その腕の中の楽園(エデン)

01.図書館


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* Kouki *
 なんでこういうタイミングかな……。
 週は明けて、祝日を越えた火曜日。地下五階の大型本の置いてある一角。
 こともあろうに……アイツ――杉野琢磨、経済学部四年――が、風澄と話をしていやがった。……普段の俺は穏和な人で通ってるぞ、言っておくけど!

 今日は風澄のレポート提出日。早くかけた目覚ましを切って、二度寝モードの風澄をキスで起こした。口唇を塞いで、酸欠状態にしてやるんだ。だけど、こともあろうに首に腕なんぞ回してくるもんだから、こっちもその気になっちまって。一回だけと決めた代わりに、その一回をじっくり楽しもうと、ふたりで色々工夫した。燃え立たせてはイきたいのを我慢してふたりで必死で引かせて、それを延々繰り返しての絶頂は、本当に気持ち良かった。しかし、あまりに良すぎて、終わってからもずっとふたりで浸ってしまい、気づいたときには遅れる遅れる、と大慌て。やれやれ。まぁ、間に合ったから良しとするか。
 夏休み半ばには卒論の中間発表、休み明けには院入試を控えた学部四年生としては暢気に夏休みを満喫することなどできないし、学校通いも続くのだけれど、風澄が登校しなければならない日は今日で最後だ。せっかくだから俺もこっちに来ている。まぁ、さすがに一緒に来たわけではないけれど(もちろん、本当は一緒に登校したいところなんだが『行ってきますのキス』はたくさんできたから良しとしよう。うん)。調べたいこともあったし、しばらく地下三階の端で洋書をひっくり返していたところ、図版とつきあわせて見てみたくなって、こうして地下五階の大型本コーナーに来たわけなんだが……そうしたら声が聞こえてさ、男と女の二人連れだったんだけど、ここなら誰もいないから話し合おうってな感じの会話を交わしてたんだよ。で、俺はどこの破局寸前カップルだよ浮気問題かなんかか邪魔臭えなぁ、などと思いつつ、なんだか聞き覚えのある声だなーとこっそり見てみたら、今いちばん見たくない組み合わせだった。はぁ。
「どうしたの、わざわざこんなところまで連れてきて。それに、ここは図書館よ? 話をするのに相応しい場所とは思えないけど……」
 その図書館でこの前じっくり話し合った人間がなにを言うか、と俺は心の中で突っ込んだ。まぁ、俺が誘い込んだんだけど。
「別に、ちょっと聞きたいことがあっただけだしさ。さっきまでいた地下三階じゃ周りの人間の迷惑になるんじゃないかなと思っただけだよ」
 だったらますます他へ行きやがれ、と俺は更に心の中で突っ込んだ。
 しかし、杉野がここを選んだ理由も実はよくわかっていたりする。構内で話をする場所はそれほど多くない。まず考えられるのは中庭。そして食堂、あるいは空き教室。図書館だったらグループワーク用の部屋だとか、その程度のものなのだ。俺だったら研究棟に行けば済む話だが、学部生の場合はそうはいかないからな。決して規模の小さい大学ではないとはいえ、構内では『他人に聞かれたくない話』は意外としにくい。つまり、ここ――すなわち図書館の地下五階――は、他人さえ居なければ『完全にふたりきり』になれる絶好の場所なのである。……いや、そんなことのための場所ではないんだが。
「……久しぶりだよなぁ、こうして話すの」
 なんかむかつくな、この台詞。いかにも『元恋人同士』って感じが……ちっ。
「え? この前会ったばかりじゃない」
 ん、よい切り返しだ風澄! 『気のない返事』ってやつだな、うん。これがさ、相手に対して『私そんな気ありません』って一線を引いているわけでもなんでもなく、本当に疑問に思っているあたりが風澄の恐ろしいところだったりするんだが。
 それにしても、頭はいい子なのに、なんでこんなに鈍いんだろうなぁ。……もしかして、それは、彼女が本気の恋に全て敗れてきたからだろうか。自分に対する好意や恋愛感情を信じていないから……?
「……まぁ、ね」
 言葉は肯定だったけれど、『あの時は邪魔者が居ただろう』とでも言いたげな調子で杉野は呟く。あぁ、風澄の鈍さに感謝!
