叶わぬ恋、届かぬ想い

02.大学


Line
 七月の第三週目の金曜日。二週間前、風澄と知り合った時にはまだ通常授業をやっていたが、今はもう試験期間の真っ只中だ。
 港区にある、やや小ぶりなキャンパスの中庭。ここには大きなイチョウの木をはじめ、さまざまな緑があり、大都会のド真ん中のくせに結構自然に溢れているので、年中気持ちがいい。歴史を感じさせる古めかしい建物が幾つかあることも、この大学を気に入った理由のひとつだ。敷地内のアスファルトがデコボコなのは、そろそろ改善して欲しいけどな。
 ところで、俺は生粋の公立育ちだ。中学までは区立、そして都立高校を出て、この私立大学に来た。どうしてここを選んだかというと、姉の真貴乃の大学が国立のトップだったので、俺は私立のトップに行ってやろうと思ったから。でも、それだけじゃない。環境もいいし、学費は比較的安いくせに育ちの良さそうな雰囲気も、独自の道を好む気質も性に合っている。そして、日本最古、150年近くの歴史を持っていることもその理由の一つ。戦禍を逃れて現在に残った、戦前に建てられた校舎だってある。
 実を言うと、この大学には美術史界で有名な教授がゴロゴロいたりするわけでもなければ、学閥的にこの学問に強いわけでもない。だけど、良い学者が良い教師というわけではないし、群れることには興味がなかったから、邪魔されなくてかえって気持ち良さそうだと考えてここにした。実際、好き勝手させてくれてる。ありがたいことだと思う。それにさ、素晴らしい画家の弟子には師を越えるどころか並ぶ者さえ滅多にいないだろ? それと同じこと。そもそも、師に左右されているようじゃ一人前とは言えないよな。そういえば学会なんかで、口さがない暇人に『君の大学は日本のトップだけどこの学問じゃぱっとしないねえ』なんて言われたりしたこともあったっけ。笑顔でかわして、研究は方法論さえ学べばあとは自力でやるもんだろーが、と心の中で一蹴したけどさ。あぁ、担当してもらってる河原塚さんは学者としても人間としても俺は好きだぞ。ちなみに河原塚さんは日本の西洋美術史学者の大家の弟子だったりするので、うちのゼミ生はまだマシな状況かもしれない。つうか、本当のところ、うちの大学は国内に視線が向いていないから、あんまり日本の学者のことは気にならないんだよな。
 ところで、よく勘違いされるけれど、俺たち美学美術史学専攻の人間は美術の歴史を学んでいるわけではない。学部の所属学科も史学科ではなく、哲学専攻や倫理学専攻と同じ哲学科だ。と言っても、これはかつて五学科十七専攻だった時代の話で、現在は人文社会学科に統一されちまったけど。ちなみに、大学院の場合は文学研究科と社会学研究科の二科で、美術史は前者に属している。また、ひとくちに美学美術史学専攻と言っても、研究内容によって大きく四つに分類されていて、それぞれ美学、西洋美術史、日本・東洋美術史、音楽史となっている。だから、美学専攻でも美術史学専攻でもなく、美学美術史学専攻という名称なわけだ。知ってのとおり、俺と風澄は西洋美術史だ。まぁ、専門性が高くなるにつれて時代や地域が限定されていくから、ひとくちに西洋美術史と言っても千差万別なんだが。そういえば、俺たちは、よくぞイタリア初期バロックなんていうジャンルまで被ったよなぁ。きっと、俺と風澄の、そのへんの趣味が似てるんだろうな。大事な時代なんだけどさ、うちの大学はルネサンスが中心だから、その中では少数派だ。ちなみに同期の浅井はオランダバロック、河原塚教授と萩屋はイタリアルネサンスが専門。で、内容としては、美術作品を扱っているのはもちろんだが、作品や作家を研究するだけではなく、時代背景や宗教、生活習慣、技術の発達……ありとあらゆるものがモロモロ混ざった総合的な学問だ。
 さて、俺は今日、大学に来ている。図書館で調べたいことがあったからだ。ちなみに、図書館は気に入ってる建物のひとつで、研究棟の次に入り浸ってるんじゃないかと思う。
 そんな気持ちのいい大学で学ぶ時間も、あと半年を残すのみ。

 * * * * *

「お」
「あ」
 間抜けな台詞が重なった。やや早かったのが俺で――もうひとりは、もちろん名前を呼ぶだけで俺を狂わす魔性の女。ってのは冗談だけど真実でもあるよな。
「資料集め?」
「そう。提出日はまだだけど、最後のレポートが終わったから、やっと卒論の中間発表に取り掛かれるの」
