唯一のもの、唯一のひと

02.女


Line
* Kouki *
「んあ?」
 いかん、間抜けな声を発してしまった。せっかく風澄に褒められた声なんだから、ビシっとしないとな、ビスィっと。
 ……いや、そうじゃなくて。
 俺がそんな間抜けな声を発した原因は、目の前にいる女のせいなんだけど。
「違うの?」
 ここは大学院校舎のひと部屋。夏休みなんだが、河原塚教授が忙しいひとなので、秋の美学会で発表する学生の進度確認が今ごろになったのだ。と言っても、この時期になれば発表者の研究が進んでいるのは当然だし、院の最高学年ともなれば学会に行ったことは一度や二度ではないから、形ばかりだったんだが。ちなみに、発表者の募集はもう終わっていて、俺は参加が決定している。美術史学会ではないし、院生全員が参加するわけでもないけれど、開催地は東京だし、ほとんどが聞きに行くだろう。
 で、風澄も大学に来ると言っていたし、悪友の浅井も用事があるとかで帰っちまったし、そろそろ俺も出ようかと思ったところを同期に呼び止められたところ、なんだが。
 萩屋 穂理(はぎや みのり)。性別は女、年齢は今年二十七歳、すなわち俺と同い年。通称『喋る美術史辞典』。でなければ『喋る論文集』だろうか。……『歩く』でないところがミソ。同じ専攻の後期博士課程三年、つまり数少ない同期である。大学時代から指導教授も同じだし、知り合ってからかなり経つな。まぁ、萩屋の専門は河原塚教授と同じ分野だから、研究の接点はあんまりないけどな。
 そして、その研究を評価しているかと問われると、素直に頷けなかったりするが。
 簡単にその印象を挙げるならば、理論攻め、独創性欠如、辞書的、というところか。要するに、面白くないのだ。さすがに、興味深くないとまでは言わないが、資料的価値はあるが学究的価値には欠ける。結局のところ、自分の言葉では論じていない気がするし、オリジナリティも感じない。だけど知識は豊富だから、ケアレスミスや文章の間違いや解釈ミスやマイナーな資料だとかを教えてくれたり指摘してくれたりするので、失礼ながら『研究室に一人いると非常に便利な人間』だとこっそり思っていたりする。学生というよりは助手や秘書(うちの学部にはいないが)のような感じで。……実は、教授もそんなことを言ってたんだよな。『この項、どこかにおおもとの記述があったはずなんだけど、どれだっただろうか?』とか『あぁ、あの説を提唱したのは誰だったっけ、ど忘れしてしまったよ、もう年だろうかねえ。萩屋君がいないとこれだから……』とか。本人には言えないけど。
 ……いや、だから、そうじゃなくて。
「彼女、いないんだって? ここ何年も。聞いたよ、浅井に」
 さっきも言ったが浅井っつーのは浅井和之と言って同じ専攻の俺の友人。つぅか悪友。学部の時から語学クラスやら選択科目やら専攻やらゼミやら、何かと被ることが多かったし、一番親しくて一番コンスタントに会う奴といえばこいつかなって感じだ。気も合うしな。
 ってか浅井てめぇ言っただろーが! 俺には好きな女がいるんだっつーの! まぁ、それを言ったのはずっと前のことで、風澄ときちんと知り合った後、一度会う機会があった時に触りだけ話しはしたけど、こんな状況になってることは言ってないから仕方ないが。
 しかし、大昔、本命が出来たと俺が浅井に言った時の鳩が豆鉄砲食らったような顔は忘れまい。俺が女に本気になるのがそんなに意外なのかね……はぁ。いや、俺自身驚いたけどさ、あの頃は。
「…………まぁ、いないけどな」
「どうして? 昔は恋人が途切れることなんかなかったじゃない」
 えーっと。その、昔の罪状については懺悔するけど。
 女が絶えなかった割に執着なかったし。
 でも、俺以外を見るような奴は嫌だったから(なぜって、それじゃあつきあう意味はないだろう。それに、俺は浮気はしないからな……いや、本気もしたことはなかったけどな)、浮気されたらバッサリ切り捨てて。と言うか、真顔で『乗り換えれば?』の一言で終わり。『もう終わりにしない?』とか言われても同じ。
