その腕の中の楽園(エデン)

10.Annex -What is the best method of forgetting old love?-


Line
* Saika Tachibana *
 単に、驚いた、と言うよりは――
 寝耳に水と言ったほうが、より如実な表現だと思う。

 ……ちなみに『寝耳に水』の『水』は、元々は洪水のことを指していたんだけど、今はどうでもいい話よね。

 * * * * *

 夏休みに入ったことだし、久しぶりに会わないか――という内容の風澄からのメールを受け取ったのが、昨日のこと。
 八月の最初の週末だった。
 いつものように都心の駅の改札を出たところで待ち合わせて、今は目的地の一つ前の駅を出たところ。
 時々、大学構内でばったり会うこともあったし、メールは時々交換していたけど、こうしてきちんと約束をして外で逢うのは久しぶりだった。学部は同じだけど、学科も専攻もまるで違うし、そもそも、私はこの前まで就職活動をしていたし。で、私のほうが一段落したかと思うと、今度は風澄が中間発表やら大学院入試やらで忙しくなったから、なかなか逢う機会を作ることもできなかった、というわけ。
 そんなことを考えているうちに、電車はホームに入っていった。
 降り立ったのは、都心のひときわ大きな駅。
 風澄とはここで会うことが多い。なぜなら、お互いのお気に入りのお店があるから。木のぬくもりを感じさせる落ち着いた店内、五十種類近く取り揃えられた紅茶はイギリス直輸入で、当然ポットサービス。常時紅茶を淹れる資格かなにかを持っている人が居るらしい。添加物不使用のパンとケーキは自社工場からの直送。更に、パンが絶品。日替わりの天然酵母パンを始め、ライ麦パンやら胡桃パンやら、他にもベーグルやらなにやら、とにかく多種多様。小規模だしマイナーなんだけど、いつ行っても目新しくて楽しいので、見つけて以来ハマってる。ちなみに、最近の私と風澄のお気に入りメニューは、ベーグルサンドとハニートースト。どっちも非常に美味しいんだけど、非常に食べ難いのが玉に瑕なのよねえぇ……。
 そして、今日のランチはなんだろうなどと考えながら、どこにこんなにたくさんの人間が居たんだろうかと思うくらいに人間だらけの階段をややうんざりしながら降り、やっぱりどこにこんなにたくさんの人間が居たんだろうかと思うくらいに人間だらけの改札をだいぶうんざりしながら通る。……しつこくて悪かったわね。それぐらいすごい人ごみだってことなのよ。
 そこで、気を取り直して、まずは周囲を見渡した。ついたよ、というメールは既にもらっていたから。風澄は時間には非常に正確で、五分前には必ず来ている。しかもあの身長にあの容姿にあの髪にハイコントラストな服装と、文句なしに目立つので、結構見つけやすい(ただし、風澄にはその自覚は皆無)。今日もすぐ、見慣れた姿が目に入った。
 あれ? 風澄が携帯を手に持ってる。普段は携帯は鞄に入れて本を読んでるのに。しかも、画面に集中してる。珍しい……と思ったところで、ふと悪戯心が湧き、私はこっそり改札の目の前の柱の影に隠れて、様子を伺いながら自分の携帯を取り出して履歴を繰り、そして――通話ボタンを押した。
「ひゃっ……!」
 数秒後、風澄の携帯の先端が光りだした瞬間。
 風澄ちゃんは手の中の携帯を取り落とさんばかりにわたわたと慌ててくださいました。悪戯成功。良いものを見せてもらったわ。ふふふ。
「さーいーかーっ!」
 はっ、うっかり声を出して笑っていたらしい。気づいた風澄に睨まれちゃった……って、風澄、隣と向かい側に居る男性が、ぎょっとしてるわよ……そりゃあ、そんじょそこらではまずお目にかかれないほどの類い稀なる美少女に見惚れていたら、その子が突然挙動不審に陥った上に口唇を尖らせて怒ったーなんていう状況じゃ、誰でも驚くだろうけど。
「珍しく携帯なんか触ってるから、つい悪戯したくなっちゃってね〜」
「もおおぉ……ほんっとに懲りないんだから……」
 ちょっと柱の影に隠れるふりをしつつ、ごめんと言う代わりに、ひらひらと手を振って、悪戯おしまい。風澄は鞄に携帯をしまって、こちらに近づいてきた。人ごみをものともせず、赤い絨毯でもひいてあるのかと思うほどの優雅な足取りで(ちなみに、私は絨毯の上は歩きにくいと思うけど、やっぱり、今は関係ないわよね)。
「で……どうしたの?」
「え? どうしたのって、なに?」
「携帯。そんなに熱心にディスプレイ見てるところ、初めて見たから」
「そ、そう?」
「うん。だって風澄、家に携帯を置いてきちゃってても一日平気で過ごせるでしょ?」
 だいぶ前のことなんだけど、お互いに専攻の必修の授業があった日に、ちょっと用があって電話したことがあったの。でも、幾ら電話しても繋がらなくて、メールの返事も来なくて、仕方なく風澄の受けている授業の教室に行ったら、なんと……『あ、ごめん、家に置いてきちゃったみたい』って言われたのよ! 忘れたことも気づいてないのよ!? この時代に、年頃の若い娘がよ!? 信じられる?
