その腕の中の楽園(エデン)

05.着信


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 どれくらいの時間が過ぎたのだろう……。

 いつしか、涙は止まっていた。もう、悲しみに溺れることもできない。
 そのまま消えてしまえたなら良かった。だけど、どんなに願っても、そうはならない。
 現実だから。

 だから――いつまでも、こんなところにはいられない。
 立って、歩かなければならない。
 そうやって生きてきた。
 ……だけど、私は今まで、本当に歩いてきたのだろうか?

 重い足を引き摺って、図書館から出る。
 夕闇の迫る夏の夜。

 三年前もこんな気持ちだった。
 なにもする気力が起こらなくて、ただ呆然と、空を見上げた。
 薄々感じていた自分の中の醜くドロドロとした感情にはっきりと気づかされた、あの日。
 汚染された東京の空よりも、私のほうが汚れているように思えた。
 澄んだ風などという名前を与えられておきながらも。

 あの頃とは、もう、なにもかも違う。
 けれど結局、私はまだ、あの日の自分のままなのだ……。

 ……連絡、しなきゃ……。
 今日は行けないって。
 逢えるわけない、あのひとになんて。
 ……本当は逢いたい。抱きしめて、甘えさせて欲しい。なにもかも忘れてしまいたい。
 だけど気づかれたくない。知られたくない。
 こんな醜い自分――!

「え……?」
 いきなり、鞄から振動が伝わってきた。一瞬遅れで、携帯が着信を知らせているんだと思い当たる。慌てて取り出し、折りたたまれていたそれを開く。けれど、本当はそんなことをしなくたってわかっていた。誰からのコールかなんてことは。
「っ……」
 自宅と携帯の電話番号とメールアドレスを交換したのは、初めて逢った次の日の朝のこと。でも、お互いに電話が好きなほうではなかったし、いつも次に逢う日の約束をしてから別れていたから、メールすることはあっても、電話をする必要は今までなかった。
 だから、このひとの名前がここに出るのを見るのは二度目。
 あの日、番号を教えた時、確認のためにかけたっきりで。
 連絡しようとは思っていた。でも、メールにするつもりだったのに。
 出るべきなんだろうか。
 でも、どんな態度で出ればいいの?
 ――そう思った瞬間、それは途切れた。
「……!」
 電話は好きじゃない。
 出ずに済むなら、そのほうがいいはずだ。
 だけど、電話が目の前で切れたことを、どうして寂しいと思うのだろう?
 もういいよ、と突き放された気分になるのは……。

 ……でも、かけなおすことなんて、できない。

 画面に、不在のアイコンが表示されていた。
 開いてみると、着信履歴の一ページ目が、彼の名前で埋まっていた。日付は、番号を交換した時のと、今日のもの。そして、その全てに、不在のマークがついていた。
 未開封のメールも届いていた。これも思ったとおり、彼からで。
『遅いから心配してる。夕食はパエリアにでもしようかと思うんだけど、どう?』
 ……なんだか、家族からの連絡みたい。
 そう思ったらおかしくて、笑ってしまった。

 誰よりもいちばんそばにいるひと。
 そばにいて欲しいひと。
 家族より、友達より、私のいちばん近くにいるひと。
 出逢ってから、ほんの三週間しか経っていないのに、誰より近い場所に彼はいる。
 心の距離も、身体の距離も、今まで身近にいた誰よりも、そばに。

 スクロールキーを右に押せば、今朝受け取った彼からのメールが出てくる。
 思い出すのは今朝のやりとり。

 ……ねぇ、おかしいよ。
 恋人同士でもなんでもない。先輩後輩でも友達でもない。ましてやセフレでも。
 なのに、こんなのって――。
 こんな時にまで当然のように逢おうと言ってくれるのはどうして?
 できないのに。
 そう言ったのに。
 なのにあなたは平然として、なにか不都合でもあるのかと聞いてきた。
 そして、優しく言ってくれた。
 『来るよな?』
 と。
 あなたは、そのために、私と一緒にいるんじゃないって思っていいの?

