その腕の中の楽園(エデン)
06.淫乱な聖女
* Kouki *
風澄が、俺の部屋に帰ってきた。
ほっとしたのもつかの間、彼女を迎え入れるやいなや、俺は気づいてしまった。
血の気のない、青ざめた顔。
目の赤み。その頬に確かに残る涙の跡。そして、自ら噛んだのであろう、口唇の傷。
予感はあった。カマもかけた。泣いたよなと聞いた。
だけど、これほどとは思わなかった。
こんなにはっきりと、無残な姿を残したまま風澄が俺のところに来るなんて。
本来の彼女なら、俺に心配をかけまいと、できる限り普通に見えるように整えて来るだろう。それに、大学から俺の部屋に着くまでに、人目に触れないはずがない。そんな時に虚勢を張らない彼女じゃないと思っていた。いつだって強く凛々しくて、弱い自分など滅多に見せたりなどしないと。
なのに、今の自分の姿など、まるで頭の中にはないようだった。
それほど呆然と、気が抜けたように彼女はそこに佇んでいた。
一瞬、最悪の事態が頭をよぎったけれど、それらしい傷や服装の乱れは見られない。かと言って事態が好転するわけではないけれど、それだけが救いだった。
けれど、一体なにが……!?
「どうした? なにがあった? あいつになにかされたのか?」
動転しながらそう聞いたら、彼女は力なく笑って言った。
「……なんでもないの」
電話の台詞を繰り返す。
明らかに、なんでもなくなんかないのに。
でも、俺に心配をかけまいとするその姿が切なくて、なにも言えなかった。
だから俺はなにも言わずに彼女を部屋にあげた。そして、とりあえず風呂に入るよう促した。あんな状態ではまともに話もできないだろうと思ったから、まず落ち着かせようと思ったんだ。それに、俺自身も落ち着かなければならなかったし。それから、あまりに消耗している彼女を見かねて食事を摂り、彼女の好みの紅茶を淹れた。だけど、いつもの俺たちの時間はそこにはなく、時々あたりさわりのない言葉を交わすだけだった。つたない会話が途切れるたびに訪れる沈黙は、気まずさよりも痛みを増した。
そして、ソファに同じ方向を向いて座り、まだ濡れていた髪をバスタオルで包み、後ろからゆっくり乾かしながら、風澄が口を開くのを待った。
彼女が紅茶を啜る音とバスタオルの擦れる音だけが響く室内。
前触れもなく、彼女は沈黙を破った。
「ね……昂貴は、自分のこと好き?」
無駄に広い部屋に、透明な声が響き渡る。小さな声だったのに、こんな時でもしっかりとした割舌と明瞭な発音は変わらない。それが皮肉に思えた。
「……『好き』とか『嫌い』とか、そういう言葉で説明するのは難しいけど……少なくとも、嫌いではないと思う」
具体的なようで抽象的な問いに、それでもきちんと答えを返す。どう答えたら正解なのかなんてわかりやしないけれど、だからこそ、余計なことを考えずに、正直に言った。
「そう……昂貴は、それだけのものを持ってるものね……」
確かに、俺は恵まれているほうだろう。それは充分承知している。だけど、風澄のほうこそ、俺なんか較べ物にならないほど、多くのものを持っているのに。たとえ過去にどれほど辛い想いを経験してきたとしても、それにめげることなく、屈辱を糧にして生きてきたんだから。そのことは、風澄自身だって充分わかっているだろうに……。
「風澄は、自分が嫌いなのか?」
答えのわかりきった問いを、それでも口にする。この会話の流れでは、否定されるはずもない言葉。どれほど他人に羨まれようと、本人が自分自身をどう思っているかは別問題だ。自覚の有無に関わらず。
家がいい、学歴がいい、見た目がいい……それは事実だ。だけど、だからと言って自分を好きになれるというわけじゃない。恵まれていれば恵まれているほど、羨まれれば羨まれるほど、自分自身が張りぼてに思えることもある。
「嫌いっていうか……」
「嫌いっていうか?」
躊躇と言うよりは言葉を選ぶ様子で、彼女は語尾を濁した。促して良いものかとも思ったが、このまま言葉を継げずにいるのも苦痛だろう。だから、せめて続けやすいように問いかける。今の状況から一歩でも進めるように。
「……消したくなる。時々」
ほんの一拍だけ間を置いて、彼女は呟いた。
自らを根本から否定する言葉を。
「もう、ね……何度、この世から消えてしまいたいって思ったか、わからないよ」
今、俺と同じ方向を向いている彼女の瞳は、当然の如く俺を映していない。
だけど、たとえ見つめあっていたとしても、その双眸は俺のことなど映しはしないだろう。
見なくてもわかる。あの目が――三年前、俺の心に刻まれたあの目が、あの日と同じように、絶望だけを湛えていると。
「ひとはみんな、私のことを褒めたり、羨ましがったりするけど……私のどこがそんなに羨ましいのよって思ってた。羨まれれば羨まれるほど、虚しかった」
正しい血筋。由緒ある家。莫大な資産。社会的な地位。怜悧な頭脳。目を引く容姿。そして、温かな家族と、信頼できる友人。
それでも――彼女は満たされない。
それは、贅沢なのだろうか?
誰より恵まれている者が、たったひとつ欲したものを得られずに泣くことは……。
ひとつくらい、得られぬものがあっても仕方ないと、諦めるべきなのだろうか。
たとえ、他の全てを捨ててでも、手に入れたいものだとしても……?
「こんな、こんな人間なのに、どこが……」
「風澄……」
「さっきだって、そう」
彼女が『さっき』と表現するからには、ほんの一時間ほど前だろうか。きっと、あの電話のすぐ前のことなんだろう。
今更ながらに、あの時連絡を取っておいて良かったと思う。お互いに電話は好きではないんだが、いつも夕方には来る彼女が連絡さえしてこないことが妙に気になって、気づいたら、家にいるときは滅多に手に取らない携帯を手にしていた。メールを送った後も通話ボタンはなかなか押せなかったのだが、一度かけて連絡が取れないとなると、半ば意地になって、一分と間を空けずにリダイヤルしたっけ。やっと通じたと思ったら、俺はもう逢いたくて仕方ないのに今日は逢えないとか言い出すもんだから止まらなくて、半ば強引に俺の部屋へ来させてしまった。――我ながら、おとなげないと思うけれど、結果がこうなんだからむしろ良かったんだろう。
「あんなこと言われて……でも、なにも言い返せなかった」
そして、わずかに天井を見上げて、彼女は呟いた。
頭にかけていたバスタオルが滑る。まだ湿気を残した髪が、はらりと落ちた。
いつも的確に、素早く言葉を返してくる彼女が、そんなことを言うなんて……。
「だって、事実だもの……」
否定すらしない。自分で自分のしていることを誰よりもよくわかっているからこそ、逃れようともせず、足掻くことさえもやめて、全てを諦めてしまう。
「私、何度同じことを繰り返せば気が済むんだろう……?」
繰り返すだけなら、動物でもできる。それとも、三歩歩けば忘れる鳥?