 だけど、考えてみると、それも俺のせいだったのかもしれないな。だって結局、居ても居なくても、どうでもよかったわけだから。風澄を好きになって、初めてわかった。こんな気持ち、一方通行だったらどんなに辛いだろう。つきあってたら余計に。隣にいる奴が、自分を好きどうかわからない。自分の気持ちばかり強くて、自分の気持ちに自分が押しつぶされるような毎日だったら。
 ……風澄は、ずっとそうだったんだよな。
 あんまりだよ……。今は俺がそれに近いけど、でも風澄にとって俺が大事な人間っていうのはわかってるから、って言うか風澄が言ってくれたから、俺はまだ平気だ。少なくとも、それで満足できなくなるまでは。
「今は違うんだよ。……だいたい、なんでそんなにいないいないって連呼するんだよ」
「だって、いないんでしょう?」
 頷くしかないよなあ、この状況じゃ。どうせいねーよ。ああ。
「……どうして作らないの?」
「別にどうでもいいだろ、そんなこと」
「いいじゃない、それぐらい教えてくれたって」
 ……なんでおまえにそんなこと教えにゃならんのだ。学部時代から現在まで、担当教授が一緒だっただけで、特に親しくもないのに。
 実を言うと、こいつは人間としても、そんなにいい奴だとは思わない。別に性格が悪いというわけじゃないけど(そもそも、俺自体が褒められた性格では無いので、性格の良し悪しにおいて、ひとのことは言えない)、考え方の立脚点が、根本からして合わない気がするんだよなぁ。なんつーかな、アレだな、『勉強ができる=知識がある=頭がいい』って思ってないか? と時々突っ込みたい衝動にかられるのだ。もちろん、萩屋は勉強はできるし知識豊富な人間ではある。が、うちの大学じゃ、勉強のできるやつなんてそれこそ腐るほどいるし、知識が豊富なやつも山ほど居るし、むしろ腹一杯だ。そもそも、勉強できないほうがおかしいって人間の巣窟だし。こういう時に、勉強ができる上に知識が豊富で頭のいい風澄がどんなに稀有な存在か、ひしひしと感じるな……いや、身びいきは重々承知の上なんだけどさ。
 そういえば、なんとなく風澄と気が合わなそうなタイプだなぁ。こいつは『金持ち=楽してる=努力してない』って解釈するんじゃないだろうか。そんな扱い受けたら風澄は態度だけは普通に言葉は必要以上に丁寧に、据わった目で話すだろうな……怖い。しかも、『見た目がいい=男に甘えて生きてる』だとか、『美人=頭カラッポ』とか……そんなことになったら俺はその場にいたくない。風澄が怖くて。いや、そんなこと面と向かって言われてたら、俺はそいつを怒るだろうけど、俺がいなきゃ反論できない風澄じゃないから、そばで見てるだけだろうけどな。……あ、推論だけで怒ってしまって失礼。
 いや、こいつも、それなりに見た目は整ってるんじゃないかと思うんだ。あくまで知的美人系という括りの中でだが。風澄も知的な雰囲気を漂わせてるんだけど、もっと華やかで鮮烈だ。花だったらこいつは野菊とか素朴で地味で落ち着いた感じで(いや、本人の性格は素朴で地味で落ち着いた感じとは言い難いが……)、風澄は薔薇とか百合とか、あでやかなのが似合う。色は濁りのない真っ赤や真っ白だろう。ついでに俺は華やかな女が好みだ。周りを圧するインパクト。実にいい。風澄と歩いていたとき、あれだけ視線を感じたもんな。それはそれで複雑ではあるが、誇らしいのも本心。たぶん日本の男は親しみやすい子のほうが好みって奴が大半なんだろうけど、俺は違うな。自分に絶大な自信があるからかもしれない。うーん、俺、嫌な奴かも。
 って、そんなことは置いておいてさ、なんつーか、なんなんだよ俺たちは。風澄といい俺といい、『興味のない異性に絡まれる相』でも出てるんだろうか。はぁ……勘弁してくれよ、まったく。しかもこんな、まだまだ不確定要素に埋められてる関係だっていうのにさ。いや、お互いに好意は抱いてる……と思う。少なくとも、周りの異性に目を向けたりはしていない。俺の場合はもともと向いていないが。
「誰だっていいんじゃなかったの? 作ればいいのに。すぐにできるわよきっと」
「作らない」
 正しくは『作れない』だけど。
