その腕の中の楽園(エデン)

04.本性


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 また、ここか。
 地下五階。誰もいない。でも今日は一番奥に連れていかれた。このまえ昂貴と抱き合って話したところ。あのときは、悲しいことをいっぱい思い出したけど、幸せだったなぁ。抱きしめられて、泣いていいよなんて言ってもらえて……。私、ずっとあんなふうに泣きたかったんだと思う。そうして、抱きしめて欲しかった。……その勢いで誘ったら、ものすごく乱されちゃったけど。まぁ、乱されるといえば、いつだってそうなんだけど。
「あのさ……おまえ……」
 おまえって、馴れ馴れしいな。失礼よね、こっちは『あなた』って呼びかけるのに。じゃあどう言われればいいんだって聞かれると困るんだけど、理不尽なのよ。どうして、日本語って男女の差がこんなにあるんだろう。でも、昂貴の『おまえ』は、すごく深くて、あたたかい響きなの。失礼だとか、嫌だとか思ったことは一度もない。声がいいからかな。名手が質のいいヴァイオリンを奏でたときのような、倍音みたいな響きを持ってるんだもの。
「おまえ……おまえ、いつの間にあんなになっちゃったんだよ……」
 絞り出すように発された、昂貴とは違う声。小さかったけれど、はっきりと聞こえた。でもその言葉の意味がつかめなくて、思わず聞き返した。
「え?」
「見たんだよ、俺。……おまえとあいつの……ヤってるところ。この前ここで会った後……研究棟で。後つけたんだよ、悪いけど」
「え……、えぇっ……!?」
 一瞬、わからなかった。
 なにを? って思った瞬間、思い当たった。
 ――彼との行為。
 嘘……あれを見られたの? そんな……。
 でも、どうして見ることができたんだろう? 部屋の扉? それとも窓から――?
「扉、開いてたぜ」
「……嘘……」
 なんて迂闊(うかつ)。研究棟の最上階のいちばん端で、しかも完全防音なのをいいことに、油断してた……。
「おまえたちは、夢中で気づいてなかっただろうけど。古い建物にヘボい鍵だしさ」
 かかりかたが、甘かったんだ。きっと……。
 それにしても……あんなところ……あんなところでしてるのを見られるなんて。いくら、そういうことをしたことがあるひとで、今そういう相手がいるのも知ってるからって……! でも、あの部屋でしたのは自分で望んだことだ……。
「俺、おまえのことはなんでも知ってるって思ってた。笑ったところも怒ったところも悲しむところも……俺に抱かれて喘ぐところも。俺たちが一緒に過ごしていたのは何年も前だけど、おまえがあんなふうに変わるなんて思わなかった。あんな……あんなおまえは知らない。あんなふうに快楽と欲望にまみれたおまえなんか……」
「……っ……」
「あんなところで、大学の構内だぜ? 研究棟の、しかも机の上。服をはだけて、抵抗もしないで、むしろ喜んで、抱きついて、甘えた声を出してさ……」
「いや……っ……こんなところで、そんなこと……言わないで……」
 脳裏に蘇るのは、あの日の自分の嬌態。今まで以上に焦らされ、乱され、思うさま狂わされた。考えただけで顔が火照(ほて)る――それを見られたなんて……!
「おまえが言った言葉を、俺は信じられなかったよ」
「やめて……」
 思わず耳を塞いだ。けれど、手のひら一枚では抑えられる音量なんてたかが知れていて、言葉は容赦なく私の耳に入り込んでくる。
「欲しい? 挿れて? お願い? ……それがおまえの本性かよ!」
 彼が殴った衝撃で、高く天井まで届く書架が揺れる。ずっしりと重い本棚は倒れたりはしなかったけれど、その音は静かな部屋に長く響き渡った。私が殴られたわけじゃない。だけど、頭にはずっとその残響が鳴り続けた。
「……こんなところで、そんなこと言わないで……やめてよ!」
「こんなところで言われたくないようなことを実際にしたのは、どこの誰だよ!?」
「だからって、どうして、そんな……!」
「俺のことを責めるわけ? 俺に『聞かれて困る話なら、場所を選んでしろ』って言ったのは、おまえの相手だろ。それとも、今からあいつに反論する?」
「っ……!」
 自分だって、ひとのことは言えないだろうとでも言いたげな言葉。私が言った言葉じゃない。だけどなにも言い返せない。理不尽なのに、昂貴の台詞を逆手に取られては、反論なんてできやしない。それは正論なのだから。
「なにも言い返せない? そんなにイイわけだ、あいつが……」
 下卑(げび)た言葉。嘲るような顔。浅ましい女と哂(わら)うかのように。だけど、なにも言えない。否定したくても、できない。私が彼に溺れているのは事実だもの。
「……だけど、それでも恋人じゃないってことはさ……どうせまた、誰かに振られて、そいつを忘れられないままあいつに縋ってるんだろ!? 違うのかよ!」
「……!」
 言い当てられて、私は立ち竦んだ。
 そうよ……私はまた、同じことを繰り返しているんだ……!
「……図星だよな」
 言葉など、返せるわけもない。
 ただ、口唇の端を噛んで、私は目を逸らし、言葉を失っていた。
 うっすらと、血の味がした。
「おまえだって、失恋して別の男に泣きついて、慰められてコロッと堕ちる女どもと同じだ」
 そう……軽蔑してた。失恋話を男友達に聞かせる女たちを。それに乗る男も男だ。
 逆のパターンでも同じ。つけこむ下心と、つけこまれたい下心。まるで化かしあいのよう。
 同情を引いて、悲劇に酔って、そして、舌の根も乾かぬうちに新しい相手に夢中になる。純粋な思慕はどこかに消え、いつしか駆け引きばかりが主体になる。
 そんな人々を嫌悪していたのに、私だって同じ穴の狢(むじな)でしかない――。
 ……結局、恋愛なんてその程度。
 どれほど想っても、愛されない。
 どれほど想っても、裏切られるだけ……。
「たまたま、あいつだっただけで……慰めてくれるなら、誰でもいいんだろ?」
 違う……
 誰でもいいなら、それなら、私はあんなに苦しまなかった。
 あんなに長いこと、異性を拒んだりはしなかった。
 どうして昂貴だったのかなんて知らない。
 だけど、もう、昂貴じゃなかったら。
 彼以外には。
 私は。