「何年も前のことを持ち出さないでよぅ、あれからは気をつけるようにしてるし、一度もそんなことなかったでしょ? それに、ひとを機械音痴みたいに言わないでよ、単に、電話が好きじゃないだけだもん」
「違うでしょ、好きじゃないんじゃなくて、大・嫌・い! でしょ」
「……ううう、別に、そこまで徹底的に嫌いじゃないもん……」
 いや、五十歩百歩だと思うわ、私。
「だから、よっぽど大事なメールでも読んでたのかなーって思って」
「そんな、大事ってわけじゃ……ないんだけど……。……って、なんでいきなりそんな話になってるのよっ! 久しぶりの挨拶も言ってないじゃない!」
「だって今更じゃないのそんなの。せいぜい一ヶ月ぶりくらいでしょ?」
「確かにそうだけど……はぁ」
 やぁね、一体何年越しのつきあいだと思ってるのかしら、この子は。こんなことでいちいち頭を抱えていたら持たなくてよ、風澄ちゃん。
「じゃ、とりあえず……行く? お腹も空いたことだし」
「あれ? 風澄、朝ごはんは?」
「もちろん、食べてきたわよ」
「……って、何時に?」
「んー、九時半くらいかなあ」
「…………」
「さすがに、軽くだってば」
 ……こんなことでいちいち頭を抱えたりは、しませんけども。
 いつものことながら、燃費悪いわねえ。
 ちなみに、現在時刻は十一時です。ハイ。報告までに。

 * * * * *

「それにしても、ほんっと変わらないわねえ、最華……その悪戯好き……」
 目的のお店へと歩き出してしばらくした頃、風澄はそんなふうにぼやいた。
「毎度ひっかかる風澄も変わらないけどね」
「……ううう」
 風澄の燃費の悪さも全く変わってないけど、っていう反撃を考えたけど、面白いから絶対に変わらないで欲しいので言わない。大食いと言うほどではないんだけど、この身体のどこに入るのかっていうくらいには食べるから、ネタには事欠かないのよね、ふふふ。
「安心しなさい、相手は選んでるから!」
「自信満々に言うことじゃないでしょうがっ」
 確かに。
「だいたい、されるほうの身にもなってみなさいよ……はぁ……。なんだか私、最近こんなことされてばっかりな気がする……」
「って、誰にされてるの?」
「え……えぇっ!?」
 ひとりごちる彼女の台詞に、私以外にこの子をからかったり悪戯したりするなんて勇気と度胸のある無謀な人間が居るのかしらと思って(いや、私は友達だからいいのよっ!)、特になんとも思わずに聞いてみたんだけど……。
「っ……えぇと……ゼ、ゼミの先輩?」
「なんでクエスチョンマーク? しかもなんで先輩? 私たちは最高学年でしょうが。あ、もしかして、卒業生?」
「え、ええと……そんな感じ、かな……?」
「なんなのその曖昧な答えは……」
「最華こそ、なんでそのことばっかり聞くのよぅ!」
「だって、私以外に風澄にそんなことができる人に会ったことがないから、ちょっとお目にかかってみたいなーと思って」
「え……そ、そう?」
「そうよ。一年間つきあってた杉野だって風澄とじゃれてるの見たことないもん」
 と言った瞬間、風澄は盛大に咳き込んだ。
「……そ、そうだっけ?」
「そう。仲は良かったなぁと思うけど、友達の延長だった割には、そういう雰囲気がなかったもん。まぁ、今だから言うけど、あれは完璧に杉野の一方通行だったしねえ。あいつも悪い奴じゃ無いんだけどねー、『杉野の彼女』じゃ、風澄には役不足よねー」
 と言った瞬間、風澄は更に盛大に咳き込んだ……大丈夫?
 一瞬、『力不足』と『役不足』の用法を間違えたかと思ったわ。
「げほっげほんっ……って、なんで、いきなり、杉野君のことなんか……」
「あぁ、ついこの間、学校で会ったから思い出して」
 と言った瞬間、風澄はまたもや盛大に咳き込んだ……ねぇ、ほんとに大丈夫?
