共に生きる者

04.久しぶりの我が家


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「ただいま」
 家についたのは、既に昼をだいぶ過ぎた頃だった。
 どっしりとした重い扉を開けると、懐かしい玄関が広がる。洋館という表現が似合うほどではないにしろ、西洋風のつくりの古い家だ。家族親戚ともども海外への渡航、留学経験が多いせいか、うちにはなにかと舶来物が多い。ちなみに、両親はその留学先で出逢って結婚している。一体化学者の卵と歴史学者の卵が異国の地でどんな出逢いをしたんだか知らないが、両親の仲はいいな。
「おかえり、昂貴。遅かったわね」
 ドアホンを鳴らさなかったせいか、急いで出迎えるように、ぱたぱたと奥から出てきたのは母親だった。歴史学者で、高原環という。
 風澄のような圧倒的な華やかさではないにしろ、幾度となく『楚々とした日本人女性』と言われた容姿は、かつての容貌を想像するまでも無く、年を重ねた今でも充分にその言葉を裏切らないであろう。我が母親ながら、うまく年を取ってきたもんだと思う。そして、そんな母親は、外見から受ける印象に反する、なかなかの策士。気づいたら母親のペースに乗せられていたーなんてのは日常茶飯事。どんな時であれ、どこか悠然とした態度を保ちながら、的確に相手の論理の弱点を突いてきて、しかも、その対象は子供ですら例外ではないのだから、俺の弁舌が達者になるのも至極当然のことであろう。その頭脳には、紀元前から連綿と続く人類の歴史が蓄積されている。身長は家でいちばん低くて165cmくらいだから、風澄より3cm下だな。俺から見ると小柄なんだが、これでも一般的には充分背の高い女性の部類に入るわけで、長身というのは俺の家と風澄の家との共通点の一つだろう。
 両親とも、ストレートの黒髪と黒い目、色白の肌と、典型的日本人の容姿だと言うのに、なぜか彫りは深め、おまけに長身。風澄の家ほど目立つものではないにしろ、このあたりの特徴は、俺たち三兄弟がそっくりそのまま受け継いでいる。
 肩より長く伸ばした真っ黒な髪を緩く一つにまとめ、白いエプロンを掛けているところを見るに、どうやら料理中か、後片付けの最中だったらしい。
「元気そうね。どう、調子は?」
「ああ、元気だよ。体調もいいし。皿洗いでもしてた?」
「ちょうど一段落したところだったのよ。お昼ごはん食べるかと思って多めに作っておいたんだけど、遅かったし、しまっちゃった」
「着くのは昼過ぎって言っただろ?」
 まぁ予定より大幅に遅れたことは事実ですが。その原因は当然、あまりにも風澄が可愛かったからで、そんな彼女を放り出して俺が帰れるわけがない! だいたい俺は風澄の支度を待って一緒に出るつもりだったのに。待たせまいと気を使う彼女にかえって申し訳なくて先に出てきたんだが、やっぱり惜しいことをした。
「あら、一人暮らしの息子が栄養失調になってないか、母親としては心配なのよ?」
「その息子に徹底的に家事を叩き込んだのはどこの誰でしたっけ」
「ふふふ、そうね、昂貴はきちんと憶えたし、自分で積極的に情報を取り入れるものね」
 両親の家とも学者の多い家だからか、それとも母親の考えなのか、俺たち兄弟は『男子厨房に入らず』なんて言葉とは無縁。小さい頃から親の手伝いをすることが多かった。本格的に教わったのは俺が大学一年の頃、最初にイタリアに一人で行った時だろうか。まぁこれは大学の交換留学で、短期間のことだったから、それほど洗濯や料理の必要に迫られたりはしなかったんだが。更に徹底的に仕込まれたのは留学を決めた時。それはもうスパルタだった……毎日のように家事をやらされたもんなぁ。よく考えると、俺のものの教え方は、母親の影響を強く受けているのかもしれない。本当に必要に迫られるより前に、やらざるをえない状況を作り出し、実践させ憶えさせる、というのは。助かったし、あれから料理に興味を持って、今風澄に喜んでもらえているんだから、感謝はしているけど。