 そんなことを考えている間も、すぐそばで、風澄と杉野の会話が聞こえる。
 エレベーターホールのすぐ脇にあるその部屋は、筒抜けなのに閉鎖的だ。天井まで届く書架のせい。そこに隙間なく埋められた本のせい。だから書架と書架の間にいる俺には、きっと風澄もアイツも気づかない。ばっちり、隙間から見えるんだけどな。出歯亀かよ、俺ときたら。恋人のしてることなんかどうでもよくて、でも浮気されたら未練もなにもなく即座に切り捨てていた昔とは大違いだ。
 くそう、あいつめ、風澄を見つめやがって……ん? だけど、目線が顔じゃないな。気づいたか? 風澄が寝ている間、首筋につけておいたんだよな。髪や服でギリギリ見えるか見えないかくらいのところに、『お手つきマーク』……つまりキスマーク。しかもくっきり。名前を書いておけないのが悲しいところ。気づかれたら相当怒られるだろうけどな。そうそう、風澄は真夏でも露出度が低めだ。高くてもノースリーブ程度だし、冷房があまり好きではないから必ず上着を持ち歩く。キャミソールにミニスカートなんて格好は絶対にしない。ガードが固いんだよなー。簡単に男の目に肌を晒(さら)さない、そんなところも実に好みだ。まぁ俺はその服の下も全部知ってるわけだけど。ふふふ。……いや、そうじゃなくて。杉野はぎょっとしてる、これは確実に気づいたな。
「で、話ってなに? 悪いんだけど、私、調べものがあるから、今日はちょっと忙しいのよ」
「あぁ、ごめん。たいしたことじゃないんだけどさ……」
「なぁに?」
「……あいつは……風澄の、なんなわけ?」
 え……今、風澄って言ったか?
 前は確か、名字で呼んでたよな。どういうことだ……?
 それに、『あいつ』って……もしかして、俺のことか?
「……あの……」
「ん?」
「悪いけど……名前、呼ばないでくれる? もう終わったんだから……。だいたい、もう呼ばないって言ったのはあなたのほうでしょう?」
「いいじゃん別に、それぐらい。なに気にしてんの? 今の彼氏が嫌がるわけ?」
「いないわよ、そんなひと。前にも言ったじゃない」
 ため息混じりに言う風澄。いや……そうだけど。でもなぁ。なんだかなぁ。
「ふぅん……だけど、彼氏はいなくてもさ……もし、俺とヨリ戻さないかーって言っても、おまえは頷かないだろ? それは、あいつがいるからじゃないの? 別になんとも思ってないなら、俺を拒まないよな?」
「あなたは、そんなことは言い出さないでしょう? だいたい、どうして今更そんな大昔のことを持ち出すの?」
「もし、俺にとっては昔じゃなかったら?」
「……あなた、そんなたとえ話がしたくてこんなところまで連れてきたの?」
 うーわー……。
 風澄、けっこう怖いぞ? すごく静かな語り口調だからこそ、余計にコワイ……。
「あなたの言ってる『あいつ』って、この前私と一緒にいたひとのこと……よね」
「……あぁ」
「彼は……高原さんは、お世話になってる先輩よ。私は院を目指しているし、同じ画家を研究しているから話も参考になる。資料を提供してもらったり、色々教えてもらったりもしてる。研究に対する姿勢や態度が、すごく立派で。尊敬してるの」
 そ、そうだったのか……風澄に『尊敬してる』なんて言われるのは、かなりの快感だ。いつも変態だのなんだのと言われてるからな。それも間違ってないけど……。いや、この場を乗り切るために言ってるだけかもしれないし、本心かどうかわからないけどさ。
 でもなぁ、おまえ、金曜の夜から月曜の夜、もとい今朝まで、一体何度ヤったよ? その服の下には、俺が愛した痕が無数に残ってる。なのに俺たちの外向きの関係は『ただの先輩と後輩』なんて、変だよなぁ。仕方ないんだけどさ。……まさか、俺なんかとしてるって思われるのが嫌だとか言わないだろうな……いや、理由は違えどそれは事実の一部かもしれないな……俺は風澄の『本当に好きな男』ってわけじゃないんだし。……くそぅ。あぁ、ちなみに、俺たちは一緒に居る時セックスばっかりしているわけじゃないからな。信じてもらえないだろうけど。お互いに学問好きだし、そういう会話も多いぞ? あと料理とかな。まぁ、していないとは言わないが。うん。
