唯一のもの、唯一のひと
05.ペルソナ
* Kasumi *
机の上には、自分の和書と、彼に借りた山積みの洋書。大学の図書館から借りてきた本。遠くの大学から取り寄せた、資料のコピー。英和、和英、伊和、和伊辞典。それから愛用のノートパソコンとレポート用紙。三時間ほど前に淹れたミルクティー。
いつもなら、文字を書き連ねているか、パソコンのキーボードを叩いているはずなのに。
シャープペンシルは放置したまま。
画面はスクリーンセイバーに占められていて、そろそろスリープになってもおかしくない。
そして、目の前には、開きっぱなしの、あの絵のページ。
発表まで、あと二週間ちょっと。
院の入試まで、あと六週間ちょっと。
なのに、頭に入ってこない。何も。
自信があったはずの集中力は、まるで能力を発揮してくれない。
こんなこと、初めてだった。
あの絵が目の前にあるのに、私の心が遠くにあるなんて。
いつだって、嫌でも視線が向いてしまっていたのに。
違う。初めてじゃない。こんなことは前にもあった。
彼に二度目に抱かれた日。
いつの間にか、見えなくなってた。この絵が。
あの頃はまだ思いもしなかった。こんな日々を過ごすことになるなんて。
あれから、一ヶ月くらいしか経っていないのに。
一緒に居ることに慣れすぎて、一人で居るのがどんどん苦手になっていく。
……それとも、落ち着かないのは、彼が大学に行ったからだろうか。
これがもう少し前のことだったら、私はなんとも思わなかっただろう。
大学以外の場所なら、もう少し気持ちは楽だったかもしれない。
彼を見送った時、咽喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
『ねぇ……、あのひとに会うかもしれないのに、それでも行っちゃうの?』
言葉には出さなかったけれど、きっと、行動には出てた。
いつもの、見送る時の軽いくちづけでは心許なくて……。
……初めて彼の部屋に泊まった次の朝は、額にされただけで驚いていたのに。
だからって、一緒に行くこともできなくて。
結局、自分の部屋でぼんやりとしているだけ。
昂貴は、会ったのかな。
――萩屋さん、に。
* * * * *
その女性に会ったのは、つい最近。
だから、記憶に新しいのは当然。
だけど、たとえどんなに古い記憶でも、忘れることはできないかもしれない。
あの目を知ってる。昔私が持っていた目線。
思い出すから、少し辛い。
そして、自分の中にわだかまっていた感情に、気づいてしまったから。
あの目線に、思い出させられてしまった。
いつからか感じ始めた、もやもやした気分の正体を。
認めるのは、少し躊躇ってしまうけど。
私は知っている。この感情の名前を。嫌になるほど。
だから否定できない。いかに自分の気持ちが醜い場所にあるか思い知らされ、それを認めたくないと思ったとしても。
その所為かな。気づいたら、売り言葉に買い言葉、で。
笑顔でかわすことくらい、それこそ十歳にもならない頃からできてたのに。
でも……思わず喧嘩を買ってしまった理由なら、知ってる。
心、狭いよね。
そんな権利ないのに。
わかってるんだけど。
――嫉妬……なんて。
* * * * *
私は、笑えると思ってた。
そんな日が来ても。
先生の時だって、宗哉の時だって、私は笑ってた。
ただひたすら、笑顔を作ってた。
この時が早く過ぎることを一心に願いながら。
どうしてと問うことも、泣き出すことも、その場から逃げることさえできずに、ただ……。
渦巻く嫉妬を抑えつけて、自分の本心に気づかないふりをした。
だから、素直になれない。
わかっていても、身についてしまった笑顔の仮面を剥がすことは難しくて。