「……なにか言ってた? 私のこと」
「ううん、なにも。なんで? なんかあったの?」
「えぇと……あったような、なかったような……」
「まさか、またつきあうつもりなの? 本当に、決して悪い奴じゃないんだけどねえ。どっちかって言ったら良い奴なんだけどねえ。風澄の相手にはどうかなぁー」
「やだ、それは絶対ないわよ!」
「って、なんでそんなにキッパリ断言するのよ。あーぁ、杉野ってば、かーわいそー。足掛け十年越しの恋なのにーぃ」
 これ本当の話なのよ……中学一年から数えて、今年で十年目。一途と言ってやりたいところだけど、杉野じゃねえぇ。そういう意味では、風澄と似てるところもあったんだけど、お互いに求め合っているわけじゃなかったから……まぁ、別れるべくして別れた、って感じかな。あくまで、傍観者の意見だけどね。
「だ、だって……」
「だって何? まさか、彼氏ができましたーとか!? レッツ万歳三唱!?」
「なにがレッツよっ。えぇと……そういうわけじゃ、ないんだけど……だいたい、最華だってつきあうのはどうかなって今さっき言ったばっかりじゃない」
「それはあくまで私の意見。風澄のは別でしょ」
「そうだけど……ねぇ、杉野君のこと……あの時、反対はしなかったじゃない。むしろ賛成してくれて……なのに、どうして今は駄目だと思うの?」
「だって駄目だから」
「あのねえ、最華……」
 そんな呆れた口調しないでよ、だって本当に駄目なんだから仕方ないじゃないの。それに、実際に駄目になっちゃったんだし。まぁ、杉野が馬鹿なことを言い出さなければ、もう少し続いたかもしれないとは思うけど、そうだとしても『宗哉』と出逢うまでのことだし。むしろ、あの時に別れて正解だったんじゃないかしら。ほかに好きな男性ができましたーなんて言われなくて済んだことを感謝したほうが良いと思うわよ、杉野。
「あの時は良いと思ったよ……少なくとも、杉野は、風澄が『彼女』っていうポジションに居て、自分を最優先してくれる場合、先走ったり暴走したりするような馬鹿じゃないし。友達だから、風澄との会話とか、要領わかってるし。ちゃんと昔のことも話して、納得した上でって言ってたから、大丈夫だろうなって思ってた」
 まぁ、私の心の中の呟きはさておき、あの頃は、落ち込んでた風澄を誰かが助けてくれたらって思ったし……そういう意味で、杉野はうってつけだったと思う。
 私にとっては、ふたりとも友達なんだけど……やっぱり、私は風澄の味方だから。杉野には酷いことをしているかもしれないど、どっちの幸せを応援したいかって言ったら、それは絶対に風澄のほうだから……。
「だけど、あの時のは、リハビリみたいなものだったよね。杉野には悪いけど。風澄が次のステップを踏んで、恋愛して生きていくための踏み台にしかなれなかったでしょ、あいつは。まぁ、それだけでも充分よくやったと思ったけど」
 遅い初恋に相手の結婚というかたちでピリオドを打たれ、最初の彼氏とも気まずいまま突然一方的に別れ……風澄は、そんな状況で、次の恋愛なんて考えられる子じゃない。次に失敗したら終わりかもしれない……そう思ってた。心のどこかで。だから……杉野とのことは、結果的には良かったんだと思う。その次の恋には、気負いなく臨めたのだから。そう……三人目の彼氏に出逢う前に『宗哉』に出逢えていたら……そして、『宗哉』が、風澄を選んでいたら……とは思うけれど……。
「まぁ、ああいうふうに別れるとは思わなかったな、正直。あの時はずっと続いていくかなって思ってたし。今になれば、それはありえないってわかるけど……変に壊れちゃうより、良かったんじゃない? ……って、風澄?」
「それが、そのぉ……壊しちゃった」
 えへ、という感じで、風澄は苦笑した。
「は!?」
 目的のお店の目の前で、私は素っ頓狂な声を出してしまった。
「う……まぁ、後でちゃんと話すから……」
 有能なウェイターに促されて、その時、その話は途切れちゃったんだけど。

 * * * * *

「……そういえば、本当に久しぶりだったのよねー」
「何を今更……」
 オーダーを終えて、水に口をつけつつ呟いたら、ふたたび頭を抱えて呆れられた。そんなに経ってたっけ、という意味なんだけど。
「あ、いきなり呼び出したりして、大丈夫だった?」
「でなきゃ来ないわよ。だいたい、こっちは暇してるから、平気平気」
「やっと『就活地獄』も終わったし?」
 くすくす笑ってそんなふうに返してくる。もう本当に地獄だったわよ! 幾ら日本のトップの私立大学とはいえ、この不況真っ只中の時代、その上に文学部ときては、就職活動は大変なんだから。まぁ選り好みをしなければ他の大学よりは楽なのかもしれないけど、正直、厳しかったわ。ま、無事希望のところに決まったから、いいけどね。