「どうして?」
 はぁ……いい加減鬱陶しいし、言うか。
「好きな女がいるから」
 即答。今の俺はそれを明言することにひとかけらも躊躇しない。風澄と違って。……しくしく。さすがに、風澄の前では、ちょっと言えないけどな。ザックリ切り捨てるところは風澄と同じだ。そういうところは似てる。他人に自分の意思を譲らない。期待させない。
「……っ、誰?」
「おまえの知らない女」
 これはたぶん、違うだろう。風澄は有名人だからなあ……。知らない奴がいないとは言わないけど、あの美貌とスタイルで、あの家。しかも一族もろもろがここの学校で、小学校からの持ち上がり組みだし。存在を耳にしたことくらいはあるだろうな。まぁ、知り合いではないだろう、ということで。
「この学校のひと?」
「……まぁ、そうだな」
 院のひと? って聞かれたら否定できたんだが。ちっ。嘘でもつけば良いんだろうが、俺は嘘っつーのがどうも好きになれない。なんについてでも、誰に対してでも。嘘をついたらそれを隠すためにまた嘘をつかなきゃいけないだろ? そういうのが嫌でさ。だいたい面倒じゃないか。いつボロが出るかとビクビクするのも嫌だし。別に悪いことをしているわけじゃなし、言いたくないことは、明言しないでそれとなく話を逸らす。とにかく言わない。嘘はつかない。まぁ、できるだけ、だけどな。
「大学の子で、どうして私が知らない子がいるのよ? ずっと一緒だったのに」
「専攻とゼミが同じだっただけだろ。ずっとじゃない」
「そうだけど、でも、そんな子がいるなんて態度、全然取ってなかったじゃない」
 いや、ずっといたんだけどな。三年前から。まさかこの前初めてその子に存在を認識してもらいましたとは言えないし。……俺って悲しい奴かも……。
「そんな……彼女でもない子なんか」
「彼女じゃなくても、なんとも思われてなくても、俺はそいつが好きなんだよ」
「……嘘。嘘でしょ? だってあんな……」
「いい加減な男だったのにって? まぁ、否定はしないけどな」
 それなのに、なぜか女に告白されることも一度や二度じゃなかった。明らかに誘ってくる奴まで、後を絶たなかった。……やっぱり嫌な奴か、俺って。だけど、そいつらは、こんな俺のどこが良かったんだろうか。やっぱり、女は永遠の謎だ。
「違……そんなこと言いたいんじゃない。だって、いつも相手の子のこと、結局はどうでもいいっていうふうに扱ってたじゃない? 振っても引き摺らなくて、振られた時も全然動じないで、普段どおりで。それに、自分から言ったことなんて一度もないって……」
「まぁ、昔はな」
「その子は違うの?」
「ああ」
 うわー、心底驚いてるよ……。まぁ、昔のこと知ってる奴ならそう思うのもしかたないか。俺のそんな過去を風澄が知ったらどう思うだろう? やっぱ軽蔑されるかな……それは嫌だ。過去の素行に激しく後悔……だから見捨てないで下さい風澄さん。
「どうして? どこがいいの、その子の」
「そんなこと聞いてどうすんだよ……」
 なんかこれ、風澄が杉野琢磨に言われてたのと同じ台詞じゃないか? こんなパターンしかないのかよ、こういうときって。つまんねえなあ。
 あ、もし、風澄が聞く立場だったらどう言うんだろう。こんな、どこにでもあるような言い方をするだろうか? ……もしかして、同じように言ったことがあるのかもしれない。恋する人間は馬鹿になるっていうから。でも、風澄は言わない気もする。断られた時点で、自分じゃない、自分は要らないんだとわかるだろうから、『相手の彼女のどこがいいか』なんて、どうでもいいことだって思うだろう。……複雑。
「聞いてみたいの。知りたいの。あなたを変えたのってどんなひとなの? きっと、誰だって興味持つわよ」
「興味本位かよ……」
「それぐらい聞く権利あると思うけど?」
「ねぇよ」
「あるわよ。ここまで教えてくれたのにこれ以上駄目なんて酷いじゃない」
「フット・イン・ザ・ドア・テクニック? 知ってる奴にやっても無駄だろ」
「わかってて言ってるのよ。いいじゃない、それくらい」
