その腕の中の楽園(エデン)

07.同類


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 そしてそれから、きっかり一週間後。つまり、風澄と知り合ってから、ちょうど四週間目の金曜日、俺はキャンパスであいつ――杉野をつかまえて、話があると引っぱってきた。
 一週間も経ってしまったのは、風澄の体調が落ち着くのを待ったからというのもあるんだけれど、もちろんそれだけじゃない。傷ついた心を癒すなんて言ったら大袈裟だし、あまり好きな表現でもないけれど――誰がなんと言おうと、今の風澄のままでいていいのだと伝えたかった。自信を取り戻して欲しかった。俺は誇り高い風澄が好きだし、それが風澄だと思うから。そして、俺も自信をつけなければならなかった。ケリをつけるために。
 この一週間は、ずっとふたりきりで過ごした。どうしても必要な時以外はろくに外出もせず部屋にこもり、そして、コンビニに行く時でさえ一緒だった。と言っても、俺が引き止めたわけでも、風澄が縋ったわけでもなく、至極自然にそうなったのだ。まるで、それがあたりまえのことのように。
 これだけの時間を共有したのも、また、肌を重ねずに過ごしたのも初めてだったのだけれど、会話が途切れて気まずくなることも、欲望を必死で押さえつけることもなく、ただ、穏やかな時間が流れていた。
 もちろん、まだ完全には吹っ切れていないのであろう風澄は、時に床ばかり見つめたり、うつむいたりしていたのだけど――そのたびに、くだらない冗談を飛ばしたり、そっと小指を繋いだりする俺に、優しい笑顔を向けてくれた。それが嬉しかった。
 それに、貧血気味の風澄の面倒を見るのも結構楽しかったな。いや楽しんじゃいけないんだけど。どう痛いかとか、どんな気持ちかとか、俺にはさっぱりわかりゃしないんだけど、俺とは違う『女の子』なんだなぁとあらためて感じて、できる限り大事にして、いたわった。こんなんで、妊娠なんかしたらどうなっちまうんだろうな。つわりとか、ものすごく辛いって聞くけど。まぁ、今のところ全く縁のない話だけどな。……もし、この先風澄が孕むようなことがあったら、また別だけど。いくら避妊を徹底していても、セックスしているからには可能性はゼロとは言えないし、後は万が一のことが起こらないように祈るしかないけどさ……今のような関係の場合は特に。一応、尽力はしてるしさ。風澄のためにも。俺はそんなことになっても一向に構わないけれど。でも、やっぱり、そういうのは想い合ってる人間同士でなければならないと思う。一人の人間の生命がかかってるんだし。こういう、今の俺たちの関係では、だめなのだろう。どんなに気が合って、近くにいたとしても。
 ……そんなことはいいんだ。で、ついに決着をつける日ってわけだ。
「なんですか、こんなところまで連れてきて」
 苛立ちを含んだ素っ気ない口調で、杉野は言った。『こんなところ』とは図書館の地下五階、例の大型本コーナーの最奥だ。もちろん、ここを選んだのは意趣返しの意味も含めている。当然、人が居ないのも確認済み。毎回都合良くいなくて助かるよ、本当。そして俺は、これまた例の椅子に掛けた。腰を下ろしてからも椅子の背に深く凭れて悠然と足と腕を組み、ひたすら余裕を装って行動する。演技過剰かとは思うんだけどな、いちいち杉野の癇に障るだろうからさ。念には念を、ってな。それにしても、この椅子にはよくお世話になってるよなあ。どこにでもあるような普通のパイプ椅子なんだけどさ。
「覗き魔の容疑者を見つけたからな。まさか本当についてくるとは思わなかったよ」
 『ピーピング・トム』じゃなくて『ピーピング・タクマ』か。ちょっとハマらないな。こいつがトムっていう名前だったら面白かったんだがなあ。余裕綽々(しゃくしゃく)の俺はそんなことを考えながら言葉を続ける。
「……なんのことですか?」
「あのときのことだよ。先週の金曜日だったかな。身に覚えがないとでも?」
「……聞いたんですか」
 語るに落ちたな、と俺は呟いた。もちろん、心の中で。いや、むしろ、問うに落ちていると言うべきか。俺がはっきりと尋ねたわけでもないのにこんな台詞を吐くということは、自分が覗いていたことと、風澄にそれを告げたことの両方を認めたも同然だ。あの時の行為を目にしたからこそ、あんな暴言で彼女を傷つけたというわけか。まぁ、そんなところだろうと思ってはいたが……わかりやすすぎだな、いちいち。