利発な子なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。なぜ、恋は理論通りにいかないのだろう。肝心な時に頭が働かない。そればかりが、うまくいかない。だから、彼女の心の堂々巡りは続く。このままでいていいはずもなければ、このままでいたいはずもないだろうに。抜け出す道は、どこにあるのだろうか……。
「……もう、自分が嫌で嫌で仕方ない……」
そう言うと、今度は下を向いて呟いた。
「自分を好きになってくれないひとにばかり惹かれて、なのに他の男に頼って、縋って……それでも忘れられなくて……結局、傷つけて」
消せない過去の罪状を告白し、自分への嫌悪感で心を一杯にして、彼女は呟く。
「……こんなのはもう嫌だって思ってるのに……」
泣いて、喚けばいいのに。
だけど、彼女はしない。……できない。
静かすぎるほど静かに、自分を傷つけるいばらの言葉を紡ぐだけ。
「昂貴と、離れたくないの」
目を逸らして、ぽつりと彼女は呟いた。
「あのひと以外は要らないって思ってたのに……心地いい場所を捨てる潔さも、消えてなくなる度胸も、ないの」
俺なんか要らないと言われているはずなのに、奇妙に心は静かだった。
命を絶つことさえ考えたと聞いても。
二十歳にさえならない、子供の恋。それでも、それは本気の恋だったのだ。子供だからこそ、駆け引きもわからず、ただ想いだけが全てで……大人になってしまった今は、若気の至りの笑い話にしかならないのだろうけれど――彼女は未だにそんな純粋な恋を貫き続ける。永遠に報われなくても。
そんなふうに誰かを想える彼女の純粋さこそが奇跡のように思えるのに……そのことが、彼女を苦しめる。なぜなら――想うだけでは決して満ち足りはしないから。
「……っ、最低……こんな女最低じゃない!」
そう叫ぶと、糸が切れたかのように、彼女は泣き出した。
俺の腕の中で。
絶え間なく響く嗚咽。
拭っても拭っても溢れる涙。
悲しみと苦しみに細い身体を震わせて。
そんな彼女を俺はただ、そっと抱きしめた。
……この子は何度こんな涙を流せば幸せになれるんだろう。
彼女の笑顔も、俺は知っている。
だけど、俺は本当に風澄の笑顔を見たことがあるのだろうか?
その下にこんな涙を秘めているのに。
どうして、彼女ばかりが傷つけられる?
代わってやれるならどんなにいいだろう。
せめて同じ体験をわかちあえたなら。
だけど俺にはその苦しみも悲しみもわからない。
俺にできることと言えば、ただ抱きしめるだけ。
気が済むまで泣かせて、見守るだけ。
そんなことしかできない自分が時にもどかしくもなるけれど、
だけど風澄は俺と一緒にいたいと言ってくれる。
風澄は何度こんなふうに涙を流したのだろう。
何度ひとりで泣いてきたのだろう。
だけど今は俺の腕の中で泣いてくれる。
泣いている風澄を抱きしめるたったひとりに俺を選んでくれている。
だからこそ、俺は風澄の本当の笑顔が見たい。
普段の笑顔だって充分に美しいけれど、
怒っても呆れても拗ねても途惑っても喘いでも泣き顔さえも綺麗だけど。
この子がいつか心から笑える日が来るのだろうか――?
……俺は風澄の涙を止められるたったひとりではないけれど。
風澄を泣かせていい、たったひとりでもないけれど……。
けれど、だからこそ許せないことがある。
こんな悲しい涙の、明らか過ぎるほどの原因。
だから俺は聞いた。風澄が落ち着くのを待って、静かに。
「あいつに、なにを言われたんだ……?」
「っ……」
「言えないならいいんだ。だけど……」
そうして長いこと、抱きしめたまま彼女の頭を撫でていた。そしてしばらく経って、風澄は口を開いた。
「また……っ、好きな、ひとにっ、振られて……っ、それで、他の男に……縋ってるんだろう、って……」
あぁ、そうか、あいつだって以前は今の俺と同じ立場だったんだ。
だけど俺は知ってる。それを望んだのは風澄自身ではないということを。
それを、自分で痛いほどわかりきってる。
俺もあいつも、風澄を手に入れたくて、そこにつけこんだんだ。
得たものは身体と立場。それで風澄の心を縛れるわけでもないのに。
「それだけ、か……?」
そう問うと、彼女は一瞬びくりと震えて、言った。
「……この、淫乱……って」
「な……!」
なんてやつだ……これが、仮にも昔つきあっていた女に言うことか? しかも多分、まだ忘れられていない女に。いくら自分のものじゃないからって……! ……だけど、その台詞を杉野に言わせたのは俺自身だ。俺が風澄を堕落させたのだから……。
そして彼女は言った。訴えるように。自分を責めながら。
「っ……こ、昂貴は……っ、……こんな、いっ、淫乱なんて……っく、言われる、ような、……女のっ、そばにぃ……どうして、いるのよぉ……」
嗚咽混じりの声。とめどなく涙を流して、言葉を途切れ途切れにしながら、それでも彼女は問う。ずたずたになった心を更に自分で傷つけて。
「風澄」
「っ……ふ……」
俺は湧き上がる怒りを抑えつけ、力の限り抱きしめたくなる気持ちを止めて、できる限りの優しさをこめて彼女を包んで、言った。
「責めるなら、俺を責めればいい」
「え……?」
そのままの体勢で俺を見上げる。無理な姿勢で痛いだろうに。
「おまえを、そんなふうにしたのは俺だから」
そう言うと、途端に風澄は身体を離し、今度はきちんと俺のほうを向いて、慌てるように首を振って否定した。
「そんな、違……だって昂貴は、私を……」
「……私を?」
「助けてくれたもの。救ってくれたもの。ずっとずっと苦しくてたまらなかったのに、そこから解き放ってくれたもの。私ひとりじゃ無理だった。ひとりで歩いていかなきゃって思ってたのに、昂貴に縋らなきゃいられなかった私が駄目なんだもの……」
必死な目。縋りつく手。俺は彼女の求める相手じゃないと知っている。だけど、触れ合ったところからぬくもりを感じるのは――生きているから。
三年前に、彼女が生きることを放棄していたら、今のこの時間はなかった。痛みを抱きしめたまま、それでも生きてきてくれたからこそ、俺は今こうして彼女と一緒にいられる。
その日々がどれほど彼女を苛んだとしても、俺はそのことを喜んでしまうのだろう。
そのことが、罪であっても。
「だけど、おまえをあんなに乱れる女にしたのは俺だぜ?」
「……そうだけど……だけど、それは、宗哉を忘れさせるためで……」
「忘れたのか?」
「え……?」
「おまえはまだ……忘れられてなんか、いないだろう……」
「…………」
否定の言葉をわずかに期待しながら問うた言葉に、返ってきたのは沈黙。
……やっぱり、そうだよな……。
一度ついた傷は、なかなか消せるものじゃない。刻まれた想いも。
たったひとつの悲しみを癒すために、なにが必要なのだろう。時間か……それとも、悲しみを凌駕するほどの想い……?