 ……だけど、本当にそうなのだろうか?
 私が、私自身のふしだらさを認めたくないがために、あるいは愛されなかった自分自身を認めたくないがために、そのためだけに拒んできたんじゃないだろうか……?
 ――好きでもない男をあんなふうに求めるような浅ましい女だと認めたくないから――。

 一握りの不安は、増大して、恐怖になる。
 自分自身への不信感が膨らんでいく。際限なく――。

「この、淫乱……!」
 そう吐き捨てて去っていく彼の背中を、私は呆然と眺めてその場に崩れた。

 ……わかってた。
 本当はずっと、わかってた。
 宗哉が好きだったのに、好きで好きで、嫉妬に狂って眠れないほど、身体を壊してしまいそうなほど想っていたのに、今の私は夜ごと昂貴に激しく抱かれてる。そしてそれを自ら望んでる。恋人でもない男の存在を。
 あの腕に抱かれたい――あの深いキスを受けて、全身に触れられて、くちづけて。そして貫いて、繋がって、激しく動いて、あの熱いものを私の中に出して欲しい。
 思い出すのは、自分のいやらしい喘ぎ声。粘性の体液の音。彼の熱い吐息。囁き。恥ずかしいこと、望んでいることを言わされる、そのことすら快感に繋がるなんて。
 誰より自分が知ってる。自分がどんなに、淫らな女か。
 あのひとのされるがままになるのが心地良いだなんて。
 乱されれば乱されるほど、あのひとの虜になっていくだなんて――。
「いやぁ……」
 なのに逃れられない。あの腕を失うことなんて、もう考えられない。
 そんなことになったら生きていけない――きっと。
「っ……っく、ひっく……」
 今逢いたいのは、慰めて欲しいのは、詰(なじ)られた、その理由を作った張本人。
 抱きしめて、キスをして、そして抱いてと。
 目の前にいたら、きっと言う。ねぇお願い、と。
 きっと彼は、それを聞いたら穏やかに微笑んで、望みどおりにしてくれる。
 ううん、望み以上にしてくれる。
 いつだって気が狂いそうなほどの強烈な快楽と限りない優しさを与えてくれる。
 ……あの腕の中でだけは、なにもかも忘れられる。
 まるでエデンの園のように。

 どうして今、できないんだろう。
 どうして四週間に一度、必ずこんな日があるの?
 どうして、その日が今なの?
 よりによってこんな、抱いて欲しくてたまらない日に。
 なにもかも忘れてしまいたい時に――。

 彼にあわせる顔なんてないのに、あの腕を求めてる。
 逢えないと思えば思うほど、あの腕が恋しくなる。
 ……あんなふうに詰られても、あの腕を望んでる。
 私はいつか、あの禁じられた園から追放されるのかもしれない。
 淫猥な、堕落した女として。
 今は私が独占しているあの腕が、いつか他の誰かを抱くのかもしれない。
 あの力強くて優しい腕――。

 好きでもない男の……?
 ……でも、大切なひとの……。
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To be continued.
2004.01.18.Sun.
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