共に生きる者
09.人という字は
* Kasumi *
そして、長いようで短かった日々が過ぎた。
三泊四日――実質二日半ほどの、例年に較べれば圧倒的に短い帰省期間。
実家からマンションまで、交通手段は幾つもある。電車を使うと、主なルートは二つ。と言っても、実家の最寄り駅から途中までは同じだし、電車賃と所要時間が多少変わる程度で、それほど大きな差は無い。途中で寄り道するか、どこにも寄らずに帰るかで、自ずと決まる。前者ならば、前に最華と待ち合わせをした駅でいったん降りてから別の路線に乗り換えるから最適だし、後者ならば、路線は違うけれど駅構内で乗り換えができるから楽だし、電車賃も安いし、所要時間も短くなる。今日はこのままマンションに帰るから、後者のルートを選ぶことにした。
この場合、電車の接続が良くて双方の路線で急行が来れば、乗車時間は三十分弱。乗り換えの時間と徒歩の時間を含めても、まだ夕方の五時を過ぎたところだから、今から支度して出れば昂貴より早く着くはずだ。
「それじゃあ、私、そろそろ帰るね」
「あら、もう? ただでさえちょっとしかいられなかったのに、慌ただしいわねえ。夕食、食べて行けばいいのに……」
冷蔵庫に残っているものをリストアップして、夕食のメニューを考えていたらしい母は、残念そうな顔で溜め息をついた。
「うーん、でも、暗くなるといろいろ大変だし。それに、来週発表があるから、この一週間は集中したいの」
本当のことだし、嘘をついているわけじゃないけど、全てのことを口にしているわけでもない。なんだか親不孝をしているような気分だわ。ちょっと後ろめたい……ううう。
「そう……それじゃあ仕方ないわね。だけど、楽しんでやりなさいね」
「すごく楽しんでるから、それは大丈夫!」
今は、はっきりとそう言える。
ただ理詰めで研究を考えていた、あの頃とは違うの。
少しずつ、あの絵を冷静に見られるようになってきた。
立ち向かうためだけに、あの作品を選んだんじゃないもの。
それ以外に興味を持てるものがないからとか、他にできることがないからとか、そんな消極的な理由で美術史学者を目指してるわけじゃない。
なによりも興味深くて、どこまでも惹かれるから、この道を目指すの。
研究が好きだから、研究者になりたい。
美術史学者になりたい。
* * * * *
「――じゃあ、またね」
帰りの荷物は普段よりかなり多かったのだけど、実家にいるうちに用意しておいたこともあって、準備を整えるのにそれほど時間はかからなかった。
最寄りの駅まで火澄兄に送ってもらうことになっていたから、みんな駐車場まで出てきてくれた。父が行くって言ったんだけど、三人はなかなか休めないからって自分の車を出してくれたの。後部座席には既に荷物を入れている。
あらためて家族の顔を見ていると、見慣れた顔なのに、前に帰省した時とほんの少し違う気がする。たぶん同じ家に住んでいたら気づかないような変化。帰省中に家族写真を撮って昔のものと見比べたら、やっぱりみんな少しずつ変わっていた。
そう遠い距離じゃなくても、違うところに住んでいると、微妙な変化に気づきやすくなる。
ちょっとした変化だけでも感慨深いものがあるけれど、ただ変わっただけじゃなくて、成長しているといいな。
次に家族みんなに会う時には、今の私より成長した私であるように、頑張らなきゃね。
「またね、風澄。いつでも帰っていらっしゃいね」
「身体には充分、気をつけるようにな」
「くれぐれも、無理をするんじゃないぞ」
母と、父と、水澄兄の順で声をかけられた。
「さ、行くか?」
「うん。それじゃあね」
火澄兄が、帰省中に軽く切り揃えた私の髪をくしゃっと撫でる。
助手席に乗り込むと、ドアロックの音。エンジンがかかったところで窓の外を見ると、みんなが手を振ってくれていた。
* * * * *
「しかし、すごい量の土産だなぁ……」
車が家を出て、私が手を振り終えた頃、火澄兄は、後部座席に置いた私の荷物を見やり、呆れたように呟いた。
「あのねぇ、半分は火澄兄にもらったものなんだけど!」
「どう見ても僕のは三分の一程度だと思うが……」
まぁ確かに、普段ならせいぜい手持ちの旅行鞄に紙袋一つのところ、三つも持ってるから、大荷物なのは間違いないんだけど。紙袋の中身は、実家で余ってたお中元の残り。日持ちする食べ物と、バスタオルや薄手のブランケットなどの日用品。
「部屋に送ったほうが良かったんじゃないか?」
「だって、帰ってすぐ食べたいんだもの」
「なるほど」
日用品は送ってもいいかなーと思ったんだけど、それじゃあ食べものはどうして持って帰るのかっていう話になっちゃうし、特にバスタオルはもう2、3枚増やしたいなって思ってたところだったしで、全部まとめて持って帰ることにしたのよね。だって、シーツやお布団はふたりで同じものを使うけど、バスタオルは一人一枚必要でしょう? ひとり暮らしだと予備が少ないから、お洗濯のローテーションが大変だったのよねぇ……って、なにを考えているのよ、私はっ。
「でもなぁ風澄、僕でなくても、この量をひとりで平らげるとは思わないぞ?」
「うっ……そ、そんなことないもん。賞味期限はまだ先だし」
美味しいお菓子は大好きだけど、ひとりで食べるよりふたりで食べたい。ふたりなら、ひとりよりずっと美味しく感じるから。
……ええ、はい、そんなわけで、図星なんだけど……ううう。
「僕はこのまま風澄のマンションまで送ってもいいんだが、邪魔をしてはお馬さんに蹴り飛ばされてしまうからなぁ」
あのねぇ、なんてことを呟いてるのよっ。
「火澄兄ーっ、妹からかって楽しんでるでしょう!」
「うーむ、大当たりだなぁ」
「こらあぁっ!」
火澄兄ってば、ほんっとにもおぉっ!