俺はこの子に、一体なにができるのだろう。なにをすべきなのだろう。
どうしたら、あの堂々巡りの地獄から風澄を救えるんだ?
俺だけを見て欲しいという欲求以上に、彼女の悲しみを癒したかった。
それとも、こんな思いは傲慢なんだろうか。風澄が前に言ったように……。
だけど、ただ、俺は彼女に笑っていて欲しいだけ。
俺のしたことで、彼女の笑顔を取り戻したかった。
たとえ傲慢でも、それを願って、できる限りのことをしたかった。
だって、彼女の笑顔が、俺を幸福にしてくれるのだから……。
「だから……俺を責めて……憎んで、いいよ」
「なっ……」
「憎まれても、嫌われても、邪魔にされても……そばにいる」
「……!」
「嫌だって言っても、離さない。……前にもそう言ったよな?」
「あ……」
「こいつが自分を汚したんだって、俺を憎んで、恨めよ」
「そんな……そんなこと思ってない!」
そう言ってくれるのも、俺はどこかでわかってる。
初めて出逢った時とはまるで違う、彼女の態度、行動、言動。
今の風澄は俺を認め、共に過ごしてくれる。
そして、この関係が変化しつつあるということに、しだいに気づき始めてる。
いつの間にかこうしていることが自然になってしまっていた。
共に在ることを望んでいる。知らず知らずのうちに。
誰よりもいちばん近くにいる、誰よりも理解しあえる、誰よりも大切な存在――。
風澄を見つめれば、自然に自分が微笑んでいるのがわかる。
今までに知らなかったほど穏やかな心。
なのに心は燃えて、想いはただ彼女だけに向かっていく。
たとえ、彼女の気持ちが恋でなかったとしても。
「だから……おまえは、自分を憎むな」
「……え?」
「自分自身を否定するな。……自分で自分を見捨てたり、貶(おとし)めたりなんてことは、決してするべきじゃない」
「あ……」
彼女の凛としたたたずまいが好きだった。超然として、涼やかな風を身にまとい、ただひとり聖域にいるかのようなあの立ち姿。そして、誇り高く毅然とした、決して他人に媚びない鋭い目線。あれは、恵まれた生に甘んじた驕慢の視線じゃない。悲しみにも苦しみにも負けることを赦さない、不屈の闘志。
取り戻して欲しかった。
穢されたくなかった。この世の誰にも。
「自分のためにそう思えないなら、風澄の側にいる人間のために、そう思えばいい」
「……どういう、こと……?」
ごくり、と風澄が唾を飲み込む音がする。俺を見上げて見つめる、まっすぐな目。だけどその頬には涙の筋が残ってる……。
胸の奥が、ずきんと痛む。
俺が傷つけたわけじゃないけれど、俺が護れなかったのが口惜しい。
護りたかった。
その場で、彼女を守護する唯一絶対のものになりたかった。
いいように使われる盾でもなんでも構わないから。
――昔、仏教についてかじったことがある。その時読んだ本に、仏教の言葉で、この世のことを忍土(にんど)と言うと書いてあった。耐え忍んで生きる場所なのだと。
その言葉の通り、生きていれば辛い思いをせずにはいられない。腹が立つことも、悲しいこともたくさんある。それは、ひとりひとり、誰もがあたりまえに経験することだ。俺も風澄も、恵まれていようがいまいが、そのことからは逃れられない。
だけど、そんな時に彼女の力になれないのは嫌だと思った。なにもできないとしても、そばにいたかった。隣にいたら、ほんの少しでもできることがあるかもしれない。
耐える心はひとつでも、手は繋げるから。
「風澄は自分を否定するけど、自分の親しい人間を否定したりなんかしないだろう?」
ゆっくりと、俺は語り始めた。彼女の涙に濡れた瞳を見つめて、そっと髪を撫でながら。
「……だって、否定するところなんてないじゃない、みんな……」
「でもさ、大なり小なり欠点はあるだろ、誰にでも」
「……うん……そうだけど」
「例えば……そうだな、風澄の友達の、『橘さん』のいいところって、どこだ?」
どこか釈然としない様子だったので、俺は具体例を出すことにした。よくは知らないけれど、以前交友関係を尋ねた時に聞いた名前。橘さんと知り合うまで、本当の意味で親しい友人など、ひとりもいなかったのだという。それからはずっと一緒で、付属時代には生徒会でも協力し合い、今は同じ文学部の違う専攻にいるそうだ。きっと、彼女が最も信じ、頼る存在……。
「……最華? そうね……いつでも、誰にでもズバズバ言って、嘘をつかなくて、裏表のないところかな……私は、自分にはどこか裏表があるような気がするから、そういう、まっすぐな姿勢が好きなの」
「へぇ……」
俺はその本人に会ったことはない。風澄の友人の話を詳しく聞くのも初めてだった。けれど、どれほど、風澄が『橘最華さん』を信頼しているのかは、想像に難くない。
「まぁ、残酷なほど率直だけどね。厳しいなぁって思う時もあるよ……だけど、そういうこと言ってくれるひとって、それまでにはいなかったから……」
「長所は短所に通ず、ってな」
そんな会話を交わすうちに、少しずつ、悲しみに閉ざされていた表情が和らいできた。それも、その『橘さん』の力なんだろうか……。
「うん。そこが嫌っていうわけじゃなくてね、きついけど、ありがたいなって思うの」
「だからさ……たぶん、そこも含めて、好きなんだよな」
「あ……あぁ、そっか……そうか、そうだよね。許せないところはないもの」
諭すように、ゆっくりと語りかける。
どう言えばいいのかなんて本当はまるでわからない。
ただ、わかって欲しかった。俺の気持ちを。
大切な存在が、自分で自分を傷つけている。それがどれほど痛ましいか。
知らなかった、こんな気持ち。自分が傷つけられるよりも切ないだなんて。
偽善のような本心。
「じゃあ、風澄は……周りにいる奴らの好きなものとか、否定するか?」
「……ううん、そんなことない」
「それは、どうしてだ?」
「……違う人間だから、わかりあえないことはいっぱいあるし、合わないこともたくさんあるけど……でも、否定はしたくないし、しない。私がわからないっていうだけなんだもの。私だって、わからなかったり、合わないからなんて理由で否定されたくないもの」
「じゃあさ……風澄は周りにいる奴らのこと、好きだよな?」
「うん。嫌いなひととなんて一緒にいられないもの」
そう言い切れるのは、風澄がそうやってきちんと友人を選んできたからだろう。自分がどれほど特殊な状況下に育ったかわかっていて、その上で信頼できる存在だけを信じてきたからだ。ゆっくりと、だからこそ堅い友情を育んできたのだろう。
俺も、そのひとりだと思っていいだろうか……。
友人になりたいわけじゃない。けれど、彼女のよき友人でもありたいと思った。
「だったら、風澄の好きな人間が好きな風澄を、否定するなよ」
「……!」
「それでも、駄目なら……」
そっと彼女を抱き寄せて、額を触れ合わせ、目を見つめて囁く。キスになりそうでならない、寸前の距離で。
「……俺のために、風澄を否定しないで欲しい。決して」
いちばん、伝えたかったこと。
本心は云えないけれど、俺が彼女を大切に想っていることはわかっていて欲しかった。
彼女はどう受け止めただろうか。
傲慢な台詞だと、軽蔑されるだろうか?
