叶わぬ恋、届かぬ想い
11.Annex -He is not the Baptist, and She is not Salome-
* Kouki *
…………。
怖い。
正直なところ、非常に怖い。
だけどな、俺が臆病ってわけじゃないぞ。
つれない男の首を切ってキスする女なんて、男だったら誰でも怖いと思うだろう。
なんの話かって?
俺が今手に取ってる本のことなんだけどな。
はっきり言ってそのへんのホラー小説なんかよりずっと怖いぞこれは。ある意味で。
いや、ちょっと違うかな。
これが好きじゃない女だったら怖い。
だけどもし、これが好きな女だったら。
……本望かもしれないな。
なんて思う俺はちょっと危険かもしれない。
なにしろ他の男を想っている女性に惹かれている上に、その子とずっと一緒にいるので、喜びと悲しみの相克というかなんというか、矛盾した気持ちを抱えている。
いや、風澄が好きだという気持ちは一貫しているが。
なんでこんなに好きなんだろうか。
自分でもよくわからない。
好みだとは思う。
だけど、風澄が好みなんじゃなくて、好みが風澄なんじゃないかと思う。
……重症だな、俺。
強くて美しくて賢くて凛々しくて――そして、脆くて弱い。
ひとり聖域にいるかのような、他人を圧する神々しさ。
そして、それとは裏腹の、俺の腕の中での淫らな変貌。
その二面性。
――惹かれずにはいられない。
まっすぐで、ごまかしを許さない潔さが好きだ。
理不尽なことには徹底的に反抗する根性も。
知性的なところは特に良い。
どんな会話でもついてくる。
雑学的知識が豊富で、機転がきく。
興味を持って相手の話に耳を傾けてくれる。
今まで考えつかなかった見方までさらりと提示する、視野の広さ。
言葉の選び方は慎重なくせに反応は素早い。
風澄は勉強もできるけれど、それよりずっと頭のいい子だ。
俺みたいな偏差値社会のトップを爆走してきた人間とは一味違う。
たぶんこういう子を頭の回転が速いって言うんだろうな。
……敵わないな、やっぱり。
俺が彼女を好きだからというだけじゃない。持って生まれた素質の差。
苦手なものも克服してしまう粘り強さもなにもかも。
俺にはない。
この年齢差がもし逆だったら、俺は決して彼女に追いつけなかっただろうな。
だからって自信を喪失したりはしないけれど。
だって俺は彼女と一緒に歩いてきたいから。
俺たちは同じ学問に携わっているけれど、お互いにやっていることは違う。
そして、風澄にできることと、俺ができることも違う。
だから一緒にいられる。一緒にいて、影響し合い、成長し合える。
ずっとこうして生きていけたら、どんなにいいだろう……。
「読書? 珍しいね、そんな薄い本」
しばらく根を詰めて資料に取り掛かっていたが、気晴らしのためだろうか、部屋から出てきた風澄が俺を見やって言った。まぁそうだな、普段はハードカバーの洋書を抱えていることがほとんどだし。ちなみに、風澄の作業のために、空き部屋のひとつを提供している。だだっ広い家だしな。もちろんベッドのない部屋だ。別々に寝るなんてありえないね。それにしても、すっかり俺の部屋で作業するのがあたりまえになってきたな。ふふふ、いい傾向だ。って、そうじゃなくて。
今日は、風澄の元彼氏――杉野琢磨に会った次の日。七月の第三週目の土曜日だ。天気は非常にいいんだが、風澄が家にいるのに俺が出かけるわけがない。そうだな、後で散歩に誘ってみようか。風澄は日差しが苦手だから、日中は日傘をさしてあまり近寄れないし、夕方がいい。夕食の買い物ついでにでも、ゆっくり出かけたらいいだろう。
「なんの本?」
「サロメ」
「…………、そう」
一拍遅れて聞こえた返事。
彼女が固まったのには理由がある。
この本は、オスカー・ワイルドというアイルランド生まれの作家の書いた本だ。
ジャンルは英文学だが、アメリカやフランス、イタリアなどにも渡ったらしい。
『サロメ』に関しては、オーブリー・ビアズリーの挿絵でも有名だな。
元は戯曲で、1892年に書かれたが、上演には至らず、結局本として1893年にフランスで出版された。同年にワイルドの訳によりイギリスでも発行されたという。
日本語訳で厚さ5ミリ程度。
俺の蔵書で一番薄っぺらい本だが、内容が厚さに比例するわけじゃない。
――舞台は分邦ユダヤの国。
その国の王の妻であったエロディアスは夫を十二年間投獄し、ついに処刑した。そしてかねてから願っていたとおり、王の弟のエロド・アンティパスと再婚した。
それを不義と真っ向から責めたのは、預言者ヨカナーン。
エロディアスは彼の処刑を願ったが、エロドは預言者である彼を恐れていた。
サロメとは、エロディアスの娘。
その彼女が好奇心からヨカナーンを見、ひと目で心を奪われた。
けれどそれを真っ向からはねつけたヨカナーン。
そして、妖しい魅力でエロドを虜としていた彼女は、ある宴の最中に彼に踊りを所望された。『望みのもの』を与える代わりに、と。