「まぁ、冗談はさておき――風澄」
「んー?」
「僕は休みが終わったらすぐイギリスに戻るけれど、なにかあったらいつでもメールで連絡してくれよ。時差があるから難しいだろうが、電話でもいいから」
「え?」
「風澄はなんでも溜め込むタイプだからな。家族で知ったのは僕だけだし、いつでもどうぞということだよ」
「……うん、ありがとう」
心配、してくれてるんだ。昔も今もずっと? そうだよね。火澄兄ってそういうひとなの。本心を濁しても、嘘をつかないから。
「おまえがさ……そんなふうに笑える日が来るだろうかって、三年前からずっと心配していたんだよ。家族みんな」
「うーん、ごめんね、不出来な妹で」
「いや、いいんだよ。なにがあったか、言いたくないなら言う必要はないけれど、無理して元気なふりをされるより余程いいから。でも、そうだな……その、風澄を元気にしてくれた相手には感謝したいな、僕は」
「うん……私も感謝してる」
「そうか。……大切にしろよ?」
「……え?」
大切に、する……?
「そのひとを、さ」
「あ……、うん、そうか……そうよね……」
「どうした?」
「ううん。今まで、私がいつも大切にしてもらってばっかりだったかもしれないって思ったの。私が、大切にしなきゃだめなんだよね……そうだよね……」
「そうだよ。気持ちは一方通行じゃだめなんだから」
前に昂貴とも話したけれど――
私はずっと、『誰かのためだけになにかができる』という考え方は傲慢だと思っていた。
たとえば私が、昂貴のためになにかをしたとしたら、それは、昂貴に喜んでもらえることで自分が嬉しく思うからしたんだと思う。
もちろん、なんであれ、昂貴が喜んでいたら私も嬉しいけれど、自分のしたことで昂貴が喜んでくれたからこそ、尚更に嬉しいんだと思う。
となれば、私は『昂貴が私のしたことで喜んでくれるのを見たいがために、なにかをした』ということ――すなわち、彼の笑顔という見返りを期待していることになる。
『誰かのためだけになにかができる』という考えは『喜んでもらえるかもしれない』という気持ちが発生する時点で『誰かのためだけ』にはならないのだ。
だから、どんなことも――もしかしたら誰かのためになったかもしれないけれど――『自分のため』にしていることで、『自分のため』にしかできないこと。
私は、そう考えていた。
だとすれば――世の中に、純粋な善意なんて存在するんだろうか。
存在し得るんだろうか?
私は、昂貴になにかしたいと思う。昂貴が私にしてくれるだけのことを返すなんてとても無理だけれど、せめてこの気持ちのひとかけらでも伝えたい。
そう思っていることは、間違いない。
でも、それは『純粋な善意』なんだろうか?
そして、なにかしたいと思って私がしたことが、彼にとってありがた迷惑以外のなにものでもなかったとしら?