一抹の不安は、すぐに、彼女の柔らかな微笑でかき消された。
「昂貴って、すごいね……そんなふうに考えるんだ」
「いや、風澄見てたらそう思った。なんつうか、俺の好きな風澄を風澄自身に否定されるのが悲しくてさ」
やべ。つい本心を言っちまった。
そんな俺に、彼女はまた、ふわっと微笑んでくれた。
「うん……そうだね。私も昂貴を昂貴自身に否定されたら悲しいと思う」
好き、の意味は伝わらなかったみたいだけれど。
気持ちはきちんと伝わったようだった。
「……できないよ。昂貴を憎んだり、嫌ったりなんて」
「うん」
「ありがとう……」
自然に、そっと口唇が重なった。そして、そのまましっかりと抱きしめ合う。優しい抱擁と、くちづけ。出逢った頃にはなかった時間。それが今は自然にある。
「それにさ……風澄」
「ん……?」
「あの日、俺に抱かれるまで……初めてじゃなかったけど、おまえは知らなかったって言ってたよな? 本当の快楽ってものをさ……」
「うん……」
恥ずかしがりながらも、彼女は肯定してくれる。それが嬉しかった。
「俺もそうだった。あんな気持ちのいいセックスしたの、生まれて初めてだった」
「……本当?」
抱きしめかえす、彼女のその手に力がこもる。細いけれど、あたたかなぬくもり。
「本当だって。言っただろ? 較べるのも馬鹿馬鹿しいくらい段違いに良かったって」
「……うん」
「だから、おまえが淫乱になったとしたら、それは俺とのセックスが良すぎるせいで」
これって結構、恥ずかしい台詞だよな。でも、そう思ってる。本当に。
「俺の腕の中でなかったら……俺が相手でなかったら、おまえは淫乱になんかならない。感じない。俺だけだ。……そうだよな?」
「……うん」
目を見つめあえば、彼女も語りかけてくれる。俺に。
俺だけに。
「こんな、触れ合うだけで安心して、心地よくて……たまらなく気持ちいいの、昂貴に出逢うまで想像もしてなかった」
「だからさ」
「ん?」
「いいじゃないか、淫乱って言われても。俺のすることにだけ反応して……俺だけなんだぜ? そんなの、淫乱って言わないだろ。誰でもいいわけじゃないんだから」
「昂貴は、それで……いいの?」
淫乱な女なんか相手していて? って顔してる。答えるまでもないさそんなこと。
「かえって嬉しいよ、俺の腕の中だけ乱れる女なんて」
「やぁだぁ……」
ふたりしてくすくす笑って、俺たちはまたキスをした。
「どんな風澄でも構わない。俺と一緒にいるときや、俺の腕の中にいるときは、素直で淫らな風澄だともっと嬉しいけどな」
「淫らなほうがいいなんて……変なの」
「そうか? 誰だって、快楽を共有する女には、自分にだけ、淫乱でいて欲しいもんだと思うよ……淫乱な聖女、貞淑な娼婦、猥雑な淑女で……」
「うん……」
「風澄は俺にだけ淫乱だなんて……最高じゃん、それ。どんどん、もっと乱れろよ……どんどんいやらしくなれよ。そうして俺を誘ってさ」
「や、やだ……そんなの……」
今度は真っ赤になって、本気で照れてる。
「今だって風澄が可愛くて、風澄としたくてたまらないんだぜ? 知らないだろ? 自分が四六時中、俺をどんなに誘惑しまくってるか……」
吐息のかかる距離で、ひそやかにささやきあいながら、言葉を交わす。
「……ごめんね? こんな時に……その、きちゃって……」
「いや、いいんだよ。風澄が健康ってことだし。だけど……」
「え……?」
「終わったら、駄目って言っても寝かせないぜ? 一週間分、きっちり支払ってもらうから」
「やあぁん……もぉ、馬鹿あぁ……」
でも風澄は、そこで、ありがと昂貴、と言ってくれた。
そして、ふたりで寝室に行き、おやすみのキスをして、手を繋いで横になる。
眠る間際に、そっと囁いた。
「風澄……必ず、決着をつけるからな」
「え……?」
「決して、このままじゃおかないから……」
「そんな……もう、いいのに……」
「俺の気が済まないんだよ。……大丈夫、風澄の嫌がることは決してしないから」
「うん……わかってる」
そうして風澄は眠りについた。俺の腕の中で、手を繋ぎながら。
だけど、その頬を伝った涙の跡が、深く無遠慮につけられた心の傷を示してた。
…………許さない、杉野琢磨…………!