彼女の望んだものは、ヨカナーンの首。
母親を侮辱したのを言いわけに、つれない男の命を奪って手に入れた。
首を切って銀の大皿に載せ、宣言どおりにくちづける――。
新約聖書に出てくるワンシーンを元に描かれた作品だ。
エロディアスの求めに応じたというのが通例だが、ワイルドは、これをサロメが求めたとして狂気の恋を描いた。
文学史上、芸術史上に名高い魔性の女。ファム・ファタールの原点だ。
ヨカナーンとは、いわゆる洗礼者聖ヨハネ。
風澄の卒論の作品の主題でもある。
……『宗哉』に似ているという、あの絵の主題。
読んでいて、ふと思ったことがある。
風澄は、どこかで重ねていたんじゃないだろうか。
『宗哉』に恋焦がれる自分を、サロメに。
行き場のない想いは、どこへ還るのだろう。
惑って迷って、いつか狂気に変わるのかもしれない。
彼女の想いは、どこへ行くのだろう。
そして俺の想いは――。
* * * * *
いきなりだが、世の中には、荒療治という言葉がある。
前にテーマパークでやったのなんてまさにそれだろう。
今回もそれで行こうかと思ったんだが……やっと近づきはじめた心の距離を、自分から遠ざけることもない。
それに、この前風澄を泣かせたあの日と、あの夢。
詳しいことは知らないが、俺はもう風澄を泣かせたくはない。
――よし、今日は甘々で行こう。
などとわけのわからない決心をしつつ、俺は居間にいた風澄をベッドルームへ呼んだ。
あの画家の画集を手に取り、部屋のベッドでページをめくりながら彼女を待っていると、ほどなく彼女は寝室のドアをノックした。
「なに?」
「こっちにおいで」
手招きしながら彼女を呼び寄せる。
よく考えると、おいでなんて言い方をしたのは初めてだな。うーん。甘いぞ俺。
「って、あの……」
「どうかしたか?」
「そこ、ベッドなんだけど……」
こんな昼間っからナニする気よ、って目で風澄は後ずさる。
いや、そういうつもりじゃないんだが、まぁ、そう見えてしまうのは仕方あるまい。
「なにもしないよ。ただ、くっついて教えようかと思っただけだからさ」
「教えるってなにをよ、なにをっ! あなた自分が前科何犯だかわかってるの!?」
いや、あんまりよくわかってません。
だって俺にとっては風澄が前科何犯って感じだしな。
名前を呼ばれただけで嬉しくてたまらない女なんて、存在自体が既に犯罪だろう。
「どうせまた勉強教えるって言って変なことするんでしょ!」
「しないって。だから来いよ」
「嘘っ、絶対するわよ昂貴ならっ!」
「ははは。まったく、信用ねぇなあ」
いかん、笑ってしまう。笑うところじゃないんだろうけど、つい。
「なに笑ってるのよあなた……」
呆れかえる風澄に、俺はまた笑ってしまう。
嬉しいんだけどな、俺は。そんなことを言うくせに、それでも風澄は俺と一緒にいる。そして、俺に普通に抱いて欲しいとまで言ってくれた。
俺を求めてくれた。
それが、どんな理由でも構わない。彼女の一番側にいるのは俺だ。
宗哉でも杉野でもなく。
「……おいで?」
優しい顔と声で穏やかにそう言えば、彼女はしぶしぶ従う。
一緒にいて触れ合う心地よさを、もう心も身体も憶えはじめているから。
ベッドに上がってきた彼女を、俺の脚の間に座らせ、同じ方向を向いたまま、腕を回して、後ろから抱きつく。決して小柄というわけじゃないのに、俺の中にすっぽりと納まってしまう細い身体。
「ねえ、どうしたの?」
俺は無言でベッドの背に寄りかかって、そして――傍らの本を開いた。
「っ……」
風澄の膝の上に、それを乗せる。
そのページにはもちろん――あの絵。
びくり、と身体がこわばったのがわかる。
だから俺は風澄を抱きしめる腕をより強くして、言った。
「風澄」
「……なに?」
「この絵の題名は?」
「っ……」
知っているに決まっているのだけれど、ここから始めるのが俺流である。
「洗礼者聖ヨハネ、よ」
「英語では?」
「St.John the Baptistよ。知らないわけないじゃない」
「じゃあ、イタリア語では?」
「San Giovanni Battista。あのねえ……なにが言いたいの?」
「よくできました。では彼のアトリビュートは?」
多くの日本人は、西洋美術作品を見た時に、『なぜこれがこの人物だと断定できるのだろうか?』と首を傾げるだろう。その根拠がこのアトリビュートだ。日本語で言うなら持物(じもつ)だな。西洋美術作品を理解するために必要不可欠な要素で、その作品の人物が誰なのかを示すもの、と言えばわかりやすいだろう。と言っても元々決められていたわけではなく、慣用的なもので、たいてい聖書や神話にちなんでいる。一種の記号と考えるといいかもしれない。例えば、ユピテル(ギリシャ神話で言うところのゼウスだ)なら雷神だから雷、アモール(ギリシャ神話で言うところのエロス。キューピッドやクピドとも言うな)なら弓と矢、というふうに。アトリビュートはひとりに対してひとつとは限らず、むしろたくさんのアトリビュートを持っていることが多い。ひとつの作品で複数のアトリビュートを表現することもよくある。今挙げたのはごく基本的なものだが、もっと複雑な由来を持つアトリビュートもある。どれも聖書や神話の話を元にしているから、識字率が低かった時代には文字よりもずっとわかりやすかったわけだ。