相手にもよるのかもしれない。
たとえば、昂貴が私にしてくれることは、大抵、私にとって嬉しいこと。どうしてこんなに良くしてくれるんだろうと疑問に思っても、彼の善意を疑ったりはしない。
でも、そういうふうに考えられるひとばかりじゃない。
頼んだわけでもないのに、私のためだと思い込むなんて、押し付けがましいにも程があるわ、余計なお世話よ――そんなふうに感じたこともある。
もちろん、受け取り手にもよるだろう。善意のみから生まれた行動であっても、受け取り手の感情が歪んでいたら、善意など感じられないに違いない。
仮に『純粋な善意』というものが存在し得るとしても、それが、相手にとって『ありがた迷惑』にならないとは言えない。
つまり、たとえ自分が良かれと思ってしたことであっても、それが本当に良いことだとは決して言い切れないのだ。
となれば、やはり、もしかしたら誰かのためになったかもしれないけれど、どんなことも、『自分のため』にしていることで、『自分のため』にしかできないことだということになる。
少なくとも『誰かのためだけに』というのは無理だ。
けれど、本当にそうなのだろうか?
本当に『誰かのためだけになにかができる』という考え方は、傲慢なんだろうか?
もしかして、そんなのは傲慢だと思う、その考えこそが傲慢なんじゃないか――。
昂貴と過ごすようになってから、私はしだいに、そんな疑問を抱くようになった。
――だって、私は昂貴に、どれほどのものを与えてもらっただろう――
『誰かのためだけになにかができるかどうか』『それは純粋な善意かどうか』という考えは、根本からして勘違いだったのかもしれない。
昂貴が私を大切にしてくれている。
私も昂貴を大切にしたい。
ただ、大切なひとを大切にしたいだけ。
そこから生まれた気持ちなのだから。
同じ人間じゃないから、お互いの全てを理解しあうことはできないし、お互いに全く同じ気持ちで思いあうことなんて無理な話。
でも、お互いを大切にし合うことならできる。
全ては無理でも、出来うる限り、理解しようとする気持ちが大事なのかもしれない。
そうだ。お互いに大切にしあうことが大事なんだ。そうじゃなかったら、ふたりで居る意味がないもの。どちらかが頼り、どちらかが頼られるだけじゃ、歪んだ関係になってしまう。
私はいつも、彼になにかしてもらってばかり。そのことに引け目を感じていたのは本当だけれど、甘えられるひとが居るのは、とても心地よかった。
誰かに甘えるということは、必ずしも悪いことじゃないと思う。言葉のイメージからすると、自立心に乏しく、誰かに寄生しないと生きていけない人のようだけれど、私のように、つい周囲に壁を作ってしまいがちなタイプだと、頼ることを知らないから、必要な時にすら助力を求められなくて、結局は無理をしてしまう。頼ることや甘えることは負けを認めること、ひいては自分の誇りを傷つけることだと考えていたのかもしれない。
誇り高く在りたいということと、つまらない自尊心を保とうとすることは、全く違うのに。
もちろん、甘えるばかりじゃ、やっぱり駄目。
傷を舐めあうのではなく、お互いに支えあう関係でなければ。
だって、こんな私じゃ、昂貴が頼りたくても頼れない。彼を支えるどころか、足を引っ張るのがせいぜいだわ。昂貴の力になんて到底なれない。
でも、私が昂貴を頼るように、昂貴が私に頼りにしてくれたら、どんなに嬉しいだろう。
いつかそんなふうになりたくて、できることから始めてみても、そんな程度じゃ、本当に伝えたい感謝の気持ちの欠片さえ表現できなくて。
この関係に依存したままでは、何年経とうと彼と対等の立場に立てるわけがない。
そんな私が、いつか彼に追いつきたいだなんて、それこそ傲慢だ。
考えれば考えるほど、どうしたらいいのかわからなかった。
昂貴は、そんな些細な理由に捕らわれたりせず、私を大切にしてくれていたのに。
彼が私を大切にしてくれる、その気持ちをほんの少しでも返したい。
お礼の言葉だけじゃなくて、行動で表現しなければ、伝わるものも伝わらない。
義務じゃなくて、強いられているのでもなくて、ただ伝えたいだけ。
心から、私が昂貴を大切にしなきゃいけないんだ。
「あ、そういえばね、お祖父ちゃんが前に言ってた……『人という字は、人と人が支え合ってできている。だから立っていられるんだ、人もそうだ。支えあって生きていかなきゃいけないんだ』って」
「へえ? じーさま、さすがだな」
そうそう、私がお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、そして火澄兄がじーさま、ばーさまと言う時は、決まって父方の祖父母のことなの。水澄兄は、さすがに次期社長だから、普段は会長、会長夫人って呼んでいるみたいだけど、家では火澄兄と同じ呼び方。ふたりとも、すごく気さくに接してくれるひとでね、大企業のトップとは思えないくらい。可愛がってもらってるのよ。でも、残念ながら、母方の親族には会ったことがないの。旧い家でね、母は勘当同然に家を出たっていうから、交流が無いのも仕方ないんだけど。
「でもね、ここからが、つくづく市谷家だなぁって思うんだけど……私が感動してたっていうのに、お祖父ちゃんってば、『……と言っても、人という字は圧倒的に左のほうが長いし、そもそも、漢字は象形文字で、元々は人が横向きになっているところからできた文字だから、本当の由来からすると、支えても支えられてもいないというオチがあるんだけどね』なんて言うの! 酷いでしょう?」
当時の私、小学生だったのよ? うっとりと、素敵な話だなぁーって浸ってたのに!
