唯一のもの、唯一のひと
01.惑う心
* Kasumi *
まだ、頬が赤い……。
私が、あのひとを――昂貴を、好き――?
そんなふうに考えたことはなかった。
だって、私が好きなのは宗哉で。
それがあたりまえだったから。
* * * * *
昂貴と知り合い、身体を重ねたあの日から、ずっと考えていた。
ふとした瞬間に、罪悪感と共に。
杉野君の一件で、気持ちは固まった。
――最華に言わなきゃ――
……軽蔑、されるかもしれない。
絶対、許されるはずがない、こんなの。
『何度同じことを繰り返せば気が済むのよ?』
『そんなことしていていいと思ってんの?』
『いい加減にしなさいよ、馬鹿じゃないの?』
頭の奥で、そんな言葉が聞こえていた。ずっと。
最華はいつも、自らの道を往く。
昂然と上げられた頭は、迷うことも躊躇うことも知らないかのよう。
その目線は惑うこと無く一筋に絞られ、口許には笑みさえ浮かべ、天を見据える。
彼に、少し似てるかもしれない。
昂貴も最華も、私がまっすぐだと言うけれど……私はそうは思えない。
時々、辛かった。私は彼の隣に居ていいんだろうかって。
後ろめたかった。自分のしてきたことが。
常識的にも倫理的にも、私は責められるようなことはしていない。
だけど……心は許さない。頭は責める。
昂貴の隣に在りたいと思えば思うほど、止まらなければ、戻らなければとも思う。
こんな関係をずるずると引きずっていてはいけない。
だけど還れない。
彼を知らなかった、あの頃には。
いくら最華でも、気づかなかっただろうと思う。
なにも言わずに、会うこともなく過ごしていれば。
だけど、それは嫌だった。
責められても、詰られても……言わなければならないと思ってた。
最華は、私の辛いときに、いつも黙って傍に居てくれたのだから……。
――そんな私に返ってきたのは、予想外の台詞だった。
* * * * *
わからない。
わからない。
わからない。
好きか、なんて。
もう二度と恋なんてしない。できない。そう思ってた。
暴走する想いも、壊れていく自分も、昨日のことみたいに憶えてる。
恋の喜びなんて、私は知らない。
ただ悲しい思い出が蘇るだけ。
自分への嫌悪感と恐怖感を憶えるだけ。
だから……私は恋をしてはいけない。
漠然と、そう理解した。
自衛手段の一環だったのかもしれない。
だって、今度失くしたら。
そうしたら、私は……。
だけど――心臓は鳴る。
身体は求める。
彼を。
たとえ、それが恋ではなかったとしても……。
こんなのはいやだ。
いやなのに。
どうして私は、あのひとから離れたくないと思うのだろう……?
* * * * *
「おかえり……っと!」
開いた扉を閉じもせず、迎えてくれたひとに抱きつく。
「……どうした? なにかあったか?」
優しく頭を撫でてくれる彼に、ただいまも言わないまま、ふるふると首を振って、抱きつく手を強める。
息を吸い込めば、もう慣れてしまった彼の香りが身体に染み渡る。
洗いざらしのシャツの清潔な香り。気分転換に軽く吹いたらしい愛用の香水。そして、ほんの少しの汗の匂い。
知ってる。みんな。
そのまま、自然と近づく口唇を、静かに受け容れた。
「ん……」
角度を変えて、何度か触れて。
ただ重ねるだけのキス。
「……ただいま」
「おかえり」
挨拶をする相手が居るということ。
自分の部屋ではない場所に帰るということ。
ひとりではないということ。
それは既にあたりまえの日常。
だけど、一ヶ月前には決して有り得なかった光景。
たった四週間。
まだ一月にも満たない、わずかな日々。
なのに……。
「ハニートースト、作ってくれるんだろ?」
「今すぐ? 中途半端な時間だけど……」
「ああ、昼飯食うの忘れちまって、腹減ってるんだよ」
「えぇっ、ダメでしょ食べなきゃ。かえって胃に悪いんだから」
「ひとりって、久々だったからさ。なんか、食いそびれた」
「あ……そっか」
前は、私もそうだった。
ひとりで居るのは好きなほうだった。
でも、ひとりで食事を摂るのは寂しくて。
こんなに寂しいことだなんて思わなくて。
体力維持。エネルギーの補給。
いつの間にか、食事の意味はそれだけになってた。昂貴に出逢うまで。
「ついでに、紅茶の練習の成果も、是非」
「……了解。着替えたら、すぐ作るね」
こんなふうに、部屋でのんびりする時は、昂貴の服を借りることが多いけれど。
