叶わぬ恋、届かぬ想い

03.涙


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 向かったのは、地下五階。それまでいたのが地下一階だったから、面倒だしと階段で行った。後ろから靴の踵(かかと)の音が聞こえる。風澄はいつもヒールのある靴を履いている。背の高い女の子って、それを気にして猫背になっているのをよく見るけれど、風澄はそうじゃない。コンプレックスにしない。いつも背筋がぴんと伸びている。それに、身長なんかでひとを評価する人間には興味ありませんって顔。そういうところを俺がいいなと思うのは、風澄よりずっと高いせいもあるんだろうけど。だけどきっと、風澄は俺の身長が高かろうが低かろうが、別にどっちでも構わないんだろう。学歴なんかどうでもいいのと同じで。できれば自分より高い男のほうが良いに決まっているだろうけどさ。まぁ、高いと言っても170センチ以下だから、靴を含めなければ相手の男を抜かしてしまうなんてことはそれほど多くないだろうしな。俺は身長差があって嬉しいけど。
 そして、その階の奥の、大型本を置いてある部屋へ行く。他の階の書架に乗らないような、特大サイズのものばかり置いてあるところだ。そんなサイズの本を使うのは俺たち美術史学を修めている人間がほとんどだから、ここは『美学美術史学専攻御用達』の部屋でもある。
「……市谷、さん」
 ずっと閉じていた口を、やっと開く。怒っていると思われていたかもしれない。実際は、どっちかっていうと『拗ねていた』なんだけど。ガキか俺は。
「……はい」
 まだ名字なのは、この部屋に他に誰かいるかもしれないから。まぁ、地下四階と五階は古い洋書が中心だから、元々ほとんどひとはいないんだけれど。
「向こうまわって、ひとがいないか見てこよう」
 今度は耳元で囁いた俺に頷いて、風澄はこちら、俺は向こう側の通りをぐるっと一周。ひとつひとつ、書架と書架の間に人がいないか確認しながら。天井まで書架が届いていて、意外と奥のある細長いこの部屋は、棚の並びに入ってしまえば、他からはひとがいるとは全然わからない。誰もいなければ、ふたりきりで話をするのにもってこいだ。いや、そんなことのための場所じゃないんだが、今は好都合だろう。一番奥の壁につきあたり、そこで角をまがって、少し遅れてきた風澄と、そこで合流する。
「誰もいなかったね」
 にこっと笑う風澄。
 あぁ、やっと普段の俺たちだ。
 それを見たら思わず、抱きしめていた。
「風澄……」
「あ……」
 鼓動が重なる。数日ぶりの、懐かしい感触。おずおずと、風澄の腕が背中に回る。ぴったりと合う身体と身体。彼女の柔らかさ。あたたかさ。香り。会いたかった、ずっとこうしたかった。そんな想いをこめて。何分そうしていただろうか。うっとりとふたりで久々の逢瀬(おうせ)に酔っていたところで、風澄が口を開いた。
「さっきの、ごめんね?」
「ああ……いいよ別に、気にすんなって」
 今はこうしていられるんだし。なんてな。
 しっかし、なんて現金なんだ、俺って奴は……。
「あのね……実は、あのひとね……」
「うん?」
「……昔、つきあってたひとなの」
「ああ、そうだったのか……なにぃっ!?」
「きゃあぁ、耳元で大きな声出さないでぇっ」
 がばりと身体を離す。あぁ、つい大声が。ごめん風澄。じゃなくて、おい!
「……ちょっとこっち来なさい」
 いいこと思いついた。嫌とは言わせないぞ?
