忘れられない過去

06.意外性


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 汗をかいたし、シャワー浴びればって言われたんだけど、私は疲れていたし考えごとをしっぱなしだったから少し休みたくて、先に入ってもらった。もう七時だし、本格的にお風呂でもいいくらいじゃないかしら、と思ったら昂貴はそうしていたみたい。お風呂上がりの格好はパジャマじゃなくて部屋着だったけど。私はまたりんごジュースをもらって、ゆっくり飲みながら結局考えごとのつづきをしてた。全然、発展はしなかったんだけど。
 夕食はやっぱり昂貴が作ってくれた。こういう場合って女の子が作るものなんじゃないかと思うんだけど、ひとのうちの台所って使いづらいだろなんて言ってくれて。もしかして、料理できないなんて思ってないでしょうねえ。まぁ確かにあんまりしないし別に上手くも得意でもないけど。
 それからやっとお風呂に入った。この前はすぐに帰ってしまったから、よく考えたら借りるのは初めて。さすがに女性向けのシャンプーはないか。別に女物男物ってわけるものでもないかもしれないけど、置いてあったのは炭配合とか書いてある堅いデザインのもので、どことなく男性的だった。今日はいいとして、どうしようかな。気に入っているものはあるんだけど、別に『彼女』じゃないんだから、そういうことしないほうがいい……よね。自分で小分けして持ってこようかな。まぁ、例によって、『次があるなら』なんだけど……。もし置いておいたとしたら、いつか『次』がなくなったときに、あれはどうなってるんだろうって考えたり、それが自分の家だったら、使うひとのいないシャンプーとか歯ブラシとかを見て、悲しい気分になったりするのかな……。『次』があるなら、きっと幸せを感じることなのに。……って、私、なに考えてるんだろう。彼氏彼女じゃあるまいし……。あ、そういえば歯ブラシもない。買い置きかなにかあるかしら。まぁ近くにコンビニがあるし、必要になってから考えればいいかな。余談だけど、ハンドソープとボディソープのパッケージがやたらと可愛くて、しかもフローラルの香りだったのには、ちょっと笑っちゃった。
 彼に借りたパジャマに袖を通すと、思ったとおり緩かった。あたりまえだけど。ウエストが紐で良かったなあ。シンプルだけど、どことなく変わったデザインで、パジャマなのにラインがすごく綺麗。あ、もしかして調節できるからこれ出してくれたのかしら? でも、やっぱり大きいな。紐もすごく余ってるし。別に彼は図体が大きいわけじゃないんだけど、身長が高いから腕や脚が長いんだと思う。男物は嫌いじゃない。うちにも兄が二人いるから、部屋着にお古を使ったりしていたこともあるし。前にそのことを付属時代からの友達の最華(ちなみにフルネームは橘最華でタチバナサイカ。同じ学部の違う専攻に所属してる)に言ったら、お嬢のくせにって冗談めかして言われたっけ。私、あんまりそういうのにお金をかける性質(たち)じゃないのよね。洋服も必要最低限しか買わなかったし。それにしても全然私とはサイズが違うわ。私は結構身長があって、お洋服だと7号トールサイズなんだけど、7号の華奢な女の子向けのブランドだと肩幅とかがきつい場合があるのよね。だから9号を着ていることが多いかな。細いとは言われるけどお肉はついてるし、つくりが小さいわけじゃないし。そんな私でも緩いんだもの、だからいっそう……男性なんだな、って思う。あたりまえのことなんだけど。でも、洗ったばかりのはずのパジャマなのに、昂貴の香りがするように思うのは、どうしてだろう? なんだか、あの腕に包まれてるみたい。……なにを考えているのかしら、私ったら。
 裾だけ折ってお風呂場から出ると、彼はもう既にソファーに座って、ホットココアを飲んでいた。さっきまで普通の服着てたけど、着替えたんだ。うわ、本当にパジャマ着てる。貸してくれたんだから当たり前だけど、今時ちょっと珍しいかもしれない。私も着る派なんだけど、夏はパジャマと言っても半袖やタンクトップとショートパンツとのセットを着ることが多いから、こういう、きちんとしたパジャマで寝ることは少ない。だって、暑いの苦手なんだもの。
 そこで彼は斜め上を向いて「寒いか?」と言った。私も同じ方向を見上げたところで冷房のことだと気づいて、ちょっと、と答えたら電子音がした。設定温度を上げてくれたみたい。実は、クーラーも苦手。だから夏は好きじゃない。って言うか正直なところ嫌いなのよね。いい思い出も全然ないし。
「……、似合うな」
「なにが?」
「パジャマ。持ってこなくていいよな」
 貸してくれるってことかな。って言うか、どう似合ってるのよ? でも、男のひとって、女の子が男物の服を羽織っているのが好きだって聞いたことがある。それとも、女の子が自分の服を着てるのが好きなのかしら?
