その腕の中の楽園(エデン)

02.消毒


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 最早残っていた用事を済ませる気になどなるわけもなく、俺たちは結局そのまま帰ることにした。これからも開館日は幾らでもあるんだし、家からもそう遠い距離じゃないし、『論文執筆を控えた最高学年』としては、休み中に学校に来ることなど至極あたりまえのことだ。今日済ませなくたってどうということはないだろう。
 そして、図書館を出て、出口に向かうために左へ歩いて行こうとすると、風澄が俺の服の端をつまんで引っ張った。逆の方向に。
「え?」
「……だめ?」
 今出てきた図書館は、キャンパスのほぼ中央に位置している。目の前には中庭があって、あたりを見渡せば、小ぶりなキャンパスにそぐわぬ(と言うか、それこそがキャンパスを狭く感じさせている最大要因なのであろう)、旧びた大きな校舎が幾つも目に入る。もちろん校舎だけではなく、向かって左側には普段使っている出入口があり、そして右側には構内管理局だとか旧図書館だとか、そして――研究棟も。
 つまり。
「珍しいなあ……」
「だって」
「そんなに嫌だったのか?」
 手を繋いで、あの二度目に触れ合った部屋に向かってゆっくりと歩き出す。俺はしっかり資料を抱えてるし、カモフラージュにちょうどいいな。そんなことを考えつつ、にやにやしながら俺は聞いてみる。だって、昔つきあってた男にさ、俺のこと問い詰められて、抱きしめられて、押し倒されたくらいで、そんなに嫌がるもんかなと思ったんだ。俺にその記憶を消してくれと言わんばかりに誘うほど?
「だって、自分でも驚いたんだけど、すごく嫌だったんだもの。その時はなにがなんだかわからなくて、びっくりしてただけだったんだけど、驚きすぎて逃げられなかったのが口惜しくて。それに、なんであんなことされなきゃいけないんだろうって思ったら、どんどん嫌な気持ちになってきちゃって、触られた自分の身体が、すごく気持ち悪くて」
 うわ……おい、本人が聞いたら立ち直れないぞ、それ。
 本当に潔癖だなぁ……過度の綺麗好きとかじゃなくてさ、精神が。
「……おかしいね。言ったよね? したことあるのよ何度も。二度目から何度目までか、もう憶えていないくらいには。初めて、気持ちよくしてもらったのも彼だったの。触られていないところなんか、ないはずなのに……」
「うん……」
 杉野が、堂々とその権利を持って風澄の隣にいたことが、過去には確かにあったんだ。そうしてふたりで笑っていた一年間が。……俺の知らない風澄を、あいつは知っているんだな。中学や高校の頃の風澄を、そして……『宗哉に出逢う前の風澄』を。
 もし、その頃出逢えていたら……そんなふうに考えてしまいそうになるけれど、今更どうしようもないよな。そんなことを考えるより、この先のことを俺は考えようと思う。遠くから想っていた三年間に較べたら、それくらいの口惜しさなんて、なんてことはない。
 今思えば、風澄と知り合ったあの日、俺は人生で最大の博打を打ったのかもしれないな。勝算は充分あったにしても、どう転ぶかわからない、非常に危険な賭けだったんだ。狡猾な手段を選んだということはわかっているけれど、それに成功して、今こうして一緒にいられるのだから、俺にとっては最良の結果だったんだ。……彼女が望んだことではないということだけが、ほんの少し胸を痛ませるけれど。
 彼女のいちばん近くに在り、こうして言葉を交わすことができるようになるなんて、昔は思いもしなかった。今でも時々、夢なのではないかと思うことがある。だけど、風澄が俺に笑顔を向けて、名前を呼んでくれるから、これが現実なのだとわかる。まるで奇跡のような日々。いつまで続くのかわからない、名前もなにもない関係だけれど、俺からこの関係を崩すことだけはしない――あの日、そう決心した。今はせいぜい、明日のことくらいしか考えられないけれど……。
「……でも、あんなに気持ち良くはなかったな」
「え?」