でも、すごく、市谷家らしい話だとも思うのよね……お祖父ちゃんがどこでその話を耳にしたか知らないけど、すぐさま由来を調べたに決まってるもの。自分も感動したんでしょうに、裏づけを取らずにいられないのよ、きっと。
「じーさまはどこまで行ってもじーさまだなぁ」
なんて、火澄兄は堪えきれずに笑う。今は私も笑えるけど、当時は正直、笑えませんでした。ええ。お祖母ちゃんに心配されちゃったもの。『あなた、ちっちゃい子をからかっちゃいけませんよ』なんて。んもおぉ!
「でもね、照れ隠しって言うか……冗談めかして、本心を言いたかったのかもしれないなあ、とも思うの」
「と言うと?」
「『おまえも支えあって生きていける人を探しなさい』って言われたの。一生かかってもいいからって。『共に生きる者』を」
「それで、ばーさまとのノロケ話を聞かされたんだろう?」
「そうなのよ。もう、何度も聞いてるっていうのにね」
って、ふたりで大笑い。
でもそうね、その話を聞いたときに、『私も探そう』って思ったの。お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、すごく仲良くて、本当に支えあってるんだっていつも思ってたから。市谷の家に生まれたお祖父ちゃんは、お祖母ちゃんと出逢って、人生が変わったんだって言ってた。厳格と言うよりは頑迷固陋と言ったほうが如実な表現だったらしい父親――私にとっては曽祖父――の長男として生まれ、市谷グループの後継ぎとなることを本人の意思とは関係無しに定められて育った祖父は、子供の頃からずっと曽祖父の言いなりのように生きていたという。その大きな存在に初めて逆らったのが、祖母との結婚。一緒に居たい相手を、護りたい存在を見つけ、そして、意思を通す強さを知ったと言っていた……。今のお祖父ちゃんには、そんな影の部分は微塵も感じられないけれど、祖父の明るく楽しい人柄は、きっと大きな苦しみを知っているからこそ形成されたものなんだろうと思う。
考えてみると、両親もそうだ。父は母に家を失わせる覚悟を、母は家を失う覚悟を決めて結婚したのだから。私の知る市谷家の親族は、みんな仲が良くて、平和な家庭ばかりなのだけれど、それは、表面だけではわからない、大きな覚悟や決心があったからこそなのかもしれない。
そういえば、一度決めたら必ず貫く頑固なところは、祖父から父親に受け継がれ、うちの三兄弟にしっかり遺伝してるみたいね。なんだかんだ言って、みんな頑固だもの。
いつか私や水澄兄、火澄兄にも、そんな大きな覚悟や決心をする時が来るのかもしれない。その時は、水澄兄、そして火澄兄が幸せであるように、力になれたら嬉しいな。私はこの家が好きだし、企業のことに関わるつもりはないにしろ、私の力が必要ならば協力したいと思う。けれど……それでも、私にとっては、家や会社の存続より、ひとりひとりの幸せのほうが大事だから……。
世界中の全てのひとが幸せになんて理想論だけど、自分の好きなひとたちに幸せであって欲しいというのは、誰しも願うことだと思う。
少なくとも、逆よりはずっと良いよね。
たとえ、自分の幸せがなんなのか、わかっていなかったとしても……。
「それじゃあ、元気でな」
「火澄兄もね。彼女とお幸せに?」
「ははは、風澄もな」
「じゃあ、またね」
そして、見送ってくれる火澄兄に手を振り、改札に切符代わりのカードを通し、私は再び、数日前に下りたばかりの駅へと足を踏み入れた。
今度この駅のプラットホームに下り立つのは、年末になるだろうか。
来週の中間発表、来月の大学院入試、年末の卒業論文。卒論の提出は年始だけど、製本に出すには、十二月の頭には体裁を整えておかなければならない。修士論文や博士論文とは違い、学士論文には特別な規定があまり無いのだけど、昂貴にいろいろ聞いて、将来のこともあるし、正式な手順で提出してみようかなと思ったから。
次の帰省までに、やることはたくさんある。
その時、私は、今よりも成長しているだろうか?
