忘れられない過去
08.屋外
建物を出て、その裏手に来たところで、昂貴はやっと手を離した。そうでなくてもそんなに混んではいなかったのだけれど、ここは、ひとけが全くない。いきなりどうしたのって聞こうとしたら、突然、口唇を塞がれた。
「っ……ん……」
舌が口の中を蹂躙する。舌の長さが足りないとでも言うかのように奥まで乱暴に進入して、ときどき歯が当たって痛かった。でもそんなの全然気にしないで昂貴は貪り続ける。息を吸うタイミングを計れなくて、苦しさに逃れようとしたけど離してくれない。こんなキスは初めてだった。彼は大抵激しいけれど、その一方でいつも甘くてスマートなのに。やっと終わったところで一息ついて、そこで口を開こうとしたら。
壁に手をつかれてた。逃げられないように。昨日の、研究棟のあの部屋を出ていこうとして止められたときみたいな体勢。
「どうしたの……?」
返事が、かえってこない。
見つめる眼差しがあるだけ。
少し怖かった。なにを考えているんだろう。
拘束されてるわけでもないのに、釘付けにされたように動けない。せいぜい、身じろぎするのが精一杯だった。
「……俺が今日、今の今まで、なにを考えていたか……わかるか?」
落ち着いた口調で、静かに言葉が紡ぎ出される。
その目から視線を逸らせなくて、よそを向いてしまいたいのに動けない。彼は縫い付けられているように壁にぴったりと張りついていた私の背中を引き剥がし、壁に向けさせ、後ろ手にした。鞄が手から落ちる。首筋に手が触れる。
「やぁ……!」
咽喉をなぞられて、思わずのけぞってしまう。その耳元で囁かれた。
「本当に気づかなかったのか?」
「っ……なに、が……?」
頭を後ろに引かれて、咽喉が詰まって声を上手く出せない。耳にかかる息。力を入れられているわけでもないのに、操られているかのように動かされてしまう。
「ふたりで歩いている間、何度振り返った男がいると思う? 憧れるように見上げる女も、俺たちふたりを、羨ましそうに見つめる奴さえいたのに」
「え……?」
「その男たちが、どんな目でおまえを見ていたと思う?」
「っ……」
「どんな目で、俺を見ていたと思う?」
「そんなの知るわけないでしょ、見てないもの!」
「じゃあ、それを見た俺がどう思ったかは……?」
え……? どういう意味?
だけど、考えたってそんなこと、わかるわけがない。こんなふうに扱われて、されるがままになっていることに、反感も覚えていたんだろう。彼の意図がつかめず、理不尽さが募って、乱暴な台詞がこみ上げてくる。
「それこそわからないわよ! 言ったでしょう、ひとの判断に干渉するほど、私は暇でも悪趣味でもないって!」
口から出たのは切り捨てるような言葉。初めて会ったときのことを、繰り返して。
「どう解釈するも自由……か」
彼はまた、笑ったようだった。全てを嘲(あざけ)るかのように。
「俺はそのとき、おまえを抱いてる所をそいつに見せてやりたいと思ったよ」
……っ……!
「な……」
「その場で無理矢理犯して、公衆の面前で、こいつは俺のもんだってな」
あまりのことに、私は二の句が告げなかった。
なんてこと言うのよ!? そんな……そんなこと……まさか。
どうしてこんなことをいきなり昂貴が言い出すのか、わからない。一体あなたはなにがしたいの? なにを言いたいの?
「…………だけど違うんだよな?」
くすくすと、声を立てて笑って。なにがおかしいの?
「おまえが好きなのは『志藤 宗哉』で」
わけが、わからなくなる。
「俺じゃない」
昂貴が、わからなかった。
* * * * *
首筋が痛い、と思ったら、キスされてた。思い切り強く。吸われてる。
「やっ……痕残さないで……!」
見える。絶対見えるそんなところ。
「いいだろ、どうせ髪で隠れるんだから」
そういう問題じゃないわよ!