 俺はそこにあった閲覧用の椅子に腰掛け、彼女に手招きをした。そして、近づいては来たものの、俺がなにをしようとしているのかつかめずにきょとんとしている風澄を、膝の上に座らせようと抱き寄せた。
「えええぇっ!?」
 俺の意図に気づいた途端、風澄はわたわたと慌てた。
 あのな、これよりもっとすごいことを何度もやってるだろうが。しかも何度も。なにを今更。いや、その慣れない初々しさがまた、たまらんのだが。
「ちょっと……学校よ? 神聖な図書館よ?」
「本の神様だって、これくらいするだろ」
「あのねぇ……」
「今なら誰もいないから大丈夫だって。ひとが来たらすぐにやめるから。な?」
 くっついて話したかったんだよ、俺は別って思いたくて。そして、少し迷ってから風澄はそっと俺の肩に手をかけて膝の上に横座りした。重力で密着した風澄の太腿(ふともも)があまりにも気持ちよかったので、乗せてみたらどかすものかって気分になっちまった。重さはあるんだけど心地いい。今は『姫抱っこ』みたいに横に座らせてるけど、向かい合ったらアレだな、いわゆる『対面座位』だな。いいかもしれない。風澄の好みどおり、ちゃんと顔を見ていられるし。今夜は絶対これでやろう。つーか来るなよ誰も。
「ううう……ほんとに誰か来たらやめてよ?」
「ああ。約束する」
 額に軽くキスをして、話し始める。
「で、どういう関係だって? つぅか、いつのだ!? まさか……」
「違うよ。この三年間は誰もいません。あ……違うか、四年間ね。四年前に知り合ったから……宗哉とは」
「そうなのか?」
「うん。あっ、なにもなかったのよ? 宗哉とは。本当に」
 努めて明るく言ってたけど……やっぱり、どこか寂しそうだ。その、少し無理をした笑顔にずきんときた。俺じゃ本当は足りないなんだろうけど、俺じゃ駄目なわけではなくて、俺を受け容れてくれることも知ってるから、優しく、優しくキスをする。
「……無理すんな。何度か、したつもりにはなっただろ?」
「あれは昂貴よ。……宗哉じゃ、ないわ」
「そうだけど」
 でも風澄は、あいつが欲しかったんだろうに。好きになった相手が手に入らなかっただけでも辛いのに、それを明言することが、どんなに苦しいことだろうか……。宗哉となにかあったのか、なかったのか、知りたかったけど、そんな悲しい過去を思い出させることのほうが心苦しくて、今まで聞けなかった。けれど風澄は今、自分から言ってくれている。
「私ね……やっぱり、最初から違うひとだってわかってたと思うの。だって、目を閉じる前は昂貴がいたんだもの。目を開けたら、昂貴がいるんだもの。する前も、した後も、目が覚めてからも、キスしたのは、抱きしめてくれたのは昂貴だもの。そんな、他のひとだなんて、思い込めるわけないわ……」
「……うん」
 だから、あの日――この前の日曜日、ああ言ったんだな。考えてみると、俺は浅墓(あさはか)だったかもしれない。目の前にいるのが違う男だとわかっているのに、無理矢理思い込もうとしても意味がない。それなら他の男だってわかるように目を開けて、普通にしたほうがいいだろう。そのほうが自分が愛されているんだとわかるだろうし。もしかしたら、風澄には、そのほうが大事だったのかもしれない。好きだった男に振られて、自分の価値を見失いかけていたのだろうから。でも、もし俺のしたことでそれを取り戻せたのだとしたら、どんなに嬉しいだろう。
「それで、あいつは?」
「あ、そうだ。んと、高校二年生の時に、大学の文化祭のことを付属校へ伝える生徒会の広報の仕事で再会して、その後くらいからつきあいはじめたの。一年くらい続いたんだけど、高校三年生の夏に終わったわ」
「……なんで? 結構気も合ってたじゃないか」
「意地悪ぅ……」
 いや違うよ、拗ねてんの。ああ、なんで俺と風澄が知り合ったのがたった二週間前なんだよ? それまで何年も見続けてきたけど、それより前にも色々あったわけだろ? 俺ってなんなんだかなぁ……時間とかタイミングとか、色々、大幅にズレてる気がしてきた。まぁ今はこうして風澄を抱きしめられる権利があるんだから、今この時には感謝するけど。
