唯一のもの、唯一のひと
11.Annex -The Equal Relation -
* Kazuyuki Asai *
「いや、俺は心底驚いたんだよ」
ここは、研究棟の最上階の空き部屋。実質は、とある院生がここ五年間占有している部屋だ。目の前にいるのがその部屋の主で、この大学に入ってから延々つきあいを続けている俺の友人、もとい悪友の、高原昂貴。腐れ縁とも言うな、これは。
で、三年前(正確には二年半前)、および約一ヶ月前、こいつの発言に我が耳を疑い、数秒間……もしかしたら数分間、どうやら俺はフリーズしていたらしい。しかし、その時のことを今更持ち出されても困る。むしろ、俺の反応の責任の所在はおまえにあると主張したい。
だって信じられないだろう、こんなの。
「あの女泣かせの高原昂貴に本命ができたって聞いた時にも驚いたけど……あん時ゃ、ついに日本に天変地異が来るかと思ったし」
「って、俺の本気は天変地異の前触れかよ?」
「それぐらい驚いたってこと。もう、あれから三年になるのか。でもまさか、その子と本当にくっついたとはねえ……。おまえさ、意外と一本気な奴だったのな」
「別にくっついたわけじゃない。そばにいる権利をもらっただけだ」
『そばにいる権利』? って『彼氏』とか『恋人』なんじゃ? ああ、そういう肩書きで繋がれてても、上手くいってないってことかな……でも好きだってことか?
「仲悪いわけ?」
「仲はいい。『彼氏』じゃないってこと」
「ああ……あれ? でも萩屋はつきあってるって言ってたような……違うのか?」
その件を耳にしたのは萩屋穂理という同じゼミ生の口から。そいつに『高原、彼女いたよ』って言われたんだよなあ。悪いけど、俺も知らなかったんだから仕方ないじゃないか。つぅか、そういう目的だったんだな……。だいたい、そんな相手がいなくたって、高原が萩屋を選ぶとは到底思えない。たとえ遊びでも嫌がりそうだ。こいつ、女の理想が高いし、勉強ができるだけの人間は嫌いだからなぁ。これは別に、萩屋が駄目だとか悪いとかじゃなくて、高原のせいだけど。んで、その件の真偽を問い質したと言うか、一応聞いてみたところ、今に至るってわけなんだけど。意外にもあっさり答えてくれたな。
「正確に言うと違う。でもやってることは同じだな、全く。まわりからはそう見えるだろう。俺もあいつも、他の異性なんかどうでもいいし」
おいおい、『やってること』って、おまえなぁ。まったく、どっちの意味なんだか。……両方ですか、そうですか……。
「はぁ……それってつきあってるって言うんじゃないのかね……」
「俺だってつきあいたくないわけじゃない」
「そっか、事情つきなんだな。わかった、そこは突っ込まない。……で、結局、誰?」
俺は、無遠慮にひとのプライバシーに入り込むような趣味はない。そういうのを暴きたてなきゃいられない関係って、なんか変だと思うしさ。高原も似たような考え方で、そういう、ライトな関係が俺たちらしいつきあいかたってわけ。そこが共通してるから、これまで続いてきたんだろうな。大学に入った頃から何かと縁があったし。でも、まぁ、あの高原が本気になった女性について知りたいかと聞かれれば、それは勿論知りたいんだけど。聞けることなら聞いておきたいよな。うん。
「誰か教えるのはいいけど、おまえはその子を俺が初めて知ったとき、そこにいたぞ?」
「なにぃ!?」
「かなり昔だけど。その子が誰か教えてくれたのはおまえだよ」
「……マジ? って、紹介したってこと? そんな子いたっけか……だいたい、おまえのほうが女の知り合いとか多かったし」
「別に紹介したとか知り合いだとかって意味じゃない。名前と経歴を教えてくれただけだ。それにおまえのほうが女の友達は多いだろ」
そーですねー。高原くんの女の知り合いってモロモロが元カノだもんねー。……女友達の数が多くたって嬉しくないって。はぁ。
「って、いつだよ?」
「だから、三年前の七月」
「…………、おい」
「ん?」
「つまりおまえは、その時その子に惚れて、それからずっと?」
「ああ、そう」
「彼女も作らずセフレも作らず本命一本?」
「そう」
「……、どこの聖人君子だおまえは!」
「るせぇな、ひとの勝手だろうが!」
怒鳴ってるけど、照れ隠しみたいだな、これは……。なんつーか、こんな高原初めて見たぞ。本当の本当に本気なんだな……愕然。
「って、誰だよ……本当にわかんないな……三年前の、七月……?」
「まぁ他の奴にとっちゃそんなもんだろうな」
そりゃーおまえはそこで一目惚れなんかしたんだから印象的だろーよ。
「どんな子?」
「美人」
「……惚気(のろけ)かよ、即答しやがって」
「あたり。だけど別にそこに惚れたわけじゃないぞ」
「わかってるよ。美人ぐらい、よりどりみどりだったもんな」
「まぁ、そんなどうでもいいレベルじゃないけどな」
「……ご馳走さまです」
「お粗末さまです」
お辞儀なんかしやがって。くっそおおぉ。
そういえば先月の頭、その子と知り合った(どころでは済まなかった)っていう話を小耳に挟んではいたんだけど、その時も美少女だの美人だの言ってたなぁ。この高原が絶賛する美少女って、どんな子なんだろう。俺の頭じゃサッパリ想像できない。
「って、誰だ? 俺の知ってる限りで、大学内で美人っつーと……去年のミスコンで一位になった商学部の三年とか……このまえ校内新聞の美少女紹介に載ってた医学部の五年とか……あとは文学部の四年の市谷の娘とか……」
「はい、あたり」
「……んあ?」
「だからその、『文学部の四年の市谷の娘』だよ、俺の本命は」
「……………………なにいいいぃ!?」
ちょっと待てちょっと待てちょっと待てーっ!
だって、おい、『市谷の娘』っつったら、あの、『才色兼備の具現』と言われた子じゃないか! いや、うちの大学に来るぐらいなら、それなりに綺麗な子はみんな『才色兼備』って言えるんだろうけど、もう段違いの子なんだよ。頭の良さも美貌も。しかも、一族のほとんどがうちの大学出身で、揃いも揃って知能に優れた美男美女だとか。で、その直系で現在唯一うちの大学に所属しているのが『文学部四年の市谷風澄さん』なんだけど……その子と高原があぁ!? マージーかーよー!