それにしても、『淫乱』か……言ってくれるじゃないか。
風澄を侮辱した罰は受けてもらおう。
風澄を淫乱にできなかった男の負け犬の遠吠えだと、教えてやる。
風澄を傷つけた――許せるはずもない。
詰るなら俺を詰ればいい。全て俺のしたことなんだから。
だけどその矛先を風澄に向けるというなら。
……いいだろう。完膚なきまでに、叩きのめしてやる。
風澄を傷つける奴は、許さない。少なくとも、風澄が俺の隣にいるうちは。
風澄が、俺の部屋に帰ってきた。
ほっとしたのもつかの間、彼女を迎え入れるやいなや、俺は気づいてしまった。
血の気のない、青ざめた顔。
目の赤み。その頬に確かに残る涙の跡。そして、自ら噛んだのであろう、口唇の傷。
予感はあった。カマもかけた。泣いたよなと聞いた。
だけど、これほどとは思わなかった。
こんなにはっきりと、無残な姿を残したまま風澄が俺のところに来るなんて。
本来の彼女なら、俺に心配をかけまいと、できる限り普通に見えるように整えて来るだろう。それに、大学から俺の部屋に着くまでに、人目に触れないはずがない。そんな時に虚勢を張らない彼女じゃないと思っていた。いつだって強く凛々しくて、弱い自分など滅多に見せたりなどしないと。
なのに、今の自分の姿など、まるで頭の中にはないようだった。
それほど呆然と、気が抜けたように彼女はそこに佇んでいた。
一瞬、最悪の事態が頭をよぎったけれど、それらしい傷や服装の乱れは見られない。かと言って事態が好転するわけではないけれど、それだけが救いだった。
けれど、一体なにが……!?
「どうした? なにがあった? あいつになにかされたのか?」
動転しながらそう聞いたら、彼女は力なく笑って言った。
「……なんでもないの」
電話の台詞を繰り返す。
明らかに、なんでもなくなんかないのに。
でも、俺に心配をかけまいとするその姿が切なくて、なにも言えなかった。
だから俺はなにも言わずに彼女を部屋にあげた。そして、とりあえず風呂に入るよう促した。あんな状態ではまともに話もできないだろうと思ったから、まず落ち着かせようと思ったんだ。それに、俺自身も落ち着かなければならなかったし。それから、あまりに消耗している彼女を見かねて食事を摂り、彼女の好みの紅茶を淹れた。だけど、いつもの俺たちの時間はそこにはなく、時々あたりさわりのない言葉を交わすだけだった。つたない会話が途切れるたびに訪れる沈黙は、気まずさよりも痛みを増した。
そして、ソファに同じ方向を向いて座り、まだ濡れていた髪をバスタオルで包み、後ろからゆっくり乾かしながら、風澄が口を開くのを待った。
彼女が紅茶を啜る音とバスタオルの擦れる音だけが響く室内。
前触れもなく、彼女は沈黙を破った。
「ね……昂貴は、自分のこと好き?」
無駄に広い部屋に、透明な声が響き渡る。小さな声だったのに、こんな時でもしっかりとした割舌と明瞭な発音は変わらない。それが皮肉に思えた。
「……『好き』とか『嫌い』とか、そういう言葉で説明するのは難しいけど……少なくとも、嫌いではないと思う」
具体的なようで抽象的な問いに、それでもきちんと答えを返す。どう答えたら正解なのかなんてわかりやしないけれど、だからこそ、余計なことを考えずに、正直に言った。
「そう……昂貴は、それだけのものを持ってるものね……」
確かに、俺は恵まれているほうだろう。それは充分承知している。だけど、風澄のほうこそ、俺なんか較べ物にならないほど、多くのものを持っているのに。たとえ過去にどれほど辛い想いを経験してきたとしても、それにめげることなく、屈辱を糧にして生きてきたんだから。そのことは、風澄自身だって充分わかっているだろうに……。
「風澄は、自分が嫌いなのか?」
答えのわかりきった問いを、それでも口にする。この会話の流れでは、否定されるはずもない言葉。どれほど他人に羨まれようと、本人が自分自身をどう思っているかは別問題だ。自覚の有無に関わらず。
家がいい、学歴がいい、見た目がいい……それは事実だ。だけど、だからと言って自分を好きになれるというわけじゃない。恵まれていれば恵まれているほど、羨まれれば羨まれるほど、自分自身が張りぼてに思えることもある。
「嫌いっていうか……」
「嫌いっていうか?」
躊躇と言うよりは言葉を選ぶ様子で、彼女は語尾を濁した。促して良いものかとも思ったが、このまま言葉を継げずにいるのも苦痛だろう。だから、せめて続けやすいように問いかける。今の状況から一歩でも進めるように。
「……消したくなる。時々」
ほんの一拍だけ間を置いて、彼女は呟いた。
自らを根本から否定する言葉を。
「もう、ね……何度、この世から消えてしまいたいって思ったか、わからないよ」
今、俺と同じ方向を向いている彼女の瞳は、当然の如く俺を映していない。
だけど、たとえ見つめあっていたとしても、その双眸は俺のことなど映しはしないだろう。
見なくてもわかる。あの目が――三年前、俺の心に刻まれたあの目が、あの日と同じように、絶望だけを湛えていると。
「ひとはみんな、私のことを褒めたり、羨ましがったりするけど……私のどこがそんなに羨ましいのよって思ってた。羨まれれば羨まれるほど、虚しかった」
正しい血筋。由緒ある家。莫大な資産。社会的な地位。怜悧な頭脳。目を引く容姿。そして、温かな家族と、信頼できる友人。
それでも――彼女は満たされない。
それは、贅沢なのだろうか?
誰より恵まれている者が、たったひとつ欲したものを得られずに泣くことは……。
ひとつくらい、得られぬものがあっても仕方ないと、諦めるべきなのだろうか。
たとえ、他の全てを捨ててでも、手に入れたいものだとしても……?
「こんな、こんな人間なのに、どこが……」
「風澄……」
「さっきだって、そう」
彼女が『さっき』と表現するからには、ほんの一時間ほど前だろうか。きっと、あの電話のすぐ前のことなんだろう。
今更ながらに、あの時連絡を取っておいて良かったと思う。お互いに電話は好きではないんだが、いつも夕方には来る彼女が連絡さえしてこないことが妙に気になって、気づいたら、家にいるときは滅多に手に取らない携帯を手にしていた。メールを送った後も通話ボタンはなかなか押せなかったのだが、一度かけて連絡が取れないとなると、半ば意地になって、一分と間を空けずにリダイヤルしたっけ。やっと通じたと思ったら、俺はもう逢いたくて仕方ないのに今日は逢えないとか言い出すもんだから止まらなくて、半ば強引に俺の部屋へ来させてしまった。――我ながら、おとなげないと思うけれど、結果がこうなんだからむしろ良かったんだろう。
「あんなこと言われて……でも、なにも言い返せなかった」
そして、わずかに天井を見上げて、彼女は呟いた。
頭にかけていたバスタオルが滑る。まだ湿気を残した髪が、はらりと落ちた。
いつも的確に、素早く言葉を返してくる彼女が、そんなことを言うなんて……。
「だって、事実だもの……」
否定すらしない。自分で自分のしていることを誰よりもよくわかっているからこそ、逃れようともせず、足掻くことさえもやめて、全てを諦めてしまう。
「私、何度同じことを繰り返せば気が済むんだろう……?」
繰り返すだけなら、動物でもできる。それとも、三歩歩けば忘れる鳥?