「あのね、私、本気でひとを好きになったのって宗哉が初めてじゃないの」
「え?」
「中学三年生の頃、好きって言うか、憧れていたひとがいてね。塾の先生だったんだけど……別に行かなくても良かったのに、なぜか行ってたのよね。今考えると、行かなければあんな思いせずに済んだかもしれないのにって思うんだけど……。で、子供っぽい憧れだと自分で思ってたんだけど……まぁ年もすごい離れてるし、そういう感情自体初めてだったから、気持ちを伝えるのもおぼつかなくて、どうしていいかわからなくて……でも、だからこそすごく惹かれて……それでね」
 一呼吸おいて、彼女は言葉を続ける。
 そこで風澄が飲み込んだものは、なんだったんだろう……。
「その先生、私が高校に入る前の三月に結婚しちゃって」
「え……」
「しばらくね、何かするとか、そういう気力が起こらなくて。そのとき初めて、どれだけ好きだったか気づいたの。それが一人目。まぁ、年齢も関係もそんなだから、宗哉の時とはだいぶ違うし、元に戻るまで時間はかかったけど、高校はちゃんと通ってたの。付属だったし、友達もいたから、結構平気なふりもできたし。それで、私そろそろ大丈夫かなって思った頃、ちょうど昔の同級生に……あ、杉野君じゃないんだけど……告白されて」
 初めて聞く、風澄の話。男性遍歴なんて言うと下世話すぎて、その苦しみも葛藤も全然表現できやしないけれど。
「で、真面目ないいひとだって思ってたし、いい加減先生のこと吹っ切りたかったし、友達のすすめもあったから、OKしたんだけど……そのひとね、ちょっとその先生に似てたの。でもそれが顔とか見た目じゃなかったからわからなくて……気づいたとき、もうだめだって思ったの。もう、そのひとじゃなくて、先生にしか見えなくなっちゃったから」
「うん……」
「それに、気づいたのがね……あの……あのね……」
「……言いにくいなら、言わなくてもいいんだぜ?」
 いつもはっきりと考えを述べて、言葉を濁すこと自体が珍しいのに、なかなか言葉を続けられない彼女。それだけ、言いにくいことなんだろう。そう思って聞きたい気持ちを抑えて言った。
「ううん、今言わなかったらきっと言えないから、聞いて」
「ああ、風澄がいいなら」
 いくらでも待つよ。だから呼吸を整えて、頭を整理して。ゆっくりでいいから。そんな思いで彼女の言葉を待つ。
「あのね……そのひと、えと、初めてのひと、だったんだけど……」
 う。
 ……やばい、その、見たこともないそいつに猛烈に嫉妬。
 目の前にいたら気持ち的にブッコロ(シタイ)。
 初体験、十六歳か。早いほうだよな。やっぱ、もてたんだろうな。もう、五年以上も前か。俺が大学三年の頃。いや、俺はとっくに清い身体でも清い心でもなかったけどさ。
 それにしても、あの頃の自分がどれほど酷い人間だったか、今になってイヤというほど思い知らされているような気がする。ああ、心の底から懺悔(ざんげ)。自分がこんなに誰かを好きになるなんて昔は思いもしなかったもんな。
「えっと、そのとき、それが、終わったところで彼を見て気づいて」
「……うん」
「もう、痛いとか、そんなのも忘れて、すごくショックで。私このひとのことなんか全然想ってなかったんだって気づいて……もうだめだって」
「…………」
 俺はただ、彼女の頭をそっと撫でた。
 そんなこと忘れてしまえるならどんなにいいだろう。
 だけど心に残る後悔と自責の念は簡単には消えやしない――。
「恋愛なんかできないって思ったんだけど、その、生徒会の仕事で、杉野君に会ってね、中学の時も仲が良かったから、その時も、友達の延長みたいな感じでいられたの。だから……彼なら平気かなって思って。一度断ったんだけど、どうしてもって言われて、事情話したら構わないって、それでいいからって言われて……だから」
「うん……」
「あの、そっちの、ことも……怖かったけど、大丈夫になって」
 ぐっ。
 つまりアレか、二度目以降は杉野だったと!?