「毛皮をまとって腰に革帯を巻いている姿で描かれ、葦でできた十字架を持っているという姿で描かれるのが典型例だけど」
「はい正解。他の場合には?」
「多いのは、子羊と一緒に描かれるパターンで、他にも、蜂の巣や、洗礼用の杯という場合もある。どれも、新約聖書における洗礼者聖ヨハネに関する記述を源泉としている図像。……だから、なんのつもりなのよ?」
「じゃあ、その本人はどんなふうに描かれる?」
「あのねえ、ひとの話を聞きなさいよあなたは!」
いきなり振り返って風澄は俺に指をつきつけ、そう言った。うーん、やっぱり美人度は怒った顔が一番だな、と俺は関心しつつ言いわけをする。
「いや、まずは風澄の知識をはかっておこうかと思ってさ」
「……、馬鹿にしてるわね?」
「いでっ!」
俺の扱いに抗議するというよりは、まるでじゃれるかのように、風澄は俺の頬をつねった。結構痛かったけど、その行動がたまらなく可愛くて、俺は思わずにやけそうになってしまった。必死に抑えたが。
子供っぽい拗ね方をするのだって、俺に心を開いているからだろう。
つい二週間ほど前を思い出すと、この現実が夢のようにさえ思える。一緒に過ごすようになってまだ半月しか経っていないのに、こんなに打ち解け合えるだなんてさ。
「してないって。基礎知識の確認は大事だろ?」
「それはそうだけど、なんだかイタリア語の時みたいなんだもの」
「あぁ、ああいうふうにして欲しい? だったら……」
「いやあぁっ、違うわよ! あんなのもう二度とごめんだわ! 今度やったら本気で怒るからね!」
これ幸いと、手錠を探すふりをしてベッドサイドの引き出しに手をやった俺を、風澄は慌てて止めようとする。もうやらないけどな、あんなふうには。
「はいはい、悪かったって。だけど拘束プレイは捨てがたいな」
「ううう……昂貴の変態ぃ……」
あまり大きな声では言えないが、似合うんだよなー拘束が。しかも、反応が良くなるんだよこれが。本人は気づいていないだろうけど。目隠しとかも良かったなぁ。あの時は好きでやってたわけじゃないけど(そこんとこ疑わないように)、合意の上でだったら……イイかもしれない、うん。あくまで合意の上でな。
俺の顔が見えなくたって、今の風澄は俺を思い描いてくれるだろうから。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、俺から逃れようとした風澄を抱きとめて、ぴったりと身体をくっつける。髪が触れてくすぐったいけれど、心地いい。
触れ合わなくても彼女の一番そばにいるのは俺だけど、やっぱり触れていたい。
彼女の熱を感じたいから。
「続きな。本人の描写は?」
「やせた身体と乱れた髪で。荒野で生活していたんだから当然の設定だわ」
「子羊を抱えているのはどうしてだ?」
「自分のほうへイエスが近づいてくるのを見て『見よ、神の子羊』と言ったからよ」
「出典はどこだ?」
「新約聖書の『ヨハネによる福音書』の第一章から」
「お、よく知ってるなあ」
「あら、主題の出典を調べるのは当然でしょ」
「なるほど……さすがだな」
愚問だと言わんばかりに彼女は答える。
実は、俺は意地悪問題を出したんだよな。だけどそれにさえ彼女の言葉は滞ることはない。それどころか、至極さらりと、いとも簡単に答えてしまうなんて。
それは、風澄が慎重すぎるほど入念に下調べをしているからだ。いきなり本題に取り掛かったりはしない。どんな細かい情報も見逃さず、全ての出典に当たり、外堀を埋め、資料を揃えながら研究を進め、ひととおり揃ったところで執筆に入る。
去年一度だけ聞いた発表さえ、その論に危うさは欠片もなかった。現実問題として、学生、しかも学部生の身分で未確定な情報を自分で確認することはまず不可能だ。ましてヨーロッパの画家のヨーロッパにある作品ときては。それゆえにほとんどが仮説の提示でまとめられていたが、資料の中から導き出した『自分自身の仮説』を幾つも挙げていたことに、なにより驚いた。しかも、それらの論拠は全て現在中心となっている情報に裏づけされている。
つまり、『矛盾』がないのだ。
現時点で彼女の手に入る資料の中では、皆無と言ってもいいだろう。
わずかな突っ込みどころさえ、問題にならない。
……とんでもない、こんな子。
一体この先どれほど成長するのか、空恐ろしいほどだ。
俺なんか、いつ置いていかれるかわかったもんじゃない。
負けを認めるようだけど、そのことがちっとも嫌じゃないのは自分でも不思議だ。
楽しみでさえある。
そんな彼女をずっと見ていたいと思うのは贅沢だろうか?