「後悔しなかった? 文学部で。私は進学志望だけど、最華は就職だったし」
「まさか。むしろ、自分の選択は間違ってなかったと思ってるわよ」
「教師陣を軒並み号泣させてでも、自分の意見を押し通したんだものね」
 なんて、笑いながら風澄は言う。
 思い出したのは、付属時代のこと。
 中学から入った私は、小学校からの持ち上がり組みで、常にトップクラスの成績をキープしていた風澄を脅かした、最初の存在だったらしい。だけど、教師陣の予想は外れ、知り合うなり私と風澄は意気投合してしまった。一年生の頃は成績上位グループ内の争いでしかなかったのだけれど、途中からは私と彼女の一騎打ちになり、結局、そのまま高校卒業まで『熾烈なトップ争い』が繰り広げられた。まぁ、その軍配はほとんど風澄に上がったんだけど(ちなみに、一騎打ちになるほど成績を引き離してしまった理由は、私たちの関係を冷や汗混じりに見守っていた教師陣を始めとする周囲の反応が面白かったからだったりする。私はともかく、意外とこの子、いい根性してるわよねえ)。
 だけど、なにも知らないひとたちは、風澄の位置――すなわち『学年トップ』を労せず手に入れたものと思い込んで、かなり失礼な言葉も耳にしたものだった。もちろん、元々の資質もあっただろう。だけど、それらは彼女自身の努力が得た正当な成果だった。
 そして、そんな私たちが大学進学にあたって選んだのは、うちの大学内で最も偏差値および一般的評価の低い学部――すなわち、文学部だった。
「進路希望を提出した途端、毎日どころか休みごとに呼び出されて、考え直せーって言われたっけ」
「そうそう、医学部とは言わないから、せめて環境情報か、総合政策に! って」
「文学部だけはやめてくれ、なんて言ってた先生もいたわよね」
 大学にヒエラルキーがあるように、学部にもヒエラルキーがある。おそらく文学部はその最下位に属するだろう。大学名を言うと嫉妬と羨望の眼差しを向けられるのに、学部を言うと安堵のため息とわずかな嘲笑を感じた経験は一度や二度ではない。つまりは『自分も文学部なら入れたのだが他学部を目指していたために入れなかった』というような――偏差値には全く差が無いのにも関わらず。
「やる気もないのに他の学部に行ったって、仕方ないのにね」
「確かにね……でも、私は、風澄はもったいないなと思ったひとりだけどね」
 いや、私も、同じ文学部に所属しているんだけど。
「女子高の学年トップだったんだから、行こうと思えば、どこにでも行けたのに」
「でも、興味がなかったんだもの。ずっと文学部って決めてたし。……だいたい、そういう最華もトップでしょう? 私と主席を争っていたんだから」
「総合では敵わなかったわよ、なかなか」
「英語は惨敗だったけどね、毎回」
 そう、風澄は国語は大得意のくせに英語がやたらと苦手だった。外国語一般と言ったほうがいいかもしれない。規則が多いのに抜け穴が多いのが駄目なんだとか。テストは難なくクリアしていたから、そのことに気づいた人は本当に少ないと思う。まさか、毎回げっそりしながら英語の教科書と向き合っていたなんて、誰も想像すらしていないんだろうな。かく言う私も、初めて見たときは驚いたものだったけど。
「懐かしいなぁ……もう、あれから四年になるんだ」
 遠くを見るような目で、風澄は呟く。
 三年間の中学時代と、三年間の女子高校時代。その間ずっと、私と風澄は一緒に過ごした。生徒会まで一緒で、渋る風澄を無理矢理半分に副会長に立候補させて、結局当選。私が会長で、橘政権なんて呼ばれたっけ。内部進学だったから、これ幸い、と規則やら何やらを一新したのよねえ。付属の女子高はイベントが多かったから、積極的に参加したりもして。
 風澄の存在を知ったばかりの頃は、そんなふうに付属時代を一緒に過ごすなんて考えもしなかったな。風澄は元々目立つ子だったけど(何度も言うけど、本人にはその自覚は皆無。むしろ絶無)、記憶の中の、親しくなる前の風澄には、あまり表情がない。この子のこぼれるような笑みを知ったのは、初めてきちんと話をしたその日。たまたま言葉を交わした時、歯に衣を着せることなど欠片も考えずに喋る私に驚いて、思わず笑った風澄に、つられて噴き出して――。そうして始まった友情だった。
『橘さんの名前って、最華さんって言うんでしょう? すごく綺麗ね』
 風澄は、そう言ってくれた。