利発な子なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。なぜ、恋は理論通りにいかないのだろう。肝心な時に頭が働かない。そればかりが、うまくいかない。だから、彼女の心の堂々巡りは続く。このままでいていいはずもなければ、このままでいたいはずもないだろうに。抜け出す道は、どこにあるのだろうか……。
「……もう、自分が嫌で嫌で仕方ない……」
そう言うと、今度は下を向いて呟いた。
「自分を好きになってくれないひとにばかり惹かれて、なのに他の男に頼って、縋って……それでも忘れられなくて……結局、傷つけて」
消せない過去の罪状を告白し、自分への嫌悪感で心を一杯にして、彼女は呟く。
「……こんなのはもう嫌だって思ってるのに……」
泣いて、喚けばいいのに。
だけど、彼女はしない。……できない。
静かすぎるほど静かに、自分を傷つけるいばらの言葉を紡ぐだけ。
「昂貴と、離れたくないの」
目を逸らして、ぽつりと彼女は呟いた。
「あのひと以外は要らないって思ってたのに……心地いい場所を捨てる潔さも、消えてなくなる度胸も、ないの」
俺なんか要らないと言われているはずなのに、奇妙に心は静かだった。
命を絶つことさえ考えたと聞いても。
二十歳にさえならない、子供の恋。それでも、それは本気の恋だったのだ。子供だからこそ、駆け引きもわからず、ただ想いだけが全てで……大人になってしまった今は、若気の至りの笑い話にしかならないのだろうけれど――彼女は未だにそんな純粋な恋を貫き続ける。永遠に報われなくても。
そんなふうに誰かを想える彼女の純粋さこそが奇跡のように思えるのに……そのことが、彼女を苦しめる。なぜなら――想うだけでは決して満ち足りはしないから。
「……っ、最低……こんな女最低じゃない!」
そう叫ぶと、糸が切れたかのように、彼女は泣き出した。
俺の腕の中で。
絶え間なく響く嗚咽。
拭っても拭っても溢れる涙。
悲しみと苦しみに細い身体を震わせて。
そんな彼女を俺はただ、そっと抱きしめた。
……この子は何度こんな涙を流せば幸せになれるんだろう。
彼女の笑顔も、俺は知っている。
だけど、俺は本当に風澄の笑顔を見たことがあるのだろうか?
その下にこんな涙を秘めているのに。
どうして、彼女ばかりが傷つけられる?
代わってやれるならどんなにいいだろう。
せめて同じ体験をわかちあえたなら。
だけど俺にはその苦しみも悲しみもわからない。
俺にできることと言えば、ただ抱きしめるだけ。
気が済むまで泣かせて、見守るだけ。
そんなことしかできない自分が時にもどかしくもなるけれど、
だけど風澄は俺と一緒にいたいと言ってくれる。
風澄は何度こんなふうに涙を流したのだろう。
何度ひとりで泣いてきたのだろう。
だけど今は俺の腕の中で泣いてくれる。
泣いている風澄を抱きしめるたったひとりに俺を選んでくれている。
だからこそ、俺は風澄の本当の笑顔が見たい。
普段の笑顔だって充分に美しいけれど、
怒っても呆れても拗ねても途惑っても喘いでも泣き顔さえも綺麗だけど。
この子がいつか心から笑える日が来るのだろうか――?
……俺は風澄の涙を止められるたったひとりではないけれど。
風澄を泣かせていい、たったひとりでもないけれど……。
けれど、だからこそ許せないことがある。
こんな悲しい涙の、明らか過ぎるほどの原因。
だから俺は聞いた。風澄が落ち着くのを待って、静かに。
「あいつに、なにを言われたんだ……?」
「っ……」
「言えないならいいんだ。だけど……」
そうして長いこと、抱きしめたまま彼女の頭を撫でていた。そしてしばらく経って、風澄は口を開いた。
「また……っ、好きな、ひとにっ、振られて……っ、それで、他の男に……縋ってるんだろう、って……」
あぁ、そうか、あいつだって以前は今の俺と同じ立場だったんだ。
だけど俺は知ってる。それを望んだのは風澄自身ではないということを。
それを、自分で痛いほどわかりきってる。
俺もあいつも、風澄を手に入れたくて、そこにつけこんだんだ。
得たものは身体と立場。それで風澄の心を縛れるわけでもないのに。
「それだけ、か……?」
そう問うと、彼女は一瞬びくりと震えて、言った。
「……この、淫乱……って」
「な……!」
なんてやつだ……これが、仮にも昔つきあっていた女に言うことか? しかも多分、まだ忘れられていない女に。いくら自分のものじゃないからって……! ……だけど、その台詞を杉野に言わせたのは俺自身だ。俺が風澄を堕落させたのだから……。
そして彼女は言った。訴えるように。自分を責めながら。
「っ……こ、昂貴は……っ、……こんな、いっ、淫乱なんて……っく、言われる、ような、……女のっ、そばにぃ……どうして、いるのよぉ……」
嗚咽混じりの声。とめどなく涙を流して、言葉を途切れ途切れにしながら、それでも彼女は問う。ずたずたになった心を更に自分で傷つけて。
「風澄」
「っ……ふ……」
俺は湧き上がる怒りを抑えつけ、力の限り抱きしめたくなる気持ちを止めて、できる限りの優しさをこめて彼女を包んで、言った。
「責めるなら、俺を責めればいい」
「え……?」
そのままの体勢で俺を見上げる。無理な姿勢で痛いだろうに。
「おまえを、そんなふうにしたのは俺だから」
そう言うと、途端に風澄は身体を離し、今度はきちんと俺のほうを向いて、慌てるように首を振って否定した。
「そんな、違……だって昂貴は、私を……」
「……私を?」
「助けてくれたもの。救ってくれたもの。ずっとずっと苦しくてたまらなかったのに、そこから解き放ってくれたもの。私ひとりじゃ無理だった。ひとりで歩いていかなきゃって思ってたのに、昂貴に縋らなきゃいられなかった私が駄目なんだもの……」
必死な目。縋りつく手。俺は彼女の求める相手じゃないと知っている。だけど、触れ合ったところからぬくもりを感じるのは――生きているから。
三年前に、彼女が生きることを放棄していたら、今のこの時間はなかった。痛みを抱きしめたまま、それでも生きてきてくれたからこそ、俺は今こうして彼女と一緒にいられる。
その日々がどれほど彼女を苛んだとしても、俺はそのことを喜んでしまうのだろう。
そのことが、罪であっても。
「だけど、おまえをあんなに乱れる女にしたのは俺だぜ?」
「……そうだけど……だけど、それは、宗哉を忘れさせるためで……」
「忘れたのか?」
「え……?」
「おまえはまだ……忘れられてなんか、いないだろう……」
「…………」
否定の言葉をわずかに期待しながら問うた言葉に、返ってきたのは沈黙。
……やっぱり、そうだよな……。
一度ついた傷は、なかなか消せるものじゃない。刻まれた想いも。
たったひとつの悲しみを癒すために、なにが必要なのだろう。時間か……それとも、悲しみを凌駕するほどの想い……?