 ……許すまじ杉野琢磨。羨ましすぎる。
「だけどね、それでも友達の延長みたいな感じだったの。楽しかったけど、やっぱりお互いのことを真剣に考えるなんてできなかった。だから、高校三年生の夏に、もういいよねってことになって、そこで綺麗に終わったの」
「本当か?」
 あの態度はどー見たって風澄を狙ってたと思うんだが。
 んでもって、明らかに俺に嫉妬してたと思うんだが。
 いや、俺の了見の狭い思考回路で導き出された理論だけどな。シクシク。
 ……そういえば昔、『非常に柔軟な考え方ができるひと』なんて評価されたっけ。
 どこがだよ、まったく。
 でも、そういうのは風澄限定だし、仕方ないよな、こればっかりは。
 だけど、どうやら風澄はかなり鈍いっつうか、そういうのに疎い子みたいだからなぁ……自分に向かってくる恋愛感情になんて、まるで気づかないんじゃなかろうか。だいたい、そういうのに敏感な子だったら、とっくのとうに俺の気持ちに気づいてるだろうし。本当の初恋が十四、五歳っていうのも、相当遅いよな。……いや、俺の本当の初恋は二十三歳だけどな……俺って一体……シクシク……。
 今考えると、なんつぅか、俺って本当、風澄に出逢っていなかったら、男としてどうこう以前に、人間としてどうなんだよって感じだったよな。……まぁ、あの当時は、そんなこと考えたこともなかったけど……。
 ――思い出すのは、どこか醒めていた自分。
 なにもかもできたし、なにもかも手に入ったから、なにもかもどうでも良かった。本当は。
 恋も知らず、誰かを想うこともわからぬまま、数え切れない女と関係を持ってた。
 そこにあったのは排泄行為と同等の性欲処理だけ。
 だけど、恋愛をしているつもりでいた。
 一人の女とつきあえば、抱きしめてキスして抱けば、それが恋愛になると思っていた。
 その相手への愛情も執着も未練もなにもなかったのに。
 恋は、するものではなく、落ちるものだと知ったのは、彼女をひと目見たあの時だった。
 そんなことさえ知らなかったんだ。風澄に巡り逢うまでは――。
「本当よ。後腐れなし。今は全然なんとも思ってないわ。元々、友達って感じだったし。向こうにもすぐ彼女できたしね」
「『も』って、つまり……」
「……うん、その夏が終わる頃だったか、秋になった頃、それこそすぐに三人目の彼氏ができたんだけど」
「うん」
「……宗哉に、逢ったから」
「…………」
 二度目の、本気の恋――か。
 きっと、三人目はすぐ終わったんだろうな。可哀相な気もするけど。風澄は、自分の心に嘘をついてまで、誰かとつきあえるような器用な女じゃないんだろう。じゃあ俺はなんなんだって感じだけど……ちょっと違うと思うんだよな、やっぱり。状況とかさ。
 目の前に『宗哉』がいるわけじゃないし。
 だいたい、元はといえば、俺が彼女を騙し半分、陥れるように誘ったのが最初で。
 この関係を、風澄が望んだわけじゃない……。
 そんなことを考えていたら、絞り出すような声が響いた。
「仲、良かったのよ。なんでもないのに、周りから、つきあってるんだと思われるくらいには」
 ……風澄が、『宗哉』と一緒にいたころの話。
 どういうふうに出逢い、どんな関係だったのかなんて知らないけれど、そんな過去が確かにあったんだ。
 俺の知らない風澄。
 目を逸らして、下を向いて、彼女はその頃の話をする。穏やか過ぎるほど穏やかに。
「だけどね……駄目だった。私じゃなかった。私には、彼の苦しみも、悲しみもわからなくて……気づいても、なにもできなかった。なにもかも、遅すぎた」
 過去は過去。決してそれは現在ではない。だけど風澄の時間はその時止まってしまった。だから今も鮮やかに、その記憶は脳裏に蘇る。思い出そうとしなくても、きっと。
「昂貴は、お父さんから『貴』の字を貰ったのよね……家族みんな、そうなんでしょう?」
 いきなり俺に話しかける彼女に、俺はひとつの変化に気づいた。
 あぁ、決して心が過去に飛んでしまっているわけではないんだ。初めて会った時、こんなふうに『宗哉』のことを話していたあの日とは違うんだな。それは俺が彼女のなんらかの助けになっているということだと思っていいだろうか……。
「ああ……家に伝わってきた字だからさ」
「宗哉の名前はね……家族の誰とも、まるで違うんだって。お兄さんの名前は、お父さんの名前とお母さんの名前の、両方を貰ってるのに」
「じゃあ、一体……」
「地名からつけられたんだって。日本のいちばん北の……宗谷岬から」
 知っている地名だった。行ったことはないけれど。
 日本の最北端の地。北海道の先端。この国の地の果て。
 しかし、それが『宗哉』になんの関係があるんだろう。前に、もう東京には住んでいないと言っていたんだから、きっと当時は東京近辺に住んでいたんだろうし……それとも、出身地や田舎かなんかなんだろうか?