「ねぇやめて、お願いだから、っあ、や……」
振りほどこうとしたけれど、いきなり胸を触られて、言葉が続けられなくなってしまう。いくら薄着だとはいえ、服の上からなのに。
「あいつなら、許すだろ?」
「えぇ? ……っやぁ!」
やっと口唇が離れてくれたと思ったら、また同じようにきつく吸われる。首筋に彼の熱い息がかかって、びくんと身体がはねた。慣れているはずの、自分の髪が触れる感触さえ、ゾクリとする。
「これが『宗哉』だったら、許すよな?」
「っ、そんなこと……!」
考えられない。ありえない。
だって、あのひとは私を選ばない。彼に必要なのは、私じゃなかった。
「やだ、嫌あぁ……ふあぁっ!」
必死で抵抗しようとしてるのに、動けない。両手で触られているんだから、押さえつけられているわけでもないのに、どうして私は身動きが取れないんだろう。身体から力が抜けていく。触れられたところから、催眠術でもかけられているかのように。
「声、出すなよ。聞こえてもいいのか……?」
たったこれだけで熱に浮かされたようになってしまう。昂貴の声さえ、ぼんやりと耳に入るだけ。理解するスピードなんて、普段とは較べ物にならないほど落ちてしまってる。
「こんなところで、こんなことをして」
ゆっくり囁かれて、やっと気づく。
昂貴がなにをしようとしているのか。
「見られても?」
いやいやいやいやああぁっ!
今度こそ必死で、それこそ全力で暴れたのに、彼はがっちり私の両手首をつかみ、脚で下半身をぎゅっと押さえつけて、動けない。
「……仕方ないな」
嘆息する彼に、少しだけほっとする。もしかして、許してくれるの? そう思ったのに、実際は真逆だった。
「んん!? む、んぐっ!」
厚手の布地が口に入ってきた。パイル地の独特の、キシキシとした感触。タオルを噛まされたんだ。私の。なんてことするのよ!?
「なにをするか――わかるよな?」
首を振って拒否する。嘘でしょう!? やめてやめてそんなこと。
ここをどこだと思っているのよ!?
「嫌だって言っても、許さない」
私が、私がなにをしたって言うのよ……!?
必死で後ろを向いて、頼んでも。
その目は冷たいまま。
「駄目だ。絶対ここでする」
嘘嘘嘘嘘、やめてよ! だってだって、ここは外なのよ!? わかってるの!? ひとけのない建物の裏で、夕方とはいえ、屋外なんて絶対いや……!
動かない手を、足を、必死で動かして。
首を、どこか壊れるんじゃないかってぐらい振って、拒んでも。
彼は私を許さなかった。
そしてまた触れだす。手が上下するたびに、吐息が洩れる。こんな状況なのにどうして反応しちゃうの私!? 自分で自分が信じられない。
「おまえは、あいつを忘れられない。だから」
呆然と聞く頭に、彼の声が響く。
冷たくて、強くて、なのに熱い言葉。
「――俺で、塗り替えてやる。なにもかも」
震えているような気もした。
* * * * *
これまでに、彼としたのは、たったの二度。
なのに、もう何度到達させられただろう。
深く。
触れられるたびに、その指に慣らされていく自分を感じていた。
もてあそぶかのように、翻弄されて。
確実に、私の快楽を引き出していく。
溺れて狂って、堕ちてゆく。悦楽の地獄に。
昇っていく、快楽の園に。
いやだ。やめて。
噛まされた轡(くつわ)代わりのタオルのせいで、どうせ聞こえはしないのだけど、そう叫んでいたのはいつまでだっただろう。
しだいに、その声が、拒絶の意味を失くしていく。
官能の色を帯びていく。
肌のぶつかりあう音。激しく出し入れされて、絡み合う体液の音。
さえぎるもののない空の下で、響くのは身体の中。
朦朧とする意識の中で、繋がったところの熱さだけが、異常な現実を教えてた。