「そっちは変わりない?」
「ええ、ちっとも。さ、上がってらっしゃい。お茶の支度ができてるわよ」
「お、ラッキー」
「ご飯は要らないのね?」
「ああ、朝遅かったから。でも紅茶があるなら軽く何かつまむかな」
 靴を脱ぎ、廊下を通ると、すぐ居間がある。ゆったりと場所を取ってあって、テーブルを囲んで大きなソファが幾つか置いてあり、家族の団欒や来客の時にも使われる、居心地の良い部屋だ。その先はダイニング。テーブルの上には母親が気に入っている茶器のセットが用意されている。と、ダイニングの椅子のひとつに背を預けている後ろ姿が見慣れた人物のものだった。実際に会うのは久しぶりだったが。母親と同じ、脱色もパーマもしたことがない、まっすぐ伸びた長い黒髪。その人物こそ、俺の姉と呼ばれる唯一の人間であり、俺を弟と呼ぶ世界で唯一の人間、姉の高原真貴乃である。……なんてな。
 専門は分子生物学。日本の頂点とされる国立大を卒業した後、アメリカの高名な大学院を出て、今は現地にてポスドクをやっている――と聞いた時、人はどんな女を想像するだろうか。学生時代は優等生、現在はキャリアウーマンのインテリ系? 勉学一筋、真面目一辺倒の堅物? それとも、研究しか目に入らない地味な女性?
 それらの想像は、決して100%間違っているわけではない。
 しかし、高原真貴乃を表現するには、この一言で充分であろう――すなわち、変人。
「あ、昂貴だ〜。おっかえりぃ〜」
「あれ、真貴乃。帰ってたのか?」
「そぉだよ〜、可愛い弟の顔を見たくて帰ってきたのだ〜っ」
 ……言っておくけど、これでも真貴乃は今年で三十歳。顔は母親と共通する大和撫子の如きしっとり系の容貌ながら、くるくる笑う。人懐っこく人見知りせず物怖じもしない。しかし、なぜか英語を喋っている時は性格がかなり変わってしまうという、わけのわからない奴でもある。アメリカの同僚なんか、真貴乃の性格を誤解しているかもしれないな。正体は天然キャラのお間抜け娘なんだけど。……既に娘って年齢ではないが、見た目は二十代前半だ。風澄より下に見えるかもしれない。身長は風澄より高いけど。
「どうだ、仕事は?」
「ん〜とね、大変だけど楽しいよ〜。あ〜そうそう、このまえねっ、あたしの可愛い菌ちゃんがね、すっごい元気に育ってくれて〜」
 …………、いや、生物学者の卵だからさ。ほっといてやってくれ。
「でもね〜、電気泳動したやつブロッティングしようと思ってスライスしてたら、失敗しちゃって〜、ぜ〜んぶオシャカ! も〜みんなに爆笑されちゃった〜」
「爆笑なのかよ」
「うん。みんなね〜、笑ってたよ〜。口とかひくひくいってた」
「それは怒ってるんだっつーの……」
 今更だが、俺は口で真貴乃に勝てた試しがない。どう突っ込みを入れてもかわされてしまう。いわゆる天然ボケとは少々違う気がするが、無敵であることは確かだ。
「真貴乃、英語にしないか?」
「え〜? やだよ〜、飽きちゃったも〜ん」
「なんだそりゃ……」
「英語だとねえ、なぁんかあたしって硬くなっちゃうんだよね〜。それはそれで自分ぽくなくて面白いんだけどさ〜、やっぱ日本語が一番楽だよ〜」