「知ってたけどな。後をつけてるのにはすぐ気づいたし、見てるのもわかってた。おまえ、素人すぎ。就職先に警察や探偵事務所を選んでいるならやめといたほうがいいぜ。だいたい、覗きは犯罪だ」
 そう……実は、知っていたのだ。だいたい、あんなあからさまな追跡に気づかないわけないだろうが。……いや、風澄は気づいてなかっただろうけど。これは風澄が鈍いからというよりも、杉野に対する敵愾心や警戒心、そして嫉妬心の差だろうな。でなければ、行為への期待でいっぱいで、他のことに注意を払う余裕がなかったからだと思っておこう。うん。
「わかってて……なんで」
「鍵か? 見せつけてやろうかと思ってさ、言ってもわからないようだから。あんなところ見せて、風澄には悪いことしたと思ってるけど」
 俺はさらりと爆弾的な発言を口にした。これこそが、ことの真相。つまり、忘れたわけでも鍵のかかりが甘かったのでもなく、わざと開けておいたのである。犯人は誰でもない、俺なのだ。でもな、色々と見えないようにしたんだぜ? だからヤバい所は見えてないはずだ。でも散々啼かせたし、色々言わせたからな……しかも言ってくれたし。
 まぁ、言いわけだけどな。後をつけられているとわかっていて、それでも誘うように鍵を開けておいたのは、心のどこかに嫉妬があったからだ。杉野だけじゃない。今まで彼女の周りに居た全ての男に対する、嫉妬。今の風澄には他の男の痕跡などどこにもないけれど、消せない過去がその身に刻まれているのだ。だからこそ、乱さずにはいられなかった。どんな過去があろうと、今の風澄の相手は俺だと主張したかったから。俺なら、過去の誰よりも彼女を狂わせることができる。誰も知らなかった彼女の一面を引き出して、快楽の海に溺れさせることだって。
 どんなに言いわけをしても、所詮、独占欲の故のこと。
 自覚しているのに止められないのだから、救いようがないけれど。
 乱れた彼女を誰にも見せたくないと思う一方で、時々、俺の前ではこれほどの嬌態を晒すのだと知らしめたくてたまらなくなる。自分のものだと明言できないからこそ。
 馬鹿なことをしていると思う。わかっている。だけど……。
「だいたい、あんなところでヤるあんたが悪いんじゃないか!」
「風澄は乗ったぜ?」
 つぅか、あの日は風澄が誘ったんだけどな。……それを知ったらこいつはどうするだろう。教えてなんかやらないけどな。それとも、そこまで聞いていただろうか。
 ところで、俺が喧嘩腰なのは目的があるからだ。怒らせる、それが俺の常套手段。相手の堪忍袋の緒が切れるのを待つのだ。相手が苛々すればするほど自分は平静であることを肝に銘じ、どこまでも冷静を装い、そして相手が我慢の限界を越えたところで叩きのめす。今考えると、風澄にもこいつと同じ手法を使ってひっかけちまったんだよな……うううん、失礼だ。済まなかった、風澄。こんなやつと同じようにしたなんて。
「……風澄を、そういう誘いに乗るような女にしたのはあんただろ?」
「それがどうした?」
「なんてことしやがる……あいつをあんな……あんな淫乱じみた言葉を口にするような女にするなんて……!」
「俺のせいで風澄が淫乱になったって言うなら、願ってもない。他の男にされたんじゃないんだからな。おまえは風澄を淫乱にできなかったんだろ? そもそも、抱いてる女を淫乱にできないような男に何の価値がある?」
「なんだと……?」
「俺の腕の中で風澄がなにを言っていると思う? 毎晩毎晩、俺に抱かれて喘ぎまくって、それが幸福でないならあんな反応はしないね」
「なっ……」
 本当は毎晩じゃないが、強調しておくに越したことはないだろう。……生理で一週間ご無沙汰中だなんて絶対言ってやらない。まぁ、それまでは、逢えば触れ合わない日はなかったし、最近は毎日ずっと一緒に過ごしてたしな。
「五年前、だったか? 風澄を慰めてくれたことには感謝する。あいつは意外と脆(もろ)いところがあるから、いつどこでひとり隠れて泣いているかわかったもんじゃない。初めて快楽を教えたのもおまえだろう。だが、もし仮に、今の風澄をおまえが抱いたとして――そんなことは許さないが――感じると思うのか?」
「なに……?」
「風澄はもう、俺でなきゃ感じない。疑うなら本人に聞いてみろ。それとも目の前で実践してみせようか? 風澄が俺の腕の中で、どんなふうによがり狂うか。……あぁ、見ていたんだっけ? 俺たちが愛し合ってるところを」
「あんなのは愛し合ってるところじゃないだろう! 脅迫だ! さんざん焦らして飢えさせた挙句、下品な台詞を片っ端からあいつに言わせて……!」
 まぁ、確かに恋人同士なんかじゃないけどな。想いあっているのは事実だぜ?