その隣で見守り、時には助け合って、そうやって生きていけたら……。
……夢のような話だけれど、そんな日が来たらどんなにいいだろう。
今はせいぜい明日のことくらいしか考えられないけれど……。
「続きな。洗礼者と呼ばれる所以(ゆえん)は?」
「そのままよ、イエスに洗礼を授けた人物だから」
「じゃあ彼が洗礼を授けていた場所は?」
「ヨルダン川。洗礼には水が必要だから」
うーん……ここまですらすら答えられてしまうと、こっちとしても意地悪をしたくなってしまうな。というわけで、俺は意地悪問題第二弾を出すことにした。
「それでは、洗礼のやりかたを述べよ」
「普通に答えるのと、ビアスの『悪魔の辞典』ふうに答えるのと、どっちがいい?」
「って、そっちまで知ってるのかよ」
「もちろん。って言うかね、それまではあまりイメージできなかったんだけど、あれを読んだら理解しやすい上におかしくて、思わず笑っちゃったわ」
「確かに、あれは秀逸な表現だよなあ」
ちなみに、とんでもないタイトルだが、非常に面白い本だ。言葉の裏の真実を一言であらわしている。皮肉屋にはもってこいだ。ちなみにその本で洗礼についてどう表現されているかと言うと、すなわち『ぶっこみ式』と『ぶっかけ式』。信者じゃないから実際に見たことはないが、あまりにそのままで笑ってしまったっけ。
「じゃあ最後、彼の死因は?」
「処刑で。ヘロデ・アンティパスがヘロデヤの娘のサロメと交わした無分別な約束のために斬首に処されたのが最期。だいたい、あなたがさっき読んでいた本は、その話をモチーフにして作られた作品でしょ」
「……全問正解」
「ふふふん、当然よ。語学じゃなければこんなもの軽い軽いっ」
無邪気な子供のように彼女ははしゃぐ。
実は、俺も驚いていた。予想はしていたけれど、幾ら卒論のテーマの作品とはいえ、ここまでよどみなく答えられるとは。
それは『宗哉』への思慕のせいだけなのだろうか?
……いや、違うだろう。
本気だから。
彼女が本気で、この道を生きると決心しているからだ。
……これが本当に学士論文さえ書いたことのない子なのだろうか。
最も必要な手順を誰に教えられるでもなく自ら踏んでいる。
その手法と姿勢と根性は既に自立した学者そのもの。
いや、その緻密さと厳密さにおいては、それ以上かもしれない。
一時代を築いた研究者でさえ一目を置くだろう。
弱冠二十一歳ながら、それは確定された未来のようにさえ思える。
無限の可能性を秘めている学者の卵。
彼女は一体どんな人生を歩むのだろう。
この先の未来にはなにが待っているのだろう。
いつまで一緒にいられるのかさえわからないけれど、それをずっと見ていたい。
彼女の成長と輝きを。
その才能がいつの日か花開くときを。
その花が一体どれほど燦然と咲き誇るのかを。
彼女の種を芽吹かせたのが初恋の男だとしたら、蕾をつけたのは宗哉だ。
そして、彼女の花を咲かせるのは、一体誰なのだろうか――。
未だ閉じたままの蕾の一番そばに俺はいる。
開く前に手折られてしまったその花を少しでも癒したくて。
俺は太陽にも水にもなれないけれど、せめて。
「ところで風澄……」
「なぁに?」
「これは誰だ?」
「え?」
再びその絵を指差した俺に、きょとんとして風澄は答える。あたりまえの台詞を。
「だから、洗礼者聖ヨハネでしょ? なに言ってるの?」
「……よくできました」
だから俺は、風澄の首筋を背後からそっと口唇でなぞった。
「っん、や、やっぱり、するんじゃない……あ、ん、やぁっ……」
「いや?」
「やだっ、やめ……こっ、んな、真っ昼間、からっ、も……っ」
触れただけなのに、彼女は喘ぎ声としか思えないような可愛らしい反応をする。それだけで呼吸は乱れ、可愛らしい抵抗に俺のほうが余裕をなくしていく。
「もぉっ、一休みしようと思ったのに〜!」
ブラウスのボタンの隙間から手を差し入れ、ほんのりと湿気を帯びはじめた素肌に触れたら、恨めしそうに言われた。観念したということだろうか。
「ふぅん、休みたい?」
にやにや笑ってそう聞けば、彼女はむっとしながらも返答する。
「休みたかったけど!」
「けど?」
「がっ、我慢してあげるわよ!」
そっぽ向いて、耳まで真っ赤なくせに強がって言う彼女があまりに可愛くて、また俺は笑ってしまった。睨まれたことさえ嬉しくてたまらない。
「悪いけど、疲れさせるからな」
だから俺はそう言って、彼女への愛撫を強めていった。
この絵は、ただの絵だ。
宗哉が宗哉であるように、風澄は風澄。
宗哉は洗礼者聖ヨハネではなく、風澄はサロメでもない。
風澄。
どうせ首を切ってくちづけるなら、それは俺にしてくれよな。
…………。
怖い。
正直なところ、非常に怖い。
だけどな、俺が臆病ってわけじゃないぞ。
つれない男の首を切ってキスする女なんて、男だったら誰でも怖いと思うだろう。
なんの話かって?