「三年前の七月、教養のキャンパスで、教えてくれただろ、おまえ」
「……? そんなことあったっけか……?」
「だからずっと風澄を追いかけていられたんだよな。……礼言っとく。ありがとう」
「呼び捨てかよ」
「突っ込むのはそっちかよ」
「いや、礼言われたのも驚いたけど。そっか……そうなんだ。って、それって、ひと目見ただけだろ!? それから今までずーっと彼女一人を想いつづけてたのかよ?」
「ああ」
「……うっわ……本当に本気なんだ……」
「そう。そこんとこ、疑わないように。俺でさえ驚いてるけど」
そーだろーよ……なにしろこいつの女関係の素行の悪さときたら、いや浮気はしないから素行が悪いっていうと変なんだけど、それでもそう言われるぐらい酷かったんだよな。とにかく、とっかえひっかえ。しかも軒並み言い寄られたってパターン。こいつからってことは一度もなかったらしい。で、執着も未練もなにもないんだよ。熱あげてる女が不憫でさあ。と言っても、現彼女ーって紹介されたことはないんだ。単に、そういうとこ見かけたり、そんな話をされたりしたってだけ。だけど、一緒にいるくせに『手出されても構いません、いつでもあげます』って顔でさ。本当に寝取られたときも平然としてたし。吐き捨てるでもなく冷静に『そっちがいいなら乗り換えたほうがいいんじゃないか?』とか言ったとか。あと、別れてほしいのって言った女に『いいよ』の一言で終わったとか。そんなの、振り向いて欲しくて言ったに決まってるだろうにさ。それでこいつを引き止められるなんて考えた女も馬鹿だけど。
「七月の頭だっけ? その、仲良くなったりとか」
「そう。教授に、ちょうど紹介されてさ。あいつ河原塚ゼミなんだ。それで、俺と同じ画家を扱ってるんだ。そういえばおまえのやってる画家も好きだって言ってたな。バロック美術の、キアロスクーロが好きでさ」
キアロスクーロっていうのは日本語で言うと明暗法のこと。イタリア語でキアロが明るいでスクーロが暗い、だったはず。明暗のコントラストをつけて劇的な表現をする手法で、これを大胆に取り入れたイタリアのバロック時代の巨匠が高原の研究している画家で、俺はその影響を受けたネーデルラント、つまりオランダの画家を研究している。だから、院に入ってからも研究対象は違えど話が合ったんだよな。
「あー、そういやそんな話も聞いた気がする。あの『市谷の娘』がうちのゼミに来たーって。見に行った奴とかいたよな。しかも頭いいって……河原塚さん、すごくやる気があって頭のいい子が入ってきたんだよって嬉しそうにしてたし。……しっかしねえ……はぁ、あの子がねえ……。あの校内一の高嶺の花が、こんな男の毒牙にひっかかるなんて……!」
「失礼な、俺は真剣だ。それから、そういう高嶺の花とかいう言い方、風澄には絶対にすんなよ。怖いぞ?」
「……怖いのか?」
「怒らせたらマジ怖い。たぶん俺より」
「嘘……」
いや、市谷風澄さんてさ、すごい綺麗な子なんだよ。話したこととかはないんだけど、噂は聞いていたし、キャンパスで姿を見かけたことも何度かある。華やかな外見なのに性格はすごく落ち着いているとか、頭のいい奴がゴロゴロいるうちの大学でも群を抜いて賢いって聞く。とてもそんな、怒ったりするタイプとは想像していなかったんだ。しかもそれがこいつより怖いって? いや、こいつもあんまり怒らないんだけど、怒らせるともー……。二度と思い出したくない。なまじ口も立つし腕っぷしもいいもんだから、喧嘩で負けたの見たことないもんなあ。絡まれても動じないし、喧嘩吹っかけられてもコテンパンに叩きのめすし。まぁグレたりはしなかったみたいだけど。
「本当だって。そこの壊れたデスクのへこみ作ったの風澄だし」
「えええええ!? 嘘だろー!? っつぅか、なにやってそんな怒らせんただよ?」
「俺が風澄にそんなことするわけないだろ。萩屋に絡まれてさ、その後一発蹴り飛ばしてた。あの時はさすがに俺も驚いたけど。あぁ、もちろん、言われた以上はしっかり言い返して撃退してたな。あれは見ものだったよ、あの萩屋が退散するさまは」
うっわ、くっくっくっだって。笑ってるよ……。
「あー萩屋か……あいつ口が立つもんなー……って、勝ったのかよ、萩屋に」
「風澄も立つけどな。俺はそこも好きだけど。もう完膚なきまでに叩きのめしてた。ムカついて、俺が途中で抜け出させたけど。……なんなら、怒らせてみようか?」
「やめてくれ……」
つぅか、あの子口が立つのかよ! 信じられん。あれだけ頭いいってんだから、そりゃ口喧嘩くらいできるんだろうけど。怒った顔も美人なんだろうなぁ。
それにしても、あの萩屋とやりあったって、相当なんじゃないだろうか。萩屋ってな、ものすごい知識が豊富で、しかも口が達者なんだよなぁ。なんたって、ついたあだ名が『喋る論文集』だから。だけど、そのせいか、萩屋自身の、自分の意見っつーのはあんまり見えてこない。そのへんは残念だな。よって、知識だけ人間や自分の意見や主体性が無い人間に厳しい高原は、あまり萩屋を評価していないようだ。そもそも、凡人である俺から見ると、高原の要求レヴェルについていける人間なんてそうそう居ないと思うんだけどさ。まぁ、高原自身が、博識かつ自分の意見を持っている人間だから、しかたがないのかもしれない。でも、萩屋って、本当に知識は豊富なんだ。それに、文章やら発表のレジュメやら、丹念に読んで、良いアドヴァイスや資料を教えてくれるんだよ。言わば、外人校閲ならぬ美術史校閲。
「……ちなみに、その高嶺の花が、もうすぐここに来るんだけどな」
「なにぃ!?」
「いや、おまえには感謝してるし、別に『彼女』じゃないけど、お互い自分たちだけって思ってるし……それに、おまえなら知っていてもいいと思ったんだ。もう、萩屋のときみたいな目には遭いたくないしな」
「はあ……」
そんな他人に紹介できるような女がどうして彼女じゃないんだよ……もう本気でわけわかんねえ。
そうしたら、ノックの音。中から鍵をかけてたのに、高原は開けに行かない。いいのかよと思ったら……開いた。合鍵かよ! 俺はしっかり高原を睨んでおいた。ったく、どこまで手が早いんだかこいつは……。
「失礼します。市谷です、お待たせしました。……来客中ですか?」
透き通ったような声と同時に、開かれたドアの隙間から、栗色の、緩くウェーブのかかった長い髪の毛が、俺の視界に入ってきた。
……あれ?
彼女が部屋に入ってきた瞬間、部屋の空気が変わった気がする。なんていうか、そこにいるだけで、まるで花が咲いているかのように明るくなるんだ。そして、心地よい空気が吹き込んできた気がする。澄んだ風とはよく言ったものだ。春や秋頃の、よく晴れた心地の良い朝、風通しの良い部屋に居るような気分。今はうだるような真夏だと言うのに。
靴の高さをものともせず、高らかに踵の音を響かせ、軽やかながらも堂々として気品に満ちた歩き方。緩いウェーヴを描く長くて明るい色の髪の毛が、動くたびにふわっと舞う。背が高くて、スタイルがすごくいい。引き締まっているのに柔らかい身体のライン。そして、それにぴったり合った、シンプルだけどはっきりした色調の服を、ものともせず着こなしてる。近くで見れば見るほど、噂以上だ。華やかで知的な正統派美人なんて言葉じゃとても足りない。人形のように整っているのに、炎のように鮮やかだ。オーラなんてものがあるとしたら、彼女のはきっと真っ赤だろう。激しい情熱の高貴な赤。他者を圧倒せずにいないインパクト。
うわぁ……本当に美人だ。ありふれた、陳腐な表現だけど、美人という言葉がここまで相応しい女性というのは稀有だろう。
「あ、いいからそういうの」
「なにがですか?」
ひらひらと手を振って発された高原の言葉に、彼女はきょとんとしている。首を傾げて問いかけるしぐさまでなんだか気品が漂ってるな……。でも、高原の言ってることは俺もわからない、なにがだ?