 英語圏で暮らしている真貴乃がまともに喋ることが出来るのは当然ながら英語だけだが、そのぶん英語がやたらと上手い。学生時代から何年も暮らしてるんだから不思議は無いし、当然かもしれないが、ネイティヴ並みだと思う。少なくとも俺よりはずっと上手い。俺は学んだ言語の数は多いし、それらの日常会話程度で苦労することはないだろうが、イタリア語以外はそこまで上手くはないと思う。まぁ、それでも充分、役には立つけどな。ちなみに、この話を前に風澄にしたら、彼女は口唇を尖らせて拗ねて、『それだけできれば充分よぅ、この贅沢ものーっ!』なんてぽかぽか殴られたっけ。いや〜、ああいう風澄もツボだなぁ。可愛くてたまらん。
「真貴乃は本当、元気ねえ……」
 キッチンから出てきた母親の手には、金属の取っ手つきの愛用の花柄のトレイ。軽く温めた牛乳の入った小さなミルクピッチャー、保温用のティーコゼを被せたティーポット、紅茶漉しに、砂時計。揃いの大きな平皿にはとりどりのクッキーが乗せられている。俺のために新しい茶葉で淹れてくれたのだろう。母親が特に気に入っているシリーズでまとめられた、いつもと変わらない、高原家のティータイムだった。
「ん〜、だって楽しいも〜ん。研究もお家も好きだし」
「真貴乃、やっぱ研究一番?」
 つぅか真貴乃のこれって元気ってのかよ、という疑問はさて置き。
「もちろんっ。それ以上に好きなものなんてないよ」
 と、母親お手製のクッキーをかじりながら、きっぱりと言い切る。笑顔で。俺も、三年前まではそのことを疑ったことはなかったな。ついこの間までは、疑ってもその考えは変わらないと思ってた。今や、その考えが一気にひっくり返されたわけだけど。
「結婚とかしないのか? 恋人は?」
「いないし、しないよ〜。だって研究より好きなものないしさ〜。人より細菌やファージのほうがあたし興味あるもん。でもどうしたのいきなり?」
 細菌やファージのほうが好きって……人間としてどうなんだよそれ。
「いや、別に……」
「あっわかった、昂貴、ついに本命の彼女できたんでしょ!」
「なっ……んなことねぇよ!」
 なんでこいつは本当にこう無駄に勘がいいんだよー! 勘だけで実験してたりするもんな……『じゃ〜今度はこれで行ってみよ〜っ!』とか言って。それが当たるんだよこれがまた。学者としてどうかと思うけど。
「あら、そうなの?」
「違うっての!」
「でも、真貴乃の言うことって当たることが多いのよね。当たらずとも遠からずってところなんじゃないの、昂貴?」
「だから、恋人なんていないって」
 嘘じゃないぞ、彼女はいないからな。……悲しいけど。
「だけど昂貴、大事な子はいるよね?」
 うわっ、普通の喋り方だ。いつものにこにこ笑顔もなく、真面目な表情で。こういうときの姉貴は真実を探り当てたとき。否定してもどうせバレるんだろうし……くうぅ……。
 そうなのだ……俺は昔から、母と姉に勝てたためしが無いのである。認めるのは口惜しいが、事実なんだからしかたがない。まぁ、今となっては、この二人に輪をかけて“一生勝てない女性”が居るわけだが、それは嬉しいことなので。
「そう思いたきゃ思っとけっ」
「ん〜、そ〜しま〜す。良かったあ、お姉ちゃんは心配してたのよ〜、昂貴って他人に興味なかったじゃない?」
「おまえに言われてもなあ……」
 少なくとも俺は細菌やファージより人間のほうが興味あるぞ。まぁ、絵画や彫刻や建築物と較べたら、即答はできないが……うーん、学者一家の血かね。
「違うよ。昂貴は求めてるのに諦めてたからね。それに、勉強だって好きだったけど、一番じゃなかったでしょ。なんていうのかな、心のいちばんがない感じがしてたの」
「心のいちばん?」
「そう。『これのために生きてる』って思えることが全然なかったよね」