 お互いがお互いにとって必要な存在だと、わかってる。
 こんなの、つきあっているかいないかって次元の問題じゃないだろう、既に。
「わからないならそれでいい。風澄に聞いてみろよ。ただし」
「なに?」
「今度風澄をあんなふうに泣かせたら……俺の全力でおまえの人生を叩き潰してやる」
「なっ……」
「そんなことできるわけないって? 今すぐなんて言ってないさ。だが……」
 一呼吸置いて、俺は言った。
「生きているのが嫌になるぐらいのことは、してみせる。たとえ一生かかっても」
 静かな脅迫に、杉野は息を呑んだ。気圧されていたようだったが、まだ虚勢を張る余裕は残っているらしい。唾液を嚥下した後、口の端を歪めて、杉野は嘲笑混じりの言葉を返した。
「……って、なにをするって言うんだよ。たかが院生のくせにさ……」
「確かに、今の俺には社会的な力なんてなにもない。だけど、そんなことは時間が解決してくれることだし、その気になれば肩書きなんて関係ないだろう。……別に、俺は無理に止めないぜ。恋に狂った人間が、どれだけ残虐非道の限りを尽くせるのか……その身体で思い知ればいいだけの話だ」
「あんた……そんな……」
 杉野は呆然として言った。言葉を失ったかのように。俺の風澄への想いなんて、こいつは想像もしなかったんだろう。どれほど風澄に溺れきっているのかなんて。
「本気だと知って驚いたのか? 今更気づいてもおまえの出る幕なんかないね」
「風澄はっ! あんたなんかとつきあってないって言ってた!」
「じゃあどうして俺に抱かれてると思う?」
「っ……」
 やはり、杉野は言葉を続けられない。それは、どれほど事実をつきつけられても『風澄が恋人以外の人間に抱かれている』という現実が、杉野にとってありえないことだからだ。その事実を説明できる言葉がないから――そう、たったひとつの可能性を除いては。だから、口を閉ざした時点で、それこそが真実だと言ったも同然なのだ。杉野が決して認めたくないであろう、唯一の理由こそが――。
 そして、俺は口唇を噛み締めているそいつを暫く眺め、口を開いた。
「おまえの知っている風澄は、あんなふうに乱れないと言ったな……だけど、おまえの知っている風澄も、まだそこに残っているんだぜ?」
「なに……?」
「風澄が、どうでもいい男に簡単に身体を許すような女だと思うのか?」
「……!」
「俺に抱かれるのは、そして、あんなに乱れるのは、それは、俺を好きだから。俺だけを好きで、俺だけを愛しているから。そういうことだと、どうして思わない? 風澄が言わなかったから? 言われなきゃわからないほど鈍いのかよ、おまえは」
 断言する台詞を吐きながらも、その言葉が事実に反していることを、誰より自分自身がわかっていた。なぜって、この状況は俺が仕掛けた罠でしかないのだから。
 ……風澄、ごめん。おまえの本当の気持ちは俺も全然知らないんだけど――いや、俺を好きじゃないっていうことくらい充分にわかっているんだけど――でも今は、今だけは、そいういうことにして話を進めさせてもらう。おまえを傷つけた奴を、放っておくことなんてできない……だから、許してくれるよな?
 だけど、俺もわからないんだ。もし、そうでないなら……俺を好きでもなんでもないなら、おまえはどうして俺に抱かれ続ける? 身体の快楽だけだろうか? あれほど一途に誰かを想える女なのに?