少なくとも四ヶ月は先の話だけれど。
この時の予想は大きく外れ――
私は意外と早く、ここに再び下り立つことになるのだけど、
その時の私には、知る由も無かった。
そして、長いようで短かった日々が過ぎた。
三泊四日――実質二日半ほどの、例年に較べれば圧倒的に短い帰省期間。
実家からマンションまで、交通手段は幾つもある。電車を使うと、主なルートは二つ。と言っても、実家の最寄り駅から途中までは同じだし、電車賃と所要時間が多少変わる程度で、それほど大きな差は無い。途中で寄り道するか、どこにも寄らずに帰るかで、自ずと決まる。前者ならば、前に最華と待ち合わせをした駅でいったん降りてから別の路線に乗り換えるから最適だし、後者ならば、路線は違うけれど駅構内で乗り換えができるから楽だし、電車賃も安いし、所要時間も短くなる。今日はこのままマンションに帰るから、後者のルートを選ぶことにした。
この場合、電車の接続が良くて双方の路線で急行が来れば、乗車時間は三十分弱。乗り換えの時間と徒歩の時間を含めても、まだ夕方の五時を過ぎたところだから、今から支度して出れば昂貴より早く着くはずだ。
「それじゃあ、私、そろそろ帰るね」
「あら、もう? ただでさえちょっとしかいられなかったのに、慌ただしいわねえ。夕食、食べて行けばいいのに……」
冷蔵庫に残っているものをリストアップして、夕食のメニューを考えていたらしい母は、残念そうな顔で溜め息をついた。
「うーん、でも、暗くなるといろいろ大変だし。それに、来週発表があるから、この一週間は集中したいの」
本当のことだし、嘘をついているわけじゃないけど、全てのことを口にしているわけでもない。なんだか親不孝をしているような気分だわ。ちょっと後ろめたい……ううう。
「そう……それじゃあ仕方ないわね。だけど、楽しんでやりなさいね」
「すごく楽しんでるから、それは大丈夫!」
今は、はっきりとそう言える。
ただ理詰めで研究を考えていた、あの頃とは違うの。
少しずつ、あの絵を冷静に見られるようになってきた。
立ち向かうためだけに、あの作品を選んだんじゃないもの。
それ以外に興味を持てるものがないからとか、他にできることがないからとか、そんな消極的な理由で美術史学者を目指してるわけじゃない。
なによりも興味深くて、どこまでも惹かれるから、この道を目指すの。
研究が好きだから、研究者になりたい。
美術史学者になりたい。
* * * * *
「――じゃあ、またね」
帰りの荷物は普段よりかなり多かったのだけど、実家にいるうちに用意しておいたこともあって、準備を整えるのにそれほど時間はかからなかった。
最寄りの駅まで火澄兄に送ってもらうことになっていたから、みんな駐車場まで出てきてくれた。父が行くって言ったんだけど、三人はなかなか休めないからって自分の車を出してくれたの。後部座席には既に荷物を入れている。
あらためて家族の顔を見ていると、見慣れた顔なのに、前に帰省した時とほんの少し違う気がする。たぶん同じ家に住んでいたら気づかないような変化。帰省中に家族写真を撮って昔のものと見比べたら、やっぱりみんな少しずつ変わっていた。
そう遠い距離じゃなくても、違うところに住んでいると、微妙な変化に気づきやすくなる。
ちょっとした変化だけでも感慨深いものがあるけれど、ただ変わっただけじゃなくて、成長しているといいな。
次に家族みんなに会う時には、今の私より成長した私であるように、頑張らなきゃね。
「またね、風澄。いつでも帰っていらっしゃいね」
「身体には充分、気をつけるようにな」
「くれぐれも、無理をするんじゃないぞ」
母と、父と、水澄兄の順で声をかけられた。
「さ、行くか?」
「うん。それじゃあね」
火澄兄が、帰省中に軽く切り揃えた私の髪をくしゃっと撫でる。
助手席に乗り込むと、ドアロックの音。エンジンがかかったところで窓の外を見ると、みんなが手を振ってくれていた。
* * * * *
「しかし、すごい量の土産だなぁ……」
車が家を出て、私が手を振り終えた頃、火澄兄は、後部座席に置いた私の荷物を見やり、呆れたように呟いた。
「あのねぇ、半分は火澄兄にもらったものなんだけど!」
「どう見ても僕のは三分の一程度だと思うが……」
まぁ確かに、普段ならせいぜい手持ちの旅行鞄に紙袋一つのところ、三つも持ってるから、大荷物なのは間違いないんだけど。紙袋の中身は、実家で余ってたお中元の残り。日持ちする食べ物と、バスタオルや薄手のブランケットなどの日用品。
「部屋に送ったほうが良かったんじゃないか?」
「だって、帰ってすぐ食べたいんだもの」
「なるほど」
日用品は送ってもいいかなーと思ったんだけど、それじゃあ食べものはどうして持って帰るのかっていう話になっちゃうし、特にバスタオルはもう2、3枚増やしたいなって思ってたところだったしで、全部まとめて持って帰ることにしたのよね。だって、シーツやお布団はふたりで同じものを使うけど、バスタオルは一人一枚必要でしょう? ひとり暮らしだと予備が少ないから、お洗濯のローテーションが大変だったのよねぇ……って、なにを考えているのよ、私はっ。
「でもなぁ風澄、僕でなくても、この量をひとりで平らげるとは思わないぞ?」
「うっ……そ、そんなことないもん。賞味期限はまだ先だし」
美味しいお菓子は大好きだけど、ひとりで食べるよりふたりで食べたい。ふたりなら、ひとりよりずっと美味しく感じるから。
……ええ、はい、そんなわけで、図星なんだけど……ううう。
「僕はこのまま風澄のマンションまで送ってもいいんだが、邪魔をしてはお馬さんに蹴り飛ばされてしまうからなぁ」
あのねぇ、なんてことを呟いてるのよっ。
「火澄兄ーっ、妹からかって楽しんでるでしょう!」
「うーむ、大当たりだなぁ」
「こらあぁっ!」
火澄兄ってば、ほんっとにもおぉっ!