俺が今手に取ってる本のことなんだけどな。
はっきり言ってそのへんのホラー小説なんかよりずっと怖いぞこれは。ある意味で。
いや、ちょっと違うかな。
これが好きじゃない女だったら怖い。
だけどもし、これが好きな女だったら。
……本望かもしれないな。
なんて思う俺はちょっと危険かもしれない。
なにしろ他の男を想っている女性に惹かれている上に、その子とずっと一緒にいるので、喜びと悲しみの相克というかなんというか、矛盾した気持ちを抱えている。
いや、風澄が好きだという気持ちは一貫しているが。
なんでこんなに好きなんだろうか。
自分でもよくわからない。
好みだとは思う。
だけど、風澄が好みなんじゃなくて、好みが風澄なんじゃないかと思う。
……重症だな、俺。
強くて美しくて賢くて凛々しくて――そして、脆くて弱い。
ひとり聖域にいるかのような、他人を圧する神々しさ。
そして、それとは裏腹の、俺の腕の中での淫らな変貌。
その二面性。
――惹かれずにはいられない。
まっすぐで、ごまかしを許さない潔さが好きだ。
理不尽なことには徹底的に反抗する根性も。
知性的なところは特に良い。
どんな会話でもついてくる。
雑学的知識が豊富で、機転がきく。
興味を持って相手の話に耳を傾けてくれる。
今まで考えつかなかった見方までさらりと提示する、視野の広さ。
言葉の選び方は慎重なくせに反応は素早い。
風澄は勉強もできるけれど、それよりずっと頭のいい子だ。
俺みたいな偏差値社会のトップを爆走してきた人間とは一味違う。
たぶんこういう子を頭の回転が速いって言うんだろうな。
……敵わないな、やっぱり。
俺が彼女を好きだからというだけじゃない。持って生まれた素質の差。
苦手なものも克服してしまう粘り強さもなにもかも。
俺にはない。
この年齢差がもし逆だったら、俺は決して彼女に追いつけなかっただろうな。
だからって自信を喪失したりはしないけれど。
だって俺は彼女と一緒に歩いてきたいから。
俺たちは同じ学問に携わっているけれど、お互いにやっていることは違う。
そして、風澄にできることと、俺ができることも違う。
だから一緒にいられる。一緒にいて、影響し合い、成長し合える。
ずっとこうして生きていけたら、どんなにいいだろう……。
「読書? 珍しいね、そんな薄い本」
しばらく根を詰めて資料に取り掛かっていたが、気晴らしのためだろうか、部屋から出てきた風澄が俺を見やって言った。まぁそうだな、普段はハードカバーの洋書を抱えていることがほとんどだし。ちなみに、風澄の作業のために、空き部屋のひとつを提供している。だだっ広い家だしな。もちろんベッドのない部屋だ。別々に寝るなんてありえないね。それにしても、すっかり俺の部屋で作業するのがあたりまえになってきたな。ふふふ、いい傾向だ。って、そうじゃなくて。
今日は、風澄の元彼氏――杉野琢磨に会った次の日。七月の第三週目の土曜日だ。天気は非常にいいんだが、風澄が家にいるのに俺が出かけるわけがない。そうだな、後で散歩に誘ってみようか。風澄は日差しが苦手だから、日中は日傘をさしてあまり近寄れないし、夕方がいい。夕食の買い物ついでにでも、ゆっくり出かけたらいいだろう。
「なんの本?」
「サロメ」
「…………、そう」
一拍遅れて聞こえた返事。
彼女が固まったのには理由がある。
この本は、オスカー・ワイルドというアイルランド生まれの作家の書いた本だ。
ジャンルは英文学だが、アメリカやフランス、イタリアなどにも渡ったらしい。
『サロメ』に関しては、オーブリー・ビアズリーの挿絵でも有名だな。
元は戯曲で、1892年に書かれたが、上演には至らず、結局本として1893年にフランスで出版された。同年にワイルドの訳によりイギリスでも発行されたという。
日本語訳で厚さ5ミリ程度。
俺の蔵書で一番薄っぺらい本だが、内容が厚さに比例するわけじゃない。
――舞台は分邦ユダヤの国。
その国の王の妻であったエロディアスは夫を十二年間投獄し、ついに処刑した。そしてかねてから願っていたとおり、王の弟のエロド・アンティパスと再婚した。
それを不義と真っ向から責めたのは、預言者ヨカナーン。
エロディアスは彼の処刑を願ったが、エロドは預言者である彼を恐れていた。
サロメとは、エロディアスの娘。
その彼女が好奇心からヨカナーンを見、ひと目で心を奪われた。
けれどそれを真っ向からはねつけたヨカナーン。
そして、妖しい魅力でエロドを虜としていた彼女は、ある宴の最中に彼に踊りを所望された。『望みのもの』を与える代わりに、と。
彼女の望んだものは、ヨカナーンの首。
母親を侮辱したのを言いわけに、つれない男の命を奪って手に入れた。
首を切って銀の大皿に載せ、宣言どおりにくちづける――。
新約聖書に出てくるワンシーンを元に描かれた作品だ。