 俺は風澄が心から『宗哉』を好きだったと知っている。だけど俺に抱かれて心底悦んでいることも知っている。だから――いつか、もしかしてと、いつも期待していた。心のどこかで。今のままでいいと自分に言い聞かせながらも。
 風澄は、期待させられて裏切られることがどんなに辛いか知っている。
 だからきっと、と。
「風澄が淫乱になるとすれば、それは、俺の腕の中だけだ」
 きっぱりと、俺はそう言い切れる。
 風澄がそう言ってくれたから。
「っの野郎……よく言うよ、まったく。どうせ、風澄は他の男が好きなんだろ?」
「……まぁ、そうだけどな」
「あんただって、いつか捨てられるぜ?」
「おまえが捨てられたようにか?」
「ちっ……」
 俺は侮辱されているにも関わらず、奇妙に静かな気持ちになった。目の前にいる男と自分は同類なのだと、どこかで気づいていたからだろうか。
「……おまえの考えたことは、わからないこともないよ」
 もしも俺が杉野の立場だったら、同じことをしていただろう。
 俺が知り合ったばかりの風澄の行動を容易に掴めるのは、三年間も彼女を見つめ続けていたからだ。彼女を巧みに誘惑し、そのまま繋ぎ止めていられるのも、風澄がなにに飢え、なにを求めていたか、あの時一瞬にして理解したからだ。そして、今、彼女が俺に依存しているのは、失いたくない、そうせずにいられないと思いこませているからだ。
 本当に狡いのは、俺のほう。
 だけど彼女を離したくない。決して。どんな方法を使ってでも。
 けど、こんな関係がいつまでも続くわけじゃない。
 いつか、決定的なその日が来てしまうのかもしれない。
 だからわかってしまう。杉野の行動を。
 なぜなら、目の前にいるのは、未来の自分の姿のひとつだから……。
「引き止めて欲しかったんだろ? だから、わざわざ別れを切り出した……そして、それは受け入れられてしまった。違うか?」
「……あぁ、その通りだよ」
「なんでそんな馬鹿なことをした? 風澄がおまえに縋るとでも思ったのか?」
「あんたは、俺たちがどんなにうまくやってたか知らないだろ……誰だって、あの状況で切り捨てられるなんて思わないさ……」
「だけど、そう思っていたのはおまえだけだった。そうだろう?」
「……」
「それが、俺とおまえの違いだ。俺だって、風澄に想われてるわけじゃないが……少なくとも、風澄は俺と一緒にいたいと言っているからな」
「……あんたは、それでいいのかよ?」
「いいか悪いかじゃない。こうしていたいんだ。遠くからずっと想っていた日々に較べれば、そばにいられるだけで充分なんだ。……少なくとも、今は」
「遠くからって……まさか」
「その、まさかだよ。……三年前からだ。一目惚れだった」
 目を伏せれば、あの日の情景が昨日のことのように蘇る。
 見つめて、想うだけだった三年間。
 彼女の苦しみと同じだけの日々を、俺は彼女を想って生きてきたのだ――。
「信じられないだろ? まぁ、誰より俺自身が信じられなかったけどな」
 そう……知らなかったのだ。こんな想いを。そして、こんな自分を。
 彼女への想いを自覚した時のことを、今もはっきりと憶えている。驚いて、否定して、うろたえて……だけど、この身体が教えていたのだ。認めざるを得なかった揺るぎない事実を。予感は確信に変わり、一度認めてしまえばそれはあっさりと自分に馴染んで、まるで当たり前のことのように思えた。これこそが自分自身のあるべき姿なのだと。彼女を知って初めて、俺は俺になれたのだ――。
「だけど俺は、今の俺が結構気に入ってるんだよ。こういうのも、悪くないってさ」
 ずっと、切り捨てる側だった。追い縋る相手を心のどこかで嘲笑いながら、容赦なく関係を断ち切ってきた。その逆の立場に自分がなることなど考えもしなかった。
 これは、その報いなのだろうか? だけど、もしそうだとしたら、なんて幸福な報いなのだろう。一方通行の恋が辛くないわけじゃない。だけど、この想いを否定しようとは、これっぽっちも思わない。初めて知った、すさまじいまでの幸福と絶望。その相克。
 恋は惚れたほうの負けだと言うけれど、幸福感をより味わうのは間違いなく惚れたほうだ。目線や言葉を交わすだけで喜びを感じられるのだから。その代償に、身を引き裂かれるような悲しみも、すぐ傍らに在るのだけれど――。