 テストはもうないけどレポートがあるから、しばらく会えないって言われてたんだよな。前に貸した洋書は時間を見つけては読んでいたようだけど。ちょっと寂しかったけどさ、そういうのをなおざりにする風澄じゃないし、いい加減にして欲しくもない。余裕を持って終えているのが、さすがだ。
 そもそも金曜日には、つまり今日の夜には俺の部屋に来るという約束をしていたし、前に会った日からそんなに経ってはいないんだけれど、やっぱり少しでも早く会えると嬉しいよなあ。
 それにしても、なんだか風澄は恥ずかしそうだ。無理もないだろう、なにしろ研究棟以外で学校で会うのは初めてなんだから。なんと言っても偶然だし。図書館は分野わけされているから、こもっているときは同じ専攻の奴と会う可能性は非常に高い。しかも俺達が今いるのは外部持ち出し厳禁、貸し出し不可のレファレンスコーナーだ。けれど、そこでだって日本の上位に数えられるほどではないにしろ、それなりに学生数の多いうちの大学では、知人と会うことはそれほど多くない。なにしろ文学部の一学年だけで千人近くいるからな。なのにこの偶然。ちょっと嬉しいじゃないか、なんだか縁があるようで。けれどそんな風澄を見ていたら、またいたずら心が出てきてしまった。懲りない俺。悪い癖だなぁ。
「……なんでそんな他人行儀なんだ?」
 書架に手をつきながら、にやにや笑ってこっそり言ってみた。風澄にだけ聞こえるように。そうしたら案の定かあっと赤くなって、もじもじしてる。いつも堂々として歯切れ良く喋るぶん、余計に恥じらう姿が可愛い。
「……だって、学校よ?」
「いいじゃないか、別に生徒と先生じゃあるまいしさ」
「だけど……」
 逡巡(しゅんじゅん)するのは、誰かに関係を問われたとき、お互いに納得できる答えを持っていないから。それはわかっているけれど、こういう風澄を見てるのって、本当に楽しいんだよな。だからついからかいたくなってしまって、誰も見ていないのを確認してから、そっと耳元に寄って囁いてみる。
「誰もここでしたいなんて言ってないから」
「あ、あたりまえでしょう!? なに言ってるのよあなた!」
 うわ、ますます真っ赤。かわいーなー。誰が風澄のこんな部分を知ってるんだろう。よっぽど仲のいい女友達ぐらいじゃなきゃ知らないだろうな。
 思い出すのは二週間前、初めて知り合った時の風澄。あの時は丁寧で育ちのいい雰囲気を醸し出しながらもどこか作ったようで、三年間も見てきた俺は、すぐにそれがオモテの顔だと見抜いてしまったっけ。
 こうして隔てなく親しめる今を嬉しく思うけれど、人によっては二重人格だとか、八方美人だとか解釈されてしまうんだろうな。それを見当違いだと思うのは、俺の贔屓目(ひいきめ)だろうか。学者一家という特殊な環境の上に生活にも余裕があったとはいえ、『国内最大の多角経営企業』なんかには及びもつかない『普通の家』に生まれた俺にはまるで計り知れないことだけれど、彼女が『市谷家の娘』として、幼い頃から他人の好奇の目に晒されてきたであろうことは想像に難くない。礼儀も作法も処世術さえも、身につけなければやっていけなかったんじゃないだろうか。必然的に、『処世術の塊』でなければならなかった生まれだから……。
 だから風澄は、怒れば怒るほど冷静であろうとする。そして、無礼なことを言う奴には、丁寧ながらも容赦しない。同じレベルの下品な言葉で怒鳴りつけたりはしない。屈したくない相手に対し、決して自分を低レベルに落としてしまったりしないんだ。その外見からは想像もできないほど頑固で、潔癖。だからこそ、素直な反応をするってことは、心を許してくれてるってことだよな。特権だなあ。
 ……『作られた市谷風澄』は、俺の目の前にはもういない。
 なんて馬鹿なことを考えながら、まるで秘密を共有しているかのような気分で、いつもと違う会話を楽しんだ。秘密を共有してるのは本当か。甘い甘い秘密。
「でもしたいのは本当」
「馬鹿ぁ……」
 下を向いて、手を両頬に当てて、ちょっと涙目。……うわぁ、やられた。よく考えたら定番のポーズじゃないか。他の女だったら媚びているようで腹立たしい気分になるだろうに、そういう印象を受けないのが不思議だ。そんなことをにやけながら考えてたら、なんと。
「……今夜ね?」
 すごい、ほとんど聞こえないくらいの小声なんだけど!