エロディアスの求めに応じたというのが通例だが、ワイルドは、これをサロメが求めたとして狂気の恋を描いた。
文学史上、芸術史上に名高い魔性の女。ファム・ファタールの原点だ。
ヨカナーンとは、いわゆる洗礼者聖ヨハネ。
風澄の卒論の作品の主題でもある。
……『宗哉』に似ているという、あの絵の主題。
読んでいて、ふと思ったことがある。
風澄は、どこかで重ねていたんじゃないだろうか。
『宗哉』に恋焦がれる自分を、サロメに。
行き場のない想いは、どこへ還るのだろう。
惑って迷って、いつか狂気に変わるのかもしれない。
彼女の想いは、どこへ行くのだろう。
そして俺の想いは――。
* * * * *
いきなりだが、世の中には、荒療治という言葉がある。
前にテーマパークでやったのなんてまさにそれだろう。
今回もそれで行こうかと思ったんだが……やっと近づきはじめた心の距離を、自分から遠ざけることもない。
それに、この前風澄を泣かせたあの日と、あの夢。
詳しいことは知らないが、俺はもう風澄を泣かせたくはない。
――よし、今日は甘々で行こう。
などとわけのわからない決心をしつつ、俺は居間にいた風澄をベッドルームへ呼んだ。
あの画家の画集を手に取り、部屋のベッドでページをめくりながら彼女を待っていると、ほどなく彼女は寝室のドアをノックした。
「なに?」
「こっちにおいで」
手招きしながら彼女を呼び寄せる。
よく考えると、おいでなんて言い方をしたのは初めてだな。うーん。甘いぞ俺。
「って、あの……」
「どうかしたか?」
「そこ、ベッドなんだけど……」
こんな昼間っからナニする気よ、って目で風澄は後ずさる。
いや、そういうつもりじゃないんだが、まぁ、そう見えてしまうのは仕方あるまい。
「なにもしないよ。ただ、くっついて教えようかと思っただけだからさ」
「教えるってなにをよ、なにをっ! あなた自分が前科何犯だかわかってるの!?」
いや、あんまりよくわかってません。
だって俺にとっては風澄が前科何犯って感じだしな。
名前を呼ばれただけで嬉しくてたまらない女なんて、存在自体が既に犯罪だろう。
「どうせまた勉強教えるって言って変なことするんでしょ!」
「しないって。だから来いよ」
「嘘っ、絶対するわよ昂貴ならっ!」
「ははは。まったく、信用ねぇなあ」
いかん、笑ってしまう。笑うところじゃないんだろうけど、つい。
「なに笑ってるのよあなた……」
呆れかえる風澄に、俺はまた笑ってしまう。
嬉しいんだけどな、俺は。そんなことを言うくせに、それでも風澄は俺と一緒にいる。そして、俺に普通に抱いて欲しいとまで言ってくれた。
俺を求めてくれた。
それが、どんな理由でも構わない。彼女の一番側にいるのは俺だ。
宗哉でも杉野でもなく。
「……おいで?」
優しい顔と声で穏やかにそう言えば、彼女はしぶしぶ従う。
一緒にいて触れ合う心地よさを、もう心も身体も憶えはじめているから。
ベッドに上がってきた彼女を、俺の脚の間に座らせ、同じ方向を向いたまま、腕を回して、後ろから抱きつく。決して小柄というわけじゃないのに、俺の中にすっぽりと納まってしまう細い身体。
「ねえ、どうしたの?」
俺は無言でベッドの背に寄りかかって、そして――傍らの本を開いた。
「っ……」
風澄の膝の上に、それを乗せる。
そのページにはもちろん――あの絵。
びくり、と身体がこわばったのがわかる。
だから俺は風澄を抱きしめる腕をより強くして、言った。
「風澄」
「……なに?」
「この絵の題名は?」
「っ……」
知っているに決まっているのだけれど、ここから始めるのが俺流である。
「洗礼者聖ヨハネ、よ」
「英語では?」
「St.John the Baptistよ。知らないわけないじゃない」
「じゃあ、イタリア語では?」
「San Giovanni Battista。あのねえ……なにが言いたいの?」
「よくできました。では彼のアトリビュートは?」
多くの日本人は、西洋美術作品を見た時に、『なぜこれがこの人物だと断定できるのだろうか?』と首を傾げるだろう。その根拠がこのアトリビュートだ。日本語で言うなら持物(じもつ)だな。西洋美術作品を理解するために必要不可欠な要素で、その作品の人物が誰なのかを示すもの、と言えばわかりやすいだろう。と言っても元々決められていたわけではなく、慣用的なもので、たいてい聖書や神話にちなんでいる。一種の記号と考えるといいかもしれない。例えば、ユピテル(ギリシャ神話で言うところのゼウスだ)なら雷神だから雷、アモール(ギリシャ神話で言うところのエロス。キューピッドやクピドとも言うな)なら弓と矢、というふうに。アトリビュートはひとりに対してひとつとは限らず、むしろたくさんのアトリビュートを持っていることが多い。ひとつの作品で複数のアトリビュートを表現することもよくある。今挙げたのはごく基本的なものだが、もっと複雑な由来を持つアトリビュートもある。どれも聖書や神話の話を元にしているから、識字率が低かった時代には文字よりもずっとわかりやすかったわけだ。