「風澄。前も言っただろ、浅井和之。俺の悪友。教授も一緒」
「あ、初めまして、浅井和之です。よろしくお願いします」
俺は慌てて立ってお辞儀する。
「こちらこそ、初めまして。河原塚ゼミ四年に所属してます、市谷風澄です。どうぞよろしくお願いいたします」
うっわぁ……綺麗な声。よく通るのに、涼やかで、どこか可憐だ。見た目だけじゃないんだなぁ。それに、お辞儀の形がすごく綺麗だ。喋り方とかしぐさとか、すみずみまで、育ちの良さを感じさせる。本当のお嬢さまってこうなんだな……。
「だから、そんな礼儀とかどうでもいいから」
「どうでもいいってなんだその言い草は! 感謝してるんじゃなかったのかよ!」
「別におまえがどうでもいいなんて言ってないだろ」
「あたりまえだ!」
そうしたら、その彼女はいきなり発作のように笑い出した。
「やだ、すごい、昂貴が他の人とじゃれてる……っ、や、もう、おかしい、なんだかものすごくおかしい……あははははははっ!」
うわ、『昂貴』だって。こっちも呼び捨てかよ。
でもなんか、幼いっていうか、人懐っこい笑い方するんだな。意外。すごい強烈な、迫力美人だからさ。容易に近づけない雰囲気があるんだ。黙って睨まれたら逃げ出すしかないような。こんな顔、高原がそうさせてるのかな。そうなんだろうな……。羨ましい奴め。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「だっておかしいわよ、あの昂貴が……あ、あはははははっ……」
「あんまり笑うと、口塞ぐぞ?」
おいおい、なんてこと言いやがる……そう思ったらその子は。
「また人前でするの?」
なにいいいぃ!? したことあんのかよ! なんてやつだ、こいつは……。
「こいつの前でしてもなあ」
「そうね、お友達なんでしょう?」
「……オトモダチを悪友に訂正希望」
「そういうこと言わないのっ」
「ぃてっ」
うわ、デコピン。あの反射神経抜群の高原がよけもせず、痛そうにしてるところまで幸せそうだ。うわあ……甘い。こいつがひとまえで、しかも女の前でこんな幸せそうにしてるの、初めて見た。
つぅか、これでつきあってないって……ありえねー……萩屋がつきあってたって言いきったわけだよ。そのへんのカップルよりずっと仲いいじゃないか。なんつーか、周りに『ラブラブオーラ』出してるんだよ……。しかもハイレベルな組み合わせだよなあ、どっちもうちの大学きっての優秀な学生で、かたや大金持ちの末娘、かたや学者一家の長男とは……。しかも双方、系統は違えど見た目も非常にいい。美男美女カップルで、正直ハマっている。なんか悔しいけど。
「あ、ごめんなさい、こっちだけで喋っちゃって。なにか話してらしたんですか?」
「だから敬語なんか使わなくても……」
「そういう問題じゃないでしょう?」
と諌める。今までだったらこんなの絶対なかったよな……甘いぞ高原……。
「あぁそうだ、風澄、こいつオランダ・バロックをやってるんだよ」
「えっ、本当に!? もしかしてレンブラントやフェルメールですか?」
「うん、その二人が中心だね。レンブラントは周辺も含めてやってるよ」
高原と市谷さんがやっているのはイタリア・バロックの巨匠。俺がやっているのはオランダ・バロックの巨匠。レンブラントはともかく他の画家は知らない人も多いんじゃないかな。フェルメールは何度か展覧会が開催されてからだいぶ知られるようになってきたけど。
「じゃあピーテル・ラストマン、ヤン・リーフェンスあたりですか。あとはヘーラルト・ダウ、カーレル・ファブリティウス、ホーファールト・フリンクとか?」
ピーテル・ラストマンはレンブラントの師匠、ヤン・リーフェンスは同期。友人でもあり、好敵手でもあったと言われている。ヘーラルト・ダウはレンブラントの最初の弟子で、レンブラントに師事した画家の中ではカーレル・ファブリティウスと共にトップクラスの腕の画家。ホーファールト・フリンクは当時特に成功した画家の一人だけど、レンブラントそっくりの絵を描くため、区別がつきにくく、論議を醸している。レンブラント工房の出身の画家は、他にも、フェルディナント・ボル、ホーホストラーテン、ニコラス・マース、そしてレンブラント最後の弟子であるアールト・デ・ヘルデルなどが代表的な画家に挙げられる。
レンブラントの先行画家としてはヘンドリック・ホルツィウス、フランス・ハルス、ヘンドリック・テル・ブリュッヘン、ヘリット・ファン・ホントホルストあたりだろうか。レンブラントはともかく、はっきり言って、他の画家はサッパリ知られていないと思う。
「ライスダールはどうですか?」
「ああ、いいよね。すごく好きだよ」
「あれ、風澄、ライスダールも好きだったのか?」
「うん。レンブラントやフェルメールは勿論だけど、ライスダールの空はほれぼれしちゃうわ。レンブラント、フェルメールに並ぶ、『オランダの光』の真骨頂だと思うの」
ライスダールは同時代の屈指の風景画家だ。普通、ライスダールと言うとヤーコプ・ファン・ライスダールをさすけど、彼の師匠は、実は伯父のサロモン・ファン・ライスダールだったりするからややこしい。
で、オランダの光(Dutch Light)っていうのは、この時代のオランダの画家たちの創造の源となった、特別な自然光のことをさす。彼らの描いた作品が、総じて独特の雰囲気や陰影、描写で表現されてきたことから生まれた言葉なんだけど……要するに、オランダの自然光が特別なものだから、自然とこういう絵が生まれて、今は開発などによってその源が失われてしまったのだ……という、ちょっと聞いただけでは眉唾ものにしか聞こえない説だったりするんだけど。
でも、知れば知るほど、そんなことも有りうるかもしれないと思ってしまうこともある。それくらい、オランダの絵画は独特な雰囲気を持っているんだよね。
「じゃあ、静物画や寓意はどうですか?」
「うーん、好きだけど、研究はしないかな。寓意自体は好きなんだけど、ヴァニタスなんかは暗いからね。写実的すぎて。やっぱり人物や風景が楽しいし」
オランダはフランドルと並んで細密な描写が特徴。よく見られるのは肖像画と静物画だろうか。肖像画は、特に集団肖像画が多い。今で言う集合写真みたいなもんだ。この絵画版。レンブラントの《夜警》も集団肖像画だしね。そして、やっぱり静物画は欠かせない。多く見られるのは花、そしてヴァニタス画だ。ヴァニタスっていうのはこの時代に流行した主題の一つ。静物画の一種なんだけど、移ろいやすいものの象徴として頭蓋骨や煙を立ち昇らせている蝋燭などを描き、人生の儚さや俗世の栄光の虚しさを表現した、教訓を含めた寓意画のこと。面白い主題なんだけど、どうにも暗いから、あまり俺は研究したいとは思わないなぁ。
「人物っていうと、テル・ボルフ、ヤン・ステーン、ピーテル・デ・ホーホなんかも?」
「そうそう、学部時代からずっとそのへんをやってるんだ。まぁほとんどレンブラントかフェルメールだけどね。それにしても、市谷さん、専門でもないのに詳しいねえ」
美術史学を専攻している人間でも、レンブラント、フェルメールとそれ以外では知名度に落差がありすぎて、周辺の画家を挙げるのには一苦労だ。列挙できる人なんて、専門でもない限り、そうそういないだろう。だからこそ驚いたんだけど。
「私、崎田先生の授業を受けて、この専攻を選んだんです。今思えば、その授業であの画家の作品を見たのが最大の原因だったんでしょうけど、最初は北方美術に興味を持っていたんですよ。なので、オランダ・バロックからラ・トゥールに行ってフランス・バロックのことを少し勉強して、それからイタリア・バロックに戻ったんです。バロック時代の美術史を勉強しようと思ったきっかけでもあるんですよ」
「ああ、崎田さんか。学部の講師だったから見てもらえなかったけど、すごいひとだよね。授業も難しかったけど面白かったし」
崎田先生っていうのはうちの大学の講師で、オランダ美術の研究者。学部所属の講師だったしゼミは持ってなかったから論文の指導はしてもらえなかったけど、話はさんざん聞いたし、今でも論文を持っていったりする。その道では特に有名な人で、オランダ美術研究の第一人者。海外での評価も高い。そういえば、このひとに卒論を見てもらえなかったから俺は高原と同じ河原塚ゼミに入ったんだよなあ。
ラ・トゥールっていうのはフランスの画家。たぶん誰でも一度は見たことがあるんじゃないかな。蝋燭にかざした手が炎に透けている絵と言ったらわかるかもしれない。ただ、有名なラ・トゥールが、もう一人居るんだよね。どちらもフランスの人だけど、この話に出ているのは油絵画家のジョルジュ・ド・ラ・トゥール、もう一人はロココ時代、パステル画家のモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール。勘違いしやすいんだ、これが。ロココの話をしていたのに相手はバロックだと思ってたーなんてこともあったなぁ。
ちなみに、北方っていうのはネーデルラントとかフランドルとかのこと。現在のオランダやベルギーにあたる。言っておくけど、バルト三国だとかスカンジナビア半島らへんだとかじゃないよ。イタリアより北って意味なんだ。よく誤解されるけどね。