「だけど、彼の家族も親戚も、北海道には、まるで関係がない」
 俺の推測はあっさり否定された。そして彼女は静かに問いかける。
「どういうことか、わかる……?」
「……いや」
 本当は、ひとつだけ思い当たることがないわけじゃなかった。
 だけど、それを口に出すのは気が引けて……。
「はっきり聞いたわけじゃないけど……でも、彼は家族の話を自分からは一度もしなかった。特に、父親の話になると……私が父親似だっていう話をした時とか、少し顔を翳(かげ)らせてた。『おまえはいい家族で良かったな』って言われたこともあった」
 彼女は目を上げて、続けた。
「だから……気づいたの。宗哉は、たぶん彼の母親の不倫で生まれた子で……その相手に関わっているのが――北海道の、宗谷岬なんじゃないかって。もしかしたら、彼の名前が『宗谷』じゃなくて『宗哉』なのも……『哉』の字を、そのひとから……」
 テレビや映画でしか知らない話だった。
 そんな状況に生を受けた人間に会ったことすらない。
 遠い世界のようだけれど、これが現実。
 ……裕福な円満家庭に育ってしまった俺には、想像することすら難しい。
 そして風澄にも、きっと。
「でも、私はそんなこと、どうでもよかったのに」
 ぽつりと風澄は呟いた。
「あのひとが、誰の子でも、どんな人生でも……構わなかったのに」
 ……それが、風澄の本心。
 『宗哉』は知らなかったのだろう。こんなに彼女が自分を想っていたということを。自らを焼き尽くしてしまうほど風澄は『宗哉』に恋焦がれていたのに。
 それとも知っていたのだろうか。気づいていて、それでも彼女を選ばなかったのだろうか。
 『違う世界の住人』だから……?
「気づいても、なにも言えなかったの。冗談にすることもできなかった」
 恵まれているとわかっている。だけど、俺たちにはこれが普通の生活だった。いい家族に囲まれ、いい学校に行って、そうやって生きてきた。それが当然として生きてきてしまった。そして、そういう人間に囲まれてしまっている。
 そういう人間が、そうでない相手に――そうでないと考える時点で蔑視と取られてしまうのだろうけれど――なにを言えばいいというのだろう?
「本当のことはわからないよ? だけど……そう考えると、彼のあの刹那的な生き方だとか、全てを諦めたようなあの目の理由が、説明できてしまうんだもの……」
 『宗哉』とは、どんな男だったんだろう。
 そいつの、どこに惹かれたのだろう、風澄は。
 わからない。ただ……彼女がどれほど『宗哉』に惹かれていたのか、それだけは痛いほど知っている。
 わかりたくないほどに。
「私は、どうすれば良かったのかな……笑ってかわして、気づかないふりをしていれば良かったの? それとも、冗談半分に訊ねて、あのひとの話を聞けば良かったの?」
 言葉が見つからない。
 俺はそんな状況になったことはないけれど、そんな時、なにを言えばいいのだろう。そんな時、自分の考えや思いを、どう伝えればいいのだろう。
 なにを言っても、嫌味にしかならない気さえする。
 そんなことを言いたいわけではないのに、きっとそう取られる。
 恵まれすぎている自分が後ろめたくなるほどに。
「……でも、それができたのは私じゃなかった」
 変えられない過去。
 確定して、動かない。
「もう、終わったことだけど……」
 今は、その遥か未来なのに。
 彼女は今も三年前に立ち止まったまま。
「大切なものは失くして初めて気づくって、本当ね」
 静かに彼女は語り続ける。悲しい過去を。
「予感はしてたの。私は、あのひとを好きなんじゃないかって。だけど、そのことに本当に気がついたのは、彼がいきなりいなくなった時だった。初めて会った時から、半年以上も経ってたの。大学一年生になったばかりの春だった」
「風澄……」
「馬鹿な私……」
 静かに、自嘲するかのように彼女は呟く。
 いくら後悔してもし足りないだろう。たとえどれほど後悔しても、この現実は動かせないとわかっていても。
 事実は変わらない。それこそが、最も残酷な事実。
「ずっとそばにいたのに、ある時離れて……そして戻ってきたかと思ったら……彼は違う人間になってた。生きながら死んでいたかのような目はもうそこにはなかった」
 一体なにがあったのか、俺にはまるでわからない。想像もつかない。
 風澄もきっと全ては知らないんだろう。
 だけどその時、『宗哉』にとって、どれほど重要で大切なできごとがあったのかは、想像に難くない。
 俺が風澄をひと目見ただけで人生が大きく変わってしまったのと同じで……。
「だから、すぐわかったの……あれは、世界でいちばん、大切なひとを見つけた目だった」
 きっと、初恋の『先生』も、同じような目をしていたのだろう。
 焦がれた人間が、自分以外の人間を、世界で最も大切な人間に選ぶ。
 ……それを二度も?