無意識に平常を装おうとしてる。まるで染み付いた習慣のように。
心理学だったか、哲学だったか、もう忘れてしまったけれど……大学の講義で習った。
人は皆、ペルソナを被って生きていると。
ペルソナとは――仮面、人格、性格。
Persona(仮面)がPerson(人)の語源だというのは、実に皮肉だと思う。
つまり、人は、生まれながらにして『他人に見せる顔』を付けて生きているのだ。
言い得て妙だと感心した。
だって、私こそが、ペルソナを被って生きてきたのだから。
人生は仮面舞踏会(マスカレード)。仮面の波が現実を彩る。嘘と嘘が交じり合い、いつしか、本来の自分さえ仮面に隠れて見えなくなる。
――でも、そんな私の仮面をいとも簡単に剥がしてしまった人が居る。
ペルソナというものの定義を考えれば、そんな私も、ペルソナでしかないのかもしれない。
けれど……彼の前の私は、市谷の娘というペルソナとは違う。
有名私大生というペルソナとも違う。
慣れ親しんだ家族や、気心知れた友人に対しての私のペルソナとも違う。
彼しか知らないペルソナ。
それは、彼以外の人の前では決して存在しない、ペルソナ。
ものごとを円滑に進めるためにも、ペルソナは必要なもの。それはそうだろう。いちいち躓いたり言い争ったりしていても、ものごとは立ち行かない。
家族。親戚。友人。恋人。先輩後輩。先生。通りすがりの人にさえ、ペルソナは存在する。それは至極あたりまえのこと。
だけど私は知らなかった。
知っているようで、知らなかった。
こんな自分を。
――私はもう笑えないだろう。
彼が他の女の傍にいたら。
好きでもない人に縋るような自分になんか、もう二度となりたくなかったのに。
今の私は、過去の私と、どう違うんだろう。
私は昂貴を信頼してるし、たぶん彼も、私を信頼していてくれると思う。それは、過去には、決してありえなかった関係。
でも、それが、他の感情でないという証拠はどこにもない。
これが勘違いではないという確証もない。
例えば兄が私の知らない同級生と親しそうに喋っている時や、友達が別の人と親しそうに会話している時の、疎外感の混じった狭量な嫉妬心と、別だという保障はない。
だから不安になる。
もしまた間違えたら。
好きかどうかなんて、わからないよ……最華。
嘘発見器じゃなくて、恋愛感情発見器が開発されたら良いのに。
この感情の名前が簡単にわかったら、楽なのに……。
答えてくれるはずの心臓も、あてにはならない。
恋愛と、それ以外の感情の区別を明確につけられるひとなんて、居るんだろうか。
定義があるなら教えて欲しい。
少なくとも、私にはわからない。二度も本気で誰かに恋をしたことがあるくせに、自分の気持ちに気づいたのは終わってからのこと。
大切なものは失くして初めて気づく――
それは、言い換えれば、失くさなければわからなかったということ。
……だけど私はもうそんなふうに自覚したくない。
全てが終わってからわかるなんて、もう嫌だ。
気づきたい。気づけるなら。
でも、わからない。
どうしたらわかるのか、わからない。
ひとりになると、余計なことを考えてしまう。
彼が此処に居てくれたら、不安になんかならなくて済むのに……。
「…………」
携帯を見やっても、メールも着信もないことはわかってる。
アンテナは憎らしいほどばっちり三本立ってるから、取り寄せもできない。
なのにどうして見てしまうのだろう。
電話なんか、好きじゃないくせに。
……メール、送ってみようかな。
いつごろ帰るか聞いて。
夕食のメニューも考えてみたりして。
そんなのって、おかしくないかな。ない、よね?
邪推したり、勘繰ったり、疑ったりしてるって思われたり、しないよね?