 だが、俺はちょっとこいつを見直した。交渉法を心得ていないことはないんだな。ちなみに今のは、例えば最初から『五千円貸して』と言って貸してくれる奴は少ないけど、『三千円貸して』だったら承諾してくれる人はだいぶ増える、というのを利用して、三千円貸すことを承諾してくれたら、今度は『やっぱり五千円貸して』と言うのだ。すると、相手が断りにくくなって、結果的に五千円を手に出来る確立が高くなる、というもの。要するに、最初から大きなことを頼むと受け入れられ難いが、簡単なことから頼むと受け入れられやすくなる、というテクニックで、この段階を踏むだけで、五千円貸してしまう奴はかなり増えるらしい。大昔に習ったきりだから多少は違うかもしれないが、大まかに言うとこんなもんだろう。この場合は『教えよう』と思わせる、だから、ちょっと典型例からは遠いけれど。日本語で言うと段階的説得法だったか。実は逆のパターンの手法もある。まぁ、俺はそのへん勉強しちまったから騙されないし通用しないが。しかし、そろそろ解放して欲しいな。仕方がない、答えてやるか。……ある意味、引っ掛かってるのかもしれないな。どうせまた驚かれるだけなんだろうけど。
「どこがいいって、全部」
「全部!? なにそれ、そんなんじゃ全然わからない」
「わからなくていいんだよ。……だいたい、例えばどこって言えばいいんだよ」
「どこって、顔とか、スタイルとか、性格とか」
「顔? はっきり言って好みだな。つぅかあいつに会って初めて俺ってこういう顔が好みだったんだって気づいた。違うか、あいつだから好みなのかもしれないな。スタイルは抜群。そんじょそこらの芸能人やモデルなんざ較べ物にならない。どんな服も簡単に着こなすし、服に負けるなんてことは全くないな。でも、それを売りにしたことも全くない。性格も、自分の意見をいつも持ってるし。はっきりしてて意思が強いところも好きだな。頑固だけど。あと潔癖だな、曲がってることとか嫌いだし。勉強もできるし知識もあるし頭もいいし、好きじゃないところが見つからないね」
 言外に勉強ができると知識があると頭がいいとは全く違うのだと言っているあたり、俺も大概酷いかもしれないが。
「そんなに……」
「もうベタボレだから。俺も自分で信じられないけど。他人の入る余地なし」
「その子は……高原のこと、どう思ってるの?」
「…………」
 痛いところ突くな。
「さぁ?」
「言わないんだ、気持ち」
 言えねぇんだよ悪かったなぁ。俺だって言いたくなくて言ってないわけじゃないっつーの。いや、今の関係を壊すのが怖くて、風澄がまだあいつ引きずってるのもわかってて、言えないだけだから……言いたくないってことにもなるんだろうか。
「……好意は持ってくれてる。と思う」
 少なくとも、俺とするの良くて、俺以外とはしないって言ってくれたし。
「それだけ?」
「知らねぇよ。あいつが俺をどう思ってるのかなんて。俺が聞きたいくらいだ」
 まったく。あぁ、こういう時にこの関係が辛い……。
「ねぇ、その子……名前なんていうの?」
「なんでそんなことまでバラさなきゃいけないんだよ」
「いいじゃない。見たいの、知りたいの。いいでしょそれぐらい。駄目なら、その子通りがかった時に教えてくれるのでもいいから」
「駄ー目。却下」
「……そんなに大事なんだ、その子?」
「そう」
 だいたいこいつの言いたいことも予想がついてきたしな。悪いけど、はっきり言っておくに越したことはないだろう。それにしても、なんつうか俺って女運がいいのか悪いのかわかんねえなあ。風澄だけでいいんだっつーの。
「でも大学の子なんでしょう?」
 萩屋は、なぜか勝ち誇ったように、ふふ、と笑った。
「だから?」
「見つけてあげる。当ててみせるわ」
「はぁ……?」
「案外すぐわかるんじゃないかしら? だって、高原がそんなふうに言うほどの相手、一緒にいたら絶対わかるわよ」
 ……、構内で一緒にいたことなんて、ほとんどないんだが。
 一緒にいたら……どうなるんだろうな。やっぱり、わかっちまうんだろうな。少なくとも、俺の気持ちは。
 風澄の気持ちは、わかるんだろうか?
 俺じゃない奴だったら……?
