唯一のもの、唯一のひと

06.独占欲


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 テレビドアホンとでも言うのだろうか、マンションの玄関先から送られてきた彼の映像は、画面越しでもわかるほど、滅多に見たことがない、怖いくらいの厳しい表情だった。
 でも……ここへ、帰ってきてくれた。
 そんな嬉しい気持ちの一方、私は彼を不機嫌にさせるようなことをしただろうかと不安になったのだけれど、私が出た途端、一気にいつもの優しい顔と声に変わって。
 それから、いつものように紅茶を淹れて、話を聞いて……私は心の中で呟いた。

 ――予想通り……か。
 他にないよね、だってあのひとの目、本気だったもの。
 先生。宗哉。そして、自分自分がそうだったから、わかる。嫌というほど。

「だけど本当に俺には迷惑でしかないよ。だいたい、俺は風澄以外とつ……っ、する気は全くないし」
「……うん、わかってる」
 昂貴が言い間違いって、珍しいな。なんか、言いかけたような気もするけど。
 彼の言葉は前にも聞いたことで、もう知っていることだったんだけど……でも、わかっていても、言ってもらえなかったら不安になったと思う。きっと。
 不安になったって、そう簡単には相手の気持ちを聞くことなんてできないもの。
 恋人同士ならいざ知らず、こんな関係では……。
 お互いに好意を抱いていることは明らかでも、一緒に居ることがあたりまえであっても、それが何かを決めるわけじゃない。
 ……だって、周りの皆から恋人同士と認識されていた宗哉だって、実際は、私のことなんか、なんとも思ってなかったんだから……。
「でも、無理……しないでね。昂貴の……そういうの、縛っちゃいけないと思うし……」
 ……あ、いけない。
 そう思ってるのも本当なのに、なんだか、上手く言えない。
 だって、そんなことになったらって思ったら……
 でも、私に口を出す権利なんて全くないんだし……。
 それに、自分の中にある、あの感情を認めたくなかった。
 なにを考えてるんだろう? なにを期待してるの?
 そんな自分がすごく嫌で。
 だけど、平気なふりをしようとする自分も、やっぱり好きじゃない。
 素直になれない、私。