 最も華やかなる者という自分の名前が、相応しくないと思っていたあの頃。響きだって、『最下』や『災禍』を思わせて、お世辞にも良いとは言えない。なにを考えてこんな名前をつけたんだか知らないけど、私には合わない。最も華やかなる者――それは、あの市谷風澄とかいう子のほうじゃないの――そんなふうに思っていた時、思わぬところで褒められて……その屈託の無い笑みに、驚いた。お世辞でも社交辞令でもない、本心からのその言葉が、嬉しかった。
 そして、その日から、私たちはお互いを『名字にさんづけ』で呼ばなくなった。

 黙って表情を隠している風澄は、冬の空気のよう。限りなく透明で、切れそうなほど研ぎ澄まされて、だけど雪の結晶のように儚い。
 ――澄んだ風――
 如実な名が皮肉だと思った。綺麗過ぎる水には生き物は棲むことができない。あの頃の風澄は、本当の意味で生きてなんかいなかった。欲もなにもなくて、大事な存在といえば家族ぐらいなもの。ひとを信じることも、好きになるということさえ、知らなかった少女。
 途惑う彼女を、外部進学の私が集団の輪の中に引っ張り込んで、そうして、やっと風澄は周囲に馴染んでいった。
 でも、風澄は引っ込み思案だったわけでも、周囲に壁を作っていたわけでもない。
 本当は周囲こそが遠巻きに彼女を眺めていただけだった。
「私たちのつきあいも、ついに十年目かぁー」
「そうか、もう二桁になっちゃうのね。今後ともよろしくお願いいたしますわ、橘さん」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げましてよ、市谷さん」
 なんてお互いに顔を見合わせて笑いながら言ってみたり。間の取り方も掛け合いの仕方も上出来ね。うん。進歩進歩。
 表情も豊かになったものよねえ。
 本っ当に、あの頃の風澄は綺麗なだけの硝子細工の彫像だったし。あるいは、ビスクドールかな。そりゃあ、文句なしの美少女だったし、それは今も変わらないけど……それでもやっぱり、昔とは違う。今の風澄は、血の通い熱を持つ人間に見えるから。
「……あれ?」
 ふと視線を向けた先には、見慣れていたはずの、ふわりと微笑んだ顔。
 その印象が、少しだけ、記憶の中のものとは違っているように思えた。
 綺麗は綺麗なんだけど、それだけじゃなくて、もっと……。
「最華? どうしたの?」
「あぁ、別になんでもないんだけど、なんかね、雰囲気変わったなーって思ったの」
「え?」
「風澄の印象が柔らかくなったなーって。……やっぱり、恋でもしてるんでしょ?」
 なぁんて、引っ掛けてみたりして。なにしろ、こういう聞き方じゃないと、風澄はなかなか口を割らないから。別に言わなくてもいいんだけどね、相談できる人間がいるって心強いでしょ? それにねぇ、この子ってば、いちいち厄介な恋愛をするんだもの。捌け口くらいないと溜め込んで爆発しちゃうわよ、確実に。まぁ、そういう私は実を言うと逆の立場になったことがないので正直なところどういう気持ちなのかよくわからなかったりもするんだけど。話すだけでも、心の持ちかたが違うと思うわけなのよ。たぶん。
「えっ……」
 あれ?
 なんか、すごく……うろたえているような気が……。
 顔はこっちを向いてるけど目は泳いでるし手は遣り場がなくて困ってるし。
 え、もしかして……本当に?
「当たり? あ、もしかして、今日会おうって言ったの、その話!?」
「っ……」
 顔を真っ赤にして、言いにくそうに、彼女は頷いた。
 ……って、なんで今更そんなことで照れるのかしらこの子は本当に……。
「うわー……」
 ちょっと私、心の中で本気で万歳三唱しそうになっちゃった。
 だってもう風澄は一生恋愛なんてしないかもしれないって思ってたんだもの。
 三年もひきずらないわよね普通は。
 でも、やっとふっきれたんだって思ったら、すごくほっとした。
 ……いや、正直私はそのへんの心境はよくわからないけど。うん。
「あっでもっ、さっき言ったのは本当に本当なんだけど! 別に彼氏ができたとか、そういうんじゃなくて、えぇと……なんて言ったらいいか……」
「え? なーんだ違うの……ん? じゃあなに? 恋愛関係でしょ?」
「れ、恋愛っていうと、なんか違うような気がするんだけど……」
 しどろもどろ。あからさまに怪しいわね。
 嘘なんか、つこうと思えば幾らでも突き通せそうな顔をしてるのに。
 まぁ、嘘ついて欲しいわけじゃないから、いいんだけど。
「……まさか……また片想い!?」
「またって……確かに今までは片想いばっかりだったけど」
「杉野と切れたっていうのも、その関係?」
「切れたっていうとなんか違う気がするけど……まぁ、そう、かな……」