……馬鹿みたい。
考えているのは、自分への言いわけばかり。
余計なこと考えないで、送っちゃえば良いのよ。
初めてメールするわけじゃないんだし。
「!」
私が、携帯を手にとろうとした瞬間。
聞き慣れた、玄関口からの呼び鈴が鳴り響いた。
私は椅子が倒れるのも構わず、即座にドアホンへと駆け寄った。
――彼だという保障など、どこにもなかったはずなのに。
机の上には、自分の和書と、彼に借りた山積みの洋書。大学の図書館から借りてきた本。遠くの大学から取り寄せた、資料のコピー。英和、和英、伊和、和伊辞典。それから愛用のノートパソコンとレポート用紙。三時間ほど前に淹れたミルクティー。
いつもなら、文字を書き連ねているか、パソコンのキーボードを叩いているはずなのに。
シャープペンシルは放置したまま。
画面はスクリーンセイバーに占められていて、そろそろスリープになってもおかしくない。
そして、目の前には、開きっぱなしの、あの絵のページ。
発表まで、あと二週間ちょっと。
院の入試まで、あと六週間ちょっと。
なのに、頭に入ってこない。何も。
自信があったはずの集中力は、まるで能力を発揮してくれない。
こんなこと、初めてだった。
あの絵が目の前にあるのに、私の心が遠くにあるなんて。
いつだって、嫌でも視線が向いてしまっていたのに。
違う。初めてじゃない。こんなことは前にもあった。
彼に二度目に抱かれた日。
いつの間にか、見えなくなってた。この絵が。
あの頃はまだ思いもしなかった。こんな日々を過ごすことになるなんて。
あれから、一ヶ月くらいしか経っていないのに。
一緒に居ることに慣れすぎて、一人で居るのがどんどん苦手になっていく。
……それとも、落ち着かないのは、彼が大学に行ったからだろうか。
これがもう少し前のことだったら、私はなんとも思わなかっただろう。
大学以外の場所なら、もう少し気持ちは楽だったかもしれない。
彼を見送った時、咽喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
『ねぇ……、あのひとに会うかもしれないのに、それでも行っちゃうの?』
言葉には出さなかったけれど、きっと、行動には出てた。
いつもの、見送る時の軽いくちづけでは心許なくて……。
……初めて彼の部屋に泊まった次の朝は、額にされただけで驚いていたのに。
だからって、一緒に行くこともできなくて。
結局、自分の部屋でぼんやりとしているだけ。
昂貴は、会ったのかな。
――萩屋さん、に。
* * * * *
その女性に会ったのは、つい最近。
だから、記憶に新しいのは当然。
だけど、たとえどんなに古い記憶でも、忘れることはできないかもしれない。
あの目を知ってる。昔私が持っていた目線。
思い出すから、少し辛い。
そして、自分の中にわだかまっていた感情に、気づいてしまったから。
あの目線に、思い出させられてしまった。
いつからか感じ始めた、もやもやした気分の正体を。
認めるのは、少し躊躇ってしまうけど。
私は知っている。この感情の名前を。嫌になるほど。
だから否定できない。いかに自分の気持ちが醜い場所にあるか思い知らされ、それを認めたくないと思ったとしても。
その所為かな。気づいたら、売り言葉に買い言葉、で。
笑顔でかわすことくらい、それこそ十歳にもならない頃からできてたのに。
でも……思わず喧嘩を買ってしまった理由なら、知ってる。
心、狭いよね。
そんな権利ないのに。
わかってるんだけど。
――嫉妬……なんて。
* * * * *
私は、笑えると思ってた。
そんな日が来ても。
先生の時だって、宗哉の時だって、私は笑ってた。
ただひたすら、笑顔を作ってた。
この時が早く過ぎることを一心に願いながら。
どうしてと問うことも、泣き出すことも、その場から逃げることさえできずに、ただ……。
渦巻く嫉妬を抑えつけて、自分の本心に気づかないふりをした。
だから、素直になれない。
わかっていても、身についてしまった笑顔の仮面を剥がすことは難しくて。
無意識に平常を装おうとしてる。まるで染み付いた習慣のように。
心理学だったか、哲学だったか、もう忘れてしまったけれど……大学の講義で習った。