「あいつさ……あんたといるときは、あんなふうなんだよな」
 俺の台詞を邪魔することもなく、全て聞き終えた後で、杉野は口を開いた。
「……どういうことだ?」
「あんな風澄は知らない。……あれは、俺の好きだった風澄じゃない」
 唐突な言葉。問い返す俺に、先ほどとは打って変わって、静かに杉野は呟いた。
「外見とか家柄とかじゃなく、まとってる空気が違ってた。誰も容易に近寄れないような雰囲気を孕んで、そのまわりだけ澄んだ空気があるような、そんな子だったのに……」
 彼女の周りにあるのは、侵すべからざる聖域。
 生まれながらにして、斎の巫女のような清浄な空気を有する少女。
 きっと、澄んだ風の名の如くに。
「あれは、ただの女だ」
 男を識り、快楽を憶え、肉欲に耽り、溺れていく。
 どこにでもいる、ただの女に成り果ててしまった。
「超然としていて、誰も近寄れなかった孤高の女神じゃない……」
 ミネルヴァの知性とウェヌスの美貌を併せ持ち、ディアナのように男を拒む――。
 彼女は、そんな少女だったのだろうか。
「あんたが、堕落させたんだな……」
 穢れ無き天使を、不可侵の女神を、犯して――堕とした。
 俺は風澄の最初の相手じゃない。
 だけど、彼女を引き摺り込んだのは間違いなく俺だ。
 鎖で繋いで、捉えて。快楽という名の、底なしの奈落へ。
「ただの女に、できたんだな……」
 俺は知らない。
 その頃の風澄を。
 だけど想像できる過去がある。

 彼女をそうさせたのは、本当は『宗哉』なんだろう。
 身を焦がすほどの独占欲と嫉妬心。それまでの風澄になかったもの。
 だけどそれを快楽で埋めたのは俺だと思ってもいいだろうか。
 寂しさを、飢えを、必死で耐えてきた彼女を解放したのは。
「杉野。……俺を恨んでも、憎んでもいい」
 風澄に言ったのと同じことを繰り返す。違う相手に。
「ただ、風澄は……風澄だけは、傷つけるな。俺が言いたいことは、それだけだ」
「……俺だって、泣かせたいわけじゃない」
「そうじゃない。……あいつを泣かせていいのは、おまえじゃないからだ」
「自分だ、ってか?」
「違う。……俺とおまえの知らない、ある男だけだ」
 そう。
 風澄を泣かせていいのは、俺でも、杉野でもない。
 ……『宗哉』だけ。
「あいつの想ってる男、か……」
「……そうだ」
 今も昔も、風澄がただひとり、追い求める人物。
 世界にたったひとりの、その男。

 ……どうして、俺がそいつじゃないんだろう……。
 そうしたら、彼女を泣かせたり、寂しさを味わわせたりなんて決してしないのに。
 考えても仕方のないことだけれど……。

 どれほど想っても、叶わない恋はある。
 そのことを、知っている。
 届かないと知っても、簡単に諦められるわけではないけれど……。

「どんな奴なんだろうな……風澄が、本気になった相手ってのはさ……」
「…………」
「あんたは、聞いてるんだろ? そいつの話……」
「……まぁ、少しは」
「どんな奴?」
 だから俺は、すぐそばにあった大きな画集を手に取った。俺も風澄も持ってる、あの画家のカタログ・レゾネ、すなわち全作品集。その中の一ページを開き、杉野に手渡す。
「これ、風澄の卒論の作品……? って、まさか……」
「俺は、会ったことも、写真を見たこともないけどな……これに、似てるんだとさ」
「っ……」
「立ち向かうために、これを選んだって言ってた」
 どれほど似ているのかなんて知らない。
 だけど、俺は、どれほどの決意をもって、風澄がこの作品に立ち向かっているのかを知っている。『宗哉』への想いを、情熱の全てを学問に注いでいることを。
 行き場のない恋心の、最後の捌け口。
 そうでもしなければ断ち切ることさえできなかったのだと、今はわかる。

 自分を選ばなかった人間の面影を追っても仕方がない。非建設的だし、どうせ無駄なのだから、自分を惨めにするだけだ。きっぱりと忘れてしまえばいい。
 だけど……心はそう簡単には変えられない。一度心に刻まれてしまったことは、そう簡単には消せないのだ。
「……哂うか? 馬鹿馬鹿しい、くだらない……って」
「ああ……そうだな」