「気持ち、伝えたのよ。恋人のこと、聞かなくたってすぐにわかったけど……どうしても諦められなくて、断ち切るためにと思って言ったの」
 つまり、告白したということか……。
 結果が見えていても、それでも、言わずにはいられなかったんだろう。
 それでなにかが変わるわけじゃなくても。
「泣かなかったのよ。結果、わかってたし。すっきりしてたくらいなのよ? これで吹っ切れるって思ったの。だけどあのふたりのことを考えたくなかったし、まして見守るなんて絶対に耐えられないと思ったから、彼に関わるものは全部日常から排除した。元々、そのへんの共通の知り合いとは深い繋がりなんかなかったし、携帯もあんまり使ってなかったから、関わるのをやめただけで簡単に切れたの。多分、なにがあったかもわかってたんだろうけどね。で、全部切り捨てて、学校だけに集中した。……だけど」
 潔いほどバッサリと切り捨てたのは、そうでもしなければ忘れられないから。
 風澄はきっと、自分のことをよくわかってるんだろう。引きずり、縋りつきたくなる自分を知ってる。そして、それがどれほどみっともなく、惨めなことか。
 誇り高いからこそ、彼女は捨てた。全てを。
 そして、『宗哉』の幸福を邪魔したくなかったから。たとえ愛されることはなくても、嫌われたくなかったから。
 ……切な過ぎる、こんなの。
 叶う恋なんて多くない。たいてい、つきあいの最初は片方の好意を片方が受け入れることだ。最初からお互いにお互いを想っていることなんて滅多にない。そしてそのまま惰性やなあなあで続いていくカップルも多い。
 それなのに、片想いの相手が、特別なただひとりを見つけてしまったなんて。
 しかもたて続けに二度も。
「なんで、消えてくれないのかな……」
 彼女は呟いた。
「頭の中から、宗哉を消してしまえたらいいのに……」
 だけど消えない。
 刻み付けられてしまった痕は今もくっきりと心に残っている。
「……どうして……」
 風澄は続けた。遠くを見るような目で。
「……なんだか、私って、どうしてかな、目の前で、いちばん素敵だなって思ってるひとが、人生でいちばん大事なひとを見つけて、選ぶ瞬間を見てきたの。見せつけられてきたの。私じゃないひとを、ただひとりと決める瞬間を。それは、仕方のないことよ。それはわかってるの。だけどね、どうして、それを私が、そのひとを好きでいるそのときに、目にしなきゃいけないんだろう? どうしてそんな、いちばん……っ」
 溢れ、零れる涙。
 あぁ、風澄は、なにも忘れられてなんかいないんだ。
 一緒にいる今も。俺の腕の中で乱れているときもきっと。
 今もなお、捉え続けられている足枷――。
「私も、私もね、ひとを傷つけて来なかったなんて言わない。言えないよ? 今までつきあってきたひとのこと、ひとりも、本気で想えなかった。相思相愛って一度もなかった」
 淡々と、でもだからこそ重く響く言葉。
 そうやって何度他人を傷つけて――それ以上に自分も傷ついてきたんだろうか。
 今までに、どれほど。
「私ね……私ね、今まで、ひとに告白されたりとか、遠まわしに言われたり、友達に指摘されたりしてきたけど、でもね? 一度も、好きなひとに好きになってもらったことがないの。好きになってくれたひとを好きになることも、できなかったの。一度もないの。ねぇ、こんなのって、どうして? どうして……私は、好きなひとに好きになってもらえなくて、好きになってくれたひとを好きに、なれないのかなあ……? どうして……どうして、私は幸せになれないんだろう……?」
 片手を片手で包んで、胸元で組む。自身の心に触れるように。
「私、贅沢なのかな……恵まれすぎてるくらい、なに不自由なく育って……やりたいことも見つけて……その上、たったひとりの存在を求めるなんて、しちゃいけないのかな……」
 目を閉じて、そっと開いて、呟き続ける。
「でも……私、辛いこと、たくさんあったのに。ひとには、そう見えなくても……そんな、たいしたことじゃないかもしれないけど……だけど私、人生が終わったみたいな気持ち、何度も味わってきたのに。 誰もきちんとは知らないことだし、理解してもらえないのは、仕方のないことだけど……、だけど、それは、私が弱いせいなのかな? 本当の本当に、それだけなの? それとも、もしかして……私が、幸せになる資格のない、誰かと想い合うことの許されない人間なのかな……?」
