いちゃうけど、自分なりのプラスアルファは必ず欲しいところよね。
 季節の挨拶や贈り物に関しては、習慣って意外と重たいものだし、うちの両親はストレスになるくらいなら無くていいって言うの。でもねぇ、市谷グループ系列のデパートではシーズンになるたびに贈り物の受け付けカウンターで催事のスペースが埋まるのに、そんなこと言って良いのかしら。まぁ、幾ら数が多いからって、善意の気持ちの贈り物まで断っちゃうのは、ちょっと違うわよね。それに、残りと言っても、こうして私が貰ってきたり、親戚にわけたりして、無駄にしたことは無いもの。
「食べ物は、チョコレートとか、お菓子がほとんどだから。一緒に食べよ?」
 持って帰ってきた紙袋を開け、食べ物とそれ以外にわけて、食べ物以外は洗濯機へ。それから火澄兄に貰ったお土産を出しておく。今回のお土産は三つ。歯ブラシ立てとソープディッシュ、それから小さめのトレイ。歯ブラシ立ては洗面所に置いていたものと交換して、ソープディッシュは洗顔石鹸用にする。トレイはアクセサリー用。本来の用途は食器なんだろうけど、華やかなデザインだから、アクセサリートレイにしてもすごく素敵なの。新しく買ったヘアアクセサリーにもちょうど良い大きさ。
「風澄、本当に好きだよな、そのシリーズ」
「うん。華やかで大好き。置いただけで、空間がぱっと明るくなるもの」
 実家の部屋はインテリアまで統一されているけれど、この部屋は実用の極み。ずっと殺風景な部屋だった。せいぜい気が向いた時にお花を買って生ける程度。インテリアはどこまでもシンプルだし、美術史学を専攻しているというのに絵も飾っていない。自分ひとりだと、それが問題にならない限り、大抵の場合まぁいいかで済ませてしまうから。でも、自分の部屋をお気に入りの空間にしていくことは、悪いことじゃないわよね。考えてみると、生活を豊かにするってこういうことなのかもしれない。
「うちの姉も好きだけど、こんなに色々な展開があるなんて知らなかったよ」
「お姉さん、青い薔薇のシリーズが好きなんでしょう? あっちは、あまり展開が無いのよ。あれもすごく綺麗なのにね」
 まぁ、赤い薔薇のシリーズは発表されてから四十年以上経っていて、歴史からして違うから、それも当然なんだけど。色が違うだけで、花のデザインや食器の形は同じなのに、全く違う魅力があるのよ。今までは気分によって使いわけていたんだけど、昂貴と一緒に居るようになってからは、私が赤薔薇、昂貴が青薔薇のティーカップを使うようになった。活用する機会も、ものすごく増えたしね。
 それにしても、今回の火澄兄のお土産は比較的サイズの小さいものだったから、持って帰るのが楽で助かったなぁ。前に貰った三十センチくらいの花瓶なんて、送るのも躊躇しちゃうほどで、未だに実家に置いてあるもの。これもすごく素敵なんだけど、もし割っちゃったらって思うとねぇ。いつかは飾りたいんだけどな。
「俺も真貴乃に貰ってきたんだけどさ、同じメーカーの、小花柄のティーカップとソーサーのセット。せっかくだから、これは俺のマンションに置こうかと思って」
「うわぁ、これも可愛い! 昂貴の部屋にあるのも素敵だけど、こういうのも良いわよね」
「幾つかあると、気分で使いわけても良いよな」
 この部屋には私のお気に入りのティーセットを置いてるし、数日中に昂貴の部屋に行ったら良いかしら。荷物の整理に、食材のチェックと、部屋の換気もしないといけないし。それにしても、その時の気分によってティーセットを替えるなんて、ずいぶん贅沢な話だわ。
「おぉ! 俺、ここのチョコ好きなんだよ! あ、こっちの焼き菓子も! このメーカーは特に美味いんだよなー」
 今度はお菓子の箱を開ける。包装紙を剥がした後、昂貴はパッケージのマークを見ただけで「お?」って顔してた。どうやらメーカーの選択は間違っていなかったみたい。子供みたいに喜ぶ昂貴を見てると、こっちまで嬉しくなっちゃう。なんだか可愛い。私よりずっと年上の男性なのにね。
「俺もいろいろ貰ってきたんだ。気に入ってるホットケーキミックスとか、苦味のないマーマレードとか、このへんだとなかなか手に入らないやつ」
「ほんと!? 私、ホットケーキ大好きなの! ママレードも甘いのは好きだし」
 ホットケーキは一人だとまず作らないけど、本当はすごく好き。お肉やお野菜を一緒に摂るのは難しいけどね。ママレードも大好きなんだけど、高級なお店のものによくある、オレンジの薄切りが苦手なのよねぇ。でも苦くないなら大丈夫かな。
「よし、こりゃ美味い紅茶を淹れなきゃな。真貴乃土産の一缶開けるか。希望は?」
「もちろん、アッサム!」
 冷蔵庫に、今日のための未開封の牛乳が控えているのは、当然のこと。
 ……正確には、消費するより未開封のほうが保つから、とっておいたんだけどね。