「風澄ちゃん、今日は吐くまで帰してあげませんからね?」
「……はい」
 その端正な口元が少々歪んでいたのは、ちょっといただけないけど。

 * * * * *

 美味しいんだけど食べ難いサーモンと卵とレタスのベーグルサンドのランチを全て食べ終えて(ちなみに風澄はチーズとチキンとレタスでした)、セットで頼んだアールグレイの紅茶もポット一杯ぶん飲み終えて(ちなみに風澄はセイロンでした)、更に追加オーダーしたダージリンのロイヤルミルクティーとやっぱり非常に食べ難いアイスクリームを乗せたハニートーストが目の前にあらわれた頃(ちなみに風澄はアッサムのロイヤルミルクティーにレアチーズケーキでした。普段は一緒にこの店自慢のハニートーストなのに、なんだか今日、この子ってばチーズ尽くしじゃない?)。……合計金額は聞かないように。乙女の食事です。
「……脱帽」
 その顛末(てんまつ)を聞いた私は、とりあえずそう言うしかなかった。
 なにって、『タカハラコウキさん』のことよ。勘が良すぎるくらいだわ。怒らせた上に『宗哉』の存在に気づいて口を割らせてそのまま行為に持ち込んだ挙句に(そんなこと濁せばいいのに濁せなくてどもっちゃうのよこの子ときたら……まったく、相変わらず嘘が苦手なのねえ)今や親しくなっているとは……。すごいわ……風澄の扱いを熟知してる。思考回路とか、よくぞ一瞬で見抜いたものねえ。
「負けたわ……」
「何によ何に……」
 だってつきあいの長さで言ったら私のほうがずっと長いのに、なんでそんなに風澄のことを知り尽くしてるのよタカハラコウキさんとやらは。
「まさか風澄を手玉に取る男性があらわれようとは思わなかったってこと。風澄って、男に対して隙がないじゃない?」
「えっ……そんなことないと思うけど……昂貴にはからかわれっぱなしだし、片っ端からなんでも見抜かれちゃうし……」
「だから、その『タカハラコウキさん』には、隙ができちゃうんでしょ。……私が知る限り、風澄は、いつも、どこか男に対して一歩引いてたよ。近寄りたくないって気持があったんじゃないの? 実は男性恐怖症か男嫌いかと思ってたもん、知り合った頃は」
「うー、まぁ、下心見え見えな人とか、馴れ馴れしい人は嫌いだけど……」
「あ、『タカハラコウキさん』には、そういうのを感じなかったわけだ」
「えっ……そういえば、そうかも……。だ、だって、第一声からして喧嘩売られたのよ!? 下心だとか馴れ馴れしいだとか、それ以前の問題だったもの!」
「しーっ! 声大きいっ!」
「あっ……ととと」
 幾らここが仕切られた禁煙スペースだからって、休日だし、人も大勢居るんだから。
 でも、そうよねえ。風澄がそんな初対面の男性に全て許しちゃうなんて、とてもじゃないけど想像できないもの。聞いた限りの状況では、だけど。でも、そんなふうに怒髪天状態で『宗哉』のことまで見抜かれちゃったら、ねぇ……。
「……自分でも、不思議だ、おかしい……って思うんだけど」
「だけど?」
「…………嫌じゃ、なかったな……」
 ぽつり、と風澄は呟いた。
 自分でも信じられなかったんだろう。自分の行動が。
「昂貴の言いように、腹は立ったけど……手のひらの上で踊らされてる気分になるのも、なにからなにまで敵わないのも……他のこともみんな……嫌だとは、思わなかった」
 静かな目。
 今、自分がどんな目をしているのかも、きっと風澄は気づいていないんだろう。
 その視線の先に、なにを見ているのかも……。
「……じゃあ、聞くけど」
「ん?」
「今……風澄、楽しい?」
 幸せ? とは、さすがに聞けなかった。
 だけど。
「……うん」
 一呼吸、遅れたけど。
 頷いてた。風澄が。
 あぁ。
 風澄は、こんな顔をして笑うんだ。
 笑顔なんて数え切れないほど見ているはずなのに、私は、たった今、初めてこの子の笑顔を見た気がした。
 はにかむように、だけど、はっきりと肯定する意思を胸に秘めながら。
「昂貴と会ってからはね……世界が変わったの」
「え?」
「空の青や木々の緑の、色が違うの。街路樹の葉に降りそそぐ光も……みんなみんな、綺麗なの。どんなに綺麗なものを見ても、灰色にしか見えなかったのに……今は、全てが薔薇色に見えるの」
 詩のような台詞だと思った。まるで、恋のときめきを詠っているように。
「それで気づいたの。世界が変わるっていうのは、私が変わることなんだって……私の気持ちが楽しいから、世界が綺麗に見えるんだって。そういうものだって知ってたはずなんだけど……わかったのは、今なの。やっと、その意味がわかったの」
「……風澄……」