「その影響で、俺も修士の時にオランダ・バロック関係で一本論文を書いて、浅井が俺たちのやってる画家を中心にイタリア・バロックについて書いたんだよな」
「えええっ、昂貴そんなのまでやってたの!?」
「言ってなかったけ?」
「聞いてないわよ! 好きなの知ってるくせに酷い。今度読ませてね?」
「寝室の一番デカい本棚の一番下の段の右下にあるから、いつでも読めよ」
「ん、了解」
ってことは、家にもさんざん行き来してるってことかよ。なんなんだおまえー、そんなそぶり全く見せなかったじゃないか。そういや最近高原んちに行ってない……こういうことかよ。でもそうか、そうやってバラしてくれてるってのは、まぁ、信頼っつーかさ、少なくとも知ってていいってことだよな。時期的にもそんなに経ってるわけじゃないらしいし。うん。そう思っておこう。でもそれにしちゃ、親しそうだよなぁ……。まぁそうか、『恋人同然』だもんな。
「あの画家はオランダにも影響を与えてるだろ? だから知っておかないとな。こいつ、そのへんだけは役に立つからさ」
「おい高原、だけってなんだよおまえは……」
「違うか?」
「いや違わないけどさ」
そうしたら、彼女はくすっと笑って口を開いた。
「嘘ですよ絶対。昂貴って、こういうからかうような言い方で馬鹿にしてるときは、本心じゃありませんから」
「おいこら、バラすなよ」
「だって、お友達は大事にしなきゃ、ね?」
つぅかそれを俺よりずっとつきあいの短いこの子が言うんかい。そう思ったら。
「あ、ごめんなさい、私のほうが昂貴と知り合って短いのに」
勘のいい子だなぁ。そうか、だからわかるんだろうな。高原の言い方の裏にある気持ちとか。それに、高原が壁を作ってない。ふたりで、すごくリラックスしてる気がする。対等な関係ってことなんだろうな。お互い学問が好きで、同じ学問とか画家とかそういうの以前に、考え方や研究への態度とか、意識とか、そういうものがすごく似てるんだ。そういうことをお互いにわかりあって一緒にいるんだろうな。きっと、それはもっと他のこともそうなんだろう。だからこうやって、ふたりで笑っていられるんだ。
「いや、気にしなくていいよ。こんな高原見たの初めてで、面白い」
「えっ? 普段の昂貴ってこうじゃないんですか?」
「市谷さんの知ってる高原ってどんな奴?」
「……言っていい? 昂貴」
「だめ。つぅか普段の俺のことなんか聞かんでいい聞かんで」
「むぅーっ。それじゃ参考にならないでしょう?」
うわ膨れてる。こういう顔も意外と幼いなあ。
「なんの参考にするんだよおまえは」
「昂貴対策」
「なんだそりゃ……」
「だって勝てないの悔しいもん」
胸を張って、彼女は宣言する。あのねー君、本人の目の前でやってたら仕方ないでしょうが。って、この態度ってことは、この子は本当に喧嘩っ早いっつーか、負けず嫌いなんだな。しかも高原に? なんて怖いもの知らずなんだ……って、この子のほうが怖いんだっけか、高原談だけど。うーん……喧嘩シーン、見てみたいような見てみたくないような。
「勝てていないつもりだったんだ?」
「そうよっ。いつも私ばっかり負けてて口惜しいじゃない」
「……俺はいつも俺が負けてると思ってたけどな」
「え?」
「おまえには、勝てないよ……」
うわっ。頬に手添えてる。ホホエミだよホホエミ! あの愛想はいいくせに滅多なことじゃ表情を緩ませない高原が! しかもすんげー穏やかで幸せそうなの。こんな目で見つめたらおまえの気持ちなんて一目瞭然なんじゃ……。
「昂貴……」
うわこっちも。添えられた手に手重ねてるよ……。って……こっちもものすごい、負けず劣らず幸せそうな顔。すごい美人なんだけど、今は滅茶苦茶可愛く見える……恋のパワーですか、そうですか……。なんつーかさ、美男美女カップルって人前でいちゃつかないもんだと思うんだけど、こいつらはまるで違うな。いや、目の保養にはなりますけども。ってか、てめーらさっさと気づけよー。どっからどう見たって相思相愛じゃないか。じれったい。だけど言ってなんかやらないね。
もしかして、萩屋も気づいたんじゃないだろうか。だから『彼女いた』って言ってたんじゃないかな。……って、まさかさっきの『人前』って、萩屋か!? うわぁ……だとしたらこいつらすげぇ残酷。こんなふたりじゃ引き下がるしかないじゃんよ。なんて思ってたら。
「えいっ」
「てっ! なにしやがんだおまえ!」
へ? って思ったら、高原が手の甲押さえてる。どうやら、つねられたらしい。あんなラブラブムードだったのに……さすがだ……絶対敵に回したくない……。
「ふふふ〜ん、隙ありっ」
「……今夜憶えてろよ……」
ぼそっと言ってたけど、聞こえたぞ高原っ! しかも相手真っ赤! っつーことはなんだ、要するにそこまでがっつり進んじゃってるってことか……いや、それっぽいことは聞いてたけどさ、さっきだって『やってることは恋人同士と同じ』って言ってたし。だけど、あらためて考えると……うわぁー、学内一のお嬢が穢されたぁ……しかも高原に……なんだか大ショック。いや、本気だってことはわかるし相当大事にしてるんだろうけどな。しっかし、これだけの美人なんだから、わざわざ高原なんぞ選ばなくても良さそうなもんなのに。はぁ……。いや、似合ってるのは認めるけど。あぁ……男の夢が崩れていく……。
「おまえら仲いいなぁ……」
呆れて俺は呟いた。すると。
「まぁ、そうだな。気が合うし」
「いつも一緒にいますしね」
だって。しかも同時に。
……ごちそーさーん……。
「しっかし、あの高原がねえ……変わったもんだ」
「え? そんなにですか? 確かに私といるときってただの変なひとですけど、研究に関わることは真面目で冷静だし……」
「……『ただの変なひと』……!」
俺は愕然としたね。だってあの高原だぜ? いつも冷静で喧嘩売られた時でさえ落ち着いて対処する、あの高原が!? まぁぶち切れたら相手の思う壺だし、より怒らせるためってのはわかるんだけど、それどころじゃなく変わんないの。感情がないわけじゃないんだよ。むしろ結構起伏が激しいほうかもしれない。だけど絶対そういう時には表に出さなくてさ。それに、ここまで無防備な姿は見たことなかった。
「変で悪かったな……誰の責任だと思ってるんだよ」
「え? だから私でしょ? 責任だって取ってるじゃない」
「足りない」
「充分よっ! 必要量オーバーしまくってるわよ! ひとのこと芯まで搾りつくさなきゃ気がすまないくせにっ!」
「……ちっ」
って、なに搾りつくしてやがんだ高原ーっ! つまりアレですか、あっちのことですか……それしかないよなあ。はぁ……やっぱり高原って手が早い……。
「あぁでも、市谷さんも思ったよりはっきりしたひとだったんだね……」
「私は元からズバズバ言うほうなんですよ」
「……そ、そうなの?」
「お嬢お嬢って言われますけど、普通ですよ、うちの家って。躾は厳しくされましたけど、もともとは商人の家ですから、歴史は長いけど旧家って雰囲気じゃありませんし。だから、あまり気になさらないで下さい。むしろ、そういうこと、気にされないほうが私はいいんです」
「へえ……」
やっぱあれか、なまじ噂になりやすい家の上に見た目がいいから、憶測ばかりが飛び交ってるんだろうな。実物はこんなもんってことなんだろう。だからって、この子の頭の良さも美人さも変わらないけどさ。
「だから親しくないひとには無駄に丁寧にしてますけどね。なにかっていうと、色々言われちゃいますから」
って、出逢った当初から手のうちバラしていいんだろうか。などと余計な心配をしてしまうな、これは。雰囲気は近寄りがたいのに、なんでこんなに気さくなんだろう。
「俺はいいの?」
「昂貴のお友達なんでしょう? 信頼できないひとにわざわざ紹介するような彼じゃありませんから。それに、信頼できないひととつきあえるひとでもないし」
うっわ、すごいな……信頼の塊。いや、俺への高原の信頼じゃないぞ。彼女の高原に対する信頼が、だ。
「風澄、それ、俺が恥ずかしいぞ」
「いいの。昂貴が言えないこと言ってあげてるんだから感謝してよね? でも今度は自分で言わなきゃだめよ」
「言うべきことは言ってるからいいんだよ」
「言うべきことだけ言っていればいいってものじゃないでしょう?」
おぉ、至言だ。さすがに高原、なにも言えないでやんの。本当にすごい子なんだな。俺は思わず笑い出した。いや、俺は高原の気持ちくらいわかってるつもりだけどさ。これでも、長いつきあいの友人だからな。
だけど、それでもこんな高原は見たことなかったんだ。でも、今の高原のほうが、今までの高原よりずっといいと思う。
俺は心の中で、早く気づいてくっつけよ、と呟いた。高原も市谷さんも、今まで知ってた顔より、今のほうがずっといい。
願わくは、あのふたりが、いつまでも一緒に笑っていられますように。
しかし数日後、俺はひとつのことに気づいた。
あいつが俺に彼女を紹介したのは、惚気る相手が欲しかったからだってことに。
……市谷さーん、こんな奴振っちまえー!