 涙が出そうになる。
 こんな私に、どうしてあなたはそんなに優しいの?

 辛い時に優しくされると余計に切ないのはどうしてなんだろう。
 このひとに甘えればいいのに、できないのは。
「!」
 立ち止まってディスプレイを眺めていたら、いきなり画面が変わった。
 着信を知らせる画面に。
 出てはいけない……駄目だ、駄目だと自分に言い聞かせる。
 けれど、いつの間にか、私は通話ボタンを押していた。
「あ……」
 いけない。切らなきゃ。
 だけど通じてしまった電話は遠くで彼の声を伝える。
 『もしもし風澄? 聞こえてる?』と。
 ……無視なんか、できるわけない。
「うん、聞こえてるよ……」
 気がつくと、私は彼の通話を受けていた。
『あ、良かった、やっとつかまった。何度かかけたんだけどさ、ずっと通じなかったし、今もなんか最初聞こえなくてさ。今どこ?』
「ごめんね、ずっと地下にいたから……今、図書館を出たところ」
 初めて聞く、電話越しの彼の声。
 電話のしくみを知っている。音や声が空気を振動させるのを利用して、電気の信号に変えて、電話機で信号と音声とを変換しているっていうこと。
 ただ、それだけ。直接聞いているわけじゃない。
 本当の彼の声とも、どこか違う。
 なのに、彼の存在を感じるのはどうして?
 耳元で囁きかけられているみたい。
 だけど彼はここにはいなくて、思い出すのは記憶の中のぬくもりだけ。
 そのことに余計に切なくなる。
『声、おかしいな……』
「え?」
『泣いただろ? 違うか?』
「……!」
 どうして?
 どうしてわかるの!?
「なんで……?」
『わかるさ、それくらい。……誰にだ? 杉野にか?』
「……、なんでもないの」
『なんでもなくなんかないだろ? 今は言わなくてもいいから、早く帰ってこいよ』
 自分のところへ帰ってこい、と。
 あるべき場所に戻れと言うかのように。
 ……だけど、私には、彼にあわせる顔はない。
 だから、私はひと息吸って、静かに言葉を吐き出した。
 約束の不履行を伝える言葉を。
「……ごめんね、今日、行けない」
『え?』
「このまま、うちに帰るね……」
『は? って、ちょっと待て、なんで? なんかあったんだろ? だったら……』
「……なんでもないって。やること、増えちゃっただけだから」
『風澄……』
「ごめんね……また、今度ね」
 気づかれたことで、余計に普通の声を装うのが辛くなる。それに、彼に心配をかけたくない。だから、自分が平気なふりをしていられるうちに会話を終わらせてしまいたかった。だけど、そう言って通話を切ろうとしたのを遮るように、彼の声が耳に届いた。
『……嘘、つくなよ。なんでもなくなんか、ないだろ?』
「本当よ……本当に、なんでもないの」
 自分に言い聞かせるように、私は呟いた。
 だって、本当にたいしたことじゃない。こんなの慣れてるわ。久しぶりではあったけれど、酷い言葉なんて、今までに何度も浴びせかけられたことがあるもの。そんなことを平然と受け流して、なんとも思っていないふりをしたことだって、数え切れないほどある。
 だけど……今はできない。その自信がない。
 だから逢えない。平常心を保って、昂貴の前でいつものように振る舞うことなんて、今の自分にはできない。ほんの少しの優しさに、泣き崩れそうになる自分を知っているから。
『…………もしかして……杉野と、一緒にいるのか?』
「え? どうして……?」
『一緒に夕食とか……違うのか?』
「違うよ、そんなことない」
 彼の質問に、私のほうが驚いた。あまりにも予想外だったから。心外っていうのもあったかもしれない。だって、あるわけないじゃない、そんなこと。先約を破って後から他の予定を入れたりなんて。……それが昂貴なら、尚更。
『だったら、俺が風澄の部屋に行く』
「え?」
 彼の言葉に驚いて、思わず聞き返した。
 なにを……言ってるの?
『いいよな? そうしたら、風澄は家で作業の続きをすればいいだけだろ』
「……っ、そんな……」
『駄目とか嫌とか言うなよ、なんでもないんだろ? どうせ一緒にいる予定だったんだし、不都合なんかないよな?』
 いきなりの展開に、私のほうがついていけない。
 もちろん、他の誰かと過ごす予定はない。それは本当だ。だけど、どうして彼はこんなに逢うことにこだわるのだろう? 昂貴が強引じゃないとは思わない。だけど、たいていの場合、いつの間にか彼のペースに引き摺り込まれているというパターンだった。それが、こんなふうに一方的に、まるで私の言葉に耳を貸さずに話を進めるなんて……。
「どうして、そんなこと……」
『俺がしたいから』
 ますますわけがわからない。別に逢うのは今日じゃなくたって構わないはずなのに、どうして? なぜ、こんな状況になっているんだろう。彼がこんなことを言い出すなんて思わなかった。また今度ねと、ひとこと言えばいいだけだと思っていたのに。
「そんな……だって、昂貴だって、家でやらなきゃいけないことがあるでしょう? 夕食の支度だってしてたんじゃないの?」
『だったら、俺の部屋に来ればいい』
「っ……」
 畳み掛けられる台詞は、いつものとおりの論法。隙のない言葉。彼はいつもそうだ。相手の論理の弱点を見抜いて、巧みに突いてくる。私は袋小路に追いやられるだけ。
『言っておくけど、風澄のためだけじゃないからな』
「え?」
『おまえ、前に言ったよな、誰かのためになにかをできると思うこと自体が傲慢だって。自分がしたことで相手に喜んでもらえたら自分が幸せになるからするんだって。どんなことも結局は自分のためにしかできないって』
「……!」
 そう……そういうふうに考えて、今までずっと生きてきた。
 だけど、今考えると、そのほうが傲慢な考え方なのではないかという気さえする。
 私は彼に、どれほどのものを与えてもらっただろう。
 それなのに、私は彼に、なにをしたというの――?
『おまえはおまえの周りの誰かが辛い思いをしてる時に、そいつを放っておくのか?』
「それは……」
『俺が嫌なんだよ。……頼むから、ひとりで泣くな』
 そう聞こえると、途端に通話は切れた。
『ツー・ツー・ツー……』
 無機質な音が延々と繰り返される。
 断ち切られた会話。
 それは、拒絶を許さないという態度のあらわれ。
 ……だけど、それは強制の皮を被った優しさ。
 卑怯すぎるほど優しい、狡い手段。