「まぁ、冗談はさておき――風澄」
「んー?」
「僕は休みが終わったらすぐイギリスに戻るけれど、なにかあったらいつでもメールで連絡してくれよ。時差があるから難しいだろうが、電話でもいいから」
「え?」
「風澄はなんでも溜め込むタイプだからな。家族で知ったのは僕だけだし、いつでもどうぞということだよ」
「……うん、ありがとう」
心配、してくれてるんだ。昔も今もずっと? そうだよね。火澄兄ってそういうひとなの。本心を濁しても、嘘をつかないから。
「おまえがさ……そんなふうに笑える日が来るだろうかって、三年前からずっと心配していたんだよ。家族みんな」
「うーん、ごめんね、不出来な妹で」
「いや、いいんだよ。なにがあったか、言いたくないなら言う必要はないけれど、無理して元気なふりをされるより余程いいから。でも、そうだな……その、風澄を元気にしてくれた相手には感謝したいな、僕は」
「うん……私も感謝してる」
「そうか。……大切にしろよ?」
「……え?」
大切に、する……?
「そのひとを、さ」
「あ……、うん、そうか……そうよね……」
「どうした?」
「ううん。今まで、私がいつも大切にしてもらってばっかりだったかもしれないって思ったの。私が、大切にしなきゃだめなんだよね……そうだよね……」
「そうだよ。気持ちは一方通行じゃだめなんだから」
前に昂貴とも話したけれど――
私はずっと、『誰かのためだけになにかができる』という考え方は傲慢だと思っていた。
たとえば私が、昂貴のためになにかをしたとしたら、それは、昂貴に喜んでもらえることで自分が嬉しく思うからしたんだと思う。
もちろん、なんであれ、昂貴が喜んでいたら私も嬉しいけれど、自分のしたことで昂貴が喜んでくれたからこそ、尚更に嬉しいんだと思う。
となれば、私は『昂貴が私のしたことで喜んでくれるのを見たいがために、なにかをした』ということ――すなわち、彼の笑顔という見返りを期待していることになる。
『誰かのためだけになにかができる』という考えは『喜んでもらえるかもしれない』という気持ちが発生する時点で『誰かのためだけ』にはならないのだ。
だから、どんなことも――もしかしたら誰かのためになったかもしれないけれど――『自分のため』にしていることで、『自分のため』にしかできないこと。
私は、そう考えていた。
だとすれば――世の中に、純粋な善意なんて存在するんだろうか。
存在し得るんだろうか?
私は、昂貴になにかしたいと思う。昂貴が私にしてくれるだけのことを返すなんてとても無理だけれど、せめてこの気持ちのひとかけらでも伝えたい。
そう思っていることは、間違いない。
でも、それは『純粋な善意』なんだろうか?
そして、なにかしたいと思って私がしたことが、彼にとってありがた迷惑以外のなにものでもなかったとしら?