 だけど、それが誤解でないとは言い切れないし。あれだよ、周囲に『仲の良いカップル』と認められている奴らに限って、たいして仲が良くなかったり、喧嘩が絶えなかったりするしな。まぁ、喧嘩するほど仲が良いという言葉もあるわけだが。
 そんなことを考えていたら、コンコン、とノックの音がした。院校舎とはいえただの教室なのに律儀だなぁ。一体誰だろう?
「失礼します。河原塚先生いらっしゃいま……あ」
 うわ。
 風澄!
 なんだなんだなんなんだこのタイミングはっ!
「こんにちは……」
 俺と萩屋とを何度か見やって、風澄は途惑いながらも挨拶をする。
「……あぁ……元気? どう、調子は」
 ううーん、やっぱり、『誰このひと? あなたなにしてるの?』って顔してる……のを、隠してる。でも、ちょっとこれは、バレてるかもしれない。萩屋にも。
「はい、おかげさまで、順調です」
 おお『オモテモード』だ。礼儀正しくて聡明な感じ。うーん、こういうのもいいねえ。
「……どなた?」
 『誰?』じゃないところは、自分が年上でデキる女だって所を知らしめたいからだろうか。などと俺は非常に失礼なことを考えた。いや、さっきの今で、いらついてるんだよな。だって風澄が目の前にいるのにイチャイチャベタベタできないなんて、なんて切ないんだ……。
「学部四年の市谷さん。同じ画家を扱っていて、院進学を目指してるってんで教授に紹介されたんだ」
「市谷です、初めまして。大学院の方ですか?」
「ええ。彼と同じ後期博士課程三年、萩屋穂理よ」
「はぎやみのりさん……苗字は、植物の『萩』に、野原の『野』ですか?」
「いいえ、『萩』はその字だけど、『や』は日本家屋の『屋』。名前は稲穂の『穂』に理科の『理』。……彼とは学部時代から教授も一緒で、親しくさせてもらってるわ」
 親しくなんぞしてねぇっつーの。なんだこの態度は。なんとなくむかついて俺はズバリと本当のことを言った。
「別に親しくもないけどな」
「あら、酷い。前に協力してあげたでしょ?」
「ちょっとはな。まぁ助かったけど」
 本当に、非っ常っにちょっとだ。そんなことで恩を着せたいのか? はぁ、器の小さい奴だなぁ……。俺が風澄にしてることと、俺が風澄にしてもらったことのほうがずっと多いし大きいぞ。勉強や研究に限っても。
「あなたの下の名前は? どんな字を書くの?」
「風澄です。苗字は『市町村』の『市』に『山谷』の『谷』で市谷、名前は『地水火風』の『風』に、『澄んだ空気』の『澄』で風澄と読みます」
「あら、イチタニって、一つの谷じゃないの?」
「ええ。よく、字だけだと、『イチガヤ』って読まれますけど」
「名前も、雨かんむりの霞とか、香り澄む、じゃないんだ。変わってるわね」
「よく言われます」
 俺も最初はそう思ったけど、知れば知るほどぴったり合った名前だと思う。こんな清浄で綺麗な空気を持った女、ほかにいない。火のように熱いものを持っているけど、それだけじゃないからな。火と言えば、『火澄(ほずみ)』は下の兄貴の名前だそうで、上の兄は『水澄(みずみ)』というらしい。聞くところによると、父親が『地洋(ちひろ)』で、母親が『眞澄(ますみ)』だったから、父親の『地洋』の『地』にちなんで、四大元素の『地水火風』と、母親の『澄』をあわせて名づけたんだそうだ。風澄が男だったら『かずみ』と名づける予定だったらしい。
 そういえば……『かずみ』でなく『かすみ』にしたのは母親の名前に似せたからだろうが、それなら、どうして兄貴二人は濁るんだろう。単に、そのほうが呼びやすいからだろうか? それに、普通、父親が長男で後継ぎなら、その子供は父親の名前を継ぐものなのではないだろうか。男児は父親から、女児は母親からというのであれば不思議はないけれど、いわゆる世襲制とは少々異なる制度を採っている家だということを差し引いても、男女ともに母親の名前をもらっているというのは、なかなか珍しい気がする。もちろん、理由としては双方から継いでいるわけだが、一見すると、揃いになった『澄』の字が目に付く。俺の家の場合は『貴』の字を姉の真貴乃、弟の侑貴ともに貰っているけれど、それは父方の高原家から伝わった字だ。それに、俺の場合、命名は父方と母方、双方の祖母によるものだが、母方にちなんではいない。