壁に縋って、爪を立てて。
声にならない叫び声を、何度も何度もあげた。
「っく……!」
そうして誰も見ていない建物の裏で、私と昂貴は、崩れ落ちた。
「っ……ん……」
舌が口の中を蹂躙する。舌の長さが足りないとでも言うかのように奥まで乱暴に進入して、ときどき歯が当たって痛かった。でもそんなの全然気にしないで昂貴は貪り続ける。息を吸うタイミングを計れなくて、苦しさに逃れようとしたけど離してくれない。こんなキスは初めてだった。彼は大抵激しいけれど、その一方でいつも甘くてスマートなのに。やっと終わったところで一息ついて、そこで口を開こうとしたら。
壁に手をつかれてた。逃げられないように。昨日の、研究棟のあの部屋を出ていこうとして止められたときみたいな体勢。
「どうしたの……?」
返事が、かえってこない。
見つめる眼差しがあるだけ。
少し怖かった。なにを考えているんだろう。
拘束されてるわけでもないのに、釘付けにされたように動けない。せいぜい、身じろぎするのが精一杯だった。
「……俺が今日、今の今まで、なにを考えていたか……わかるか?」
落ち着いた口調で、静かに言葉が紡ぎ出される。
その目から視線を逸らせなくて、よそを向いてしまいたいのに動けない。彼は縫い付けられているように壁にぴったりと張りついていた私の背中を引き剥がし、壁に向けさせ、後ろ手にした。鞄が手から落ちる。首筋に手が触れる。
「やぁ……!」
咽喉をなぞられて、思わずのけぞってしまう。その耳元で囁かれた。
「本当に気づかなかったのか?」
「っ……なに、が……?」
頭を後ろに引かれて、咽喉が詰まって声を上手く出せない。耳にかかる息。力を入れられているわけでもないのに、操られているかのように動かされてしまう。
「ふたりで歩いている間、何度振り返った男がいると思う? 憧れるように見上げる女も、俺たちふたりを、羨ましそうに見つめる奴さえいたのに」
「え……?」
「その男たちが、どんな目でおまえを見ていたと思う?」
「っ……」
「どんな目で、俺を見ていたと思う?」
「そんなの知るわけないでしょ、見てないもの!」
「じゃあ、それを見た俺がどう思ったかは……?」
え……? どういう意味?
だけど、考えたってそんなこと、わかるわけがない。こんなふうに扱われて、されるがままになっていることに、反感も覚えていたんだろう。彼の意図がつかめず、理不尽さが募って、乱暴な台詞がこみ上げてくる。
「それこそわからないわよ! 言ったでしょう、ひとの判断に干渉するほど、私は暇でも悪趣味でもないって!」
口から出たのは切り捨てるような言葉。初めて会ったときのことを、繰り返して。
「どう解釈するも自由……か」
彼はまた、笑ったようだった。全てを嘲(あざけ)るかのように。
「俺はそのとき、おまえを抱いてる所をそいつに見せてやりたいと思ったよ」
……っ……!
「な……」
「その場で無理矢理犯して、公衆の面前で、こいつは俺のもんだってな」
あまりのことに、私は二の句が告げなかった。
なんてこと言うのよ!? そんな……そんなこと……まさか。
どうしてこんなことをいきなり昂貴が言い出すのか、わからない。一体あなたはなにがしたいの? なにを言いたいの?
「…………だけど違うんだよな?」
くすくすと、声を立てて笑って。なにがおかしいの?
「おまえが好きなのは『志藤 宗哉』で」
わけが、わからなくなる。
「俺じゃない」
昂貴が、わからなかった。
* * * * *
首筋が痛い、と思ったら、キスされてた。思い切り強く。吸われてる。
「やっ……痕残さないで……!」
見える。絶対見えるそんなところ。
「いいだろ、どうせ髪で隠れるんだから」
そういう問題じゃないわよ!