 ……こんな時、あの子だったら、どうするんだろう。
 宗哉の選んだ女性。
 きっと、私とは全く違う。萩屋さんとも異なる、思いもよらないような反応。
 素直で、可愛い感じで、小柄で。
 身長なんか私より10cmどころか15cmは小さくて。
 本当に男性に好かれるのは、私じゃなくて、ああいう子。
 私とは、まるで共通点がない。
 あの子でも、こんな気持ちになったこと、あるのかな。
 私に、嫉妬した? ……まさかね。
「……なに言ってんだおまえ?」
 あぁもう、こんなこと言いたくないのに。聞き返さないでよ。
「だから……あのひとと、昂貴が」
「馬鹿!」
「……っ……、馬鹿ってなによ……そんな、大声出さなくても」
「出したくもなるっつーの! おまえ、自分がなにを言ってるのかわかってんのかよ? だいたい、そんな声を出させてるのはおまえだろ。わかんなきゃもう一度言うぞ馬鹿っ!」
「なっ……」
 私は本気で驚いた。だって昂貴がそんな、直接的な罵倒をするなんて。
 初めて逢った時だって、皮肉交じりの言葉は吐いても、馬鹿とかそういう言い方はしなかったのに。『悲劇のヒロインを気取る馬鹿』とは言われたけど、あれは例えのようなものだったし……。
「だってそうだろ。何度言ったらわかるんだよ、おまえは。俺はおまえと一緒にいたいんだ。おまえとしたいんだ。おまえ以外となんかしたくないんだ。いい加減、それぐらいわかってくれよ。……怒鳴って、悪かったな」
「う、うん……あ、はい……」
「わかればよろしい。二度と言うなよ?」
「……うん……」
 こんなふうに言ってもらえるなんて思わなかったな。私としかしないとか、私とするのが気持ちいいとかは言ってくれてたけど、ここまで言い切ってくれるなんて。
 怒鳴られたばかりなのに、なんだか、どきどきするような……。
 それは、嬉しいからなんだろうか。
 でも、それじゃあ、誰かを否定されたことで喜んでいるみたいじゃない……。
 酷いよね、そんなの。人として。別に、綺麗な人間を装う気はないし、実際、そんな人間じゃないけど……でも、偽善と、卑劣を嫌うことは違うと思いたい。
 だけどたぶん、心のどこかで嬉しいと思っているのは本当で……。
 そんな自分は、やっぱり好きにはなれない。それがあたりまえの感情だとしても。
 どういう感想を抱いたら、赦せる自分になれるんだろう。でも、きっと、そんなことを考えている時点で、赦せる自分になんか、なれっこない……。
「あ、それともなにか? 嫉妬? 否定して欲しくて言ったとか? あんなやつじゃできません、風澄じゃなきゃーって?」
「っ……なっ……」
「……その反応は図星だな?」
「だって!」
 ううう……こんなふうに言いあてられたら、言わずにはいられないわよ。
「だって……綺麗なひとだったし」
「はぁ!? どこが!?」
「どこがって……昂貴それ女の子にちょっと酷いよ? しかも告白してきたひとに」
 女の子っていうと変か。私よりずっと年上なんだし。そうか……昂貴と同い年なんだものね、あのひと。大人の女性、なんだ……。
 敵わないんだろうな。昂貴に敵わないのと同じで。研究とか成果とか、できることの全てが、きっと足元にも及ばない。
 年齢もキャリアも全く違うんだから、それはしかたのないことかもしれないけど……こんな時、もどかしくなる。焦るつもりはないのに、焦ってはいけないとわかっているのに、彼に追いつきたくて、でも追いつけなくて、彷徨う自分がいる。
 まるで、いつまでも、子供のままのような。
「あぁ、そうか……だけど本当にサッパリわからない。あいつのどこが?」
「だって……顔は整ってるし、すごく細くて、スタイル良かったし……」
「……風澄、おまえねえ」
「なによ?」
「鏡に自分映して見てみろよ。それとも、したことないのかよ?」
「そんなわけないでしょ? あっ……やあっ、なにするの!?」
 私は無理矢理、寝室に連れて行かれた。まさか……今からするの? いきなり? 違うよね? と思ったら、ベッドサイドの姿見の前に立たされて。
「ほら見てみろよ。おまえのほうがずっと綺麗じゃないか」
「え……?」
 鏡の中には、とっくに見慣れた自分と……昂貴。鏡に一緒に映ってるなんて、なんだか不思議。あ、一緒にお風呂に入ったときに、同じようなことがあった気がする。でも、あんな状況じゃじっくり見ることもできなかったし……直視できるわけないし。
「この明るくてふわりとしたさらさらの髪も、透き通るような白い肌も……」
 後ろから抱きしめて、ひとつひとつ、指し示すように私に触れて。
「理知的な眉も、ひとを寄せ付けない目も、長くて多い睫毛も、かたちのいい鼻も、柔らかい口唇も、細い顎も、感度のいい耳も……」
「あ……っ」
「しなやかな首も、細いのに起伏に富んだ長い手足も、触り心地のいい肌も、美しい曲線を描く身体もみんな……」
「っ……ん……」
「なにもかもおまえのほうが美しくて、較べるのが馬鹿馬鹿しくなるほど優れているのに」
 う、わ……。
 美しい、なんて。
 私たちは、美術作品を研究しているだけあって、綺麗だとか、美しいという言葉をよく使う。物にも言葉にも、そして人にも。その言葉を発するのに、それほどの躊躇はない。たぶん、そういう言葉を口にすることは一般のひとよりずっと多いと思う。
 だけど……こんなのはなかった。全てを賛美するように捧げられた言葉。
 恥ずかしいのに、逃げ出したくなる気持ちもあるのに、なのに、どこか……心地いい。
 挫けそうな気持ちも、どこかへ行ってしまいそう。
 たった一言で。
「どうして自信を持たないんだよ? 褒められたことだって何度もあるだろ?」
「…………、だけど」
 背後から抱きしめる腕に、私の腕を絡ませて、わずかな途惑いを口にする。
 昔のことであろうと、今も私に重く圧し掛かる過去は、思い出すたび、鮮やかに蘇る。
 そしてまた私の足は止まる。あの頃に、ふたたび捕らわれてしまう。
「ん?」
「私は……好きな人に好かれたことはないんだもの……」
 私が、自信を喪失するには、充分だった。
 その事実だけで。