「毛皮をまとって腰に革帯を巻いている姿で描かれ、葦でできた十字架を持っているという姿で描かれるのが典型例だけど」
「はい正解。他の場合には?」
「多いのは、子羊と一緒に描かれるパターンで、他にも、蜂の巣や、洗礼用の杯という場合もある。どれも、新約聖書における洗礼者聖ヨハネに関する記述を源泉としている図像。……だから、なんのつもりなのよ?」
「じゃあ、その本人はどんなふうに描かれる?」
「あのねえ、ひとの話を聞きなさいよあなたは!」
いきなり振り返って風澄は俺に指をつきつけ、そう言った。うーん、やっぱり美人度は怒った顔が一番だな、と俺は関心しつつ言いわけをする。
「いや、まずは風澄の知識をはかっておこうかと思ってさ」
「……、馬鹿にしてるわね?」
「いでっ!」
俺の扱いに抗議するというよりは、まるでじゃれるかのように、風澄は俺の頬をつねった。結構痛かったけど、その行動がたまらなく可愛くて、俺は思わずにやけそうになってしまった。必死に抑えたが。
子供っぽい拗ね方をするのだって、俺に心を開いているからだろう。
つい二週間ほど前を思い出すと、この現実が夢のようにさえ思える。一緒に過ごすようになってまだ半月しか経っていないのに、こんなに打ち解け合えるだなんてさ。
「してないって。基礎知識の確認は大事だろ?」
「それはそうだけど、なんだかイタリア語の時みたいなんだもの」
「あぁ、ああいうふうにして欲しい? だったら……」
「いやあぁっ、違うわよ! あんなのもう二度とごめんだわ! 今度やったら本気で怒るからね!」
これ幸いと、手錠を探すふりをしてベッドサイドの引き出しに手をやった俺を、風澄は慌てて止めようとする。もうやらないけどな、あんなふうには。
「はいはい、悪かったって。だけど拘束プレイは捨てがたいな」
「ううう……昂貴の変態ぃ……」
あまり大きな声では言えないが、似合うんだよなー拘束が。しかも、反応が良くなるんだよこれが。本人は気づいていないだろうけど。目隠しとかも良かったなぁ。あの時は好きでやってたわけじゃないけど(そこんとこ疑わないように)、合意の上でだったら……イイかもしれない、うん。あくまで合意の上でな。
俺の顔が見えなくたって、今の風澄は俺を思い描いてくれるだろうから。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、俺から逃れようとした風澄を抱きとめて、ぴったりと身体をくっつける。髪が触れてくすぐったいけれど、心地いい。
触れ合わなくても彼女の一番そばにいるのは俺だけど、やっぱり触れていたい。
彼女の熱を感じたいから。
「続きな。本人の描写は?」
「やせた身体と乱れた髪で。荒野で生活していたんだから当然の設定だわ」
「子羊を抱えているのはどうしてだ?」
「自分のほうへイエスが近づいてくるのを見て『見よ、神の子羊』と言ったからよ」
「出典はどこだ?」
「新約聖書の『ヨハネによる福音書』の第一章から」
「お、よく知ってるなあ」
「あら、主題の出典を調べるのは当然でしょ」
「なるほど……さすがだな」
愚問だと言わんばかりに彼女は答える。
実は、俺は意地悪問題を出したんだよな。だけどそれにさえ彼女の言葉は滞ることはない。それどころか、至極さらりと、いとも簡単に答えてしまうなんて。
それは、風澄が慎重すぎるほど入念に下調べをしているからだ。いきなり本題に取り掛かったりはしない。どんな細かい情報も見逃さず、全ての出典に当たり、外堀を埋め、資料を揃えながら研究を進め、ひととおり揃ったところで執筆に入る。
去年一度だけ聞いた発表さえ、その論に危うさは欠片もなかった。現実問題として、学生、しかも学部生の身分で未確定な情報を自分で確認することはまず不可能だ。ましてヨーロッパの画家のヨーロッパにある作品ときては。それゆえにほとんどが仮説の提示でまとめられていたが、資料の中から導き出した『自分自身の仮説』を幾つも挙げていたことに、なにより驚いた。しかも、それらの論拠は全て現在中心となっている情報に裏づけされている。
つまり、『矛盾』がないのだ。
現時点で彼女の手に入る資料の中では、皆無と言ってもいいだろう。
わずかな突っ込みどころさえ、問題にならない。
……とんでもない、こんな子。
一体この先どれほど成長するのか、空恐ろしいほどだ。
俺なんか、いつ置いていかれるかわかったもんじゃない。
負けを認めるようだけど、そのことがちっとも嫌じゃないのは自分でも不思議だ。
楽しみでさえある。
そんな彼女をずっと見ていたいと思うのは贅沢だろうか?
