その腕の中の楽園(エデン)

03.とまどい


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* Kasumi *
 それから、その週の金曜日。
 昂貴と知り合ってからちょうど三週間目のその日、私はまた大学に来ていた。

 まだ試験期間の最中だとはいえ、私はもう夏休みに入っているのだけれど、卒業論文の中間発表を控えた四年生という立場上、暢気にお休みを謳歌したりなんてできるわけがない。このお休みが明けたら大学院入試もあるんだし。まぁ、内部進学だし、修士課程には秋期試験と春期試験があって、今度のは秋期のほうだから、万が一失敗したとしても、三月にまたチャンスがあるんだけれど、やっぱり、できるだけ進路は早めに決めておきたいものね。周りには就職活動を終えて開放感に浸っているっていうひとが多いけれど、進学希望者はこれからが本番。まるで交代するみたいね。
 それにね、図書館の『夏休み中の長期貸し出し』は、非常に魅力的だもの。私も昂貴も持っていない資料の中で特に重要なものを吟味して集めたから、資料の準備は万全ね。普段は二週間しか借りられないのよ? 割り当てられた冊数を図書館ごとに借りられるとはいえ、延長は一回だけなんて、いくらなんでも短すぎると思わない? だけど、そう言ったら昂貴はなんと「あぁ、院生は一ヶ月借りられるんだよ」ですって。
 …………。
 あぁ、思い出したら無性に腹が立ってきたわ! 信じられる!? なんなのよ、この待遇の差は!? 理不尽よ、不条理よ、不可解よっ! 差別だわ、間違ってるわよっ! 未来ある学部生をなんだと思ってるのよ! ……ううん、違うわね。それでいいのよ。わかってはいるけど、言わずにはいられないわけ。だいたい、昂貴が図書館で本を借りる必要なんてあるのかしら? 私が参考にした論文の脚注の参照文献まで、軒並み揃えてたもの。でも、調べる苦労と取りに行く面倒も知るべきだからって、自分でまずやってみろって言われたの。日本にあって取り寄せられるものとか、見にいけるものは行けって。やっぱり、甘やかさないよね。そういうところ、すごくありがたいことだと思うの。
 ちなみに、図書館で延滞すると一日につき十円取られます。これは、いいシステムだと思う。え、私? やぁね、私が延滞なんてするわけないでしょ? まぁ、重要な資料は、どんなに高くてもたいてい買ってしまうんだけど。高かったなぁ、メインの本は。大きくて重くて、持って帰るのに一苦労だったわ。こういうとき、『本ゲル係数』の高い家は親が融資してくれてありがたいわね。まぁ、そうでなくても、余裕持たせてくれてるけど。大昔にアルバイトしてたときに貯金したお金だって、少しは使ったはずなのに、たくさん残ってるもの。だいたい私、無駄遣いなんてしないし。でも最近は、ちょっと自分にもお金をかけるようにしてる。昂貴に言われたから。
 このまえの火曜日は、あのまま昂貴の部屋に泊まった。さすがに水曜日には自分の部屋に帰ったけれど、結局、先週の金曜日からずっと一緒だったんだわ。よく考えたら、旅行しているわけでもないのに、家族以外とこんなに長い時間を一緒に過ごしたのは初めてだった。なのに、違和感は全くなかった。自分の部屋も決して嫌いではないけれど、彼の部屋はとても居心地が良いんだもの。……彼の隣も、腕の中も。
 だけど、ほんの少しだけ、こうしていていいんだろうかっていう迷いが心のどこかにあって、平日はなるべく勉強に打ち込むようにしてる。本当は、自分の部屋に帰らなくても研究の続きはできるんだけど、できるだけ自分の力でやりたいし、昂貴もそうしろって言ってくれるから、空いている時間は家でやったり、大抵うちの大学の図書館に来てる。あとは、他の大学に資料複写の依頼を出したり、行ける範囲では、閲覧依頼をして直接見に行ったりして過ごしていた。
 そうして、いつものように大学の図書館地下三階の洋書コーナーで資料を探していたんだけど……。
「風澄、ちょっと」
 知っている声が聞こえた。でも、聞きたい声じゃない。……この前は昂貴に逢えたのにな。場所は違うけど。まぁ、彼は今日は家にいるって言っていたから、ここで逢えるわけがないんだけど。どちらにしろ、もうすぐ逢えるしね。週末だから……約束、してるもの。
「名前で呼ばないでって言ったでしょう? ……なに?」
 正直なところ、話をしたくなんかないんだけど。話すこともなにもないし。一体どうしたいんだろう? よくわからないな。そもそも、あの時別れ話を持ち出したのは杉野君のほうなのに。もう名前では呼ばないって言ったのも。
「話があるんだけど」
「私はないわよ?」