「いや、俺は心底驚いたんだよ」
ここは、研究棟の最上階の空き部屋。実質は、とある院生がここ五年間占有している部屋だ。目の前にいるのがその部屋の主で、この大学に入ってから延々つきあいを続けている俺の友人、もとい悪友の、高原昂貴。腐れ縁とも言うな、これは。
で、三年前(正確には二年半前)、および約一ヶ月前、こいつの発言に我が耳を疑い、数秒間……もしかしたら数分間、どうやら俺はフリーズしていたらしい。しかし、その時のことを今更持ち出されても困る。むしろ、俺の反応の責任の所在はおまえにあると主張したい。
だって信じられないだろう、こんなの。
「あの女泣かせの高原昂貴に本命ができたって聞いた時にも驚いたけど……あん時ゃ、ついに日本に天変地異が来るかと思ったし」
「って、俺の本気は天変地異の前触れかよ?」
「それぐらい驚いたってこと。もう、あれから三年になるのか。でもまさか、その子と本当にくっついたとはねえ……。おまえさ、意外と一本気な奴だったのな」
「別にくっついたわけじゃない。そばにいる権利をもらっただけだ」
『そばにいる権利』? って『彼氏』とか『恋人』なんじゃ? ああ、そういう肩書きで繋がれてても、上手くいってないってことかな……でも好きだってことか?
「仲悪いわけ?」
「仲はいい。『彼氏』じゃないってこと」
「ああ……あれ? でも萩屋はつきあってるって言ってたような……違うのか?」
その件を耳にしたのは萩屋穂理という同じゼミ生の口から。そいつに『高原、彼女いたよ』って言われたんだよなあ。悪いけど、俺も知らなかったんだから仕方ないじゃないか。つぅか、そういう目的だったんだな……。だいたい、そんな相手がいなくたって、高原が萩屋を選ぶとは到底思えない。たとえ遊びでも嫌がりそうだ。こいつ、女の理想が高いし、勉強ができるだけの人間は嫌いだからなぁ。これは別に、萩屋が駄目だとか悪いとかじゃなくて、高原のせいだけど。んで、その件の真偽を問い質したと言うか、一応聞いてみたところ、今に至るってわけなんだけど。意外にもあっさり答えてくれたな。
「正確に言うと違う。でもやってることは同じだな、全く。まわりからはそう見えるだろう。俺もあいつも、他の異性なんかどうでもいいし」
おいおい、『やってること』って、おまえなぁ。まったく、どっちの意味なんだか。……両方ですか、そうですか……。
「はぁ……それってつきあってるって言うんじゃないのかね……」
「俺だってつきあいたくないわけじゃない」
「そっか、事情つきなんだな。わかった、そこは突っ込まない。……で、結局、誰?」
俺は、無遠慮にひとのプライバシーに入り込むような趣味はない。そういうのを暴きたてなきゃいられない関係って、なんか変だと思うしさ。高原も似たような考え方で、そういう、ライトな関係が俺たちらしいつきあいかたってわけ。そこが共通してるから、これまで続いてきたんだろうな。大学に入った頃から何かと縁があったし。でも、まぁ、あの高原が本気になった女性について知りたいかと聞かれれば、それは勿論知りたいんだけど。聞けることなら聞いておきたいよな。うん。
「誰か教えるのはいいけど、おまえはその子を俺が初めて知ったとき、そこにいたぞ?」
「なにぃ!?」
「かなり昔だけど。その子が誰か教えてくれたのはおまえだよ」
「……マジ? って、紹介したってこと? そんな子いたっけか……だいたい、おまえのほうが女の知り合いとか多かったし」
「別に紹介したとか知り合いだとかって意味じゃない。名前と経歴を教えてくれただけだ。それにおまえのほうが女の友達は多いだろ」
そーですねー。高原くんの女の知り合いってモロモロが元カノだもんねー。……女友達の数が多くたって嬉しくないって。はぁ。
「って、いつだよ?」
「だから、三年前の七月」
「…………、おい」
「ん?」
「つまりおまえは、その時その子に惚れて、それからずっと?」
「ああ、そう」
「彼女も作らずセフレも作らず本命一本?」
「そう」
「……、どこの聖人君子だおまえは!」
「るせぇな、ひとの勝手だろうが!」
怒鳴ってるけど、照れ隠しみたいだな、これは……。なんつーか、こんな高原初めて見たぞ。本当の本当に本気なんだな……愕然。
「って、誰だよ……本当にわかんないな……三年前の、七月……?」
「まぁ他の奴にとっちゃそんなもんだろうな」
そりゃーおまえはそこで一目惚れなんかしたんだから印象的だろーよ。
「どんな子?」
「美人」
「……惚気(のろけ)かよ、即答しやがって」
「あたり。だけど別にそこに惚れたわけじゃないぞ」
「わかってるよ。美人ぐらい、よりどりみどりだったもんな」
「まぁ、そんなどうでもいいレベルじゃないけどな」
「……ご馳走さまです」
「お粗末さまです」
お辞儀なんかしやがって。くっそおおぉ。
そういえば先月の頭、その子と知り合った(どころでは済まなかった)っていう話を小耳に挟んではいたんだけど、その時も美少女だの美人だの言ってたなぁ。この高原が絶賛する美少女って、どんな子なんだろう。俺の頭じゃサッパリ想像できない。
「って、誰だ? 俺の知ってる限りで、大学内で美人っつーと……去年のミスコンで一位になった商学部の三年とか……このまえ校内新聞の美少女紹介に載ってた医学部の五年とか……あとは文学部の四年の市谷の娘とか……」
「はい、あたり」
「……んあ?」
「だからその、『文学部の四年の市谷の娘』だよ、俺の本命は」
「……………………なにいいいぃ!?」
ちょっと待てちょっと待てちょっと待てーっ!
だって、おい、『市谷の娘』っつったら、あの、『才色兼備の具現』と言われた子じゃないか! いや、うちの大学に来るぐらいなら、それなりに綺麗な子はみんな『才色兼備』って言えるんだろうけど、もう段違いの子なんだよ。頭の良さも美貌も。しかも、一族のほとんどがうちの大学出身で、揃いも揃って知能に優れた美男美女だとか。で、その直系で現在唯一うちの大学に所属しているのが『文学部四年の市谷風澄さん』なんだけど……その子と高原があぁ!? マージーかーよー!