「ふーん……それだけ?」
「それだけよ」
 風澄はきっぱりと言い切った。まるで、これ以上の問答は無用だと言うかのように。まぁ、ここで迷ったら、こいつのためにならないもんな。でも、そんなふうに言われた当人だったら……厳しいよなあ……。昔の彼氏だろうがなんだろうが、風澄は自分を崩さない。そういえば、今のこのふたり(ふたり、という表現をしなければならないのは非常に不満だが)の間には、『元恋人同士』という気安さや甘さが感じられない。この前や、さっきまでは、結構いい雰囲気だったのに(そう思ってしまったのもやはり非常に不満なんだが)。それは、どうしてなんだろう? 元々はこういう関係だったのか、それとも、つまらない話題を持ち出されて、風澄が怒っているからなのだろうか? ……俺もいつか、そんなふうに風澄に撥ねつけられる日が来るんだろうか。風澄のそばから離れ、彼女の『気を許せる人間』に数えられなくなる日が来るんだろうか……?
「……じゃあ、その痕はなんなわけ?」
 そんなことを考えていたら、そいつは自分の首筋をトントンとつついて言った。
 って、バラすなよ、おまえ! 俺が怒られるだろうがーっ。
「え?」
「気づいてないの? ここんとこ。髪で見えづらいだけで、ばっちりついてるんだけど?」
「えええっ……」
 本気で驚いてる。俺の位置からは風澄の表情は見えないけれど、きっと耳まで真っ赤になっているだろうな。乱れた自分を思い出したりとかして。うーん可愛い。
「あいつじゃないの? あいつ、この前会ったとき、『俺の風澄を見るな』って顔で俺のこと睨んでたけど?」
「そんな……そんなひとじゃないわよ」
 いや、そんなひとなんだけどな、風澄。
「じゃあ、これは誰なわけ?」
「っ……」
 うううん、さすがだ。攻めかたを熟知しているな。昔から風澄を知っているだけのことはある。風澄って、嘘をつくのが下手なんだよなー。と言うか、本心を隠すのが下手なんだ。それに関しては、風澄が俺に気を許しているからというのもあるんだろうけど。で、論理的な思考体系のもとに生きてるから、ロジカルじゃないことは言えないし。言いわけとか言い逃れとかさ、たぶん相当苦手だな。そんなところもまた可愛いんだけど。
「悪いけど、俺、見たから。このまえの金曜日に、図書館からおまえとあいつが出てきて、手を繋いで帰ってたの。話してるのも、聞こえた。ちょっとだけだけどさ」
「え……!?」
 あぁ、あれか。数日前、杉野に偶然会った後、図書館の地下五階で風澄の話を聞いたとき。うーん、あの時はラブラブモードだったからなー俺も風澄も。なにしろ風澄が『して?』とか言ったんだぜ? そりゃ俺の理性も吹っ飛ぶってもんなんだよ。
「ただの先輩の手を握れるのかよ、おまえが?」
 うーん、それはできないに違いない。なにしろ、言い方は悪いかもしれないが、風澄は結構晩熟(おくて)だ。とてもCまで経験済みとは思えないほどに。でも、そう感じるのは、俺に心を許してくれているからだろうとも思う。そうでなければ、風澄があんなに無防備で無邪気な姿を人前に晒すことなんてないだろうから。そして、どこか漂う潔癖さ。あの雰囲気は、簡単に男に肌を許す女のものじゃない。……本来なら、俺だって触れられるはずもないのだろう。過去の恋人にしたってそうだ。風澄に触れられるのは、彼女が、本気の恋に今まで全て敗れてきたからだ。そうでなければ触れたりなどできるわけがない。『先生』にしろ、『宗哉』にしろ、もし、風澄の恋が叶っていたら、俺たちなんて、きっと男として認識すらしてもらえないだろう。彼女なら、なにがあってもその想いを貫くだろうから。
 ……風澄の悲しみが、俺を幸せにしているのか。……なんて皮肉な現実……。
「観念しなよ。なにされてんのおまえ? 研究とか資料とか、院のこととかさ、教えてもらう代わりに身体やってんの?」
「違……!」
 なんてこと言いやがるんだこいつは、失礼な!