 つい、冷たく返しちゃった。どうして今更こんなことになってるんだろう? 別に杉野君のことは嫌いじゃないし、むしろ、いいひとだと思ってた。つきあう前も、別れてからも、友人として、ずっと良い関係を保ってきて、そういうスタンスでいられるのって、すごく貴重なことだと思ってたのに……。
「……俺はあるんだ、ちょっと来いよ」
 随分と身勝手な言い方よね。あぁもう、ただでさえ朝からアレが来て憂鬱なんだから、苛々させないで欲しいんだけどな。……え? アレってなにかって? だから、そんなこと聞かないでよ恥ずかしい……。まぁ今回来て非常にほっとしたけど。これからは気をつけなくちゃ。なにしろ四年間も無関心だったから、いい機会でもあるかな。自分の健康管理にも、長いこと無頓着だったもの。
 本当は、こんな時に泊まりに行くのって、ちょっと恥ずかしいんだけど……水曜日の朝に金曜日には行くって約束をしてたから、どうしようって悩んで、メールをしたの(もちろん、そのまま書いたりはしなかったわよ、婉曲的によ!)。そうしたら、ちゃんと理由もわかった上で……『来るよな?』って。
 こんな時でも、彼は逢おうと言ってくれる。
 できなくても。
 だから、不安が消えていく。それに反比例するように疑問も増えていくのだけれど、そこに彼を疑う気持ちは欠片もない。そのためだけに一緒にいるわけじゃないと、信じられる。
「話なら、この前もしたでしょう?」
 数日前の杉野君の台詞が頭をよぎるけれど……でも、やっぱり、昂貴はそんなひとじゃないと思うの。
 だからかな、諍(いさか)いを起こしたいわけじゃないんだけど、つい喧嘩腰になってしまうのは。昂貴を侮辱されたような気がして、腹が立っているのかもしれない。
 ……だって、信じられるもの。
 私は、あのひとを疑うほど馬鹿じゃないわ。疑問に思うことは多いけど、だからといって、彼の誠実さが変わるわけじゃないもの。あの厳しさも優しさも、他の誰にもない。
 どうしてかな……始まりはあんなだったのに、こんなに打ち解けてしまってるのは。
 今、私にとって、誰よりも身近で、誰よりも信頼しているのは、間違いなく昂貴……。
 ……まぁ、今日の件に関しては、もしかしたら、単に慣れてるっていうだけかもしれないんだけどね。お姉さんがいるって聞いたことがあるから、そのせいもあるんだろうな。婉曲表現でもわかってくれたみたいだし。
 昂貴はね、なんていうか……すごく、女性の扱い方が上手なのよね。スマートっていうか。恥をかかせないし(えっちの時に変なことは言わせるけど)、喜ばせるポイントを熟知してるし、気持ちを操るのも上手だし。そういうことに慣れてるし、よく知ってるから……女性経験豊富なんだろうなぁって思ってはいたんだけど。
 あ、なんだかモヤモヤした気分になってきちゃった。……なんだか私おかしいのよ最近。うまく言えないんだけど、時々、なんだかよくわからない気分になっちゃうの。
「それで済まなくなった。この前だって話は終わってなかっただろ」
「あんなことをしておいて、どうしてそんなことが言えるの?」
 自分の中にわだかまりを感じながら、それを振り払うためにも仕方なく会話する。
「手は出さないよ。信用しろって、昔はつきあってた男なんだからさ。別に俺が嫌いなわけじゃないだろ?」
「そういう言い方卑怯よ」
 今はどうかなんてわからないじゃない。なんなのよ、まったくもう。
 だいたい、いくら昔つきあっていたからって、いきなりあんなことした男、軽蔑しないほうがおかしいわよ。たとえ『その先』をしたことがある相手で、『その先』をするつもりがなかったとしても、やっていいことじゃない。そんなひとじゃなかったのに、どうしてだろう。別にどうでもいいことだけど。なにもなかったし、もう、昂貴に消してもらったし。
 …………、あれ?
 よく考えてみたら、昂貴だって、いきなり私を抱きしめたんだ。
 初めて知り合ったその日に、断りもなく。
 あの時は、まず驚いて……そして、逃げなきゃ、と思った。
 こんなのおかしい、と思ったから。
 だけど、彼の腕があまりにも強くて、なのに優しくて、離してもらえないとわかって……だから仕方なく抵抗をやめたら、彼のぬくもりと香りに気づいて……伝わる鼓動が、頭を撫でる手が心地よくて……そして、いつの間にか、私は彼に身を委ねていた。
 キスだってそう。押し倒されて、奪われた。
 宗哉のことを考えていたせいか、頭が回らなくて……気づいた時には驚いたけれど、すぐに、なにもわからなくなった。息ができないほど苦しくて、なのに、たまらなく甘美だった。 最初のセックスはさすがに合意の上でだったけど、二度目は流されて、三度目は無理矢理なところもあった。
 だけど、彼とのどんな行為も、決して嫌ではなかった。
 ……ううん、その逆。
 受け止めきれないほどの快感を与えられて……そのたびに狂わされて……
 あんな自分は知らなかった。彼に出逢い、彼を知るまでは。