「三年前の七月、教養のキャンパスで、教えてくれただろ、おまえ」
「……? そんなことあったっけか……?」
「だからずっと風澄を追いかけていられたんだよな。……礼言っとく。ありがとう」
「呼び捨てかよ」
「突っ込むのはそっちかよ」
「いや、礼言われたのも驚いたけど。そっか……そうなんだ。って、それって、ひと目見ただけだろ!? それから今までずーっと彼女一人を想いつづけてたのかよ?」
「ああ」
「……うっわ……本当に本気なんだ……」
「そう。そこんとこ、疑わないように。俺でさえ驚いてるけど」
そーだろーよ……なにしろこいつの女関係の素行の悪さときたら、いや浮気はしないから素行が悪いっていうと変なんだけど、それでもそう言われるぐらい酷かったんだよな。とにかく、とっかえひっかえ。しかも軒並み言い寄られたってパターン。こいつからってことは一度もなかったらしい。で、執着も未練もなにもないんだよ。熱あげてる女が不憫でさあ。と言っても、現彼女ーって紹介されたことはないんだ。単に、そういうとこ見かけたり、そんな話をされたりしたってだけ。だけど、一緒にいるくせに『手出されても構いません、いつでもあげます』って顔でさ。本当に寝取られたときも平然としてたし。吐き捨てるでもなく冷静に『そっちがいいなら乗り換えたほうがいいんじゃないか?』とか言ったとか。あと、別れてほしいのって言った女に『いいよ』の一言で終わったとか。そんなの、振り向いて欲しくて言ったに決まってるだろうにさ。それでこいつを引き止められるなんて考えた女も馬鹿だけど。
「七月の頭だっけ? その、仲良くなったりとか」
「そう。教授に、ちょうど紹介されてさ。あいつ河原塚ゼミなんだ。それで、俺と同じ画家を扱ってるんだ。そういえばおまえのやってる画家も好きだって言ってたな。バロック美術の、キアロスクーロが好きでさ」
キアロスクーロっていうのは日本語で言うと明暗法のこと。イタリア語でキアロが明るいでスクーロが暗い、だったはず。明暗のコントラストをつけて劇的な表現をする手法で、これを大胆に取り入れたイタリアのバロック時代の巨匠が高原の研究している画家で、俺はその影響を受けたネーデルラント、つまりオランダの画家を研究している。だから、院に入ってからも研究対象は違えど話が合ったんだよな。
「あー、そういやそんな話も聞いた気がする。あの『市谷の娘』がうちのゼミに来たーって。見に行った奴とかいたよな。しかも頭いいって……河原塚さん、すごくやる気があって頭のいい子が入ってきたんだよって嬉しそうにしてたし。……しっかしねえ……はぁ、あの子がねえ……。あの校内一の高嶺の花が、こんな男の毒牙にひっかかるなんて……!」
「失礼な、俺は真剣だ。それから、そういう高嶺の花とかいう言い方、風澄には絶対にすんなよ。怖いぞ?」
「……怖いのか?」
「怒らせたらマジ怖い。たぶん俺より」
「嘘……」
いや、市谷風澄さんてさ、すごい綺麗な子なんだよ。話したこととかはないんだけど、噂は聞いていたし、キャンパスで姿を見かけたことも何度かある。華やかな外見なのに性格はすごく落ち着いているとか、頭のいい奴がゴロゴロいるうちの大学でも群を抜いて賢いって聞く。とてもそんな、怒ったりするタイプとは想像していなかったんだ。しかもそれがこいつより怖いって? いや、こいつもあんまり怒らないんだけど、怒らせるともー……。二度と思い出したくない。なまじ口も立つし腕っぷしもいいもんだから、喧嘩で負けたの見たことないもんなあ。絡まれても動じないし、喧嘩吹っかけられてもコテンパンに叩きのめすし。まぁグレたりはしなかったみたいだけど。
「本当だって。そこの壊れたデスクのへこみ作ったの風澄だし」
「えええええ!? 嘘だろー!? っつぅか、なにやってそんな怒らせんただよ?」
「俺が風澄にそんなことするわけないだろ。萩屋に絡まれてさ、その後一発蹴り飛ばしてた。あの時はさすがに俺も驚いたけど。あぁ、もちろん、言われた以上はしっかり言い返して撃退してたな。あれは見ものだったよ、あの萩屋が退散するさまは」
うっわ、くっくっくっだって。笑ってるよ……。
「あー萩屋か……あいつ口が立つもんなー……って、勝ったのかよ、萩屋に」
「風澄も立つけどな。俺はそこも好きだけど。もう完膚なきまでに叩きのめしてた。ムカついて、俺が途中で抜け出させたけど。……なんなら、怒らせてみようか?」
「やめてくれ……」
つぅか、あの子口が立つのかよ! 信じられん。あれだけ頭いいってんだから、そりゃ口喧嘩くらいできるんだろうけど。怒った顔も美人なんだろうなぁ。
それにしても、あの萩屋とやりあったって、相当なんじゃないだろうか。萩屋ってな、ものすごい知識が豊富で、しかも口が達者なんだよなぁ。なんたって、ついたあだ名が『喋る論文集』だから。だけど、そのせいか、萩屋自身の、自分の意見っつーのはあんまり見えてこない。そのへんは残念だな。よって、知識だけ人間や自分の意見や主体性が無い人間に厳しい高原は、あまり萩屋を評価していないようだ。そもそも、凡人である俺から見ると、高原の要求レヴェルについていける人間なんてそうそう居ないと思うんだけどさ。まぁ、高原自身が、博識かつ自分の意見を持っている人間だから、しかたがないのかもしれない。でも、萩屋って、本当に知識は豊富なんだ。それに、文章やら発表のレジュメやら、丹念に読んで、良いアドヴァイスや資料を教えてくれるんだよ。言わば、外人校閲ならぬ美術史校閲。
「……ちなみに、その高嶺の花が、もうすぐここに来るんだけどな」
「なにぃ!?」
「いや、おまえには感謝してるし、別に『彼女』じゃないけど、お互い自分たちだけって思ってるし……それに、おまえなら知っていてもいいと思ったんだ。もう、萩屋のときみたいな目には遭いたくないしな」
「はあ……」
そんな他人に紹介できるような女がどうして彼女じゃないんだよ……もう本気でわけわかんねえ。
そうしたら、ノックの音。中から鍵をかけてたのに、高原は開けに行かない。いいのかよと思ったら……開いた。合鍵かよ! 俺はしっかり高原を睨んでおいた。ったく、どこまで手が早いんだかこいつは……。
「失礼します。市谷です、お待たせしました。……来客中ですか?」
透き通ったような声と同時に、開かれたドアの隙間から、栗色の、緩くウェーブのかかった長い髪の毛が、俺の視界に入ってきた。
……あれ?
彼女が部屋に入ってきた瞬間、部屋の空気が変わった気がする。なんていうか、そこにいるだけで、まるで花が咲いているかのように明るくなるんだ。そして、心地よい空気が吹き込んできた気がする。澄んだ風とはよく言ったものだ。春や秋頃の、よく晴れた心地の良い朝、風通しの良い部屋に居るような気分。今はうだるような真夏だと言うのに。
靴の高さをものともせず、高らかに踵の音を響かせ、軽やかながらも堂々として気品に満ちた歩き方。緩いウェーヴを描く長くて明るい色の髪の毛が、動くたびにふわっと舞う。背が高くて、スタイルがすごくいい。引き締まっているのに柔らかい身体のライン。そして、それにぴったり合った、シンプルだけどはっきりした色調の服を、ものともせず着こなしてる。近くで見れば見るほど、噂以上だ。華やかで知的な正統派美人なんて言葉じゃとても足りない。人形のように整っているのに、炎のように鮮やかだ。オーラなんてものがあるとしたら、彼女のはきっと真っ赤だろう。激しい情熱の高貴な赤。他者を圧倒せずにいないインパクト。
うわぁ……本当に美人だ。ありふれた、陳腐な表現だけど、美人という言葉がここまで相応しい女性というのは稀有だろう。
「あ、いいからそういうの」
「なにがですか?」
ひらひらと手を振って発された高原の言葉に、彼女はきょとんとしている。首を傾げて問いかけるしぐさまでなんだか気品が漂ってるな……。でも、高原の言ってることは俺もわからない、なにがだ?