 一瞬、肯定されたことに少し腹立たしさを覚えたけれど、杉野の表情を見て、俺は咽喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「あいつ……馬鹿だよな……」
 ページを眺める瞳が、わずかに揺れる。貶す言葉を吐いているのに、それは、どんな言葉よりも明らかな告白だった。その場に居ない、ひとりの女性への。
「こんな、すぐそばに……本気で想ってる男がいるのにさ……」
 恋心が距離に比例したなら、どんなに良かっただろう。せめて距離を置くことで想いが薄れたなら。だけど現実はそう簡単にはいかなくて、反比例することさえある。
 側に居なければ、なにもできない。だけど、側に居たからって、なにかができるとは限らない。どれほど彼女の近くにいても、俺が彼女の想う相手になりえないのと同じで……。
「それでも、この男がいいんだな……」
 ふっ、と杉野は笑った。ひとりの女に恋焦がれつつも届かぬ想いを抱えているふたりが、その女性の話をしている現実を哂ったのだろうか。あるいは、その女性さえも悲恋に泣く同類なのだということを? なにもかもを諦めたようでありながら、自らを嘲笑するかのようでもあり、穏やかでもある、そんな、不思議な顔だった。それとも……本気の恋に破れた者は、みんなこんな顔をするのかもしれない。
「忘れられなくて苦しいのは、おまえだけじゃない……わかってるんだろ?」
「……あぁ」
 俺だって、こんな想いを捨てられたらどんなに楽だろうかと思ったことがある。
 なにも知らず、ただ研究に打ち込んでいた日々に戻れたなら。
 だけどもう、逃れられない。

 俺は、彼女に出逢うまで、なにも知らなかった。
 身を焼くほどの嫉妬も、刺し貫かれるように痛む心も、どんな手を使っても救いたいという願いも、そばにいられるだけで感じる幸せも、重ねた肌から伝わる安らぎも、全身をかけめぐる悦びもなにもかも。
 彼女がくれた。
 俺を人間にした女神。

 だから、これでいい。
 これで、いいのだ。

「だけど、それでもあいつはあんたに抱かれて……あんたはあいつを抱くのか……」
「あぁ」
「……いつまで?」
「さぁ、わからない。だけど、俺にできることはそれくらいしかないし……」
「…………」
「少なくとも、俺から離れることはありえない。決して」
 どれほど想っても叶わないのに、それでも想わずにはいられない。
 だからこそ、せめて俺は風澄と一緒にいられる現実に感謝しよう。
 この先の未来で、こんな顔をしているのが俺かもしれなくても。
 近い将来、他の男の腕に抱かれる彼女を見ることになるかもしれなくても。
 一分一秒、誰よりも彼女のそばにいられる今を大事にしなければと思った。

 そして、その場を沈黙が支配してから少しの時間が経過したころ、俺たちの耳に、やや遠くでエレベーターの到着を知らせる音とドアの開閉音に加え、だんだんと近づいてくる靴のヒールの音が順々に入ってきた。そして――。
「高原さん……高原さん、いらっしゃいますか?」
 図書館の中だからか声量は抑え気味だったけれど、それでもはっきりと耳に届く、落ち着いているのに良く通る声と、落ち着いた喋り方。そこで、思わず俺と杉野は顔を見合わせてしまった。そりゃそうだよ、だってこの声は……。
「っ……!」
 そして、俺たちの視界に入ってくるなり、その声の持ち主――すなわち風澄は息を呑んだ。ケリをつけるとは教えておいたんだけれど。
「あ……」
 珍しいほど口ごもっている。そりゃあ一週間経っているとはいえあんなふうに詰られた後に初めて杉野に会ったんだから気まずいのは当たり前のことだけれど。あるいは、不思議だったのかもしれない。険悪な状況にでもなっているのが当然だろうに、お互いに同情心じみた気持ちを抱いているこの状況では、そんな雰囲気はどこにもないだろうから。
 そして、そのまま風澄はその場で立ち尽くしてしまい、一方の俺たちはそんな風澄をただ眺めるばかりで、事態の変化は暫く訪れなかった。と言っても、単に、三人ともどうしていいかわからず、相手の行動をひたすら待っていただけなのだけれど。そして、どのくらい経ってからだろうか。そんな膠着(こうちゃく)状態を破ったのは杉野だった。
「……風澄」
 名前で呼ぶんじゃねえ、とこっそり思ったが、まぁ許容してやろう。そんなことを考えながら俺は事態の変化を待った。
「……なに?」
