共に生きる者

08.離れていても


Line
* Kouki *
「……本っ当に、いつ見ても壮観だな……」
 毎度のことながら、呟かずにはいられない。
 何って、実家の地下――『高原家私立図書室』のことだ。

 * * * * *

 少し前まで、俺は、帰省を決めかねていた。
 そりゃあ、この年になれば、そう長いこと実家に居たりはしないし、立場上、管理を怠るわけにもいかない。どうしてもという場合は侑貴に頼めば良い話だけど、本人の都合というものがある。あの部屋を空けるのは、留学や旅行を除けば長くてもせいぜい一週間程度。けれど、夏と年末年始の帰省は欠かしたことが無かった。そして、それは風澄も同じだったらしい。
 だけど――離れ難かったのだ。
 俺の願望が多分に含まれているとしても……きっと、お互いに。
 この一ヵ月半、いろいろなことがありすぎたし。

 それでも俺が帰省を決めたのは、やはり、彼女との関係の変化に因るところが大きい。
 知り合った頃のように、無理矢理半分に約束を取り付けたりしなくても、彼女が帰るところは俺の隣で、俺が帰るところは彼女の隣だから。
 もちろん、帰省を決めた理由はそれだけじゃない。
 もうひとつの大きな理由――それは、風澄に見せたい資料があったからだ。

 家族全員が研究者あるいは研究者志望である所為か、我が家はどこもかしこも本だらけなのだが、ありとあらゆる資料が集められたこの地下室に至っては、図書室どころか、ちょっとした図書館と言っても良いくらいの規模。俺の部屋にだって充分に資料は置いてあるけれど、ここの蔵書の足元にも及ばない。
 さすがに貸し出しカードなんぞは無いが、日本十進分類法に則って並べられており、全ての蔵書に『高原家蔵書』と押印されているあたりは、凝り性なうちの一族の性質のあらわれだろうか。また、今のところ検索システムも無いが、蔵書一覧と所在はパソコンに入れてあり、プリントアウトしてファイリングしたものが地下に置いてある(なにしろ、量が量だからな……)。母親は冗談抜きで高原家私立図書室専用蔵書検索システム設置計画のひとつくらい練っているかもしれない……。
「ええと、歴史だろ、医学に、それから化学に……あ、地図も要るな」
 専門は美術史学なのに、なんでこんなのまでと思われるだろうが、美術史学の本だけ読んでいたのでは、本当の『自分の論文』は書けない。
 美術史学には『実験』が無い。もちろん、内部調査(赤外線調査やX線撮影など)によって下書きや描き直しの跡を見たり、使われている画材を分析したり、炭素によって制作年代を測定をしたりと科学的な分析は行われているが、それらはプロジェクトとして取り組まない限りできないものだ。理系の主な学問のように、学生の身で、自分の手で実験することは難しい。
 だからこそ『レポート』と『論文』の違いを常に念頭に置かなければならないのだ。
 その違いは規模の大小を指すものではない。ただ他人の文章をまとめただけではレポートにすらならない。
 そんな程度なら誰にだってできる。
 自分以外の誰かであっても実現可能なことならば、自分がやる意味は無い。

 実際問題、『研究者として自分に何を課すか』という問題は大きい。
 プライドだって、つまらないとは言えない。むしろ、ある意味で非常に重要なことだ。
 意地と誇りが無ければ、どんな汚い手段を取ろうと構わないということになってしまう。
 研究者かどうかなんて関係無い。人間として、恥を知れということだ。
 俺は少なくとも誰かに後ろ指をさされるような研究はしてこなかった。素晴らしい論文に影響を受けたこともあれば、いろいろな人々の協力があって初めて得られた成果もある。決してひとりでやってきたわけじゃない。けれど、自分自身の能力と実績を、嘘や偽りでごまかしたことはない。そのことを誇りに思っているし、意地でも貫き通す。恥知らずなどと言われるのはごめんだ。
 恥知らずな自分を恥と思えるかどうかというのは大切なことなのだ。
 その考え方が時に辛くとも。

 それから、どれほど小さなことであっても、自分で調べること。
 参考文献の一単語や、引用の一部であろうと、それがどれほど小さな疑問であろうと、可能な限り追求し、必ず自分で裏づけを取らねばならない。
 重箱の隅を突付くような些末な事柄にこだわって潰れた奴も居れば、誰も考えすらしなかったことを追求して成功した奴だって居るだろう。
 何が必要で何が不必要なのかを考え、正しい選択肢を採る能力が、研究者となれる分かれ目かもしれない。