「そうかあ? 俺、研究は楽しんでると思うけどな」
「でも、研究命ーって感じじゃないでしょ?」
「……ああ、それは確かに」
 研究は好きだ。一生、美術史学に関わっていたいと思う。学者の志望を変える気は全く無いし、それだけを目指してきた。今まで。
 だが……人生の全てを研究に費やすかと聞かれたら、それは否だろう。
 まして、風澄に出逢ってしまった今となっては。
 彼女の存在と、美術史学者への道と。天秤になど架けられない。どちらも、今の自分に必要で、不可欠なものだから。
 それでも時折、もしも……と想像せずにはいられないけれど。傾ける心の量を比較するのではなく、試みに天秤に架けるのでもなく、一種の恐怖として……。
「だよねぇ。もしそうだったら、昂貴は絶対に迷わず何が何でもイタリアに行ってるもんね」
「……絶対に迷わず何が何でもって日本語あるか?」
「そうねえ、昂貴ってなんでも器用にできちゃうくせに不器用だったし。そのせいかしら」
 俺の突っ込みはさらりと流し、母親は納得したように頷く。真貴乃とほとんど同じ顔で。
「そうだよ〜。彼女ちゃんと大事にしなよ〜?」
 だからいねえっつの、と言おうとしたら別の声が飛び込んできた。
「なんだ、兄さん、彼女できたの?」
「そうか、やっと昂貴にも春が来たか。そりゃあめでたいなあ」
「……、あのなあ……」
 ただいまとかおかえりとか何とか先に言わんかい! しかも、俺としたことが、玄関を開ける音にも気づかなかった。さすがの俺も、この母とこの姉を相手に隠し事をするのは至難の業ということだろうか。
 ちなみに今の台詞は、先のほうが弟の侑貴。俺の通う大学と並ぶ、日本のトップクラスの私立大学の大学院修士課程二年に在籍している。後のほうが化学者である父親の高原貴一。これで久しぶりに家族五人全員が揃ったことになる。
 真貴乃が評するところ、俺と侑貴は『見た目は比例、中身は反比例』だそうだ。幼い頃の写真なんて双子のようにそっくりだし、今でもかなり似ていると思うから、『見た目』に関しては確かに否定できない。身長は俺のほうが高いけど、数センチの差だしな。けれど、似ているというのは外見に限っての話。『中身』すなわち性格に関しては『おもしろいくらいに逆』だという。
 父親は化学者。いつなんどきでも暢気で、どっかネジが一本ずれているような人物である。俺は両親とも動揺した姿を目にした記憶が無いが、母親がものごとに動じないタイプなら、父親は単に鈍いだけなのではないかと思うほど。鷹揚に構えていると言えば聞こえは良いけれど、なんつぅかそういう言葉だけで語ると違う気がするんだよなぁ。
 真貴乃が今年三十歳、俺が今年二十七歳、侑貴が今年二十四歳と、生まれた月は違えど全員三歳違い。入学卒業や受験のことを考えると非常に親不孝だと思うが、両親がそれを気にしたことは一度も無い。やっぱり余裕があるってことなんだろうな。
「あら、おかえりなさい、ふたりとも。お茶いる?」
「ただいま、母さん。もちろんいただきますとも」
「飲むよ。荷物置いてくるから」
 ひらひら手を振って侑貴は上に上がっていき、父親はテーブルについた。って、良いのか、そっちの荷物とか服とかは。
「ふたりとも一緒だったの〜?」
「いや、侑貴を駅で見かけたんだよ」
「じゃあ、もうちょっと早ければ昂貴と一緒だったかも〜。残念だったね〜」
「何がどう残念なんだ何が……」
 そもそも、どうせ同じ家に帰るんだから、別に残念も何も無いだろうが。だいたい、歩いて十分もかからないっつーのに。
「ふたりのほうが、ひとりより楽しいからな」
「それはそうだね〜」
