唯一のもの、唯一のひと

07.痕跡


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「少々、お時間を戴けますか?」
 私はそう切り出して、萩屋さんを誘い出した。
 行き先はもちろん、研究棟の、あの部屋。
 鍵をゆっくりと出す。それすらも、牽制の意味を込めて。
「……どうして、この部屋の鍵を……」
「私のです。合鍵、もらいましたから」
「……っ」
 図書館や、自習室は埋まっている場合も多いけれど、ここなら資料もあるし、いつでも勉強しに来れるからという理由で、昂貴はかなり前にくれた。他の大学はどうだか知らないけど、うちの大学はさすがに普段から勉強している人が多い(もちろん、そういうひとばかりではないのだけれど)。もらったのは、この部屋で初めてした、昂貴と会って一週間目のあの日。マンションのはもらってない。そういうのは私たちの趣味じゃないし、立場としても、できない。だけど、次に会えるのはいつか、どこでかを決めて別れるから、今のところあまり問題はない。お互い授業も少ないし、もう夏休みだから、お互いの部屋に入り浸っているし。そもそも、この鍵を使ったのも今日が初めて。だって、渡されたその日がその日だったし……使ったら、まるで誘ってるみたいじゃないの。
「……なにか問題でも? この部屋では、不都合でしょうか」
「ないわよ! さっさと済ませましょう。ちょうど私もあなたに聞きたいことがあったから」
「そうですか……それじゃあ、ちょうどいいですね」
 ……喧嘩の舞台が整ったってところかしら。
 あーぁ、それにしても、私ってつくづくお嬢さまらしくないわね。
 なにしろうちの家族って、普段は結構ズバズバ言い合うのに、外に出るとすごくきちんとしてるのよね。礼儀礼節を重んじるということは人間として間違ってはいないし、処世術としてはいいんだろうけど、猫かぶりーなんて言われちゃっても、否定できないかも。
 もともと、そんなに硬い家じゃないし、『大事なのは、必要な時に必要な形で対応できるかどうかだ』っていう考えだし。それに、ほら、変に丁寧だと、馬鹿にしているみたいに思われちゃうことって、あるでしょう? むしろ、そういう、時と場合を踏まえた、機に臨んだ対応が大事よね。あと、特に、母親がね……実家がすごく旧くて厳しい家だった反動なのか、うちの兄弟はかなり自由に育てられたの。
 だからね、私って、たぶん全然お嬢さまらしくないと思うのよね。でも、最近はそんな家が多いのよ? 旧家なんかは別だろうけど。あっ、成金なんて言わないでよね、うちだって歴史は長いんだから。ただ、家の性質がどうも旧家風とは違うというか、そういうのに馴染めないのよねえ。なんたって、元を辿れば商人なんだもの。そりゃあ母親は、名だたる旧家の出身なんだけど。まぁ、一般的な知名度は低いから、知るひとぞ知る、という程度だけどね。それに、勘当同然で家を出てるから、私なんて、母方の親戚に会ったことがないどころか、どんな人が居るのかさえ、まるで知らないんだもの。母自身、長いこと市谷グループに関わって、第一線で活躍してきたんだから、市谷の家風に染まってるし、ね。
 それにしても普通、お嬢さまって、あんなこと言われたからってあんなふうに意趣返ししたりしないし、こんなふうにリベンジマッチを挑んだりも、しないわよね……。
 あぁ……大人げない。なにもできないお嬢さまになりたくなくて頑張ってきたけど、そもそも『お嬢さまになる』なんて、私には無理だったんじゃないかしら。
 でもいいのよね、これで。
 そういう私がいいと言ってくれるひとがいるから、迷わない。

 ドアを閉めれば、そこは防音完備の密室。
 手前にあるデスクに寄りかかって、彼女と向き合う。
 女の戦い、という言葉が頭に浮かんだ。
 あのひとを巡る決して退けない戦闘。
 そういえば、宗哉の彼女とこんなふうに対峙したことはなかった。

 どちらにしても、結果は同じか。
 このひとに勝とうが負けようが、選ぶのは私たちじゃないから。
 私は無意味なことをしているのかもしれない。
 だけど、負けたくなかった。このひとにだけは。