 そうだ……
 どんなに嫌だ、駄目だと思っていても、私の身体が彼を拒否したことは一度もない。
 『普通じゃない』から、『今までしたことがなかった』から、途惑いはした。
 だけど、私は結局、受け容れてしまった。どんな行為も。
 受け容れるどころか、触れられ、貫かれる悦びに、全身を震わせていた……。
 それは、どうして?
 そして、それが、昂貴以外のひとが相手だったら――
 果たして、私はその行為を受け容れるだろうか?

 男性経験がなかったわけじゃない。だけど、初めての時も、それ以降も、私はどこかで自分の身体がわずかに拒否を訴えているのをいつも感じていた。そしてそれを、『恋人』が相手だからと、求められているから、受け容れなければと――捩じ伏せていたのに。
 なのに、彼だけは、違う。
 『恋人』じゃないのに。
 自分から、求めてる。
 彼を。

 どうして――?

 ――私は今、なにを考えているの――?

「この先だって会う機会はたくさんあるんだ。お互い、まともに話もできないのなんて困るだろ? ゼミとかでさ。おまえ、そういうの詮索されるの嫌いだよな?」
 ふと浮かんだ疑問に、心は途惑う。
 頭の中では『どうして?』を繰り返すばかり。
 だけど、なぜか心臓が鳴って、なにかを伝えていた。
 けれど結局、杉野君の言葉に中断を余儀なくさせられ、思考は途切れてしまった。
 考えるべきだったのに……。
「……本当に、これっきりって言えるの?」
 昔のことへの、感謝はある。
 ため息をつきながらも、私は促されて、結局、彼についていった。
Line
To be continued.
2004.01.12.Mon.
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