彼の部屋には、既に着まわせる程度の数の衣類が置いてある。
長いこと愛用している基礎化粧品も、使い慣れてるメイク道具も。
シャンプーとコンディショナー、歯磨き粉が共用になって。
洗面台には、色違いの歯ブラシ。
――この一週間で増えた、彼の部屋の中の、私の物。
ぴったりとしたカットソーを脱ぎ、彼に借りたシャツに腕を通す。
長い袖をまくって、膝丈のスカートを脱いだら、ここに置いておくために最近買った薄手のデニムに履き替えて。
姿見で髪だけ整える。メイクを落とすのは後でもいいかな。
鏡の中の、見慣れた私。
彼の目には、どう映っているんだろうか。
最近感じ始めた、自分の中のモヤモヤした、正体のよくわからない感情。
……本当は、わかっていて、気づきたくないだけなのかもしれない。こんな気持ちをなんて言ったらいいのか、私はたぶん知ってる。だけど、考えれば考えるほど、それを素直に認めることが躊躇われて、否定の言葉ばかりが頭に浮かぶ。
今の私は、逃げたいだけなんじゃないだろうか。自分の心の底にある、認めたくない、考えたくないことから。見ないようにして、認めないふりをして――。
宗哉の時と、同じ。
『別に、否定し続けていたって構わないけど。だけど風澄は、このままでいて、いいの?』
――わからない。
恋愛なんかもうしたくない。だけどあのひとから離れたくない。
今の、友達でも恋人でもない関係は、とても楽。
未来に怯えることなく、ただ今だけを考えていればいいから。
だけどずっとこのままでいられないってことを知ってる。
私は、どうしたいんだろう。
私は、昂貴のなにになりたいんだろう――?
心臓が鼓動を打つ。
私の奥底に潜む、なにかを知らせるように。
その意味に、私は、うっすらと気づき始めていた。
まだ、頬が赤い……。
私が、あのひとを――昂貴を、好き――?
そんなふうに考えたことはなかった。
だって、私が好きなのは宗哉で。
それがあたりまえだったから。
* * * * *
昂貴と知り合い、身体を重ねたあの日から、ずっと考えていた。
ふとした瞬間に、罪悪感と共に。
杉野君の一件で、気持ちは固まった。
――最華に言わなきゃ――
……軽蔑、されるかもしれない。
絶対、許されるはずがない、こんなの。
『何度同じことを繰り返せば気が済むのよ?』
『そんなことしていていいと思ってんの?』
『いい加減にしなさいよ、馬鹿じゃないの?』
頭の奥で、そんな言葉が聞こえていた。ずっと。
最華はいつも、自らの道を往く。
昂然と上げられた頭は、迷うことも躊躇うことも知らないかのよう。
その目線は惑うこと無く一筋に絞られ、口許には笑みさえ浮かべ、天を見据える。
彼に、少し似てるかもしれない。
昂貴も最華も、私がまっすぐだと言うけれど……私はそうは思えない。
時々、辛かった。私は彼の隣に居ていいんだろうかって。
後ろめたかった。自分のしてきたことが。
常識的にも倫理的にも、私は責められるようなことはしていない。
だけど……心は許さない。頭は責める。
昂貴の隣に在りたいと思えば思うほど、止まらなければ、戻らなければとも思う。
こんな関係をずるずると引きずっていてはいけない。
だけど還れない。
彼を知らなかった、あの頃には。
いくら最華でも、気づかなかっただろうと思う。
なにも言わずに、会うこともなく過ごしていれば。
だけど、それは嫌だった。
責められても、詰られても……言わなければならないと思ってた。
最華は、私の辛いときに、いつも黙って傍に居てくれたのだから……。
――そんな私に返ってきたのは、予想外の台詞だった。
* * * * *
わからない。
わからない。
わからない。
好きか、なんて。
もう二度と恋なんてしない。できない。そう思ってた。
暴走する想いも、壊れていく自分も、昨日のことみたいに憶えてる。
恋の喜びなんて、私は知らない。
ただ悲しい思い出が蘇るだけ。
自分への嫌悪感と恐怖感を憶えるだけ。
だから……私は恋をしてはいけない。
漠然と、そう理解した。
自衛手段の一環だったのかもしれない。
だって、今度失くしたら。
そうしたら、私は……。
だけど――心臓は鳴る。
身体は求める。
彼を。
たとえ、それが恋ではなかったとしても……。
こんなのはいやだ。
いやなのに。
どうして私は、あのひとから離れたくないと思うのだろう……?