「風澄……」
 手を広げて見つめ、彼女は続ける。
「なにかを失えば、たったひとりのひとが手に入るのかな……あとどれくらい辛いことを経験したら、そのひとに巡り逢えるのかな……いつか、幸せになれるのかな……それとも、このままずっと独りで……独りきりで、生きて行かなきゃいけないのかな……」
 まるでひとりごとのように押し出される言葉。そして、感極まったように風澄は目を閉じ、口を押さえた。溢れる涙を拭いもせずに。
「っ……ごめ……ごめんね……ごめんなさい」
「いいから……いいから、泣いていていいから……」
 響く嗚咽。震える身体を抱きしめて、心をこめて優しく撫でる。
 この手から、伝わるものがあればいいのに。
 俺は、おまえが誰よりいちばん大切なのに。俺なら、そんな思いは決してさせない。おまえさえいいなら今すぐにでも、おまえの望むものをやれるのに。
 なのに、おまえが欲しいのは俺じゃないんだな……。

 神なんて、いるんだろうか。
 何もかもひとより恵まれて生まれてきたこの子が、
 たったひとつ望んだものを得られなくて、幸せになれなくて泣いている。
 愛する者に愛されないと震えている。
 強くて、賢くて、いつも凛としているこの子が、今も繋がれている枷。

 どうして、彼女を泣かせるんだよ。
 どうして、彼女が泣かなきゃいけないんだ。
 こんなにも切なくて、痛々しい涙を、どうして流さなきゃならない?

 風澄。
 俺はおまえの笑顔が好きだけど、笑えとは無理に言わない。
 好きなだけ泣けよ。身体なんか、いくらでも貸してやるから。
 気が済むまで抱きしめて、その身体を包んでいてやる。
 おまえを傷つける全てから護るから。
 だからどうか、いつかその涙を止めて、笑って欲しい。

「っあ……こうきぃ……昂貴ぃ……」
「風澄……風澄……」
 俺がここにいる。側にいるから、だから。
 ひとりになんかさせないから。

 ……風澄はずっと、こんなふうに泣きたかったんじゃないだろうか。
 そういえば、初めて知り会った日にも風澄は泣いていた……。
 涙を流す理由なんかひとかけらもない、恵まれすぎた存在にさえ見えたのに。

 どれくらい経っただろうか。嗚咽が次第に弱まって、ひっく、とたまに聞こえるくらいになってからしばらくして、風澄は口を開いた。
「……ごめんなさい……あの、ありがとう」
「いや。お安い御用だよ」
 だいぶ落ち着いたのだろうか、少し恥ずかしそうな様子で、目元に滲んだ涙を指で拭う彼女。その額に、そっとキスをした。
「姫君のためならば、ね」
「あはは、そればっかり」
 笑ってくれた。
 この世で一番綺麗な、俺の惹かれてやまない、すがすがしい笑顔。
「昂貴がいてくれて、良かった」
「これぐらい、なんでもないよ。いつだってしてやるよ」
 役に、立ててるのかな。立ててるんだよな?
 そう思っていていいだろうか。せめて、今ぐらいは。
「じゃあ、もうひとつお願い聞いてくれる?」
「ん? いいけど、なんだ?」
 珍しいな、風澄がそんなこと言うの。なんだろう?
 どんなことでも、叶えてやりたい。世の中不可能はあるけど、できることなら全て。彼女のためなら。そんなことを思っていたら風澄はそっと俺に顔を寄せて。
「……して?」
 と、耳元で囁いた。
 ……おい、風澄。
 いきなりそれは卑怯だろ!
「言わせると嫌がるくせに……」
「だって、すごくしたい気分なんだもの」
「ここで?」
「そんなわけないでしょ!」
 真っ赤になって彼女は言う。
 あぁ、やっといつもの風澄だ。
 だからふたりで笑って、もう一度抱きしめあってキスをした。
「うち帰ろうな」
「うん」
 もう遅いから、ふたりで帰ってもいいかな。
 それに今日は別々に帰る気なんか起こらない。
 たとえ構内だけでも、離れるのがいやだった。
 だから手を繋いだ。誰かに見られるかもしれないなんて、もうどうでも良かった。

 そのときは、見られていたと気づかずにいた。
Line
To be continued.
2003.11.06.Thu.
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