 そして何より大切なのは、収集した資料を検討し、自分自身の考えを述べること。
 見落としや勘違いは無いか? 自分自身の思考回路で可能な限りの理解をしたのか? 本当に最善を尽くしたか?
 持てる力を限界まで駆使して追求し、常に自分に問い、高みを目指す。
 それさえできないのでは、研究者などと名乗るのもおこがましい。

 研究とは――神経を研ぎ澄まし、真相を究めることなのかもしれない。
 俺は時々、そんなふうに考えることがある。文字遊びやパズルのようだけれど。
「風澄にとっては、得意分野だろうな……」
 神経を研ぎ澄まし、真相を究める――なんて、いかにも彼女らしい。
 彼女なら、恥知らずと非難されるような行為は決してしないだろう。卑怯者を徹底的に嫌う彼女のことだ、他人に言われる前どころか、そのような手段をたとえ一瞬でも考えた自分にすら嫌悪感を抱きかねない。
 資料を丹念に集め、きちんと調べて隅々まで検討し、粘り強く思考する研究態度には、執念すら感じる。
 いや――実際に執念なのか。
 『宗哉』への?
「――違う、な……」
 それだけではない。
 『宗哉』への思慕も、全く無いわけではないだろう。
 けれど、それだけでは、風澄のようにはならない。きっと。
 それを確信して喜ぶのは、彼女に恋する自分? それとも研究者としての自分?
 両方なんだろうな。彼女への恋心も研究への情熱も、不可分な自分自身だから。

 と、そこで、インターホンが鳴った。
「昂貴〜、どこに居るの〜?」
 思索の淵に居たところへ、この間延びしきった能天気な声。とりあえず脱力。
 予想どおりと言えば予想どおりの声なのだが――
 果たしてこの本人は『神経を研ぎ澄まし、真相を究め』ているのだろうか。謎である。
「あぁ、地下で本読んでる」
 朝食後、両親が出かけるのを見送り、そのまま籠りっぱなしだったから、全室一斉に鳴らしたのだろう。
「えええええ〜!? こんなにいいお天気なのに、朝っぱらから地下ぁ〜!?」
「いいお天気ってなぁ、暑いだけだろうが。地下ならエアコン使わなくても涼しいし」
 つぅか、地下への籠りっぷりについて、真貴乃に云々されてもなぁ……。
 おまえだって一度本をあさり始めたら出てこないだろうに。
「ね〜ね〜、侑貴と話してたんだけど〜、せっかくだし、お出かけしようよ〜!」
「って、どこに?」
「東京美味しいものツアー!」
「……毎度毎度そればっかだな、おまえ……」
「ね〜、いいでしょ〜?」
「そうだなぁ……」
 さしあたって、逼迫した状況ではない。資料集めは明日でも大丈夫だ。
 美味いものは好きだし、もっと料理のレパートリーを増やしたいしな。喜んで食べてくれるひとが居るから、実に探求し甲斐がある。このへんで、新しい味に挑戦してみるのも良い機会かもしれない。美味い店なら風澄と一緒に行くのも良いだろう。
「とりあえず、相談するか。ダイニングな」
「おっけ〜!」
 資料集めは、とりあえずここまで。
 まだ必要なものはたくさんあるし、帰省しているうちにチェックして、マンションに戻るまでに揃えておこう。
 閲覧用デスク代わりのソファテーブルに幾つか乗せておき、自分の名前を書いたメモを乗せておく。つまり『ただいま資料収集中なのでこのままにしておいて欲しい』という意味である。本が所定の場所に無いと母親が厳しいからな。こうしておけば誰が積んでいるかわかるし、もし自分にも必要な資料ならばここで読むか、本人に断ればいい。まぁ、家族全員の専門が違うため、本のラインナップで誰が積んだかは大抵すぐわかるのだが。
「さて、と」
 真夏でも空調を入れずにひんやりとした空気を楽しめる地下は、気に入っている場所なんだが、籠りっ放しというのもどうかと思うしな。
 電気を消し、扉を閉めると、一階の窓から降り注ぐ陽の光が眩しかった。