 これが六十近い人間の言う台詞かね……。しかもそれに賛同する姉。どっちもどっち、似た者同士の父娘である。やっぱり真貴乃の中身は父親そっくりだな。
 やがて侑貴が下りてきて、全員が椅子に座った。半端だからという理由で六脚ぶんある大きめのテーブルは、ひとつの空きを除いて座り主で全て埋まったことになる。
「やっぱりいいわねえ、家族が揃うって」
 そう言って、母親は穏やかに笑った。この家に住むのが三人だけというのは、やはり寂しいのだろうか。俺も真貴乃も家を出て久しいから……。
「あ、そうだ。昂貴、私ね、お土産あるんだよ〜」
 と、真貴乃は足元に置いていた袋を出した。
「もっと前に帰ってたから、みんなにはもう渡したの〜。これは昂貴のね」
「ああ、サンキュ。開けていい?」
「もっちろ〜ん、是非開けてっ」
 かさばる割に重すぎない、その包みから出てきたのは、うちの家族が気に入っているところの紅茶の缶が山ほど、そして、ティーカップとソーサーのペアセットだった。風澄も気に入っていると前に言っていた、あのメーカーの。あれはイギリスの会社なんだけどな。
「このセットね〜、今年の新作なんだって〜」
「……嫌がらせだな?」
 だってなあ、こんな可愛い花柄だぞ? 少し抑えた甘さなのは、やっぱり気を遣ってくれてるんだろうか? いや、そんな程度なら要らんって……。
「紅茶は飲むでしょ〜?」
「まあ、そうだけど」
 彼女と使いなね、とこっそり耳打ちされた。一緒に入っていた紅茶の缶は、大きさもメーカーも実にさまざま。母親と姉は特に紅茶党だから、美味かったやつを片っ端から買ってきたのかもしれない。なんでもいいけどおまえが住んでいるのはアメリカだろう、アメリカの土産じゃねえのかよ? まぁ、俺がヨーロッパびいきと知ってのことだろうが。真貴乃だってそうだし。アメリカにいるのは研究の最先端だからで、本当は生物学の故郷たるイギリスに行きたかったらしい。が、結局、環境の良さと最先端の技術からアメリカを選んだのだ。『イギリスの研究室と関わりの深いところだから』というのが決め手の一つだったらしいが。ここ数年、アメリカでは色々事件もあったのに、いつもケロリとしている。真貴乃がいるところからは遠かったし、それほど心配ではなかったんだが。それに、真貴乃はいつもこの調子でさらっと乗り切っちまうし。こういうのを大物とか大器とか言うんだろうか。なんか真貴乃が大物っつーのも妙な感じだが。
「あ、アッサムにセイロンにアールグレイか……サンキュ」
「このヌワラエリヤは特におすすめだよ〜ん」
 ちょうど、風澄の趣味にぴったりだな。ありがたく使わせてもらうことにする。
「うちにはね、他にもダージリン・ファーストフラッシュとか、ウヴァもとかも置いてあるよ。そっちと取り替えてもいいし」
「いや、いいよ。最近この三つにハマってたとこだし」
 俺は長いことアールグレイばかりを飲んでいたんだが、風澄の好みも加わって、最近この三つを飲んでいたんだ。そうしたら、かえってアッサムとセイロンにハマってしまった。渋みが少なくて飲みやすいんだ。ちなみにファーストフラッシュっていうのは春摘みのこと。一部の地域では一年に何度か茶葉が摘まれる。最初が春摘みのファーストフラッシュ、次が夏摘みのセカンドフラッシュ、そして秋摘みのオータムナルだ。ウヴァも渋みが強めだから、風澄は苦手だろうしな。
「ふ〜ん、そうかぁ、それが彼女の好みかぁ〜」
「だーかーらー! しつこいぞ真貴乃っ!」
「わ〜い、ムキになった〜。やっぱりそうなんだ〜!」
「真貴乃、あんまり昂貴をいじめないのよ? あなたと違ってシャイなんだから」
 母親が呆れながらすごいことを言う。お、俺がシャイかー!?