 つくづく、皮肉なものだ……と思う。
 過去の彼氏が、そして、昂貴の同期が――
 私の中の、彼を求める心を気づかせた、なんて。

 ああして、杉野君が何も言ってこなかったら。
 そして、萩屋さんが何も言ってこなかったら。
 きっと今も、気づかなかっただろうと思う。

 私は、昂貴を失っても、平気なんだろうか?
 この腕を離しても、良いんだろうか?
 ――その答えなら、もう、とっくに出てる。

 ところで、私は怒鳴るタイプじゃない。ましてや手を出すタイプでもない。
 だけど喧嘩は先手必勝と知ってる。
 怒ったほうの負け。
 だから私は迷わず、あらゆる選択肢の中で、一番強烈かつ効果的だと思える行動を選んだ。
「なっ……」
 つまり、ブラウスのボタンを全部外して……あぁ、くるみボタンだから外しにくいなぁ。昂貴、今夜ちぎらないでよね? 気に入ってるんだから。……ええと、そうじゃなくて……その場に脱ぎ捨てた。……気に入ってるんだけどね、『演出』というやつよ。
 そして私は、髪の毛をかきあげて、静かに口を開いた。
「何の痕か……わかりますよね?」
「っ……!」
「……全部、彼がつけてくれたものです」
 首筋から胸の谷間を通って、腰まで一筋の線を指で描く。上半身を覆うのは、お気に入りの、ピンクに白の花柄の刺繍が入った下着だけ。そこにあったデスクに座って――実は前に昂貴と激しく抱き合ったあのデスク――、脚を組んで、しどけなく身体を傾けた。女性だからいいわよね、昂貴? このひとに私がどう映っているか知らないけど、昂貴が、絶え間なく褒めてくれた身体。何度も彼に抱かれた身体。
 見せつけてやるわ、二度とこんなこと言う気にならないように。
 私から彼を奪おうとする女は許さない、決して。
 ――どんな手を使っても叩きのめしてみせるわ!
「これは昨夜。こっちは一昨日。……これはその前……」
 いちいち憶えていられるほど、身体に残る痕は少なくない。痕の濃淡を見て適当に指し示して言っているだけなのだけど、相手にはわかるはずがないし、これも効果の一貫よね。あぁでも、左の胸には、毎回きつくつけられてる。心臓の、いちばん近く。
「……背中にも、見えていないところにもたくさんありますけど、まだご覧になります?」
「っ、結構よ! この……淫乱女っ!」
 杉野君と同じパターンじゃない。芸がないわねぇ……。
 自分の言葉なんか、ないんだ。
 なぁんだ……こんなひと、昂貴が心を向けるわけない。欠片だって。
 その厳しさを私はよく知ってる。甘やかす腕と、甘やかさない心。逃げるのを許さない、まっすぐな姿勢。だからこそ、彼はいつも胸を張って堂々と生きているのだから。
「淫乱? そうですね、私は淫乱かもしれませんね……昂貴の腕の中でだけですけど」
 名前で呼んだの、わかってる?
「あのひとに狂わされたんです。毎晩抱かれて、そのたびに頭がおかしくなるほどの快楽を与えられて……淫乱にされてしまったんです」
「認めるの? つくづく、恥知らずな人ね。女の風上にも置けやしない……!」
 性的なことをひけらかされたら、即座に淫乱になるんだろうか。
 自分だって、そういう行為に臨んだ経験くらいあるくせに、口に出さなければ貞淑で、口に出したら淫乱なの?
 自分だって、そういう行為を経て生まれてきたのに、淫らで無いと言うの?
 生殖を目的とした行為なら赦されて、快楽を追求するのは赦されないの?
 それとも、子供が居る人は、みんな淫乱になるの?
 どうして、性的なことは、いつもネガティヴなんだろう。ネガティヴでなければならないんだろう? 私だって、そういう話をするのは、とても恥ずかしいのだけれど、話すことが可能だということが、どれほど貴重な関係か……そして、話せなかったし、話す気にもならなかった、過去の恋人との関係が、どれほど薄っぺらいものだったか……今はわかる。
 私がそんなことを口にしたら、あまりのことに驚くか、冗談だと思って笑うか、幻滅するかだと思う。でも、彼は、そういうフィルターを通さない。同じところに、一緒に並んで居てくれる。驚くどころか、むしろ淫らなことを口にしろと言うし、どういう気持ちか私に尋ねたり、自分で言ったりもする。……まぁ、それはそれで、困ることもあるのだけれど。
 彼に出逢ってから、私はひとつの疑問を抱くようになった。
 女が、性行為を共有する相手に対してであっても、性的なことを口にするのが憚られるという風潮は……性行為を行う関係でありながら、そのことについて話し合えないのは、どこかおかしいんじゃないか、って。
 私も、誰に対してもあけすけに言うのは、どうかと思う。それは、常識や良識、恥じらいであって、人間として、備えるべきものだ。
 でも、そういう相手に対しては……。
 だって、何の隔たりも無く、全てを委ねて抱き合う相手なのに。
 こんなに特別なことをする相手なのに、そのひとと、そのことについて話せないなんて。
 そんなのは、おかしいんじゃないだろうか……?
 世の中に無数の人が居るように、無数の関係が在るのは、至極あたりまえのことだと思う。だから、性的なことを、きちんと話せる関係でいなければならないなんて言う気は全く無い。でも……私は、話せることが大事だと思う。話せなかったことを、変だと思う。
 だから――これは、あくまで、私にとっては、の話だけど――性行為について話せる関係というのは、私にとって、重要で、大切なことなんだ。きっと。
「……あなたがそう思うのは、それが、どれほど幸せなことか、ご存知ないからでしょう?」
「な、んですって……?」
「あなた、男の腕の中で淫乱になる悦びも知らないんですね? ……淫乱にしてもらうことも、できなかったんですよね……」
 昂貴が言ってくれた、その言葉を変えて。
 『抱いている女を淫乱にできなかった男』
 『男に抱かれても淫乱にしてもらえなかった女』
 そうやって、言い返す。
 知らないでしょう、昂貴の言葉よ?
 あなたの好きな男が、私に言った言葉よ?