相手にもよるのかもしれない。
たとえば、昂貴が私にしてくれることは、大抵、私にとって嬉しいこと。どうしてこんなに良くしてくれるんだろうと疑問に思っても、彼の善意を疑ったりはしない。
でも、そういうふうに考えられるひとばかりじゃない。
頼んだわけでもないのに、私のためだと思い込むなんて、押し付けがましいにも程があるわ、余計なお世話よ――そんなふうに感じたこともある。
もちろん、受け取り手にもよるだろう。善意のみから生まれた行動であっても、受け取り手の感情が歪んでいたら、善意など感じられないに違いない。
仮に『純粋な善意』というものが存在し得るとしても、それが、相手にとって『ありがた迷惑』にならないとは言えない。
つまり、たとえ自分が良かれと思ってしたことであっても、それが本当に良いことだとは決して言い切れないのだ。
となれば、やはり、もしかしたら誰かのためになったかもしれないけれど、どんなことも、『自分のため』にしていることで、『自分のため』にしかできないことだということになる。
少なくとも『誰かのためだけに』というのは無理だ。
けれど、本当にそうなのだろうか?
本当に『誰かのためだけになにかができる』という考え方は、傲慢なんだろうか?
もしかして、そんなのは傲慢だと思う、その考えこそが傲慢なんじゃないか――。
昂貴と過ごすようになってから、私はしだいに、そんな疑問を抱くようになった。
――だって、私は昂貴に、どれほどのものを与えてもらっただろう――
『誰かのためだけになにかができるかどうか』『それは純粋な善意かどうか』という考えは、根本からして勘違いだったのかもしれない。
昂貴が私を大切にしてくれている。
私も昂貴を大切にしたい。
ただ、大切なひとを大切にしたいだけ。
そこから生まれた気持ちなのだから。
同じ人間じゃないから、お互いの全てを理解しあうことはできないし、お互いに全く同じ気持ちで思いあうことなんて無理な話。
でも、お互いを大切にし合うことならできる。
全ては無理でも、出来うる限り、理解しようとする気持ちが大事なのかもしれない。
そうだ。お互いに大切にしあうことが大事なんだ。そうじゃなかったら、ふたりで居る意味がないもの。どちらかが頼り、どちらかが頼られるだけじゃ、歪んだ関係になってしまう。
私はいつも、彼になにかしてもらってばかり。そのことに引け目を感じていたのは本当だけれど、甘えられるひとが居るのは、とても心地よかった。
誰かに甘えるということは、必ずしも悪いことじゃないと思う。言葉のイメージからすると、自立心に乏しく、誰かに寄生しないと生きていけない人のようだけれど、私のように、つい周囲に壁を作ってしまいがちなタイプだと、頼ることを知らないから、必要な時にすら助力を求められなくて、結局は無理をしてしまう。頼ることや甘えることは負けを認めること、ひいては自分の誇りを傷つけることだと考えていたのかもしれない。
誇り高く在りたいということと、つまらない自尊心を保とうとすることは、全く違うのに。
もちろん、甘えるばかりじゃ、やっぱり駄目。
傷を舐めあうのではなく、お互いに支えあう関係でなければ。
だって、こんな私じゃ、昂貴が頼りたくても頼れない。彼を支えるどころか、足を引っ張るのがせいぜいだわ。昂貴の力になんて到底なれない。
でも、私が昂貴を頼るように、昂貴が私に頼りにしてくれたら、どんなに嬉しいだろう。
いつかそんなふうになりたくて、できることから始めてみても、そんな程度じゃ、本当に伝えたい感謝の気持ちの欠片さえ表現できなくて。
この関係に依存したままでは、何年経とうと彼と対等の立場に立てるわけがない。
そんな私が、いつか彼に追いつきたいだなんて、それこそ傲慢だ。
考えれば考えるほど、どうしたらいいのかわからなかった。
昂貴は、そんな些細な理由に捕らわれたりせず、私を大切にしてくれていたのに。
彼が私を大切にしてくれる、その気持ちをほんの少しでも返したい。
お礼の言葉だけじゃなくて、行動で表現しなければ、伝わるものも伝わらない。
義務じゃなくて、強いられているのでもなくて、ただ伝えたいだけ。
心から、私が昂貴を大切にしなきゃいけないんだ。
「あ、そういえばね、お祖父ちゃんが前に言ってた……『人という字は、人と人が支え合ってできている。だから立っていられるんだ、人もそうだ。支えあって生きていかなきゃいけないんだ』って」
「へえ? じーさま、さすがだな」
そうそう、私がお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、そして火澄兄がじーさま、ばーさまと言う時は、決まって父方の祖父母のことなの。水澄兄は、さすがに次期社長だから、普段は会長、会長夫人って呼んでいるみたいだけど、家では火澄兄と同じ呼び方。ふたりとも、すごく気さくに接してくれるひとでね、大企業のトップとは思えないくらい。可愛がってもらってるのよ。でも、残念ながら、母方の親族には会ったことがないの。旧い家でね、母は勘当同然に家を出たっていうから、交流が無いのも仕方ないんだけど。
「でもね、ここからが、つくづく市谷家だなぁって思うんだけど……私が感動してたっていうのに、お祖父ちゃんってば、『……と言っても、人という字は圧倒的に左のほうが長いし、そもそも、漢字は象形文字で、元々は人が横向きになっているところからできた文字だから、本当の由来からすると、支えても支えられてもいないというオチがあるんだけどね』なんて言うの! 酷いでしょう?」
当時の私、小学生だったのよ? うっとりと、素敵な話だなぁーって浸ってたのに!