 * * * * *

 ゆっくりと食事を摂り、お菓子と一緒に食後の紅茶を飲んで、もう一度のんびりお風呂に入って。
 パジャマ姿のまま軽くタオルケットを掛け、ベッドの背に枕を置き、並んで寄りかかる。
 空調の効いた寝室で、私たちはただ、とりとめのない話をしていた。

 明かりは、サイドテーブルに置いてある小さなライトだけ。
 柔らかな光に照らされた室内に、ふたりの声と、時折り衣擦れの音が響く。
 この部屋に置いてあるベッドはシングルだから、ふたりだとぎりぎり。
 ぴったりとくっついて、彼の肩に頭を乗せると、左腕で私の腰を抱き寄せてくれる。
 髪を撫でる指。あたたかい肌。
 こんな優しい時間が好き。

「風澄の肌って、綺麗だよな……」
 彼の口唇が、私の肌を辿っていく。
「……ん、っ」
 耳朶に触れ、首筋をなぞり、鎖骨に至る。
「あ……」
 冷房のせいで涼気を感じる肌に彼の指が触れると、熱いくらい。
「なめらかで、肌理(きめ)細かくて、吸い付くような感触もいいけど、なにより色がいい」
 いたずらな指先の動きに、思わず身体が跳ねてしまう。
「白磁のように白いのに、血色は良くて……」
 そっと手を取って、腕を持ち上げ、明かりに映えるようにする。
「……静脈が透けてる」
 音を立てて手首にキスをすると、彼は頬を染めた私を見て微笑んだ。
 褒めちぎられるのは恥ずかしいけれど、素直に嬉しいとも思う。うわべだけの言葉や、その場を取り繕うための言葉なんて、昂貴は決して口にしないから。くすぐったいほどまっすぐな気持ち。
「Blue Bloodって、風澄のことを言うんだろうな」
「え……?」
「ほら、貴族のお嬢さまは滅多に外に出ないから日に焼けないだろう? 生来の色白の肌で、静脈の色が透けて見える。だからBlue Blood、すなわち高貴な血」
「そういえば、前にファンデーションを選んでいた時に美容部員さんに診断してもらったら、ブルーベースだって言われたなぁ。静脈の色が透ける、皮下の色が青いタイプなんだって」
「へぇ、じゃあ、あながち間違ってもいないんだな」
 撫で擦り、辿ってきた静脈が見えなくなったところでキスをする。
「……柔らかい……」
 口唇が、二の腕をなぞっていく。

 どきどきする。ほんの少しの接触にさえ、身体は敏感に反応して。
 何度も何度も、触れられたのに。
 昂貴に触られていないところなんて、私の身体にはもうほとんど残っていないのに。