 ――我ながら、酷いことを言っていると思う。
 このひとの気持ちを知っていて、それを逆手に取って、牽制しているのだから。
 だけど……ここで手を緩めては、だめなんだ。決して、退いてはならない。ここで怖気づいたら、これまでの私と同じだから。
 相手の想いを尊重するためだと言い訳して、自分の気持ちに気づかないふりをして、そのくせ、心の中では、相手が自分に歩み寄ってきてくれることを、期待してる。
 そんなのは、卑怯だ。そういう行動に出るのは、きっと、自分に自信がないから。愛される価値などないと思っているから。当たって砕ける勇気さえ無いから。自分の想いを吐露するのを、恥だと思いこんでいるから。
 私は、ひとりの人間として、そして女として、みっともないことはしたくない。いつだって、誇り高く在りたい。私が敬意を抱くひとたちに尊敬され、大切なひとたちに尊重され得る、そんな人間でありたいと思う。
 でも、本当はみっともないところだって幾らでもあるのに、そんな自分を押し隠して、どうなるんだろう。そのことに、何の意味があると言うんだろう。それで、もし、私が誰かに恋して、誰かに愛される日が来ても……それは、私じゃないのに。
 だから……そんなことでは、だめだ。
 そんなことでは、だめなんだ。
 いつまでも、このままでいたくないと思うなら、動かなければ。
 考えるだけの日々はもう要らない。
 三年間、考え続けて、泣いて悩んで、ここまで来たのだから。
 もう一度あんなことを繰り返すなんて、決して自分に赦さない。
 どんなことだって、いつまでも、考えてばかりでは進まない。
 ここから進みたいなら、私は、この一歩を踏み出さなければならないんだ。
「あなたたちっ、つきあってないって……!」
「そう思えるんですか、これをご覧になっても? まぁ、別に良いですけど、どうでも」
 つきあっているかどうか、そんなことが関係あるのかしら、この場合? 確かに、つきあっていないのは事実だけど、お互いの存在の重要さがそれで変わるわけじゃないもの。
 肩書きがどうだって、彼が抱くのは私だけ。私が抱かれるのも、彼だけ。
 どんな卑怯な手段だって、使ってみせる。彼を失わずにいられるなら。
 そして冷たく、言い放つ。昂貴に会って更にコツをつかんだかもしれない。
「あなたがどう解釈しようと構いません。お好きどうぞ? 事実は変わりませんから」
 ……そう、これが、私がいつも言っていることの裏側の、本音。
 事実は決して変わらない。
 だから、私は曲がらない。何も知らないひとの言葉なんかで!
「っ……だいたい、それが高原のつけた痕だなんて証拠はないわ!」
「まだ疑うんですか? まぁ、思い込むのは個人の自由ですよね……事実は一切、変わりませんけどね?」
 くすくす笑って、私は続ける。
「昂貴がどれだけ私を熱く抱いてくれるか、わかります? 夜ごと、どれほど激しく、どんな甘い言葉を優しく囁いてくれるのか……教えて差し上げましょうか?」
 正確には、甘い言葉というより、えっちな言葉なんだけど。
 しかも言われるだけでなく、言わされるんだけど。
 まぁ、多少事実を誇張しつつ捩じ曲げていることは認めるけれど、そんなこと彼女にはわからないだろうし、喧嘩の手法として、これくらいなら、許されるわよね。
「……っ……!」
 口唇を噛み締める彼女など意に介さぬという調子を装いつつ、もう充分に見せつけたと思ったところで、私は、デスクから降りてブラウスを拾い上げた。背中の痕も、見えたわよね? はらって、軽く羽織るだけにする。ボタンは留めなくていいわよね、どれほど効果があるかなんてわからないけど、ちょうどいいもの。
 そして、デスクに寄りかかって、私は聞いた。
 最後の手段に取っておいた、一言を。
「ああ、そうそう……あなた、イタリア語を学んでらっしゃるのよね?」
「……ええ、そうよ。それが何なの?」
 必死で冷静を保とうとしているのだろう。低い声で、彼女は答えた。
「じゃあ、お聞きしたいんだけれど……『ティアーモ』って、どういう意味かご存知? 彼に言われたんだけれど……私わからなくって」
 わからないのは本当だった。知りたかったけれど、辞書で引いてもわからなくて、そのまま頭の引き出しにしまいこんでいたあの言葉。意味はわからなかったけれど、あの甘い響きに、きっとなにか大事なことを私に囁いてくれてるんだって気づいたの。でも、その意味は、自分で探さなきゃ駄目なんだって。だからこそ、反応が見てみたくて。