「つぅか、侑貴、おまえは予定ないのかよ?」
「開口一番『つぅか』と言われても」
 ダイニングへ来るやいなや前置き無しに聞いた俺も俺だが、侑貴の返答も相変わらずだ。言葉だけだと困惑したような印象だが、侑貴の口調と表情は実に淡々としたものである。……ま、慣れっこだからな、お互いの思考・行動パターンは。
「遥香は仕事だし。職場に行ってもいいけど迷惑だろうし」
 ちなみにこの言葉の意味は『遥香に迷惑』ではなく『遥香が迷惑』である……合掌。
「隣の弟は?」
「気ままに歩いてるんじゃないかな。いい天気だし」
 つぅかおまえは隣の姉弟以外との予定は無いんかい。まぁ院生となれば、友人知人は大抵社会人だからなー。こっちが長期の休みであろうと、周りの奴らは仕事なんだし。お隣さんとなれば、まだ予定を合わせやすいほうであろう。
「だからさ〜、行こうよ〜。どうせ昂貴も暇でしょ〜?」
「あのなぁ真貴乃、年ごろの若い男に暇暇連発すんなっつーの」
「そういう意味では俺も年ごろの若い男なのかなぁ」
「だってふたりとも売約済みでしょ〜? 相手が決まってるんだから暇でもいいじゃない」
 ……………………。
「売約済みって、おまえなあぁーっ!」
 言うにこと欠いてなんつーことを口走るんだか、この女は。
「あ、そっか、これだと彼女は居るのに放っとかれてるってことになっちゃうか!」
「俺は実家に帰省してるんだっつーの!」
「ええと、遥香は仕事なので、しかたがないので、要するに、決して俺は放っておかれているわけではないと思うんだけど、たぶん」
「たぶんかよ!」
「というわけで、決まりね〜! さぁ、お出かけお出かけ〜、支度支度〜っと!」
 何がどう『というわけ』なんだ何が。

 ……まぁ、いいか。
 たまにはそんな日も悪くない。

「しっかし、俺らって、さっぱり真貴乃に勝てねぇな」
「勝てたとしたら、それはそれで問題かもしれないよ、兄さん」
 それもそうか……。

 * * * * *

「つ、疲れた……」
「え〜? でも、美味しかったでしょ〜?」
「そりゃ美味かったけどな!? だからってここまでするか普通!」
 とりあえず世界チェーンのカフェで夏季限定のドリンクを飲み、あっちの駅で昼食に大皿料理のパスタとサラダづくし、こっちの駅でロイヤルミルクティーとチョコレートパフェ、そっちの駅で夕食という名のグラタンだのドリアだのキッシュだのオーヴン料理オンパレード、締めと称して紅茶と本日のケーキ。
 幾ら体力に自信のある俺でも、ここまでするかと言いたい。フットワークが軽いにも程がある。電車がマンションの最寄り駅に停まった時は降りて逃げようかと思ったぞ、本当に。
「父さんも母さんも今日は帰りが遅いから、ちょうど良かったんじゃないかな」
「まぁ、家に居たって俺らが作らされるだけだしな……」
 コンビニで弁当とかスーパーで惣菜とか出前のカツ丼とか、そういう案も考えはするのだが、結局、食いたいもんを食うには自分で作ったほうが早いので、大抵の場合、マンションに居ようが実家に居ようが自分で作ってしまう。まぁ、自炊には慣れてるし、侑貴は料理のアシスタントとしてもなかなか優秀である。
「だってあたしが作ったら『材料費とガス代の無駄になるだけ』なんでしょ〜?」
「最近は『環境に悪影響を及ぼすからやめとけ』じゃなかったっけ?」
「むしろ『地球を大切にしろ!』だな、真貴乃の場合」
 舌は相当に肥えているはずなんだが、こいつの料理の腕が上がる日は何十年経とうと来ないに違いない。

 と言っても、今日は食ってばっかりだったわけではない。何が疲れたって、真貴乃の買い物に付き合わされたのである。要するに荷物持ち。夏のセールなんぞとっくに終わっていると言うのに、何をこんなに買い込んだんだか。さすがの俺もへとへとだ。

 しかし、普段は足を踏み入れない女物の服屋なんぞに行くと、つい、風澄に似合いそうな洋服を探してしまう。
 街を歩いていても、つい、明るい栗色の緩やかなウェーヴの髪を探してしまう。
 この三年間、それが当たり前だった。幼少の頃から染み付いた癖のように。
 たとえ今この雑踏の中に彼女が居たとしても、ものすごい人ごみなのだ、見つけられる可能性はそれほど高くないだろう。それでも、ほんのわずかな偶然を求めてやまない。

 どうしてだろう。
 もう、遠くから彼女を見つめていた頃とは違うのに。

 それでも――彼女に逢いたいから。
 傍に在りたいから。

 彼女に逢うまで、あと何時間?
 こんなに離れていたのは久しぶりだから、ほんの少し照れくさいけれど。
 帰ったら、まずは何をしようか。
 美味い料理を作って、お互いの土産話をして。
 そしてなにより、彼女を感じたい。
Line
To be continued.
2007.03.11.Sun.
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