 ま、やっぱり風澄は『かすみ』だよな。それにしても、四人目ができたら『地澄』で『ちずみ』だったんだろうか。だったんだろうな。澄んだ大地って、どんなんだよって感じだけど。
 ……いや、だから、そうじゃなくて。
「でも……あら? 風に澄むで、市谷って……あなた」
 顎に手を当てて、首を傾げるポーズを取って、萩屋は続けた。
「あぁ、あなた、あの市谷の娘?」
「…………ええ、まぁ」
「へえ、だからかぁ。いいわねぇ、お金のあるおうちは、就職もせず好きなことやらせてもらえて。一生脛齧(すねかじ)りできるものねえ。しかも一生磨り減らない脛だし」
 うっわ。よりによって、同じ脛齧り人生送ってるこいつが言うかね。あー奨学金かなんか取ってるってことか? よく知らないけど。風澄だって家が余裕があるから取らないし認可されないだけで、家の状況によっては即座に認可されると思うが。しかも余裕で。なんたってあの頭脳とあの成績だし。
 ちなみに、院生は、特に文系の院生っつーのは意外と社会では肩身が狭い。『大学も出たくせに働かないで研究か、こんな不況の時代に、この親泣かせが』って視線を感じるんだよな……。うちの一族じゃ院を出てない奴のほうが珍しいんだよ。別に自慢するわけじゃないが。だいたい『自活する』ってことに異常に自尊心を持ってる奴って多いよなぁ。いや、働いて自分で生活を立ててるのは偉いと思うんだよ。でもそれなら、なんで俺らを馬鹿にするんだ? 他人に文句つけないと自分の自信を保てないのかよ? くだらない。結局自分に自信がないのをごまかしてるだけじゃないか。まぁ、俺も余裕と理解のある家に育ったから、その環境下に生まれたことは、ありがたいとは思うんだけど。
「それに、いいお家なんでしょ? 血筋も。いいわねぇ、恵まれてて。顔も綺麗だし、スタイルもいいものね。勉強なんかしなくても、そのへんの男に笑いかけるだけで暮らしていけるんじゃないの?」
「おい、萩屋!」
 ふざけんな。言っていいことと悪いことがある。
 風澄がそんな奴かよ? 本当に、まったくわかっちゃいない。萩屋も杉野も。彼女の痛みも悲しみも、それでもまっすぐ生きてきた強さも潔さもなにもかも知らないくせに。俺だって全部わかってるわけじゃないし、身びいきや買いかぶりかもしれないけど、少なくとも風澄がどれほど自分を甘やかさず、そして見捨てずに生きてきたのかはわかってる。
 本当にその生まれに驕っているのなら、風澄のようにはならない。
 風澄は恵まれている。それは事実だ。だけどそれだけが真実じゃない。
「萩屋さん」
 突如発された声。落ち着いた声だ。でも、だからこそ怖い……。
 風澄の矢のような反撃が始まるに違いない。
「士農工商ってご存知ですか?」
「……知らないわけがないでしょう。馬鹿にしてるのあなた?」
「いえ、とんでもない。ご存知なら、そのような表現はなさらないんじゃないかと思っただけなんです。失礼にあたりましたら非常に申し訳ないと思います」
 丁寧だ。非常に綺麗な敬語。でも、だからこそ怒ってるのがわかる。徹底的にやってやろうとしている。馬鹿丁寧に喋って相手を怒らせる――俺の常套手段だ。最初に会ったときに俺が吹っかけた喧嘩。あの一度でしっかり学んだらしい。理論で喋れる相手との喧嘩方法を。ちなみにこれはロジックというものを無視した人間にはあまり通用しないが、わけのわからないことをまくしたてればケムに巻けるのでそれなりに有用だ。
「失礼に決まってるでしょ。……なにが言いたいの?」
「市谷の家は商売人なんです」
「は?」
「もともと、生粋の商売好きだったんです。昔から好奇心旺盛な一族だったようで。それこそ記録に残っていないほど昔から商売で生計を立てていたと伝えられていると聞いたことがあります。今のグループも元は江戸時代に生まれたものが母体となっています」
「……で?」
「おわかりになりませんか? 市谷の家はもともと、江戸時代には四階級の末席に属していたんです」
「だから、なによ?」
「多分、萩屋さんのお家より階級的には劣った家だったでしょうね、江戸時代には」