 違う。そんなことじゃない。確かに、始まりかたは歪んでいたかもしれない。だけど、この数週間、風澄と過ごして……俺たちは、どんなに満たされていただろうか。きっと風澄だって、そう思ってくれているに違いない。
 だいたい風澄がそんなこと許すような女かよ! なにもわかっちゃいない。
「やめとけよ、そんなやつ」
「っ……!」
 そう言うやいなや、そいつはいきなり風澄を抱きしめた。
 って、なにしやがるんだおまえ!
 おいこらっ、それは俺の役目! 特権!
「忘れちまえよ。俺が忘れさせてやるから」
「……!」
 こらー抵抗しろー風澄ーっ!
 おとなしく抱きしめられてる場合じゃないだろう!
 それとも、まさか……
「また一緒に楽しくやろうぜ? ……昔みたいに」
「……」
 風澄……どうして、抵抗しないんだ……?
 まさか。
 まさか本当にそいつを選ぶのか?
「――離して」
 俺が地獄を目の前に見たと思ったその瞬間、風澄の透明な声が響いた。
「風澄……」
「やめて。私が抱きしめて欲しいのはあなたじゃない」
「……っ」
 静か過ぎるほど静かな、決然とした拒絶の言葉。風澄は杉野から、そっと――けれど譲歩を許さない態度で身を離した。
「あなたの言うとおりよ。……私は彼に抱かれてるわ」
「って、おい……おまえ、つきあってないって……」
「そうよ。彼は、私の恋人じゃない」
 ……しくしく。はい、そうですとも。
 だけどいいんだ。風澄がこいつを拒んだだけで充分だ。うん。
「風澄、おまえ言ってたじゃないか、彼氏以外の男なんかと、決してこんなことはしないって……手を繋いだこともないって……」
「そうよ、しないわよ。でも今私には恋人はいないの」
「だからって……」
「あのひとにもいないの。問題ないでしょう?」
「そりゃあそうだけど……」
「……自分らしくない、間違ってるっていうのは、私でもわかってるの」
 風澄は、ゆっくりと話し出した。
「彼をどう思っているのか、自分でもよくわからないの。でも、助けてくれた。慰めてくれた。私がいた地獄から救い上げて、安らぎをくれた。抱きしめられて、キスされて……あの腕の中にいる間は、辛かったことも、悲しかったことも、なにもかも忘れていられるの。安心するの。私があのひとをどう思っているのか、あのひとが私をどう思っているのかなんて全然わからない。だけど……」
 そこまで言うと、風澄はいったん言葉を切って、そして続けた。
「もし、彼に出逢わなかったら、きっと私は未だに心から笑うこともできずに、ずっと苦しんでいたと思う……」
 初めて聞いた、彼女の言葉。
 かすみ。
 どうして俺は、こんなところにいるんだろう。
 どうして、今すぐ風澄を抱きしめて、キスできないんだろう。
「……あいつが、おまえの身体目当てで、おまえ自身のことなんかどうでもいいと思っていたとしても?」
「そうね……そんなひとじゃないと思っているからこそ、そう思うんだろうけど、ね」
「いつか絶対、破綻するさ、そんな関係……」
「……うん、きっと、必ずそういう日が来ると思う。だけど……」
 それでも。風澄はそう言って続けた。
「でも、逃れられないの。まるで鎖に縛られているみたいに、離れられないの。彼に――彼の薔薇色の鎖に、繋がれてるの。だけどそれが……全然嫌じゃないの。ずっと、ずっと繋いでいて欲しいほど、あの腕に溺れてるの……」
 風澄がどんな表情でそう言ったのか、俺は見ていたわけじゃない。
 だけどその声は本当に、心から、そう思っている声だった。
 風澄。
 俺こそ、おまえの薔薇色の鎖に繋がれたほうだと思っていたのに。
「昔の恋人の忠告も、聞く耳持たず、ってか……」
「…………」
 ここで、ごめんなさいと決して言わない、それが風澄だ。
 そんな口先だけの謝罪の言葉なんか、こんな時になんの意味も効力もない。
 それを痛いほど、知っている。
「なぁ……あいつの、どこがいいの? セックスがそんなに上手いわけ?」
 おいこら! 俺の取り得は下半身だけかよ!