 繋いだ手はそのままに、空を見上げて、風澄は言った。
「昂貴としたときほどには、気持ち良くなかったって言ってるの。やっぱり、昂貴とするのがいちばん気持ちいいよ。それまでとはまるで違ったもの。あんなの初めてだった。気持ちいいっていうことは知ってたけど、あんなにすごくなかったもの」
 恥ずかしいけど、とつけたして、風澄は笑った。少し顔を赤らめながらも、はっきりと。
「セックスが上手いからって?」
 あいつに言われたことを、そのまま言ってみる。それだけじゃないと知っているけれど、どうしても言って欲しかったから。いや……あなどれないからな、そっちが上手いって。そういう理由で続いてるカップルもいるんだよな実際。
「……上手いっていうのも、あるんだろうね。言われたことある?」
 うわ、そうきたか。普通聞くかこんなこと? 過去に俺が他の女を抱いてたことなんか考えたくないだろうに。まさか、どうでもいいのか? そんなあ……。違うか、自分がしてたことがあるって話をしたからか。俺がしたことないわけないってことで。
 だから俺は正直に答えた。風澄には、どんなことでも、絶対に嘘をつきたくない。真剣だから。そして、風澄が嘘を、ごまかしを許さないから。
「そういえば、そんなこと言われたこともあるような気がするけど……でも、俺だって風澄と同じだったよ」
「え?」
「あんなに良かったのは初めてだった。気持ち良くなれるのなんてあたりまえだと思ってたけど、あんな、較べるのも馬鹿馬鹿しいぐらい、段違いに気持ち良くなれるなんて、想像もしてなかった……だから」
「だから?」
「風澄の抱き心地がいいんだと思ってた」
「だ……っ!」
 口をぱくぱくさせてる。更に追い討ちをかけるように俺は続けた。
「それか床上手(とこじょうず)か、でなきゃ名器の持ち主なんだと思ってた」
 すっぱり言ったら風澄は真っ赤。うーん、さっきのあの杉野に対する冷たい顔からは想像できない素直さだ。
「いやだって本当に触り心地いいし、感度いいし、声もいいし、締まりも……てっ」
 痛い。殴るこたないだろう! パーで軽くだったけど。これは容赦してくれてるってことだろうか……初めて会った時グーだったもんな。……チョキはやめてください。
「本当のことなのに……」
「やめてよ恥ずかしい……」
 でも、これは、言ったことを信じてはくれているよな?
「どうしてだろうね。相性とかも、あるのかな」
「だろうな。でも、なんでだろうな」
「うん、不思議ね」
 ……俺がどうして気持ちいいのかは、俺は知ってるよ。
 だけど、風澄のはわからないな。いつか気づいたら教えてくれるだろうか。
 それとも……。
「その相手が、昂貴で良かった」
「……そっか」
 つまり、俺には、それなりに好意を抱いていてくれるってことなんだろうな。知り合ったその日から、逢って触れ合わない日はなかったから、慣れもあるんだろうけど。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、な」
 こんなこと言ってもらえる日が来るなんて思わなかったな。三年前は。
 今の俺は、たぶん、結構、いや、かなり幸せかもしれない。
「でもね?」
「うん?」
「今度見えるところに痕を残したら、許さないからね?」
 うっ。
「……わかりました」
「うん。素直でよろしい」
 うわ、満面の笑顔だ。やっぱり風澄には勝てないなぁ。
 もちろん、勝てなくても一向に構わないんだけれど、やっぱり少し悔しい気持ちもあるんだよな。……というわけで。
「見えないところなら、いいんだよな?」
 と、俺は風澄の耳元で囁いた。駄目って言っても、つけるけどな。

 ……その後、あの部屋で風澄は、とんでもないほど乱れまくった。
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To be continued.
2004.01.06.Tue.
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