「あの、あのね……」
「ん……?」
 私の肌に頬を寄せ、キスを繰り返す彼。
「……どうした、風澄?」
 言うなら、今、よね……。
 そうよ、早いほうがいいに決まってるもの。
 ……言おう。ずっと考えていたこと。昂貴に告げなければならないこと。
「あのね、昂貴……入試要項を読んだの。実家に居た時に」
「ああ……」
 思わぬ話題だったのか、彼は拍子抜けしたような顔だったけれど、すぐに納得してくれていた。それもそのはず、昂貴も通った道だものね。
「そうか、そうだよな……そろそろ願書提出だもんなぁ」
 懐かしむような表情で、彼は頷く。たぶん五年前の自分を思い出すように。
「それでね……無謀だっていうことは充分にわかってるんだけど……でもね……」
「どうしたんだよ、そんな歯切れの悪い言い方。風澄らしくもない」
「あのね……」
 決心していたことなのに、いざとなると勇気が足りない。
 怖気づいてるのかな。やっぱり無謀だから? でも、これは自分で決めたこと。
「私、選択外国語、イタリア語で受験したいと思って」
「…………、は?」
「大学院入試の選択外国語を、イタリア語で受験したいの」
 自分自身で、決意をあらためて確認するように繰り返す。
 そう、これは自分で決めたこと。私が選んだ道。
「私、語学は苦手だけど、すごく苦手だけど……でも、美術史学を勉強したいの。研究者に……美術史学者になりたいの」
 この道を目指そうと決めたのは、大学一年生の頃。
 美術史学に出逢ったのは、ただの偶然。興味を持ったのは、知らなかったから。専門に選んだのは、実は消去法。卒論の作品を選んだのは、他の誰より珍妙な理由。
 些細なきっかけと奇妙な縁で構成された、本当に適当極まりない偶然の産物。
 でも、今は違うの。
 これが自分の進むべき道なのだと、解っているから。
 これこそが必然なのだと、確信しているから――。
「イタリア美術を研究するからには、イタリア語からは逃れられないでしょう? それに、ドイツのことを研究しているわけじゃないのにドイツ語で受験するって変じゃない?」
「……いや、そうだけど……でもなぁ……」
 それは自分でも考えたことだった。でも、本当の理由は違う。
「イタリア語となると、昂貴には、また教えてもらうばっかりになっちゃうけど……」
「いや、それはいいんだけどさ……しかしなあ」
 珍しく口ごもる彼に、やっぱり無理なのかなと、弱気な気持ちが頭をもたげる。
「そりゃあ、基礎はしっかりしてるけど、でも受験となるとなぁ」
「私だって、自分のイタリア語のレベルはわかってるわ」
 いくら内部進学だからって『二年間習った上に原典購読までこなしたドイツ語』と『三ヶ月ちょっとしかやっていないイタリア語』じゃ、天地の差。
「だけど、やっぱりイタリア美術の研究をしてるんだし……河原塚先生が、学科試験の成績が少しくらい悪くても、中間発表の出来によっては推薦できるって言ってたし」
「でもなあ……」
「それに『姿勢としてはイタリア語で受験するほうがいい』って言われたの。もちろん、何語で受験しようと、合格しなきゃ始まらないけど」
「ああ、それは確かに」
 現在の私の専門分野はイタリア初期バロックで、この時代の巨匠とされている画家を扱っている。だからこそ、イタリア語での受験を考えた。でも、実を言うと、美術史学を研究するうえで、専門分野がひとつという人のほうが珍しい。と言うか、そんな人の話を聞いたことすら無い。
 私はオランダ・バロックから入り、フランス・バロックやロココを学び、三年生の時のゼミ発表ではルネサンスを選んだ。昂貴だってオランダ・バロックの論文を書いているし、他の時代を扱った論文も何本か書いている。あの画家だけを研究しているわけじゃない。それに、ひとくちにあの画家を研究していると言っても、それは、画家自身や作品についての研究に限ったことじゃない。周辺の画家との比較や、あの画家が同時代および後世に与えた影響……あらゆる視点からの研究方法がある。
 それに、今後もイタリア美術を研究するとは限らないのだし、大学院をイタリア語で受験することに拘ることはないのかもしれない。でも……たとえそうだとしても、自分にとって、あの画家がどれほど大きな存在なのかは変わらないと思った。大学一年生の秋、照明を落とされた教室で感じた衝撃――あれが、全ての始まりだったのだから。
 そして、前に昂貴に言われたあの言葉――手がかりは発音だけ、未だに綴りすらよくわからない状態の『ティアーモ』という言葉に、もしかしたら辿り着けるかもしれない。
 昂貴がイタリア語だと明言したわけじゃないけれど、状況が状況だったし、別の言語というのは考えにくい。なにより、前に萩屋さんに聞いた時の反応を鑑みるに、少なくとも、イタリア語であることは間違いないと確信した。
 無謀な上に、不純な動機。意味が無いかもしれない。失敗するかもしれない。この選択を後悔する日が来るのかもしれない。それでも……。
「しかし、俺、てっきり風澄はドイツ語で受験するもんだと思ってたよ。イタリア語ほど得意じゃないけど、大学院入試のドイツ語なら教えてやれるしさ」
 むー、そう言うだろうと思ったけど……ううう。
 でも、昂貴だって、最初からイタリア語が上手だったわけじゃないでしょう? 得意科目だとか、自分に合っているとか、それだけで習得できるものじゃない。一朝一夕なんて絶対に無理よ。できる限りの努力をしたからこそ上手になったんだもの。だから、語学が苦手な私は、それ以上に頑張らなくちゃいけない。
「だから、頑張るから……」
 何度も自問自答を繰り返してみたけれど、やっぱり答えは変わらなかった。
 ゼロからじゃない。辛うじて、そのことだけが自分の勇気の源になる。
「私にイタリア語を教えて、お願い」
 わずかでも、本気じゃない気持ちがあったとしたら、きっと昂貴には見透かされてしまう。
 だからこそ、彼の目を見つめた。ただひたすら、視線を逸らさずに。
 本気なのだと、わかって欲しかったから。
「……駄目?」
「そんな目で風澄にお願いされたら、駄目なんて言えないよ」
 柔らかな表情で、彼は微笑んだ。
 根負けしたわけじゃなくて、ほだされたのでもなくて、納得した表情。そのことに、本当にほっとした。だって、昂貴となら、どんなことだって頑張れる気がするもの。
「毎日少しずつ勉強すれば、なんとかなるだろうし……」
 うん、よし。と呟いて、彼は。
「わかったよ。ただし、俺は厳しいからな」
「お願いします、先生っ」
「……じゃあ、これは前祝いだな……」
「ん……っ」
 そっと口唇を寄せる彼の腕に縋りつき、抱きしめ合う。
 深く浅く、何度も繰り返すキスはあたたかくて。
 まるで、勇気付づけられるみたいだった。
「大丈夫……風澄なら、きっと合格するよ」
「……うん、頑張る」
 見つめあって、もう一度、瞳を閉じてキスをして。
 私は彼に身を委ねた。

 優しく、そして、力強い腕に……。

 * * * * *

 そして、次の日。
 彼の予言どおりに、お昼過ぎまで寝過ごす私たちが居たのでした。

 ……ううう……身体がだるいよぉ……。
Line
First Section - Chapter 7 The End.
2007.09.01.Sat.
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