 だいたい、あまりに定番過ぎる展開だろ、それは。
「そんなこと聞いてどうするの?」
「さあね。真似して今おまえにやってみようか?」
「つまらない冗談ね。しかも趣味が悪いわ」
「本気だって言ったら?」
「……ますます悪趣味」
 心底呆れたという口調で風澄は嘆息する。こんなこと言われてるのに随分と冷静だなあ。これは、呆れているというだけじゃない……怒っているのかもしれない。しかも相当。
「別にいいじゃん、あいつとつきあってないんだったら。そいつだって、セフレみたいなもんなんだろ? だいたい、昔さんざんしたじゃん」
「……そんなにたくさんした記憶ないわよ」
 風澄は少し下を向いて言った。そうか……そうだよな。何回とか、憶えてないだろうけど、一年くらい続いてたって言ってたし。
 俺たちなんかたった半月。はぁ。いや、そのうちの回数は、非常に多いが。
「相性……良かったよな? 俺たち」
 な、なんだとおぉ!?
「それよりいい人に、毎日のように抱かれてるとしたら? 他のひとなんか、私は要らない」
 うわっ。これ、ある意味ものすごい惚気(のろけ)じゃないか?
 いや、俺は彼氏じゃないけど。
 ……いい加減悲しくなってきた。
 風澄が俺とするのが気持ちいいって思ってるのは知ってたけど、ここまで言ってくれるとは思わなかったな。これこそ、男冥利に尽きるってもんだろう。
「あなたには、とても感謝してるわ。あのときの、あんな私なんかに、すごくよくしてくれたと思ってる。だけど私はやっぱり友達にしか思えなかったし、あなたもそうだったでしょう?」
「……。そのときはそうでも、今は違うとしたら?」
 ん? 歯切れが悪いな。つまり、アレか? もしかして、『別れたくない』って言わせたくて別れ話を切り出したら、本当に別れられてしまったというやつか? ……そうなんだろうな。そして風澄はそれにサッパリ気づいていないと。そりゃあ未練も残るわけだよ。いや、俺は風澄とコイツが再びどうにかなるなんてこと許さないけどな。
 ちなみに、なんでそんなことがわかるかって、俺も同じようなことを言われたことがあるからだったりする。期待に輝いた目で別れ話を切り出されても困るよなぁ。俺はこれ幸いと本当に別れてしまった側だが(そんなことを言い出す時点で愛想が尽きるからな)、風澄の場合は、あの鈍さを鑑みるに、完全に相手の意図に気づかなかったであろうことは想像に難くない。うーん……こうして考えてみると不憫だな、杉野。
「昔のこともあるし、今日は話を聞こうと思ったけど、こんな話ならなにも進展しない。私が欲しいのは彼だけ。他の誰も要らない」
 残酷なほど、彼女はきっぱりと言い切る。親しい奴でも、気を許した奴でも、こういう風澄は崩せないだろうな。ばっさりと相手を切り捨てる。でも、それは風澄の意思が鉄壁のように揺らぐことのないほど固く、そして切り捨てられることがどんなに辛いか知っているからだと今はわかる。そう……叶わない恋なのに、傷つけたくないという甘えの気持ちで、相手に期待させられたことがあったんじゃないだろうか。そんなの、余計に傷つくに決まっているのに。一人目の本気か、二人目の本気――『宗哉』か、わからないけれど。
「ふーん、そんなに可愛がられちゃってるんだ……へええ」
 なんだそのやらしい目は。全身を舐め回すように吟味しやがって。まぁ確かに隅々までくまなく可愛がってるけどな。
「いつ知り合ったの? そういう関係になったのは?」
「あなたには、関係ないでしょう?」
「あるよ。なんたって元彼氏だしさ。やっぱ元カノが道踏み外してると知ったら止めるのが筋じゃん?」
「道を踏み外していたっていいの。そんなことちっとも構わない」
「不倫する度胸はなかったくせに?」
「……あのひとはもともと、私なんか相手にしてくれてなかったわよ」
 あぁ、つまり、『一人目』の話だな。まぁ、そうだよなあ。風澄にはできないと俺も思う。しても、罪悪感に苛(さいな)まれて、きっと耐えられない。あんな潔癖な子には。
「あなたに説明しても、他の誰かに説明しても、きっとわかってもらえないと思う」
 風澄はぽつりと呟いた。
「だから、わかってもらおうとは思わない。だけど、私にとって、彼は必要なひとなの。それだけは、間違いのないことなの。失いたくない。いつか失う日が来るとしても、そのことを恐れるばかりでなにもしない自分にはもう戻りたくない。……あのひとが、必要なの。離れたくないの……。……っ!? いやあぁっ!」
 風澄!?