「次から、他の着替えは持って来いよ」
 そうします絶対。あれだけ汗かいたし、着てた服はスカート以外は全部洗って干しちゃって、実は下着を穿いてないのよね。そうやってパジャマを着るひともいるらしいけど、私は慣れなくて気持ち悪いなぁ。なんだかすうすうするんだもの。やっぱり次は絶対着替えを持ってこよう。まぁ『次があるなら』なんだけどね……なんて考える私はちょっとペシミスト気味かもしれない。スカートだけクリーニングしなきゃいけないものだったので、アイロンだけかけて吊ってある。あぁ、下にペチコート穿いてて良かった。
 そこで彼は、座れよと言って、ぽんぽんとソファーを叩いた。隣ですか。向かいとか、隣のソファとかじゃないのよ。大きなソファの、すぐ隣。テーブルにマグカップが置いてある。先週使わせてもらったのと同じものだった。住人がこう言ってるのにここでわざわざ離れたところに行くのもどうかなと思って、ちょこんと座る。いやそんなに身体小さくないけど。ふたり座っても余裕がある、柔らかすぎなくて、落ち着く感触。ソファって柔らかいほうが好みっていうひとが多いと思うんだけど、私は結構しっかりしてるほうが好き。ある程度抵抗があるほうが支えられて休まるでしょ? マンションにあるのも実家にあるのもそういうものだし。これも馴染みやすい、座り心地の良いソファだった。そういうところ、結構好みが似てるかも。部屋の雰囲気も落ち着くし。まぁ、昂貴の好みじゃなくて、この部屋の本来の所有者だという彼のご親戚の好みなのかもしれないけど。
 手に持ったココアが温かい。きっとこれも手作りね。クーラーがきいてるし、ホットでも嫌じゃない。生クリームまで乗ってる。まさかこれも今作ったのかしら? 粉っぽくなくて、ほんのり甘い。口のまわり汚れちゃわないかちょっと不安だけど。マグカップは白地で、ふちにブーケとピンクのリボンが描かれた可愛いデザインのもの。先週どれがいいか選ばされた時に(別になんだっていいはずなのにわざわざ選ばせるのよ? つまり自分も選びたいタイプの人間ってことよね。やっぱりこだわりのひとだと思う。もちろん嫌じゃないけれど)これ可愛い、って言ったのを憶えていてくれたみたい。これもやっぱり元は家にあったもので、引越し荷物に入れた憶えはないのに、家族が勝手に入れたらしく、開けてみて仰天したとか。「そういう悪戯(いたずら)好きな家族なんだよ」と呆れて言っていたっけ。きっとすごく仲良しなんだろうな。彼女とかのために気を利かせてくれたんじゃないかと思ったけど、今使ってる私が言うのもなんだから黙っておいた。ちなみにティーカップもやたら可愛いのがあって、こっちはセットの花柄。これも悪戯のうちかな。でも、使っている食器はほとんどシンプルな磁器ばかりで、真っ白か、白地に藍の彩色のものだった。柄物のほうは、うちの両親も結構好きな、日本の高級な食器メーカーのものだったと思う。落ち着いていて私も好きだけど、若者っぽくなくて、むしろかなり渋好みじゃないかしら。そんなことを考えながら無言でココアを飲んでいたら、昂貴がぽつりと話しかけた。
「どこか行きたいとこあるか?」
「え?」
「今日さ、やっぱり酷いことしたかなって思うから、詫びと言っちゃなんだが、どこか連れてってやろうかと思って。明日か明後日、暇だったらだけど。ほら……その、遊園地とか、テーマパークとか」
「あなたが行くの? 遊園地に? ……っふ、あははっ!」
 たぶん昔の恋人に連れていかれたんだろうな。ジェットコースターに乗る昂貴とか、ディズニーランドでカヌー漕ぐ昂貴なんて、想像したら無性におかしくなって、つい吹き出しちゃった。あぁもう、笑いが止まらないわ。でもごめんね、私、残念ながら遊園地に行きたがるような可愛いタイプじゃないのよ。それにあんまり、いい思い出もないから。
「……おい、ひとが真剣に言ってるのに笑うなよ……」
「あはは……あぁ、ごめんね。だってあまりに想像できなくて」
 気を遣ってくれたんだろうな。うん、それはわかってる。
「悪かったなぁ。俺だって人並みに行ったことくらいは……」
「連れてってーとか行こうよーとかって誘われたんでしょ。違う?」