* * * * *
「おかえり……っと!」
開いた扉を閉じもせず、迎えてくれたひとに抱きつく。
「……どうした? なにかあったか?」
優しく頭を撫でてくれる彼に、ただいまも言わないまま、ふるふると首を振って、抱きつく手を強める。
息を吸い込めば、もう慣れてしまった彼の香りが身体に染み渡る。
洗いざらしのシャツの清潔な香り。気分転換に軽く吹いたらしい愛用の香水。そして、ほんの少しの汗の匂い。
知ってる。みんな。
そのまま、自然と近づく口唇を、静かに受け容れた。
「ん……」
角度を変えて、何度か触れて。
ただ重ねるだけのキス。
「……ただいま」
「おかえり」
挨拶をする相手が居るということ。
自分の部屋ではない場所に帰るということ。
ひとりではないということ。
それは既にあたりまえの日常。
だけど、一ヶ月前には決して有り得なかった光景。
たった四週間。
まだ一月にも満たない、わずかな日々。
なのに……。
「ハニートースト、作ってくれるんだろ?」
「今すぐ? 中途半端な時間だけど……」
「ああ、昼飯食うの忘れちまって、腹減ってるんだよ」
「えぇっ、ダメでしょ食べなきゃ。かえって胃に悪いんだから」
「ひとりって、久々だったからさ。なんか、食いそびれた」
「あ……そっか」
前は、私もそうだった。
ひとりで居るのは好きなほうだった。
でも、ひとりで食事を摂るのは寂しくて。
こんなに寂しいことだなんて思わなくて。
体力維持。エネルギーの補給。
いつの間にか、食事の意味はそれだけになってた。昂貴に出逢うまで。
「ついでに、紅茶の練習の成果も、是非」
「……了解。着替えたら、すぐ作るね」
こんなふうに、部屋でのんびりする時は、昂貴の服を借りることが多いけれど。
彼の部屋には、既に着まわせる程度の数の衣類が置いてある。
長いこと愛用している基礎化粧品も、使い慣れてるメイク道具も。
シャンプーとコンディショナー、歯磨き粉が共用になって。
洗面台には、色違いの歯ブラシ。
――この一週間で増えた、彼の部屋の中の、私の物。
ぴったりとしたカットソーを脱ぎ、彼に借りたシャツに腕を通す。
長い袖をまくって、膝丈のスカートを脱いだら、ここに置いておくために最近買った薄手のデニムに履き替えて。
姿見で髪だけ整える。メイクを落とすのは後でもいいかな。
鏡の中の、見慣れた私。
彼の目には、どう映っているんだろうか。
最近感じ始めた、自分の中のモヤモヤした、正体のよくわからない感情。
……本当は、わかっていて、気づきたくないだけなのかもしれない。こんな気持ちをなんて言ったらいいのか、私はたぶん知ってる。だけど、考えれば考えるほど、それを素直に認めることが躊躇われて、否定の言葉ばかりが頭に浮かぶ。
今の私は、逃げたいだけなんじゃないだろうか。自分の心の底にある、認めたくない、考えたくないことから。見ないようにして、認めないふりをして――。
宗哉の時と、同じ。
『別に、否定し続けていたって構わないけど。だけど風澄は、このままでいて、いいの?』
――わからない。
恋愛なんかもうしたくない。だけどあのひとから離れたくない。
今の、友達でも恋人でもない関係は、とても楽。
未来に怯えることなく、ただ今だけを考えていればいいから。
だけどずっとこのままでいられないってことを知ってる。
私は、どうしたいんだろう。
私は、昂貴のなにになりたいんだろう――?
心臓が鼓動を打つ。
私の奥底に潜む、なにかを知らせるように。
その意味に、私は、うっすらと気づき始めていた。
To be continued.
2005.03.30.Wed.
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