 何を言われても、その事実が脳裏をよぎるから。
「……ごめん、悪い……」
 昂貴は、そこで声を落として、謝った。
「ううん……いいの、本当のことだから」
「風澄っ!」
 そう言うやいなや、彼はいきなり声を立てた。耳元で。
「っ、なに? なんでそんな今日は怒鳴ってばかり……」
「冗談でも、そんなこと言うな。本気なら余計に言うな。そうやって、おまえはすぐ自分を傷つけて……その繰り返し。そんなんでいいと思ってんのかよ?」
「……っ……」
「そんなふうに、自分で自分を貶めちゃだめだ。言っただろ?」
「あ……」
 『自分自身を否定するな。
  ……自分で自分を見捨てたり、貶めたりなんてことは、決してするべきじゃない。
  自分のためにそう思えないなら、風澄の側にいる人間のために、そう思えばいい。
  風澄の好きな人間が好きな風澄を、否定するな。
  それでも、駄目なら……俺のために、風澄を否定しないで欲しい。決して』
 ――そうだ。
 彼が、言ってくれたのに。
 あんなに嬉しかった言葉を、忘れてしまうなんて。
「そうだね、そうだよね……だめだね、私」
「だめじゃない。今、憶えて、忘れなければいいんだよ。俺はおまえに自分を傷つけて欲しくないんだ。おまえに……幸せに、なって欲しいから……」
「……うん……ありがとう」
 なれるかな、いつか。
 私にも、そんな日が来るんだろうか。
 先生や、宗哉に、来たみたいに。
 いつか、唯一のひとを選ぶ、そんな日が……。
「だいたい。俺はおまえの外見が良いから一緒にいるわけでも、セックスの相性が良いから一緒にいるわけでもない」
「え?」
「一緒にいて楽しいから、一緒にいたいんだ。それだけだ、他に理由なんかない」
「……うん……ありがとう」
 そう、か……そう、なんだ。
 なんか、ちょっと、今まで……不安に思ってたこと、平気になったかもしれない。
 この関係がなんであってもいい。そう思っていても、いいかな。
 大事なのは、この関係がどうだとか、そういうことじゃなくて。
 自分の気持ちも、彼の気持ちもわからないけど、一緒にいたい。
 お互いに、そう思っているって。そう考えていてもいい?
「だから、もっと自分に自信持てよ。少なくとも、俺と一緒にいることには」
「……うん」
「俺のこと、おまえは独占していいんだから……独占していて欲しいんだから」
「……うん……」
 私はそこで、ひとつ思いついて、昂貴に提案した。
「じゃあ……ねえ、私も昂貴みたいにしていい?」
「は?」
「杉野君のとき、昂貴は決着つけに行ってくれたでしょう? 私もそうしたいの。だって、あんなふうに言われて、やっぱり黙っていられないわよ。それに、ちゃんと話してみたいの」
「……なんで?」
「だって、私は昂貴を独り占めしてるのに……」
「だからなに? 俺がそうされていたいって言ってるんだぜ?」
 うわ……立て続けに言われると、やっぱりちょっと照れちゃうな。
 でも、それを嬉しいって思っていい?
「うん、だけどね……立ち向かってみたいの」
 だって、昔、私がしたような思いを、させることになるんだもの。
 想いが伝わらないこと、それがどんなに辛いか知ってる。
 でも、大事なものを譲り渡すまいとする、その強さは……私は知らない。
 ただ怯えていただけ。
 戦う覚悟もなにもなかった。
 ……だけど、今は違う。
 私は、あの目に立ち向かうことができるだろうか。
 なにに代えても、たったひとりを求める、あの目に――。
「だから、私が昂貴を独り占めしていいなら……ね?」
「あぁ……そうだな、俺も、風澄に独り占めされていたい」
 独り占めされていたいって。
 独占欲って、普通は嫌なもののはずなのにね。不思議。このひとはそれを素直に主張して、自分もそうしろと言ってくれる。そして私もそうありたいと思う。
 だから、これでいいのよね?
 間違ってても、歪んでても、一緒にいて。
「だけど、本当にいいのか? 今度こそ、学校中の噂になるかもしれないぜ?」
「え?」
「あの『市谷の娘』が、って……そんなふうに考える奴はごまんといると思う。俺は別に人の口の端に上ろうが一向に構わないけど、もし、おまえや、おまえの家に迷惑でもかかったら……」
「まさか、私なんて後を継ぐ人間でもないし、まして企業には一切関わっていないもの。昂貴が心配してるようなことは起こらないわよ。
 それにね、うちの家は結構理解があるから。昔こそ旧態依然とした家だったようだけど、祖父の代からだいぶ方針が変わってきててね、今はかなり自由になってるもの。『市谷の娘』なんてね、周りのひとが思うほど、大変な立場じゃないのよ。……まぁ、できるだけ心配はさせたくないと思ってるけど、ね」
「だけど、少なくとも学校には広まるかもしれない。俺は卒業しちまうけど、おまえはこの先、五年間もこの学校で勉強するんだぜ?」
「……あ……そう、か……」
 大学院。
 同期の人数は圧倒的に少なくても、同じ学校の、同じキャンパス。
 決して合わないというわけではないけれど、同じ専攻の同期には、特別親しい友達は居ない。と言うことは、そんな噂くらい、訂正する者も異議を唱える者もなく広まるであろうことは、想像に難くない。
「うん、でも……それでもいい」
「え?」
「昂貴とだったら、いいよ。どんな噂が立っても。……離れるほうが、嫌だもの」
「風澄……」
 天秤にかけられているのは、どちらにしたって不確定な未来。
 それなら、私を受け容れてくれる存在を選びたい。
 全てを委ねられる腕の、持ち主を。
「それに、やるんだったら、私は徹底的にやるもの。相手に、そんな噂を広める気が起こらなくなるくらいに、ね」
「さすがだな……天下の負けず嫌い?」
「なにそれ、失礼ねぇ」
「褒めてるんだよ。……やっぱ風澄は、そうでなくちゃな」
 そう……負けたりしないわ、こんなことに。
 私だって、少しは強くなったんだから。
 いつまでも過去のことを引きずって泣いてばかりじゃない。
 どんなに辛いことも悲しいことも、いつかは自分の糧になる。
 そんな私を認めてくれる人がいるから、迷わない。