「……まぁ、そうだけどな」
 やっぱり。また私はおかしくて笑ってしまう。昂貴ってね、見た目はそれなりにいいんだけど、軽い雰囲気が全くないの。それこそ一切。集中してるときなんて触れたら切れそうな感じになるし。中身が怖い人ってわけじゃないとは思うんだけど。だって意地悪だし、的確にズバズバ痛いところ突いてくるけど、優しいところはすごく優しいもの。まぁ、だから辛くなるときもあるんだけど……。
「じゃあ聞くけど」
「ん?」
「私が遊園地とかテーマパークとかに行きたがると思う?」
 そしてしばし考え込んだ後、彼は言った。
「…………………………いや、思わない」
「でしょう?」
 やっぱり。どう考えたってそんなのより美術館や博物館に行ったり部屋で議論でもしてたほうが私たちらしいもの。ショッピングやお茶はそれなりに好きだけどね。
「意外な側面は誰にもであるから、例として聞いてみただけなんだけどな」
「そうか、そうよね。……まぁそれは推測どおりよ、あんまり合わないのよああいうの」
「なんで?」
「なんでって……」
 ううう。言わなきゃ駄目?
「ただ歩くだけならいいんだけど……」
「……それは遊園地に行ってすることじゃないと思うんだが」
 わかってるわよぅ。だから……つまり。
「…………実は絶叫マシーンが嫌いなのよ」
「そうなのか? 平気で乗ってそうだけど」
「そう言われるんだけどね、実は全然。ジェットコースターとかゴンドラとか、ああいうの駄目なのよ。重力かかる感じとか、ふっと浮くのとかが気持ち悪くて。実は同じ理由でエレベーターも好きじゃなくて、更に言えば飛行機も苦手で」
「マジ?」
「本当よ。だからデパートとかも上のほうだけしか用事がないっていう時以外はエスカレーターを使うし。海外ってほとんど行ったことないのよ、飛行機に乗りたくないから。国内は全部新幹線で行っちゃうし。船で行けばって言われるんだけど、船は絶え間なく延々と揺れるからもっと苦手で……」
「……おい、おまえそれでどうやってこの研究続けるんだよ?」
 ううう、心底呆れたって顔。仕方ないじゃないこればっかりは。語学といい乗り物といい、もしかして私って美術史学者に向いてないのかも……しくしく。だからって、諦めたりなんかしないけどね。
「だから、どうしても行かなきゃって時は乗るわよ。でも飛行機の離着陸が特に駄目で。事故も一番多いって聞くし。だからそのへんにあるものぎゅっと抱えて座席の腕をしがみつかんばかりの勢いで握って……」
「あっはははは! って、俺の遊園地より絶対そのほうが意外だろ!」
「わかってるわよぅ、だけど苦手なものは苦手なのっ!」
 ちょっといじけた気分になって、そっぽ向いてみた。身体ごと。私だって苦手になりたくて苦手なわけじゃないのにいぃ。
「あっははははは……はぁー。やべ、ツボに入った。絶対いつか思い出して笑うな俺。あぁ、またキたよ……っくくくく……」
 むうぅ。だって怖いものは怖いんだもの。さすがにむっとして、言い返す。
「思い出し笑いするひとってむっつりすけべなんだって!」
 でも絶対響かないのよこのひとには。どうせわかっちゃってるんだろうな、ちょっといじけた気持ち、ごまかしてるだけって。
「男はたいていすけべなもんだと思うが」
「標準にすりかえないでよ、ずるいわねえっ!」
 まったくもう、自分ばっかり普通なふりして。なんなのよこのひとはっ。
「じゃあさ」
 なんですか。どうせまた馬鹿にするんでしょう? 振り返ってギロっと睨むと。
「今度飛行機に乗るときは、俺にしがみついてろよ」
 荷物や座席の腕じゃなくて、と付け足して。
「…………………………」
 いやもう、私、そのときどんな顔してたか考えたくない。内容つかめなくて、ワンテンポ遅れて全身の血が一気に顔まで上ったと思う。絶対耳まで真っ赤。だって今度って今度って飛行機に!? 昂貴と!? ふたりで!? なに考えてるのこのひとー!
 そりゃあ何度かえっちしてるし、今日だってお泊まりだし、今更照れることじゃないんだろうけど、だけどだけどだけどやっぱり違うじゃないのそういうのとは旅行って!