 こちらも、名前で呼ばれたことに憮然としているのか、ややぶっきらぼうな調子で、風澄は返事をした。
「俺には、未だに信じられないんだけどさ……おまえは……こいつなら、いいのか?」
「え?」
「俺には、触られたくないんだろ……」
「……」
 彼女はそれには答えずに、躊躇うように目線をやや下方に向けた。肯定するのはやはり気が引けたのだろう。
「わからないんだよ。なんで、こいつなのか……」
 開いていた本を閉じて、書架に戻しながら、杉野は言葉を続けた。
「淫乱とか言われても、こいつがいいんだろ?」
「……そうよ」
 一瞬の沈黙の後、風澄は口を開いた。肯定の言葉で。
「昂貴が、必要なの」
 心臓が鳴る。嬉しくて。知っているはずの内容だった。だけど、これほどはっきりと明言されるとは思わなかったから。死刑宣告を突きつけられているも同然の杉野の心情を思いやれば不謹慎なのだろうけど、愛しい想いと誇らしい気持ちに、期待が膨らんでしまう。
「私だってわからないわよ。こんな自分おかしいって思う。だけど……」
 彼女はまだ俺のほうを向いてはいない。わかっている。でも、確実に歩み寄っている。
 それが、どんな理由でも構わない。
 恋であろうとなかろうと、誰よりそばにいられるなら。今は。
「それでも、一緒にいたい……歪んでても、誰にもわかってもらえなくてもいいから……」
 必死な顔。緊張のせいか、握った手の指先が血の気を失っている。力を入れすぎているのだろう。ほんの少しだけ、声も震えていた。
 一連の言葉を静かに聞いていた杉野は、そこまで聞き終えると、静かに息をついた。それは諦めなのか、嘲笑なのか――そんなことを考えていた時、杉野は口を開いた。
「じゃあさ……見せてみろよ」
「「?」」
 杉野の台詞を理解できずに、俺と風澄は頭の中にクエスチョンマークを浮かべる。その疑問は、次の台詞で突拍子もない回答を得た。
「今度は堂々と……どれだけ、おまえたちが想いあってるのか、見せてみろ」
「「は!?」」
 俺たちは同時に素っ頓狂な声をあげてしまった。
 って……まさか、そういう意味か? そうなんだよな? おいおいマジかよ!? なんなんだこいつは。マゾか? まさか『今夜のオカズ』にしようなんて考えてないだろうな。そんな方向にしか思考がいかない俺も俺だが。
 風澄も、すぐにその意味に気づいたようだった。どぎまぎして、口をぱくぱくさせてる。そりゃあ唖然とするだろうな、こんな提案。俺だってぎょっとしてるし。
「俺に、わからせてみろ。……これで最後だ」
 あぁ、つまり……決定的なシーンを見せて、諦めさせろと。
 そういう要求か。
 ……、わからないこともないか。
 募る思いは、そうでもしなければ、決して断ち切れない。
 風澄が、恋人がいるとわかっていた『宗哉』に、それでも告白したように。
 そして、『宗哉』に関わるものを、生活の全てから排除したように。
「……風澄」
「はい……」
 ちょっと顔が赤いな。まぁ、そりゃそうだろう。
「協力、してくれるか?」
「っ……」
 どぎまぎしつつも、他に方法がないと気づいたのか、彼女は苦笑した。
「まぁ、一番効果的な方法だろ?」
「それって最悪な方法でもあるのよ、わかってる?」
 呆れながら、それでも風澄が笑ってる。普通の口調で。俺の、風澄だ。
「わかってる。でも」
 鬱陶しいから、それだけじゃない。
 中途半端な期待と、忘れられない想いの辛さを、知っているからだ。
「……いいよ。それが一番効果的だものね」
 そう風澄が言って、くすくすと俺たちは笑った。まさか本当にOKしてくれるとは思わなかったな。しかも、こんなにすんなりと。なだめすかしてやろうと思ったのに、拍子抜けだ。まぁ、それはさておき。
 元彼氏の御所望だしな――ここは、本当に本気でやるとするか。
「杉野。今何時だ?」
「え……三時半だけど」
「じゃあ、だいたい五時間ぶりか」
 朝別れたのは十時過ぎだったからな。そんなもんか、と呟いて、俺は言葉を続けた。
「望みどおり、見せてやる。これでわからないなら好きにしろ」
Line
To be continued.
2004.03.21.Sun.
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