「…………!」
 彼女は、心底驚いたようだった。
「そんな……そんな……そんな……」
 そればかり、繰り返していた。
「どういう意味か、教えてくださる? 私、まだイタリア語は三ヶ月ちょっとしか勉強していないものだから、知らないのよ……ほら、なにしろ勉強しなくたって進級も卒業もできる、積む金だけはたくさんある家らしいから?」
 また意地悪そうに、くすくすと笑って、そう続ける。単位なんか、それこそ売るほど取ってるんだけどね。成績だってAの羅列だし。だいたい、お金でそんなことする家じゃないし。まぁ、そういうふうに誤解されてるであろうことは事実だもの。……って、誤解を助長してどうするのかしらね、私ったら。こういうことを自分で言っちゃうから、余計に変な目で見られちゃうんだろうなぁ。別にどうでもいいけど。自分の目で確かめもせずに、勝手なレッテル貼るような人に興味はないもの。彼女はもう半狂乱。
 そして私は、『市谷の娘』のペルソナを、そっとはずした。
 表の自分には今はもう用がない……叩きのめすだけ。
「そうそう、それから、他にも言われたわ。なんだったかしら……あぁそう、全文は確かこうだった――"Ti amo. Ti voglio bene. Amore mio, Kasumi."」
「……!」
 だいたい、発音は正確だったと思う。憶えている限りでだったけど。
 昨夜、その最中に、前に聞いた台詞に続けて言われた言葉。わからなくていいから憶えておけと。いつかその意味に気づいて欲しいと言うかのように。
 今の私では、わからない。
 でも、彼女にはわかる。わかっているんだ。きっと。
 それなら、私にもいつか、わかる日が来るかもしれない。
 この学問を学び、この言語を学んでいれば、必ず。
「ねぇ……どういう意味なの? 知っているんでしょう?」
 この反応は……やっぱり、特別な言葉なんだろうか。もしかしたら、とんでもなく下品なことだったりして……ううう、ありえる……。まぁ、それでも一向に構わないけど。下品なほうがあからさまでいいかしらね、なーんて考えるようになっている時点で、私はすっかり昂貴に影響されてしまっているかもしれない。全然嫌じゃないけれど。でもそれだったらますます淫乱って言われちゃうかな。まぁいいわ、この際どうでも。誰にどう思われたって構わないもの。昂貴さえ、私のことをわかっていてくれれば。
「教えてくれない?」
 私のほうが背は高いから目線は見下ろしてるんだけど、上目遣いをするような気分で、首を傾げて。
「まぁ……だいたい予想はついているんだけど……」
 これは、状況とか口調とかを判断材料に推測したことでしかないんだけど。
「……だって、あんな甘い声で囁かれたら、ねぇ……」
 その笑いは微笑みなんかじゃなく……勝ち誇った笑み。
「意味なんか、知らなくたって……わかるもの」
 ……まぁ、本当のところは正直わからないけどね。
 今のところ、手がかりは発音だけだし、そこから考えられる綴りに一番近い言葉は、こともあろうに、ビタミンB1だったし。これじゃあ、どうしたって、特別な言葉どころか、えっちな言葉にさえならない。……たぶん。
 俗語。方言。比喩。可能性だけなら、幾らでもあるし。
 調べても、私には、わからなかったけれど。
 でも、別にいいのよ、私がわからなくたって。
 今は、このひとが諦めてくれればいいんだもの。
 私はどんどん好戦的な気分になっていた。もともと、実は喧嘩っぱやいのよね。性格改善する代わりに、戦略と戦術を憶えたんだけど。
「あんたなんかに!」
 突然、彼女は叫んだ。我慢の糸が切れたかのように。
「あんたなんかに私の気持ちはわからないわよ! そんな、顔もスタイルも誰にもひけをとらないほど良くて、家も、学歴も、なにもかも恵まれててっ! なんだって手に入るでしょう!? そんな……あのひとなんかじゃなくたって、もっといいひとだって、男なんか幾らでもいるじゃないのっ! ずっと……ずっと見てたのに……!」
「…………」
 私は、今までに何度か、こんなふうに言われたことがある。
 はっきりと口にされなくても、心のどこかでそう思われてるって感じたときもあった。
 あなたはいいでしょう。大丈夫でしょう。なにもしなくたって。そう言って。
 ……だけど、なにもわかっていない。そう言ったひとはみんな。