「ずっと……三年前からずっとね、私にとって毎日っていうのは、今日は昨日の続きで、明日は今日の続きでしかなかったの。ただやり過ごして、いつか時が忘れさせてくれる日を待つだけで、結局は、ずっとあの日に捕らわれてたんだと思う。だけど今は……昨日と今日と明日は全くの別物で、明日にどんな一日が待っていて、なにが起きるのか、それが楽しみでしかたないの。
 朝ごはんに何を作ろうかとか、帰りにどんな食材が売っているかなとか……そんなことを考えたり想像したり実際にやってみることが楽しいことになるなんて、思いもしなかった。
 お料理のコツとか、お茶の美味しい淹れ方を知って、実践して、喜んでもらえるっていうことが、今はとても楽しいの。明日はきっと、もっと成長した自分になれるって思えるの。
 ……そういう、前向きな私にしてくれたのは、紛れもなく、あのひとなの」
 生活の、全てが。
 喜びだと。
「私ね……ずっと、自分のことが嫌いだったの。そういうふうに、貶めちゃいけないっていうことはわかってたんだけど……でも、どうしても、頭のどこかに、心のどこかに、そういう気持ちが残ってたの。だけど今は……そういう自分も認めよう、って思えるようになったの」
「そんな風澄を認めてくれる人がいるから?」
「……そう。……尊敬してるひとに、認めてもらえる自分でありたいから。もう、後ろを向くのはやめようって」
「……うん」
「感謝してるし、尊敬してる。そんな言葉じゃ足りないくらいに……」
 笑みを残す口唇と、祈る形に組まれた手が、かすかに震える。
「だけど……だけどね、恋人じゃないのに、いいのかなって……そう思う自分も、どこかにいるの……だから……」
 目が伏せられて、声まで詰まって……。
 泣きたいのかもしれない。
 自分が、罪を犯したと……風澄は、そう思ってる。
 恋人でない男性と関係し続けている自分を、責めてる。
 そんなこと、この世の中には幾らでも転がっているのに……風澄は慣れない。染まらない。開き直ることも、できない。同時に、関係を断ち切ることも……できない。
 それは、弱さだろうか。優柔不断と言うんだろうか……?
「こんなの、おかしいよね……歪んでる……健全じゃない、よね……」
「……別にいいんじゃないの? 不道徳を働いているわけじゃないし」
「え……」
 いきなり、軽い調子で肯定した私に、風澄は本当に驚いたようだった。
 もしかしたら、風澄は、懺悔するような気持ちでいたのかもしれない。私が風澄の行動を否定したり、詰ったりするんじゃないかって……。そんなこと、あるわけないんだけど。
 でも、それは、私を信用してないとか、そういう意味じゃないんだろう。不安……そう、不安だったんだ風澄は。自分の気持ちも相手の気持ちもわからない状態で、ずるずるとぬるま湯のような関係を続けていくことが……そして、その関係に溺れきっている自分が。
「例えば、相手が結婚してるとか、他に彼女がいるとか……そういう状況だったら私も止めるかもしれないけど、そうじゃないんでしょう?」
 ……本当は、どんなことでも、この子が決めたなら、私は止めない。きっと。
 どんな時でも、きっと風澄は自分の想いを貫くから。
 誰が止めようとしても無駄。
 ただ、そんな状況、この子に耐えられるとは思えないけどね。『男を惹きつけておけないほうが悪い』なんて開き直ったりすることは絶対にできないだろうし。
「私はね、『恋人だからする』より、『したいからする』っていうほうが、自然だと思うけど」
 まぁ、詳細は置いておいてね。私の尺度で考えたらってことでね。
「風澄はね、考えすぎ。恋愛なんてね、頭でするものじゃないでしょう?」
「あ……」
「身体が拒否しないって、すごいことじゃない?」
 少なくとも、風澄にとっては……だけど。
 だって私は、最初の彼氏と別れた時の風澄を憶えてる。後悔と謝罪の言葉しかなかった、あの頃の風澄になんか、絶対に戻って欲しくない。
 縁がなかった、巡り合わせが悪かった。風澄も相手も、子供だった。恋愛をすれば必ず立ちはだかる障害のひとつを、越えることができなかった。……それは本当だ。だけど、そんな言葉で片付けて良いはずがない。
 だって、あの時、本当に辛かったのは、誰よりも風澄自身だったのに……。
「……いいのかな……」
 逡巡の末、風澄は呟いた。
「……私、これでいいのかな……」
「なに言ってるの。いいに決まってるでしょ、駄目なわけなんてないわよ」
「…………」
「もう、いいじゃない。三年も苦しんだんだもの。自分を、解放してあげなさいよ」
 どんなに過去に誰かを傷つけようと、自分が傷ついていようと……恋をしてはいけない人間など、居ないのだから。