「あぁ、そうだね。兄さんって隠れシャイかもしれない」
「なんだそりゃ……」
「普段から堂々としているぶん、実は照れ屋かな、と」
 二階から降りてきた侑貴まで、さらりとすごいことを言う。お、俺が照れ屋かー!?
「昂貴は小さい頃から意見がはっきりしてるわりに自己主張が苦手だったからなあ……」
 そして、いつもと変わらない調子でぼんやりと呟く父親。そうだったっけか?
「そうね、欲しいものがあっても、それが本当に欲しいものかどうか毎回悩んでる感じだったわね。頭脳先行型で。だけどすごく貪欲。いったん決めたら絶対に動かなかったわ。真貴乃は直感型でわかりやすくて、すぐ目標に辿り着いて突き進む。侑貴は思考型でスローペースだけど、表現は素直」
「……俺はそんなに自己主張の強いほうじゃないと思うんだけど」
 ぼそっと侑貴が呟く。侑貴は変わり者揃いの我が家でひとり平凡たろうとしている。『俺は高原の家の常識のありかだから』とか言ってるけど、なんだかんだ言ってやっぱり変わった奴だ。黙ってじーっと聞いていて、いきなりぼそりと呟いたり、ゆっくりと喋ったりする。
「でもね、なんだかんだ言って侑貴は頑固で、結局は自分のしたいことをしてたわね」
「と言うか、みんな意思が強かったからなぁ、うちの子たちは」
 う、うちの子……今年三十歳の娘と今年二十七歳の息子と今年二十四歳の息子を捕まえて『うちの子』ですか……そりゃ間違っちゃいないが、こともあろうに、うちの子ときたか……。
「それはさ、自分のしたいことを探させる家だったからなんじゃないかな」
「だから見つかったのかもしれないわよ。法律の勉強なんて意外だったけれど。侑貴こそ、文学部に行くと思っていたのに」
「て言うか昂貴が文学部狙うって聞いたときは大笑いしたな〜あたし〜」
「いや俺は真貴乃が理系だったからさ。それに、どうしてもやりたいことがなかったから、なんでもできるところに行こうと思ったんだ。消去法だって」
「うん、それは説明されればわかんなくもないよ。昂貴って天邪鬼だから。だけどねえ、まさかねえ……美術史学って! あははははは!」
 真貴乃は本当に大笑いを始めた。なんでかって、それはさ……。
「ねぇ。だって美術の成績だけはどんなに頑張っても底辺だったのに……」
「頼むからそれを言わんでくれ……」
 実は、それが最大の理由なんだよなー……だってさ、できないことがあると悔しいし、努力するだろ? それでもできなかった唯一のことなんだ。そうしたらさ、できる奴のこと、研究したくもなるだろ? ちなみに、風澄は絵を描くのが得意だったけど、見るのには興味がなかったらしい。このきっかけに関しては真逆だな。そういえば、そういう話はしたことがないな。きっと風澄も爆笑するんだろうなあ……。
「兄さんの絵音痴ぶりには、さんざん笑わせてもらったよね」
 侑貴、おまえもたいして上手くなかっただろうが……。いや、こいつはなんでもそこそこできるんだけどさ。なんだかんだ言って器用だ。
「まあ、楽しんでいるようじゃないか、昂貴も。良かったな、興味の持てることができて。恋人もできたというし」
「だから、いないっつーの!」
「いいのよ、無理に否定しなくても。いないより、いるほうが素敵でしょう。ただね、ちゃんと大事にしてあげなさいね?」
「もう勝手にしてくれ……」
 いや、わかってるんだよ。俺がさ、そういう相手をちゃんと作ってこなかったの、たぶん薄々感じてたんだと思うんだ。『彼女』は山ほどいたけれど、そいつらのことを本当に想っていたわけじゃなかったし。だから安心してるのかもしれない。俺ももう二十七になるし、真貴乃はああいう性格だし。それに、なんだかんだ言って長男だからさ、俺。古い考え方だけど、高原家の後継ぎってやつなんだよなあ。
「兄さんはさ、そういう子だけは異常に大事にしそうだなぁ」