「風澄。前も言っただろ、浅井和之。俺の悪友。教授も一緒」
「あ、初めまして、浅井和之です。よろしくお願いします」
俺は慌てて立ってお辞儀する。
「こちらこそ、初めまして。河原塚ゼミ四年に所属してます、市谷風澄です。どうぞよろしくお願いいたします」
うっわぁ……綺麗な声。よく通るのに、涼やかで、どこか可憐だ。見た目だけじゃないんだなぁ。それに、お辞儀の形がすごく綺麗だ。喋り方とかしぐさとか、すみずみまで、育ちの良さを感じさせる。本当のお嬢さまってこうなんだな……。
「だから、そんな礼儀とかどうでもいいから」
「どうでもいいってなんだその言い草は! 感謝してるんじゃなかったのかよ!」
「別におまえがどうでもいいなんて言ってないだろ」
「あたりまえだ!」
そうしたら、その彼女はいきなり発作のように笑い出した。
「やだ、すごい、昂貴が他の人とじゃれてる……っ、や、もう、おかしい、なんだかものすごくおかしい……あははははははっ!」
うわ、『昂貴』だって。こっちも呼び捨てかよ。
でもなんか、幼いっていうか、人懐っこい笑い方するんだな。意外。すごい強烈な、迫力美人だからさ。容易に近づけない雰囲気があるんだ。黙って睨まれたら逃げ出すしかないような。こんな顔、高原がそうさせてるのかな。そうなんだろうな……。羨ましい奴め。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「だっておかしいわよ、あの昂貴が……あ、あはははははっ……」
「あんまり笑うと、口塞ぐぞ?」
おいおい、なんてこと言いやがる……そう思ったらその子は。
「また人前でするの?」
なにいいいぃ!? したことあんのかよ! なんてやつだ、こいつは……。
「こいつの前でしてもなあ」
「そうね、お友達なんでしょう?」
「……オトモダチを悪友に訂正希望」
「そういうこと言わないのっ」
「ぃてっ」
うわ、デコピン。あの反射神経抜群の高原がよけもせず、痛そうにしてるところまで幸せそうだ。うわあ……甘い。こいつがひとまえで、しかも女の前でこんな幸せそうにしてるの、初めて見た。
つぅか、これでつきあってないって……ありえねー……萩屋がつきあってたって言いきったわけだよ。そのへんのカップルよりずっと仲いいじゃないか。なんつーか、周りに『ラブラブオーラ』出してるんだよ……。しかもハイレベルな組み合わせだよなあ、どっちもうちの大学きっての優秀な学生で、かたや大金持ちの末娘、かたや学者一家の長男とは……。しかも双方、系統は違えど見た目も非常にいい。美男美女カップルで、正直ハマっている。なんか悔しいけど。
「あ、ごめんなさい、こっちだけで喋っちゃって。なにか話してらしたんですか?」
「だから敬語なんか使わなくても……」
「そういう問題じゃないでしょう?」
と諌める。今までだったらこんなの絶対なかったよな……甘いぞ高原……。
「あぁそうだ、風澄、こいつオランダ・バロックをやってるんだよ」
「えっ、本当に!? もしかしてレンブラントやフェルメールですか?」
「うん、その二人が中心だね。レンブラントは周辺も含めてやってるよ」
高原と市谷さんがやっているのはイタリア・バロックの巨匠。俺がやっているのはオランダ・バロックの巨匠。レンブラントはともかく他の画家は知らない人も多いんじゃないかな。フェルメールは何度か展覧会が開催されてからだいぶ知られるようになってきたけど。
「じゃあピーテル・ラストマン、ヤン・リーフェンスあたりですか。あとはヘーラルト・ダウ、カーレル・ファブリティウス、ホーファールト・フリンクとか?」
ピーテル・ラストマンはレンブラントの師匠、ヤン・リーフェンスは同期。友人でもあり、好敵手でもあったと言われている。ヘーラルト・ダウはレンブラントの最初の弟子で、レンブラントに師事した画家の中ではカーレル・ファブリティウスと共にトップクラスの腕の画家。ホーファールト・フリンクは当時特に成功した画家の一人だけど、レンブラントそっくりの絵を描くため、区別がつきにくく、論議を醸している。レンブラント工房の出身の画家は、他にも、フェルディナント・ボル、ホーホストラーテン、ニコラス・マース、そしてレンブラント最後の弟子であるアールト・デ・ヘルデルなどが代表的な画家に挙げられる。
レンブラントの先行画家としてはヘンドリック・ホルツィウス、フランス・ハルス、ヘンドリック・テル・ブリュッヘン、ヘリット・ファン・ホントホルストあたりだろうか。レンブラントはともかく、はっきり言って、他の画家はサッパリ知られていないと思う。
「ライスダールはどうですか?」
「ああ、いいよね。すごく好きだよ」
「あれ、風澄、ライスダールも好きだったのか?」
「うん。レンブラントやフェルメールは勿論だけど、ライスダールの空はほれぼれしちゃうわ。レンブラント、フェルメールに並ぶ、『オランダの光』の真骨頂だと思うの」
ライスダールは同時代の屈指の風景画家だ。普通、ライスダールと言うとヤーコプ・ファン・ライスダールをさすけど、彼の師匠は、実は伯父のサロモン・ファン・ライスダールだったりするからややこしい。
で、オランダの光(Dutch Light)っていうのは、この時代のオランダの画家たちの創造の源となった、特別な自然光のことをさす。彼らの描いた作品が、総じて独特の雰囲気や陰影、描写で表現されてきたことから生まれた言葉なんだけど……要するに、オランダの自然光が特別なものだから、自然とこういう絵が生まれて、今は開発などによってその源が失われてしまったのだ……という、ちょっと聞いただけでは眉唾ものにしか聞こえない説だったりするんだけど。
でも、知れば知るほど、そんなことも有りうるかもしれないと思ってしまうこともある。それくらい、オランダの絵画は独特な雰囲気を持っているんだよね。
「じゃあ、静物画や寓意はどうですか?」
「うーん、好きだけど、研究はしないかな。寓意自体は好きなんだけど、ヴァニタスなんかは暗いからね。写実的すぎて。やっぱり人物や風景が楽しいし」
オランダはフランドルと並んで細密な描写が特徴。よく見られるのは肖像画と静物画だろうか。肖像画は、特に集団肖像画が多い。今で言う集合写真みたいなもんだ。この絵画版。レンブラントの《夜警》も集団肖像画だしね。そして、やっぱり静物画は欠かせない。多く見られるのは花、そしてヴァニタス画だ。ヴァニタスっていうのはこの時代に流行した主題の一つ。静物画の一種なんだけど、移ろいやすいものの象徴として頭蓋骨や煙を立ち昇らせている蝋燭などを描き、人生の儚さや俗世の栄光の虚しさを表現した、教訓を含めた寓意画のこと。面白い主題なんだけど、どうにも暗いから、あまり俺は研究したいとは思わないなぁ。
「人物っていうと、テル・ボルフ、ヤン・ステーン、ピーテル・デ・ホーホなんかも?」
「そうそう、学部時代からずっとそのへんをやってるんだ。まぁほとんどレンブラントかフェルメールだけどね。それにしても、市谷さん、専門でもないのに詳しいねえ」
美術史学を専攻している人間でも、レンブラント、フェルメールとそれ以外では知名度に落差がありすぎて、周辺の画家を挙げるのには一苦労だ。列挙できる人なんて、専門でもない限り、そうそういないだろう。だからこそ驚いたんだけど。
「私、崎田先生の授業を受けて、この専攻を選んだんです。今思えば、その授業であの画家の作品を見たのが最大の原因だったんでしょうけど、最初は北方美術に興味を持っていたんですよ。なので、オランダ・バロックからラ・トゥールに行ってフランス・バロックのことを少し勉強して、それからイタリア・バロックに戻ったんです。バロック時代の美術史を勉強しようと思ったきっかけでもあるんですよ」
「ああ、崎田さんか。学部の講師だったから見てもらえなかったけど、すごいひとだよね。授業も難しかったけど面白かったし」
崎田先生っていうのはうちの大学の講師で、オランダ美術の研究者。学部所属の講師だったしゼミは持ってなかったから論文の指導はしてもらえなかったけど、話はさんざん聞いたし、今でも論文を持っていったりする。その道では特に有名な人で、オランダ美術研究の第一人者。海外での評価も高い。そういえば、このひとに卒論を見てもらえなかったから俺は高原と同じ河原塚ゼミに入ったんだよなあ。
ラ・トゥールっていうのはフランスの画家。たぶん誰でも一度は見たことがあるんじゃないかな。蝋燭にかざした手が炎に透けている絵と言ったらわかるかもしれない。ただ、有名なラ・トゥールが、もう一人居るんだよね。どちらもフランスの人だけど、この話に出ているのは油絵画家のジョルジュ・ド・ラ・トゥール、もう一人はロココ時代、パステル画家のモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール。勘違いしやすいんだ、これが。ロココの話をしていたのに相手はバロックだと思ってたーなんてこともあったなぁ。
ちなみに、北方っていうのはネーデルラントとかフランドルとかのこと。現在のオランダやベルギーにあたる。言っておくけど、バルト三国だとかスカンジナビア半島らへんだとかじゃないよ。イタリアより北って意味なんだ。よく誤解されるけどね。