 『そんなふうに逃げてるうちに、他の女に取られちゃうかもよ? ――前みたいに』
 ……そうだね、最華。
 自分に言い訳している時間があったら、私は動かなきゃいけない。
 迷うのも、考えるのも、それからでいい。
 この腕をなくしたくないと思う、その気持ちは本当なのだから。
 だから――私は逃げない。
 彼は渡さない。

「……協力、してくれる?」
「わかったよ。だけど交換条件な?」
「なに?」
「その日は俺も後からその場所に行く。風澄もそうだったんだからいいだろ?」
「ん、了解」
「それから、あともうひとつ」
「なに?」
「したい」
 昂貴は、スッパリとそう言った。
 その言い方があんまりストレートだったから、思わず私は笑ってしまった。
 だけど。
「うん……私もしたい。しよ?」

 * * * * *

 軽い言葉とくちづけで始まった行為は……
 まだ日の高いうちから、ふたたび太陽がその姿をあらわすまで、続いた。
 本能の赴くままに。

 唾液も汗も、混じり。
 遮るものなど要らない。
 言葉では足りない。
 視線。吐息。肌。
 この身で語る全て。

 私を酔わせ、蕩けさせる、その熱い腕……。

 ……負けはしない。
 この腕を独占していたいなら、私は戦わなければならないんだわ。
 この腕を独占しているためなら、私はなんでもする。
 どんな手を使っても。

 そして……私はこの耳で確かに聞いた。
 あの日、初めて耳にした言葉。
 間違いなんかじゃない。

 Ti amo.
 Ti voglio bene.
 Amore mio, Kasumi...

 ――甘く密やかな、その言葉を。
Line
To be continued.
2005.04.29.Fri.
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