 その叫び声を聞いた瞬間、俺は飛び出していた。書架を倒さんばかりに。
「てめぇ、風澄になにしやがる!」
「昂貴!? どうして……!」
 うっわ、こいつ、こともあろうに押し倒してやがる。さすがに床にじゃなくて書架にだけど、地べたに座り込んでる。ふざけんじゃねぇよおまえ! 
「げっ。出やがっ……うわっ」
 ひっぺがして、放り投げるようにして突き飛ばす。これで済ませてやっただけありがたく思えよ? 殴り飛ばしても良かったんだが、杉野がどの程度場慣れしてるかわからないし、加減を間違ったら危ないからな。言っておくけど喧嘩で鍛えたわけじゃないぞ。れっきとしたスポーツだ。文武両道。こちとら勉強だけでなく運動も得意なんだよザマーミロ。料理だって作れるしなんなら歌って踊ることもできるぞ(そういうキャラじゃないが)。なんでもかんでも片っ端からやっていて良かった。ビバ・オールマイティーな俺。ただし、唯一苦手なことは聞かないでくれたまえ。いやほんとにあれだけは勘弁。……じゃなくて。
「って……んの野郎、さては聞いてたな? そのナリで出歯亀かよ!」
 うっ図星だ。けど、そんなんで怯む俺じゃない。ふてぶてしさ絶賛。
「聞いてたんじゃなくて聞こえてたんだよ。だいたい、ここは図書館だ。聞かれて困る話なら、場所を選んでしろよな。……風澄、大丈夫か?」
「うん、ありがとう……」
 倒れこむように斜めによりかかってた風澄をそっと抱き起こして、まっすぐ書架にもたせかけると、その身体が少し震えていた。そのことに気づいてしまった俺は落ち着かせてやりたくて、あいつが見てるのも構わず抱きしめた。
「ちょ、昂貴……」
「いいから……怖かっただろう?」
 見せ付けるためにも、優しく話しかける。風澄もその意図に気づいたのだろう、けれどそれでも嬉しそうに笑った。いつものように、背中に手を回して。抱き合う。
「うん、ちょっと。でも大丈夫よ、昂貴がすぐ来てくれたから」
「ああ」
「ありがとう……」
 そう言うと、彼女の柔らかい口唇が、そっと俺の頬に押し付けられた。って、うわっ、頬にキスだよ! おいおい風澄、今日はどうした? こりゃまた随分と積極的だなぁ。
「……帰るか?」
「うん」
 抱き起こして、立たせる。そして本気で今気づいたという調子で杉野に言った。
「……いたのか」
「知っててやってるくせに、ふざけんじゃねえ」
「俺には、する権利があるからな」
「ちっ……」
 風澄を有無を言わさず引っぱって、エレベーターホールまで連れていく。ボタンを押して待っているときは無言だったけど、エレベーターに入った途端、誰もいなかったのをいいことに、俺は風澄を抱きしめた。
「っ……ちょっと……昂貴?」
「……なにもなくて、よかった」
「……うん」
 あいつのしたことなんかで、おまえを傷つけられるはずもないんだけれど。
 キスをしたかったけど、誰か入ってきて見られるかもしれないから我慢した。
Line
To be continued.
2004.01.01.Thu.
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