「っ……!」

 甘えたくない。
 縋りたくない。
 依存なんてしたくない。

 なのに。

 『頼むから、ひとりで泣くな』

 どうして、あなたはそんなことを言ってくれるの?
 どうして、私なんかに優しくしてくれるの――?

 こんな私に、自分に頼って欲しいと彼は言う。
 逡巡する私に強制するかのような口調で私の行動を決めてしまう。
 だけど、それが彼の優しさだと、今は痛いほどわかってる。

 ……駄目よ、昂貴。
 こんなふうに甘やかされていたら、私は駄目になる。
 わかってる。こんな関係を続けていてはいけないって。
 だけど私は、心から安らげる場所を知ってしまった。
 誰かに護られること、大切にされることに慣れてしまいそうになる。
 いつか、彼がいないと歩けなくなってしまうなんてことになったら――?
 いつか、彼のそばにいられなくなる日が来たら――?

 頼ってはいけない。依存してしまったら終わり。そう思っているのに。
 ……なのに、彼から離れられない私は一体なんなのだろう。

 彼の薔薇色の鎖に捕らわれて、堕ちて行く。
 その先には、一体なにがあるのだろう……。

 * * * * *

 どうやって、そこに行ったのか、全然憶えてない。
 なにも考えていなかった。
 ただ、気づいたら、自分が一番会いたいひとのところに行っていた。
 その顔を見て、優しい言葉を聞いたら。
 もうなにも、考えたくなかった。
Line
To be continued.
2004.01.25.Sun.
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