 うーーーわーーー。
 ……俺、もう駄目かも。
 でも駄目になったら風澄を抱けないから必死で自己修復作業をして。
「楽しみにしてます。……ところで、どっちで?」
「どっちでもいいよ。こ……高原さんは?」
 うわ。なんか、名前で呼ばれることに慣れ始めたところに名字だと、初々しくて可愛いなあ。いやもう俺ひたすらメロメロ……。
「市谷さんの都合の良いほうにあわせますよ」
 こっちも真似して名字にしてみる。また照れてるよ……いいなぁ。だってさ、『どっちの家でしたい?』って意味だもんな。そりゃ照れるって。俺でも少し恥ずかしかったしな。いや、どこだっていいんだよ、風澄といられるなら。
「私もどちらでも構いませんけど」
 あ、丁寧語になってきた。ちょっと悔しいな。その態度、崩しちまうぞ?
「じゃあ……」
 そう言いかけたところで。
「あれ……市谷?」
「えっ?」
 びくっとして顔を上げる風澄。なんだ、俺の後ろに誰かいんのかよ? 誰だチクショー俺の幸せな時間を邪魔しやがって。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえって知ってるかコラ! などと考えながらそのお邪魔虫の顔を拝んでやろうと振り向いたら、知らない男がそこにいた。あぁ、いかん、思いっきりガンを飛ばしちまった、悪い。だけどおまえのせいだぞ、誰だか知らないが。って、誰だこいつ? 風澄の友人にこんなやついたっけか、と言いたいところだが俺たちはお互いの交友関係を全く知らない。大学の構内ではあんまり会わないからな。そもそも授業の少ない最高学年じゃ大学で友人と会うことは滅多にないし、お互い、いちばん近しい友人の名前をひとりだけ知ってるくらいだ。ちなみに風澄の友達は橘最華さんという。付属時代からのつきあいだとか。俺のほうは大学に入ってからの友人じゃなくて悪友の浅井和之。……いや、そうじゃなくて。そこにいたのはなんかひとなつっこい感じの、少年がそのまま青年になったような印象の男だった。子供っぽいというのとはちょっと違うんだが。軽そうとまではいかないが、あんまり真面目そうっつーか、堅い感じの外見じゃないな。身長は……う、俺と並んでるかも。いや、俺のほうが高いぞ、言っておくけど! 微々たる差だが。細身のわりに結構身体はがっちりしてる。これはなんかスポーツやってたな?
「あ……杉野君」
「久しぶり。元気? 今なにやってんの?」
 なにやってんのじゃねえよ。
 思いっきり俺はまたガンを飛ばしてしまった。眼光鋭いとか言われたことあるし、多分相手はビビったんだろう、俺を見てぎょっとしていた。
「あっごめん、喋ってた? 悪い」
「ううん、いいの」
 ちっとも良くないぞっ風澄いぃっ。でも、ちょっとがっかりしたような表情をしてたから、許してやろう。まぁ、これを理由に今夜いじめたくなるかもしれないけどな。なーんて。
 そして、そいつは俺を頭のてっぺんから足の先まで観察して、こう言った。
「……市谷の兄貴?」
 いい度胸だなこのガキ。
 わかってるぞ俺には。彼氏かもしれないと思ったからこそ、そう言ったってことを。ふふん、こちとら、伊達に二十六年プラス七ヶ月ちょっと生きちゃいないんだぜ。年の功を舐めんなよ? ……いや、俺は風澄の『彼氏』ではないが。シクシク。罪な女だ風澄。そんなところまで大好物だけど。……って、マゾか俺は。
「違うわよ、全然似てないでしょ。ゼミの先輩で院生の、高原昂貴さん」
「あーそうなんだ。初めまして。経済学部四年の杉野琢磨です。俺もあのゼミ聴講してるんで、お会いしたかもしれませんね」
 こいつ、『彼氏』と紹介されなかったことに喜んでやがるな。くそう。あぁ俺は風澄の彼氏なんかじゃないさ確かに! とか思ってる俺はかなり自虐的かもしれない。差し出された手を握り返していたら(握手なんぞしたくなかったんだが)、聞き捨てならないことが聞こえた。……なんだと?