「ねぇやめて、お願いだから、っあ、や……」
振りほどこうとしたけれど、いきなり胸を触られて、言葉が続けられなくなってしまう。いくら薄着だとはいえ、服の上からなのに。
「あいつなら、許すだろ?」
「えぇ? ……っやぁ!」
やっと口唇が離れてくれたと思ったら、また同じようにきつく吸われる。首筋に彼の熱い息がかかって、びくんと身体がはねた。慣れているはずの、自分の髪が触れる感触さえ、ゾクリとする。
「これが『宗哉』だったら、許すよな?」
「っ、そんなこと……!」
考えられない。ありえない。
だって、あのひとは私を選ばない。彼に必要なのは、私じゃなかった。
「やだ、嫌あぁ……ふあぁっ!」
必死で抵抗しようとしてるのに、動けない。両手で触られているんだから、押さえつけられているわけでもないのに、どうして私は身動きが取れないんだろう。身体から力が抜けていく。触れられたところから、催眠術でもかけられているかのように。
「声、出すなよ。聞こえてもいいのか……?」
たったこれだけで熱に浮かされたようになってしまう。昂貴の声さえ、ぼんやりと耳に入るだけ。理解するスピードなんて、普段とは較べ物にならないほど落ちてしまってる。
「こんなところで、こんなことをして」
ゆっくり囁かれて、やっと気づく。
昂貴がなにをしようとしているのか。
「見られても?」
いやいやいやいやああぁっ!
今度こそ必死で、それこそ全力で暴れたのに、彼はがっちり私の両手首をつかみ、脚で下半身をぎゅっと押さえつけて、動けない。
「……仕方ないな」
嘆息する彼に、少しだけほっとする。もしかして、許してくれるの? そう思ったのに、実際は真逆だった。
「んん!? む、んぐっ!」
厚手の布地が口に入ってきた。パイル地の独特の、キシキシとした感触。タオルを噛まされたんだ。私の。なんてことするのよ!?
「なにをするか――わかるよな?」
首を振って拒否する。嘘でしょう!? やめてやめてそんなこと。
ここをどこだと思っているのよ!?
「嫌だって言っても、許さない」
私が、私がなにをしたって言うのよ……!?
必死で後ろを向いて、頼んでも。
その目は冷たいまま。
「駄目だ。絶対ここでする」
嘘嘘嘘嘘、やめてよ! だってだって、ここは外なのよ!? わかってるの!? ひとけのない建物の裏で、夕方とはいえ、屋外なんて絶対いや……!
動かない手を、足を、必死で動かして。
首を、どこか壊れるんじゃないかってぐらい振って、拒んでも。
彼は私を許さなかった。
そしてまた触れだす。手が上下するたびに、吐息が洩れる。こんな状況なのにどうして反応しちゃうの私!? 自分で自分が信じられない。
「おまえは、あいつを忘れられない。だから」
呆然と聞く頭に、彼の声が響く。
冷たくて、強くて、なのに熱い言葉。
「――俺で、塗り替えてやる。なにもかも」
震えているような気もした。
* * * * *
これまでに、彼としたのは、たったの二度。
なのに、もう何度到達させられただろう。
深く。
触れられるたびに、その指に慣らされていく自分を感じていた。
もてあそぶかのように、翻弄されて。
確実に、私の快楽を引き出していく。
溺れて狂って、堕ちてゆく。悦楽の地獄に。
昇っていく、快楽の園に。
いやだ。やめて。
噛まされた轡(くつわ)代わりのタオルのせいで、どうせ聞こえはしないのだけど、そう叫んでいたのはいつまでだっただろう。
しだいに、その声が、拒絶の意味を失くしていく。
官能の色を帯びていく。
肌のぶつかりあう音。激しく出し入れされて、絡み合う体液の音。
さえぎるもののない空の下で、響くのは身体の中。
朦朧とする意識の中で、繋がったところの熱さだけが、異常な現実を教えてた。
壁に縋って、爪を立てて。
声にならない叫び声を、何度も何度もあげた。
「っく……!」
そうして誰も見ていない建物の裏で、私と昂貴は、崩れ落ちた。
To be continued.
2003.09.24.Wed.
* 返信希望メール・ご意見・リンクミスや誤字脱字のご指摘などはMailへお寄せくださいませ *