 私が、あなたのことをわからないように、あなただって、私のことをわかってなんかいない。
 なのにどうして、こんな言葉を吐けるのだろう。

 昂貴だけ。
 昂貴だけが、私の苦しみを感じて……抱きしめて、癒してくれる。
 同じ人間なんかじゃない。同じ生まれでもない。
 でも……理解しようと、努めてくれる。

 ……私、本当に欲しいひとって誰も手に入れられなかったのにね。
 叶わなかったことが、無数にあるのに。
 ひとには、そうは見えないんだ。
 真実は見えているところだけじゃないのに。

 私が欲しかったのは、容姿でも、家柄でも、学歴でもなんでもない。
 ただ、唯一のひとだけが欲しかった。
 私が想うひとに、想われたかった。

 そして、なにがあっても譲れない、ただひとりの存在――
 それは。

「だけどこの世界に高原昂貴はたったひとりしかいないでしょう」
「……っ……」
「私が欲しいのは、彼なの」
 すぅ、と息を吸って、間を開ける。それさえも、昂貴仕込みの直伝だ。
「……昂貴しか、いらないの」
 そのとき。
 自分で自分の言葉を聞いて、
 牽制でしかないはずの言葉を聞いて、
 私はようやく――
 長いこと自分の中に渦巻いていた感情の、本当の理由に気づいた。

 もう、心の中の一番大切な場所から、宗哉が消えつつあったこと。
 そして、そこに新しく棲みはじめたひとの存在に――。
Line
To be continued.
2005.05.04.Wed.
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