「だけってなんだだけって……」
「だって結局他人に興味ないじゃないか」
 真貴乃と同じこと言うなって。……まぁ、そうだけど。
「でも、侑貴は侑貴で、誰とでも平等に関わるかわりに執着があんまりないわよね。遥香ちゃんとは最近どうなの?」
「別に普通だよ。なにも変わりない。あっちは社会人だから、なかなか会うのは難しいけどさ。まぁ隣の家だし、いつでも携帯で連絡は取れるから」
 何を隠そう、侑貴の彼女は隣の家に住んでいる。要するに幼馴染み。まぁここまでならよくある話なんだが、一番仲の良い友人まで隣の家の住人だったりするから大笑い。しかも、隣の家と言っても『両隣』ではなく『隣の一家』なのである。学年が全く違う俺と真貴乃はともかく、侑貴とは同い年で幼馴染み。ずっと同じ学校だったし、仲が良いのは当たり前としても、隣の家の姉弟で恋人と親友を調達してしまうあたり、それでいいのかおまえの人生と俺なんかは思うんだが、本人はそれに不満を抱くでも疑問を感じるでもなく、至極平然と受け入れている。ちなみに、うちの三兄弟と隣の姉弟は、高校まで全く同じ学校、侑貴と隣の姉弟に至っては大学まで一緒である。さすがに学部は違ったし、大学を出てからの三人は全く違う進路だったけれど。しっかし、性格は全く違うのに、どうして二人とも侑貴と仲が良いのか、未だに不思議である。
 侑貴は俺と違ってそのへんは真面目だから、その子と延々つきあい続けていて、とっくに家族公認。確か付き合い始めたのが中学か高校の頃だったから、そろそろ十年目くらいになるんじゃないだろうか。長年いい加減男だった俺からすると信じ難い二人だったんだが、それも風澄に出逢うまでの話。たまたま侑貴は物心ついたときに特別な相手に出逢っていたっていう、それだけの話なんだろう。
 侑貴は誰に対しても接し方は変わらないから、このぬぼーっとした態度で果たして気持ちは通じてるんだろうかと疑問だったが、あの子もあの子だからなあ。なんつぅか、少々ズレたところのある、ほのぼのカップル。まぁ侑貴は誠実さはお墨付きだ。
「ん〜、みんならぶらぶだね〜」
「真貴乃は本当にそういう話が出ないなあ。やはり研究が一番かい?」
「もっちろ〜ん!」
「真貴乃はお父さん似だから、もしかしたら誰かに熱烈にアタックされて、いきなり結婚してしまったりするかもしれないわねえ」
「うんうん、私も母さんがいなかったら結婚なんかしていなかったかもしれない」
 父親と侑貴の共通点は鈍いところだ。父親は変人で鈍感、侑貴はあまりものごとに頓着しないので鈍い。真貴乃は変人だけど敏感なのは母親似。ただし、自分に向かってくる気持ちにはたぶん鈍いだろう。俺はほぼ完全に母親似だな。
「母さんが父さんに熱烈にアタックしてるところなんてとても想像できないけどなあ」
 侑貴がぼんやり呟く。確かに……。
「あら、だってそうとは気づかせなかったもの」
「は?」
「お父さんたら鈍いんだもの。そのおかげで他の子に取られずに済んだのだけど」
 はぁ、とため息をついて母親は惚気かと思うような台詞を言う。遠い異国で父親に一目惚れした母親は、さまざまな罠をめぐらして父親を絡めとってしまったとか。さすが、伊達に歴史から多くのことを学んでいるわけじゃないんだな。
「昂貴もきっとそういうタイプだよね〜。中身はお母さん似だもん」
「はあ?」
「だから、その子も気づかせないまま自分のものにしちゃったんじゃないの〜?」
 図星。返答できずにいたら、家族みんなに笑われた。
 まぁ、いいんだけどさ。家族、嫌いじゃないしな。
Line
To be continued.
2006.03.11.Sat.
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