俺はこの子に、一体なにができるのだろう。なにをすべきなのだろう。
どうしたら、あの堂々巡りの地獄から風澄を救えるんだ?
俺だけを見て欲しいという欲求以上に、彼女の悲しみを癒したかった。
それとも、こんな思いは傲慢なんだろうか。風澄が前に言ったように……。
だけど、ただ、俺は彼女に笑っていて欲しいだけ。
俺のしたことで、彼女の笑顔を取り戻したかった。
たとえ傲慢でも、それを願って、できる限りのことをしたかった。
だって、彼女の笑顔が、俺を幸福にしてくれるのだから……。
「だから……俺を責めて……憎んで、いいよ」
「なっ……」
「憎まれても、嫌われても、邪魔にされても……そばにいる」
「……!」
「嫌だって言っても、離さない。……前にもそう言ったよな?」
「あ……」
「こいつが自分を汚したんだって、俺を憎んで、恨めよ」
「そんな……そんなこと思ってない!」
そう言ってくれるのも、俺はどこかでわかってる。
初めて出逢った時とはまるで違う、彼女の態度、行動、言動。
今の風澄は俺を認め、共に過ごしてくれる。
そして、この関係が変化しつつあるということに、しだいに気づき始めてる。
いつの間にかこうしていることが自然になってしまっていた。
共に在ることを望んでいる。知らず知らずのうちに。
誰よりもいちばん近くにいる、誰よりも理解しあえる、誰よりも大切な存在――。
風澄を見つめれば、自然に自分が微笑んでいるのがわかる。
今までに知らなかったほど穏やかな心。
なのに心は燃えて、想いはただ彼女だけに向かっていく。
たとえ、彼女の気持ちが恋でなかったとしても。
「だから……おまえは、自分を憎むな」
「……え?」
「自分自身を否定するな。……自分で自分を見捨てたり、貶(おとし)めたりなんてことは、決してするべきじゃない」
「あ……」
彼女の凛としたたたずまいが好きだった。超然として、涼やかな風を身にまとい、ただひとり聖域にいるかのようなあの立ち姿。そして、誇り高く毅然とした、決して他人に媚びない鋭い目線。あれは、恵まれた生に甘んじた驕慢の視線じゃない。悲しみにも苦しみにも負けることを赦さない、不屈の闘志。
取り戻して欲しかった。
穢されたくなかった。この世の誰にも。
「自分のためにそう思えないなら、風澄の側にいる人間のために、そう思えばいい」
「……どういう、こと……?」
ごくり、と風澄が唾を飲み込む音がする。俺を見上げて見つめる、まっすぐな目。だけどその頬には涙の筋が残ってる……。
胸の奥が、ずきんと痛む。
俺が傷つけたわけじゃないけれど、俺が護れなかったのが口惜しい。
護りたかった。
その場で、彼女を守護する唯一絶対のものになりたかった。
いいように使われる盾でもなんでも構わないから。
――昔、仏教についてかじったことがある。その時読んだ本に、仏教の言葉で、この世のことを忍土(にんど)と言うと書いてあった。耐え忍んで生きる場所なのだと。
その言葉の通り、生きていれば辛い思いをせずにはいられない。腹が立つことも、悲しいこともたくさんある。それは、ひとりひとり、誰もがあたりまえに経験することだ。俺も風澄も、恵まれていようがいまいが、そのことからは逃れられない。
だけど、そんな時に彼女の力になれないのは嫌だと思った。なにもできないとしても、そばにいたかった。隣にいたら、ほんの少しでもできることがあるかもしれない。
耐える心はひとつでも、手は繋げるから。
「風澄は自分を否定するけど、自分の親しい人間を否定したりなんかしないだろう?」
ゆっくりと、俺は語り始めた。彼女の涙に濡れた瞳を見つめて、そっと髪を撫でながら。
「……だって、否定するところなんてないじゃない、みんな……」
「でもさ、大なり小なり欠点はあるだろ、誰にでも」
「……うん……そうだけど」
「例えば……そうだな、風澄の友達の、『橘さん』のいいところって、どこだ?」
どこか釈然としない様子だったので、俺は具体例を出すことにした。よくは知らないけれど、以前交友関係を尋ねた時に聞いた名前。橘さんと知り合うまで、本当の意味で親しい友人など、ひとりもいなかったのだという。それからはずっと一緒で、付属時代には生徒会でも協力し合い、今は同じ文学部の違う専攻にいるそうだ。きっと、彼女が最も信じ、頼る存在……。
「……最華? そうね……いつでも、誰にでもズバズバ言って、嘘をつかなくて、裏表のないところかな……私は、自分にはどこか裏表があるような気がするから、そういう、まっすぐな姿勢が好きなの」
「へぇ……」
俺はその本人に会ったことはない。風澄の友人の話を詳しく聞くのも初めてだった。けれど、どれほど、風澄が『橘最華さん』を信頼しているのかは、想像に難くない。
「まぁ、残酷なほど率直だけどね。厳しいなぁって思う時もあるよ……だけど、そういうこと言ってくれるひとって、それまでにはいなかったから……」
「長所は短所に通ず、ってな」
そんな会話を交わすうちに、少しずつ、悲しみに閉ざされていた表情が和らいできた。それも、その『橘さん』の力なんだろうか……。
「うん。そこが嫌っていうわけじゃなくてね、きついけど、ありがたいなって思うの」
「だからさ……たぶん、そこも含めて、好きなんだよな」
「あ……あぁ、そっか……そうか、そうだよね。許せないところはないもの」
諭すように、ゆっくりと語りかける。
どう言えばいいのかなんて本当はまるでわからない。
ただ、わかって欲しかった。俺の気持ちを。
大切な存在が、自分で自分を傷つけている。それがどれほど痛ましいか。
知らなかった、こんな気持ち。自分が傷つけられるよりも切ないだなんて。
偽善のような本心。
「じゃあ、風澄は……周りにいる奴らの好きなものとか、否定するか?」
「……ううん、そんなことない」
「それは、どうしてだ?」
「……違う人間だから、わかりあえないことはいっぱいあるし、合わないこともたくさんあるけど……でも、否定はしたくないし、しない。私がわからないっていうだけなんだもの。私だって、わからなかったり、合わないからなんて理由で否定されたくないもの」
「じゃあさ……風澄は周りにいる奴らのこと、好きだよな?」
「うん。嫌いなひととなんて一緒にいられないもの」
そう言い切れるのは、風澄がそうやってきちんと友人を選んできたからだろう。自分がどれほど特殊な状況下に育ったかわかっていて、その上で信頼できる存在だけを信じてきたからだ。ゆっくりと、だからこそ堅い友情を育んできたのだろう。
俺も、そのひとりだと思っていいだろうか……。
友人になりたいわけじゃない。けれど、彼女のよき友人でもありたいと思った。
「だったら、風澄の好きな人間が好きな風澄を、否定するなよ」
「……!」
「それでも、駄目なら……」
そっと彼女を抱き寄せて、額を触れ合わせ、目を見つめて囁く。キスになりそうでならない、寸前の距離で。
「……俺のために、風澄を否定しないで欲しい。決して」
いちばん、伝えたかったこと。
本心は云えないけれど、俺が彼女を大切に想っていることはわかっていて欲しかった。
彼女はどう受け止めただろうか。
傲慢な台詞だと、軽蔑されるだろうか?