人は皆、ペルソナを被って生きていると。
ペルソナとは――仮面、人格、性格。
Persona(仮面)がPerson(人)の語源だというのは、実に皮肉だと思う。
つまり、人は、生まれながらにして『他人に見せる顔』を付けて生きているのだ。
言い得て妙だと感心した。
だって、私こそが、ペルソナを被って生きてきたのだから。
人生は仮面舞踏会(マスカレード)。仮面の波が現実を彩る。嘘と嘘が交じり合い、いつしか、本来の自分さえ仮面に隠れて見えなくなる。
――でも、そんな私の仮面をいとも簡単に剥がしてしまった人が居る。
ペルソナというものの定義を考えれば、そんな私も、ペルソナでしかないのかもしれない。
けれど……彼の前の私は、市谷の娘というペルソナとは違う。
有名私大生というペルソナとも違う。
慣れ親しんだ家族や、気心知れた友人に対しての私のペルソナとも違う。
彼しか知らないペルソナ。
それは、彼以外の人の前では決して存在しない、ペルソナ。
ものごとを円滑に進めるためにも、ペルソナは必要なもの。それはそうだろう。いちいち躓いたり言い争ったりしていても、ものごとは立ち行かない。
家族。親戚。友人。恋人。先輩後輩。先生。通りすがりの人にさえ、ペルソナは存在する。それは至極あたりまえのこと。
だけど私は知らなかった。
知っているようで、知らなかった。
こんな自分を。
――私はもう笑えないだろう。
彼が他の女の傍にいたら。
好きでもない人に縋るような自分になんか、もう二度となりたくなかったのに。
今の私は、過去の私と、どう違うんだろう。
私は昂貴を信頼してるし、たぶん彼も、私を信頼していてくれると思う。それは、過去には、決してありえなかった関係。
でも、それが、他の感情でないという証拠はどこにもない。
これが勘違いではないという確証もない。
例えば兄が私の知らない同級生と親しそうに喋っている時や、友達が別の人と親しそうに会話している時の、疎外感の混じった狭量な嫉妬心と、別だという保障はない。
だから不安になる。
もしまた間違えたら。
好きかどうかなんて、わからないよ……最華。
嘘発見器じゃなくて、恋愛感情発見器が開発されたら良いのに。
この感情の名前が簡単にわかったら、楽なのに……。
答えてくれるはずの心臓も、あてにはならない。
恋愛と、それ以外の感情の区別を明確につけられるひとなんて、居るんだろうか。
定義があるなら教えて欲しい。
少なくとも、私にはわからない。二度も本気で誰かに恋をしたことがあるくせに、自分の気持ちに気づいたのは終わってからのこと。
大切なものは失くして初めて気づく――
それは、言い換えれば、失くさなければわからなかったということ。
……だけど私はもうそんなふうに自覚したくない。
全てが終わってからわかるなんて、もう嫌だ。
気づきたい。気づけるなら。
でも、わからない。
どうしたらわかるのか、わからない。
ひとりになると、余計なことを考えてしまう。
彼が此処に居てくれたら、不安になんかならなくて済むのに……。
「…………」
携帯を見やっても、メールも着信もないことはわかってる。
アンテナは憎らしいほどばっちり三本立ってるから、取り寄せもできない。
なのにどうして見てしまうのだろう。
電話なんか、好きじゃないくせに。
……メール、送ってみようかな。
いつごろ帰るか聞いて。
夕食のメニューも考えてみたりして。
そんなのって、おかしくないかな。ない、よね?
邪推したり、勘繰ったり、疑ったりしてるって思われたり、しないよね?
……馬鹿みたい。
考えているのは、自分への言いわけばかり。
余計なこと考えないで、送っちゃえば良いのよ。
初めてメールするわけじゃないんだし。
「!」
私が、携帯を手にとろうとした瞬間。
聞き慣れた、玄関口からの呼び鈴が鳴り響いた。
私は椅子が倒れるのも構わず、即座にドアホンへと駆け寄った。
――彼だという保障など、どこにもなかったはずなのに。
To be continued.
2005.04.21.Thu.
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