でも、すごく、市谷家らしい話だとも思うのよね……お祖父ちゃんがどこでその話を耳にしたか知らないけど、すぐさま由来を調べたに決まってるもの。自分も感動したんでしょうに、裏づけを取らずにいられないのよ、きっと。
「じーさまはどこまで行ってもじーさまだなぁ」
なんて、火澄兄は堪えきれずに笑う。今は私も笑えるけど、当時は正直、笑えませんでした。ええ。お祖母ちゃんに心配されちゃったもの。『あなた、ちっちゃい子をからかっちゃいけませんよ』なんて。んもおぉ!
「でもね、照れ隠しって言うか……冗談めかして、本心を言いたかったのかもしれないなあ、とも思うの」
「と言うと?」
「『おまえも支えあって生きていける人を探しなさい』って言われたの。一生かかってもいいからって。『共に生きる者』を」
「それで、ばーさまとのノロケ話を聞かされたんだろう?」
「そうなのよ。もう、何度も聞いてるっていうのにね」
って、ふたりで大笑い。
でもそうね、その話を聞いたときに、『私も探そう』って思ったの。お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、すごく仲良くて、本当に支えあってるんだっていつも思ってたから。市谷の家に生まれたお祖父ちゃんは、お祖母ちゃんと出逢って、人生が変わったんだって言ってた。厳格と言うよりは頑迷固陋と言ったほうが如実な表現だったらしい父親――私にとっては曽祖父――の長男として生まれ、市谷グループの後継ぎとなることを本人の意思とは関係無しに定められて育った祖父は、子供の頃からずっと曽祖父の言いなりのように生きていたという。その大きな存在に初めて逆らったのが、祖母との結婚。一緒に居たい相手を、護りたい存在を見つけ、そして、意思を通す強さを知ったと言っていた……。今のお祖父ちゃんには、そんな影の部分は微塵も感じられないけれど、祖父の明るく楽しい人柄は、きっと大きな苦しみを知っているからこそ形成されたものなんだろうと思う。
考えてみると、両親もそうだ。父は母に家を失わせる覚悟を、母は家を失う覚悟を決めて結婚したのだから。私の知る市谷家の親族は、みんな仲が良くて、平和な家庭ばかりなのだけれど、それは、表面だけではわからない、大きな覚悟や決心があったからこそなのかもしれない。
そういえば、一度決めたら必ず貫く頑固なところは、祖父から父親に受け継がれ、うちの三兄弟にしっかり遺伝してるみたいね。なんだかんだ言って、みんな頑固だもの。
いつか私や水澄兄、火澄兄にも、そんな大きな覚悟や決心をする時が来るのかもしれない。その時は、水澄兄、そして火澄兄が幸せであるように、力になれたら嬉しいな。私はこの家が好きだし、企業のことに関わるつもりはないにしろ、私の力が必要ならば協力したいと思う。けれど……それでも、私にとっては、家や会社の存続より、ひとりひとりの幸せのほうが大事だから……。
世界中の全てのひとが幸せになんて理想論だけど、自分の好きなひとたちに幸せであって欲しいというのは、誰しも願うことだと思う。
少なくとも、逆よりはずっと良いよね。
たとえ、自分の幸せがなんなのか、わかっていなかったとしても……。
「それじゃあ、元気でな」
「火澄兄もね。彼女とお幸せに?」
「ははは、風澄もな」
「じゃあ、またね」
そして、見送ってくれる火澄兄に手を振り、改札に切符代わりのカードを通し、私は再び、数日前に下りたばかりの駅へと足を踏み入れた。
今度この駅のプラットホームに下り立つのは、年末になるだろうか。
来週の中間発表、来月の大学院入試、年末の卒業論文。卒論の提出は年始だけど、製本に出すには、十二月の頭には体裁を整えておかなければならない。修士論文や博士論文とは違い、学士論文には特別な規定があまり無いのだけど、昂貴にいろいろ聞いて、将来のこともあるし、正式な手順で提出してみようかなと思ったから。
次の帰省までに、やることはたくさんある。
その時、私は、今よりも成長しているだろうか?
少なくとも四ヶ月は先の話だけれど。
この時の予想は大きく外れ――
私は意外と早く、ここに再び下り立つことになるのだけど、
その時の私には、知る由も無かった。
To be continued.
2007.05.28.Mon.
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