「その影響で、俺も修士の時にオランダ・バロック関係で一本論文を書いて、浅井が俺たちのやってる画家を中心にイタリア・バロックについて書いたんだよな」
「えええっ、昂貴そんなのまでやってたの!?」
「言ってなかったけ?」
「聞いてないわよ! 好きなの知ってるくせに酷い。今度読ませてね?」
「寝室の一番デカい本棚の一番下の段の右下にあるから、いつでも読めよ」
「ん、了解」
ってことは、家にもさんざん行き来してるってことかよ。なんなんだおまえー、そんなそぶり全く見せなかったじゃないか。そういや最近高原んちに行ってない……こういうことかよ。でもそうか、そうやってバラしてくれてるってのは、まぁ、信頼っつーかさ、少なくとも知ってていいってことだよな。時期的にもそんなに経ってるわけじゃないらしいし。うん。そう思っておこう。でもそれにしちゃ、親しそうだよなぁ……。まぁそうか、『恋人同然』だもんな。
「あの画家はオランダにも影響を与えてるだろ? だから知っておかないとな。こいつ、そのへんだけは役に立つからさ」
「おい高原、だけってなんだよおまえは……」
「違うか?」
「いや違わないけどさ」
そうしたら、彼女はくすっと笑って口を開いた。
「嘘ですよ絶対。昂貴って、こういうからかうような言い方で馬鹿にしてるときは、本心じゃありませんから」
「おいこら、バラすなよ」
「だって、お友達は大事にしなきゃ、ね?」
つぅかそれを俺よりずっとつきあいの短いこの子が言うんかい。そう思ったら。
「あ、ごめんなさい、私のほうが昂貴と知り合って短いのに」
勘のいい子だなぁ。そうか、だからわかるんだろうな。高原の言い方の裏にある気持ちとか。それに、高原が壁を作ってない。ふたりで、すごくリラックスしてる気がする。対等な関係ってことなんだろうな。お互い学問が好きで、同じ学問とか画家とかそういうの以前に、考え方や研究への態度とか、意識とか、そういうものがすごく似てるんだ。そういうことをお互いにわかりあって一緒にいるんだろうな。きっと、それはもっと他のこともそうなんだろう。だからこうやって、ふたりで笑っていられるんだ。
「いや、気にしなくていいよ。こんな高原見たの初めてで、面白い」
「えっ? 普段の昂貴ってこうじゃないんですか?」
「市谷さんの知ってる高原ってどんな奴?」
「……言っていい? 昂貴」
「だめ。つぅか普段の俺のことなんか聞かんでいい聞かんで」
「むぅーっ。それじゃ参考にならないでしょう?」
うわ膨れてる。こういう顔も意外と幼いなあ。
「なんの参考にするんだよおまえは」
「昂貴対策」
「なんだそりゃ……」
「だって勝てないの悔しいもん」
胸を張って、彼女は宣言する。あのねー君、本人の目の前でやってたら仕方ないでしょうが。って、この態度ってことは、この子は本当に喧嘩っ早いっつーか、負けず嫌いなんだな。しかも高原に? なんて怖いもの知らずなんだ……って、この子のほうが怖いんだっけか、高原談だけど。うーん……喧嘩シーン、見てみたいような見てみたくないような。
「勝てていないつもりだったんだ?」
「そうよっ。いつも私ばっかり負けてて口惜しいじゃない」
「……俺はいつも俺が負けてると思ってたけどな」
「え?」
「おまえには、勝てないよ……」
うわっ。頬に手添えてる。ホホエミだよホホエミ! あの愛想はいいくせに滅多なことじゃ表情を緩ませない高原が! しかもすんげー穏やかで幸せそうなの。こんな目で見つめたらおまえの気持ちなんて一目瞭然なんじゃ……。
「昂貴……」
うわこっちも。添えられた手に手重ねてるよ……。って……こっちもものすごい、負けず劣らず幸せそうな顔。すごい美人なんだけど、今は滅茶苦茶可愛く見える……恋のパワーですか、そうですか……。なんつーかさ、美男美女カップルって人前でいちゃつかないもんだと思うんだけど、こいつらはまるで違うな。いや、目の保養にはなりますけども。ってか、てめーらさっさと気づけよー。どっからどう見たって相思相愛じゃないか。じれったい。だけど言ってなんかやらないね。
もしかして、萩屋も気づいたんじゃないだろうか。だから『彼女いた』って言ってたんじゃないかな。……って、まさかさっきの『人前』って、萩屋か!? うわぁ……だとしたらこいつらすげぇ残酷。こんなふたりじゃ引き下がるしかないじゃんよ。なんて思ってたら。
「えいっ」
「てっ! なにしやがんだおまえ!」
へ? って思ったら、高原が手の甲押さえてる。どうやら、つねられたらしい。あんなラブラブムードだったのに……さすがだ……絶対敵に回したくない……。
「ふふふ〜ん、隙ありっ」
「……今夜憶えてろよ……」
ぼそっと言ってたけど、聞こえたぞ高原っ! しかも相手真っ赤! っつーことはなんだ、要するにそこまでがっつり進んじゃってるってことか……いや、それっぽいことは聞いてたけどさ、さっきだって『やってることは恋人同士と同じ』って言ってたし。だけど、あらためて考えると……うわぁー、学内一のお嬢が穢されたぁ……しかも高原に……なんだか大ショック。いや、本気だってことはわかるし相当大事にしてるんだろうけどな。しっかし、これだけの美人なんだから、わざわざ高原なんぞ選ばなくても良さそうなもんなのに。はぁ……。いや、似合ってるのは認めるけど。あぁ……男の夢が崩れていく……。
「おまえら仲いいなぁ……」
呆れて俺は呟いた。すると。
「まぁ、そうだな。気が合うし」
「いつも一緒にいますしね」
だって。しかも同時に。
……ごちそーさーん……。
「しっかし、あの高原がねえ……変わったもんだ」
「え? そんなにですか? 確かに私といるときってただの変なひとですけど、研究に関わることは真面目で冷静だし……」
「……『ただの変なひと』……!」
俺は愕然としたね。だってあの高原だぜ? いつも冷静で喧嘩売られた時でさえ落ち着いて対処する、あの高原が!? まぁぶち切れたら相手の思う壺だし、より怒らせるためってのはわかるんだけど、それどころじゃなく変わんないの。感情がないわけじゃないんだよ。むしろ結構起伏が激しいほうかもしれない。だけど絶対そういう時には表に出さなくてさ。それに、ここまで無防備な姿は見たことなかった。
「変で悪かったな……誰の責任だと思ってるんだよ」
「え? だから私でしょ? 責任だって取ってるじゃない」
「足りない」
「充分よっ! 必要量オーバーしまくってるわよ! ひとのこと芯まで搾りつくさなきゃ気がすまないくせにっ!」
「……ちっ」
って、なに搾りつくしてやがんだ高原ーっ! つまりアレですか、あっちのことですか……それしかないよなあ。はぁ……やっぱり高原って手が早い……。
「あぁでも、市谷さんも思ったよりはっきりしたひとだったんだね……」
「私は元からズバズバ言うほうなんですよ」
「……そ、そうなの?」
「お嬢お嬢って言われますけど、普通ですよ、うちの家って。躾は厳しくされましたけど、もともとは商人の家ですから、歴史は長いけど旧家って雰囲気じゃありませんし。だから、あまり気になさらないで下さい。むしろ、そういうこと、気にされないほうが私はいいんです」
「へえ……」
やっぱあれか、なまじ噂になりやすい家の上に見た目がいいから、憶測ばかりが飛び交ってるんだろうな。実物はこんなもんってことなんだろう。だからって、この子の頭の良さも美人さも変わらないけどさ。
「だから親しくないひとには無駄に丁寧にしてますけどね。なにかっていうと、色々言われちゃいますから」
って、出逢った当初から手のうちバラしていいんだろうか。などと余計な心配をしてしまうな、これは。雰囲気は近寄りがたいのに、なんでこんなに気さくなんだろう。
「俺はいいの?」
「昂貴のお友達なんでしょう? 信頼できないひとにわざわざ紹介するような彼じゃありませんから。それに、信頼できないひととつきあえるひとでもないし」
うっわ、すごいな……信頼の塊。いや、俺への高原の信頼じゃないぞ。彼女の高原に対する信頼が、だ。
「風澄、それ、俺が恥ずかしいぞ」
「いいの。昂貴が言えないこと言ってあげてるんだから感謝してよね? でも今度は自分で言わなきゃだめよ」
「言うべきことは言ってるからいいんだよ」
「言うべきことだけ言っていればいいってものじゃないでしょう?」
おぉ、至言だ。さすがに高原、なにも言えないでやんの。本当にすごい子なんだな。俺は思わず笑い出した。いや、俺は高原の気持ちくらいわかってるつもりだけどさ。これでも、長いつきあいの友人だからな。
だけど、それでもこんな高原は見たことなかったんだ。でも、今の高原のほうが、今までの高原よりずっといいと思う。
俺は心の中で、早く気づいてくっつけよ、と呟いた。高原も市谷さんも、今まで知ってた顔より、今のほうがずっといい。
願わくは、あのふたりが、いつまでも一緒に笑っていられますように。
しかし数日後、俺はひとつのことに気づいた。
あいつが俺に彼女を紹介したのは、惚気る相手が欲しかったからだってことに。
……市谷さーん、こんな奴振っちまえー!
First Section - Chapter 6 The End.
2005.06.11.Sat.
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