その隣で見守り、時には助け合って、そうやって生きていけたら……。
……夢のような話だけれど、そんな日が来たらどんなにいいだろう。
今はせいぜい明日のことくらいしか考えられないけれど……。
「続きな。洗礼者と呼ばれる所以(ゆえん)は?」
「そのままよ、イエスに洗礼を授けた人物だから」
「じゃあ彼が洗礼を授けていた場所は?」
「ヨルダン川。洗礼には水が必要だから」
うーん……ここまですらすら答えられてしまうと、こっちとしても意地悪をしたくなってしまうな。というわけで、俺は意地悪問題第二弾を出すことにした。
「それでは、洗礼のやりかたを述べよ」
「普通に答えるのと、ビアスの『悪魔の辞典』ふうに答えるのと、どっちがいい?」
「って、そっちまで知ってるのかよ」
「もちろん。って言うかね、それまではあまりイメージできなかったんだけど、あれを読んだら理解しやすい上におかしくて、思わず笑っちゃったわ」
「確かに、あれは秀逸な表現だよなあ」
ちなみに、とんでもないタイトルだが、非常に面白い本だ。言葉の裏の真実を一言であらわしている。皮肉屋にはもってこいだ。ちなみにその本で洗礼についてどう表現されているかと言うと、すなわち『ぶっこみ式』と『ぶっかけ式』。信者じゃないから実際に見たことはないが、あまりにそのままで笑ってしまったっけ。
「じゃあ最後、彼の死因は?」
「処刑で。ヘロデ・アンティパスがヘロデヤの娘のサロメと交わした無分別な約束のために斬首に処されたのが最期。だいたい、あなたがさっき読んでいた本は、その話をモチーフにして作られた作品でしょ」
「……全問正解」
「ふふふん、当然よ。語学じゃなければこんなもの軽い軽いっ」
無邪気な子供のように彼女ははしゃぐ。
実は、俺も驚いていた。予想はしていたけれど、幾ら卒論のテーマの作品とはいえ、ここまでよどみなく答えられるとは。
それは『宗哉』への思慕のせいだけなのだろうか?
……いや、違うだろう。
本気だから。
彼女が本気で、この道を生きると決心しているからだ。
……これが本当に学士論文さえ書いたことのない子なのだろうか。
最も必要な手順を誰に教えられるでもなく自ら踏んでいる。
その手法と姿勢と根性は既に自立した学者そのもの。
いや、その緻密さと厳密さにおいては、それ以上かもしれない。
一時代を築いた研究者でさえ一目を置くだろう。
弱冠二十一歳ながら、それは確定された未来のようにさえ思える。
無限の可能性を秘めている学者の卵。
彼女は一体どんな人生を歩むのだろう。
この先の未来にはなにが待っているのだろう。
いつまで一緒にいられるのかさえわからないけれど、それをずっと見ていたい。
彼女の成長と輝きを。
その才能がいつの日か花開くときを。
その花が一体どれほど燦然と咲き誇るのかを。
彼女の種を芽吹かせたのが初恋の男だとしたら、蕾をつけたのは宗哉だ。
そして、彼女の花を咲かせるのは、一体誰なのだろうか――。
未だ閉じたままの蕾の一番そばに俺はいる。
開く前に手折られてしまったその花を少しでも癒したくて。
俺は太陽にも水にもなれないけれど、せめて。
「ところで風澄……」
「なぁに?」
「これは誰だ?」
「え?」
再びその絵を指差した俺に、きょとんとして風澄は答える。あたりまえの台詞を。
「だから、洗礼者聖ヨハネでしょ? なに言ってるの?」
「……よくできました」
だから俺は、風澄の首筋を背後からそっと口唇でなぞった。
「っん、や、やっぱり、するんじゃない……あ、ん、やぁっ……」
「いや?」
「やだっ、やめ……こっ、んな、真っ昼間、からっ、も……っ」
触れただけなのに、彼女は喘ぎ声としか思えないような可愛らしい反応をする。それだけで呼吸は乱れ、可愛らしい抵抗に俺のほうが余裕をなくしていく。
「もぉっ、一休みしようと思ったのに〜!」
ブラウスのボタンの隙間から手を差し入れ、ほんのりと湿気を帯びはじめた素肌に触れたら、恨めしそうに言われた。観念したということだろうか。
「ふぅん、休みたい?」
にやにや笑ってそう聞けば、彼女はむっとしながらも返答する。
「休みたかったけど!」
「けど?」
「がっ、我慢してあげるわよ!」
そっぽ向いて、耳まで真っ赤なくせに強がって言う彼女があまりに可愛くて、また俺は笑ってしまった。睨まれたことさえ嬉しくてたまらない。
「悪いけど、疲れさせるからな」
だから俺はそう言って、彼女への愛撫を強めていった。
この絵は、ただの絵だ。
宗哉が宗哉であるように、風澄は風澄。
宗哉は洗礼者聖ヨハネではなく、風澄はサロメでもない。
風澄。
どうせ首を切ってくちづけるなら、それは俺にしてくれよな。
First Section - Chapter 4 The End.
2003.12.11.Thu.
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