「いや、院生は学部のゼミには出ないけど……おまえ、興味あるのか?」
「面白いですよ結構。経済だと、そういうこと全然やりませんしね。俺は市谷に教えてもらったんですけど」
 な、なぬ!? 風澄にだぁ!?
「別にたいしたことは教えてないわよ」
「いや、市谷が面白いって言うから二年で取ったんだよ。そうしたら本当に良かった、サンキュ。橘とかにも色々聞いてさ。今もいい気晴らしになってるよ。まぁ、文学部の授業を聴講しすぎて、似非(えせ)経済学部って言われてるけどさ」
「ほんとに? そんなに取ってるんだ。単位にならないのに。それに、最華のなんて私のとはまるで違う分野でしょ?」
「見聞を広めるためだからさ。なんて言って、ちょうどいい気晴らしになるから」
「でも河原塚先生褒めてたわよ、文学部に来れば良かったのにって」
 前にも言ったように河原塚さんは風澄のゼミの担当で、俺の大学時代からの担当教授でもある。つまり風澄と俺を引き合わせてくれた恩人でもあるわけだ。なんつーか、能天気っつーかお気楽っつーか、妙なところのあるひとだけど、研究に対する興味が強くて、意識が高いんだよな。理解はあるし、面白いし。理想的な教授だと思う。
「マジで? あーもっと早く言ってくれれば転部したかもしれないのになー」
「そんな、経済はどうするのよ?」
「いや冗談だって。経済もやっぱ、面白いからさ」
 おいこら風澄っ。俺をほっといてそいつと喋るなっ。
 って言うか、口惜しいけど親しそうだな。どういう関係なんだ?
「……で?」
 いい加減蚊帳の外にされてるのにいらついて、つい風澄にしらけた表情で冷たい声をかけてしまった。ごめん、心狭くて。おまえのせいじゃないのにな。でも短い言葉でも言いたいことはきちんと伝わったようで。
「あ……っごめんなさい。中学の同級生です。付属だったから」
「あ、そうか」
 風澄はうちの大学の付属に小学校から通ってるんだよな(ちなみに、幼稚園はない。しかし、名称がややこしいので、うちの学生でさえ幼稚園があると思っている奴が多い)。特に小学校は金持ちとか芸能人の子供とかが、どかどか入ってくる。付属はだいたい共学なんだが、中学は教養のキャンパスの最寄り駅の逆側に男子校もある。そして高校だけはなぜか男女別で、男子校は教養のキャンパス内、女子校は専門のキャンパスの近くにある。湘南には共学の中高一貫校があるらしいけど、よく知らないんだなこれが。俺には直接関係ないしな。そういえば、こういう付属つきの学校の場合の友人関係って、だいたい『入学別』でわかれる傾向があるんだよな。俺と風澄が所属している文学部の場合なら、『付属出身(内部進学ってやつ)』と、『推薦入試(と言っても自主応募制だ)』と、『一般入試』って感じで。俺は一般だし風澄は付属だから、傾向としては接点が少ないほうだ。高校は海外にもあるし、どういう基準で作ってるんだか、わけのわからない学校だ。ちなみに帰国子女や留学生も結構いる。
 それにしても、中学だろ? 三年間もブランクがあるじゃないか。って顔をして見たら、やっぱり風澄はわかってくれたみたいで、説明をしてくれた。つまり、高校の付属は結構交流があるそうで、風澄もこいつも生徒会をやっていたために知己(ちき)が続いたってわけだ。それにしても、どうも釈然としないぞ、おい。そういう目をしていたら、『今は突っ込まないで』って顔してた。なんかあるな、これは。説明してもらおうじゃないか市谷君?
「じゃあそろそろ、例の資料を見に行こうか」
「え? ……っはい!」
 一瞬きょとんとしてたけど、すぐわかってくれたみたいだ。賛同してくれたってことは、やっぱり俺を選んでくれたってことだよな。ちょっと優越感だ。
「それじゃ、またね」
「ああ。じゃあ、中間発表で」
 手なんぞ振らんでいい振らんで。いや人間として必要なことだから口は出さないぞ。拗ねているだけだ。……おい、これが二十七歳を目前に控えた大人のすることか俺?
 こと風澄に関する限り、俺って完璧な子供だな……。はぁ。
 だからって、止められないあたりがやっぱり度し難いんだけど。
Line
To be continued.
2003.11.02.Sun.
<< Prev * Rosy Chain * Next >>
* Novel *
* Top *


* 返信希望メール・ご意見・リンクミスや誤字脱字のご指摘などはMailへお寄せくださいませ *

ページ上部へ戻る