「っ、なに馬鹿なこと言ってるの!?」
「遅っ。なに想像してんの? はっはっはっは〜!」
 ううう絶対からかわれてる。ますます笑い転げる昂貴。よく考えたらこんな盛大に大笑いしてるところ見るの、初めて。こんなふうに笑うこともあるんだ。意外。ちょっと子供っぽい。お互いまだ学生だから、多少子供じみているところがあってもおかしくないんだけど、五つも上の、正真正銘大人の男性だから、少し驚いちゃった。いつもの、触れたら切れそうな印象が消えてる。でも嫌いじゃないな、こういうひとって。で、ひとしきり笑っておいて、まだおさまらないうちにそっぽ向いてる私をそのまま抱きしめて、頬にそっとキスをする。
「あぁ、笑った笑った」
 ほんとにもう、なにを考えてるんだろう。これじゃ、恋人同士みたいじゃない。変だわこんなの。なのにどうして不快感の欠片もないのかしら?
 きっとこんなふうに『おまえは俺のもの』みたいな扱いを他の男性にされたら、すごく嫌な気持ちになる。ふざけないでよ馬鹿じゃないのそんなことあるわけないでしょなに考えてるのよって、冷たくあしらうのがいつもの私。だけど。
 そうなったらいいのに。いつか、そんな日が来たらいいのに。
 心のどこかで、そんな声が聞こえた気がした。
 このひとは私の恋人じゃないのに。私はこのひとの恋人じゃないのに。
 だから余計に切なくなって、私はうつむいてしまう。だけど離れたくなくて、回された昂貴の腕に頭をもたれさせて、背中越しに彼のぬくもりを感じていたら、口唇が肌に触れた。こめかみに。耳元に。首筋に。広いリビングなのに、ソファーも幾つかあるのに、こんなにひっつく必要、全然ないのに。
「……ん……っ」
 吐息のようにささやかだったけれど、思わず声が出てしまった。
 洋服越しに感じるぬくもりと、口唇の感触。
 自分の心臓の音が聞こえる。高鳴っているのがわかる。心地よくて。
 今だけでもいいから、こうしていたかった。
 心の中から宗哉が、まだ全然消えていないのに。
 もう誰かを想うことなんてしたくないのに。
「でもさ」
 しばらく経って、彼は口を開いた。なに?
「『テーマパークにお散歩』ならいいんだよな?」
 ……、そこに戻るの? 戻るのね?
「う……ん。まぁ、それは嫌いじゃない」
 嫌いじゃないんだけど。
「行ったことがないわけじゃないんだよな?」
「そりゃあ私も、『人並み』ですから? 行ったことくらいはあるわよ」
「ふぅん? で、『宗哉』となにがあったんだ?」
 …………。
 どうして、このひとはこんなに無駄に勘がいいのよ? どこか他にまわしておきなさいよそういう能力は。それとも、誘導尋問的にひっかけただけ? ずるいよ。でもそれに毎回ひっかかっちゃう私も私だ。
「…………」
 言いたくない。思い出すから。
 今も目に浮かぶあの光景。
 あの顔。あの目。あの声。
 あのふたりの姿――

 ――嫌だ!

 そう思った瞬間、頭に浮かぶ情景を消そうと瞳をぎゅっと閉じた。身体がこわばる。圧迫感に気づいて目を開くと、目の前に昂貴のパジャマの上の合わせ目があった。私、後ろを向いていたはずなのに、いつの間にか昂貴と向かい合って、彼の腕の中にいる。目を閉じると、心臓の音が聞こえた。安心する。温かい腕の中。彼の香り。首筋にかかる息がくすぐったいのに気持ちよくて、顔をすり寄せた。腕まですっぽり包まれてるから、抱きしめかえすことはできなくて、だから、より近づいた。
 他のひとのことを考えていたのに、今はもう昂貴のあたたかさしか感じられない。
 冷たい声を出せるのに、冷たいことを言えるのに、冷たい態度も取れるのに、どうして、このひとはこんなにあたたかいんだろう。私の体温が低いから?
「そこ、どこ?」
 どのぐらいだったか、かなりの時間が経ったころ、昂貴はやっと口を開いた。言っていることが理解できなくて首を傾げる。その現場の名称かと気づいて私は重い口を開き、とある遊園施設の名前を言った。
「……わかった」
 ぎゅっと私を抱きしめて、彼は言った。
「明日行こう、そこに」
Line
To be continued.
2003.09.21.Sun.
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