一抹の不安は、すぐに、彼女の柔らかな微笑でかき消された。
「昂貴って、すごいね……そんなふうに考えるんだ」
「いや、風澄見てたらそう思った。なんつうか、俺の好きな風澄を風澄自身に否定されるのが悲しくてさ」
やべ。つい本心を言っちまった。
そんな俺に、彼女はまた、ふわっと微笑んでくれた。
「うん……そうだね。私も昂貴を昂貴自身に否定されたら悲しいと思う」
好き、の意味は伝わらなかったみたいだけれど。
気持ちはきちんと伝わったようだった。
「……できないよ。昂貴を憎んだり、嫌ったりなんて」
「うん」
「ありがとう……」
自然に、そっと口唇が重なった。そして、そのまましっかりと抱きしめ合う。優しい抱擁と、くちづけ。出逢った頃にはなかった時間。それが今は自然にある。
「それにさ……風澄」
「ん……?」
「あの日、俺に抱かれるまで……初めてじゃなかったけど、おまえは知らなかったって言ってたよな? 本当の快楽ってものをさ……」
「うん……」
恥ずかしがりながらも、彼女は肯定してくれる。それが嬉しかった。
「俺もそうだった。あんな気持ちのいいセックスしたの、生まれて初めてだった」
「……本当?」
抱きしめかえす、彼女のその手に力がこもる。細いけれど、あたたかなぬくもり。
「本当だって。言っただろ? 較べるのも馬鹿馬鹿しいくらい段違いに良かったって」
「……うん」
「だから、おまえが淫乱になったとしたら、それは俺とのセックスが良すぎるせいで」
これって結構、恥ずかしい台詞だよな。でも、そう思ってる。本当に。
「俺の腕の中でなかったら……俺が相手でなかったら、おまえは淫乱になんかならない。感じない。俺だけだ。……そうだよな?」
「……うん」
目を見つめあえば、彼女も語りかけてくれる。俺に。
俺だけに。
「こんな、触れ合うだけで安心して、心地よくて……たまらなく気持ちいいの、昂貴に出逢うまで想像もしてなかった」
「だからさ」
「ん?」
「いいじゃないか、淫乱って言われても。俺のすることにだけ反応して……俺だけなんだぜ? そんなの、淫乱って言わないだろ。誰でもいいわけじゃないんだから」
「昂貴は、それで……いいの?」
淫乱な女なんか相手していて? って顔してる。答えるまでもないさそんなこと。
「かえって嬉しいよ、俺の腕の中だけ乱れる女なんて」
「やぁだぁ……」
ふたりしてくすくす笑って、俺たちはまたキスをした。
「どんな風澄でも構わない。俺と一緒にいるときや、俺の腕の中にいるときは、素直で淫らな風澄だともっと嬉しいけどな」
「淫らなほうがいいなんて……変なの」
「そうか? 誰だって、快楽を共有する女には、自分にだけ、淫乱でいて欲しいもんだと思うよ……淫乱な聖女、貞淑な娼婦、猥雑な淑女で……」
「うん……」
「風澄は俺にだけ淫乱だなんて……最高じゃん、それ。どんどん、もっと乱れろよ……どんどんいやらしくなれよ。そうして俺を誘ってさ」
「や、やだ……そんなの……」
今度は真っ赤になって、本気で照れてる。
「今だって風澄が可愛くて、風澄としたくてたまらないんだぜ? 知らないだろ? 自分が四六時中、俺をどんなに誘惑しまくってるか……」
吐息のかかる距離で、ひそやかにささやきあいながら、言葉を交わす。
「……ごめんね? こんな時に……その、きちゃって……」
「いや、いいんだよ。風澄が健康ってことだし。だけど……」
「え……?」
「終わったら、駄目って言っても寝かせないぜ? 一週間分、きっちり支払ってもらうから」
「やあぁん……もぉ、馬鹿あぁ……」
でも風澄は、そこで、ありがと昂貴、と言ってくれた。
そして、ふたりで寝室に行き、おやすみのキスをして、手を繋いで横になる。
眠る間際に、そっと囁いた。
「風澄……必ず、決着をつけるからな」
「え……?」
「決して、このままじゃおかないから……」
「そんな……もう、いいのに……」
「俺の気が済まないんだよ。……大丈夫、風澄の嫌がることは決してしないから」
「うん……わかってる」
そうして風澄は眠りについた。俺の腕の中で、手を繋ぎながら。
だけど、その頬を伝った涙の跡が、深く無遠慮につけられた心の傷を示してた。
…………許さない、杉野琢磨…………!
それにしても、『淫乱』か……言ってくれるじゃないか。
風澄を侮辱した罰は受けてもらおう。
風澄を淫乱にできなかった男の負け犬の遠吠えだと、教えてやる。
風澄を傷つけた――許せるはずもない。
詰るなら俺を詰ればいい。全て俺のしたことなんだから。
だけどその矛先を風澄に向けるというなら。
……いいだろう。完膚なきまでに、叩きのめしてやる。
風澄を傷つける奴は、許さない。少なくとも、風澄が俺の隣にいるうちは。
To be continued.
2004.02.12.Thu.
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