「な……」
「ですから、我が家をそんな立派な家として扱う必要は全くないんです。確かに、聞いた話では母方に高い血筋のひとがいたそうですけど、そんなもの市谷の低俗な血で跡形もないほど薄れていますから」
 母親の家は非常にいい家ってことか。どんなひとなんだろう。風澄は基本的には父親似って言ってたけど、色素の薄いところは母親に似たって言ってた。どっちも、きっとものすごく綺麗なひとなんだろう。なにしろ、この風澄の親なんだから。二人の兄貴も容姿に恵まれてるんだろうなぁ。
「そもそも、市谷グループの共通の標語、ご存知ですか?」
「知るわけないでしょう、関係ないもの」
「『第一に、奉仕の心を持て。なによりも顧客を最優先とし、あらゆる要求に誠意をもって応えよ』ですよ? 客商売ですから、媚びてるんです消費者に。一族郎党。しかも、お金儲けが目的ですよ? こんな家のどこがいいお家なんでしょうね。もしよろしければ、交換して差し上げましょうか、家」
「っ、結構よっ!」
 まぁ、そうだろう。院、しかも博士に行くような勉強好きの人間って、奇妙に地位とか金に疎いところがあって、たいてい恵まれてるってのもあるんだけど、金銭至上主義的なものを嫌悪する傾向がある気がする。学問至上主義。あー別に俺はそうじゃないぞ。金のありがたみなら知ってるからな。客商売も嫌いじゃないし。
 それにしても、こういう反撃のしかたもあるのか。明らかに優れているものを卑下する方法。相手のほうが自分より社会的評価が低い場合、むしろ、相手ごと馬鹿にしてるってことだもんな。今回もそうだし。憶えておこう。
 ちなみに、この場合、工商とは町人一般のことで、『工』と『商』の間には差は無かったらしいし、経済状況によってはかなり羽振りが良かったらしいけど。たぶん風澄の先祖もそうして財を築いたんだろう。農工商をひとくくりにしていたという説もある。萩屋は知らなかったようだけど、この様子だと風澄は知ってて言ってるな……さすが。
「かわいそうね、そんなふうにしか言えないお家に生まれて!」
「家のことをどう評価されても私は構いませんから、ご自由にどうぞ?」
 あれだけ完膚なきまでに家をこきおろしておいて、評価は好きにしろって、これもまたすごいよな。激昂して、家のこと悪く言わないでくださいッとか私は自分を哀れんだことなんかありませんッとか言わないあたりが。しかも、小馬鹿にした顔をするでもなく、涼やかな声と表情で平然と言ってるし。
 好きなんだろうな、家が。今はもうそこを出て、一人で暮らしてはいるけれど。
 風澄を見ていればわかる。虐げられたり、馬鹿にされたり、愛されずに生きてきた人間は、ああいうふうにはならないから。他を圧する輝きだとか、あの自信だとか。風澄は悲しい想いをたくさんしているけど、自分の価値を見失わないように、自分のことを自分だけは見捨てないように、必死で努力してきたのを俺は知ってる。
「っ……そう。結局は、そうやって他人を馬鹿にして生きてるのね」
「萩屋。いい加減にしろ」
 俺はさすがに耐えられなくなって、声を出した。しかも、怒気をはらんだ、ものすごく低い声で。あれだな、喧嘩買ってる風澄を見守るつもりだったけど、風澄が怒り狂いながらもそれを表に出そうとしないところが切なくて、見ていられない。って言うか好きな女がこんな侮辱を受けていて平気でいられる男はいないだろう。だいたい、まったくの見当違いだ。
「高原……」
「市谷さん、河原塚先生に用があるんだよな? さっきまでここにいらしたけど、もう研究室に戻ったと思う。俺も用があるから一緒に行こう」
「あ……はい」
「それじゃ」
 萩屋にそれだけ言って、俺は出て行こうとした。
「ちょっと高原……ねえ」
「俺にはもうなにも言うことはないよ。じゃあ」
 感情のこもらない声で、俺はそう言った。
 もともとなんとも思ってないから、意識しなくても、そんな口調になった。
Line
To be continued.
2005.04.05.Tue.
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