「いいの、かな……私、今のままで……こうしていても……」
 迷っても、惑っても、悩んでも。
 恐れずに、想いを貫けばいい。それだけの相手に巡り逢えたなら……。
 だって、この子には、幸せになる権利と、義務がある。
 幸せになれる、女なんだから。
 私にできることは話を聞くことくらいしかないけど……だけど……気づいて欲しい。
 もう、あんな後悔の涙は見たくない。あてどない謝罪の言葉も、聞きたくない。
 前を見て、まっすぐに、たったひとりを追いかける風澄を見たいから。
「……風澄さぁ」
 今度は私が逡巡した末、問いかけることにした。
「ん?」
「その『タカハラコウキさん』のこと、好きなんじゃないの?」
「……………………、へっ!?」
 今度は風澄が素っ頓狂な声を出すした。あら私、貴重な経験をしたかもしれないわ。こんな間抜けな声、風澄の口からはなかなか聞けるもんじゃないわよね。
「な、なに言ってるの!? 私が好きなのは宗哉で……」
「風澄は、その『タカハラコウキさん』のこと、嫌いなの?」
「まさか、そんなわけないわよ。そりゃあ、初めて会った時はすごく腹が立ったけど、研究とか、すごく憧れてたし、今は仲もいいし、尊敬してるし、でも……」
 あらあら、自分で墓穴掘ったこと、気づいてないわね、これは。ふっふっふ、私は知ってます。風澄の初恋の『先生』も、『宗哉』も、会った当初はすごく腹を立てていたっていうことを。風澄ってね、実はかなり喧嘩っ早いのよね。負けず嫌いだし。で、自分より優れたところのある人間に弱いのよ。頭じゃなくて考え方とかね。でも、どうやら、その『タカハラコウキさん』は、今までのふたりより、更に上手(うわて)な感じね……。
「そういうふうに考えたこと、なかったし……」
「いや考えておきなさいよそこは」
 さすがに突っ込んじゃいました。考えるでしょう普通は。
 いや、詳細は置いておいて、うん。
「そ、そりゃあね、『好き』か、『嫌い』かで言ったら、す……じゃない、えっと、嫌いじゃないんだけど……」
「恋愛感情以外も含めている場合くらい、素直に好きと言ったら?」
 あーもう、素直じゃないんだから。
「だってそんな、そんなの……」
 うわ、本気で狼狽してる。
「……いい加減すぎない?」
「はぁ!?」
 今度は再び私が間抜けな声を出す番だった。
「だって、この前まで他のひとが好きだったのに……」
「まぁね、否定し続けるのは自由だけど」
「……」
「そうやって、自分の気持ちに向き合わないでいると、また後悔するんじゃないの?」
「っ……」
 あぁ、本当、なんで風澄ってこんなに自分の気持ちに鈍いんだろう。あと、自分に向かってくる好意にも。さっぱりわからないわ。他のことには敏感なほうなのに。
「風澄は……今のままでいて、いいの?」
 まぁ、はっきりと、自分の気持ちが固まっていないんだろうとは思うけど。
「そんなふうに逃げてるうちに、他の女に取られちゃうかもよ? ――前みたいに」
「あ……」
 あ、顔色変わった。そうよね……あんな目には二度と遭いたくないだろうし、私もそんな風澄を見たくないもの。
 けしかけた、なんて言ったら表現が悪いけど。
 だけど、もう……後悔だけはしないで欲しい。
 たとえ、新しい恋が、叶わなくても。
「……、風澄ちゃん」
「な、なによ、ちゃんづけなんかして……」
「良いことを教えて差し上げましょうか」
「は?」
「……昔の恋を忘れるには、新しい恋をするのが一番よ」
「……っ……」
 そして、みるみるうちに。
 風澄の顔は耳まで染まっていった。
「うーわー、真っ赤ー!」
「やぁもうっ、最華ーっ!」
 照れを隠して、こづくような真似をして、じゃれあって話題は終わるけど、だけどきっと、私の言葉は彼女の心に残ってる。

 だから、早く気づきなさいね、風澄。
 この子の笑顔を、私はずっと見てみたかったの。
 風澄の恋が叶う時を。
 全てに恵まれているくせに、決してそこに驕らなくて、あんなふうに溺れるようにひとに恋する彼女が不思議で……だからこそ、幸せになって欲しかったから。
 そうしたら、私も『恋愛』っていうものを、信じてみてもいいかもしれない。
 きっと私は、もうすぐ彼女の本当の笑顔を見ることになる。

 未だ見ぬ『タカハラコウキさん』が、
 風澄のことを好きになってくれたら、いいな……。
Line
First Section - Chapter 5 The End.
2004.08.07.Sat.
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