忘れられない過去

05.疑問


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 うちの大学は古い上に都会にあるので学生用の駐車場は一切ない。だから、必然的に一緒に電車で帰ることになった。電車の路線も方面も同じなんだけれど、なんとなく人目が気になって、少し距離を置いて歩いた。……もし、私と彼がつきあっているとしたら、学生同士なんだし、一緒に歩いても全く問題はないと思う。でも、こんな、なんて言うのか……いやな表現をすれば『セフレ状態』で、知っている人に見られる可能性が高い構内では、一緒に帰るのは少々気が引ける。しかも、あんなことをした後に。え? セフレってなにかって? そんなもの自分で調べてよ恥ずかしい。
 時間が時間だったせいか、初夏とはいえ少し日も傾いていて、知っているひとを見かけることもなかった。構内にいるとしても、遅い時間の授業に出ていたり、図書館に詰めているくらいなんだと思う。少しほっとした。
 もし、誰かに会ったら、私はなんて説明するんだろう。
 昂貴はなんて説明するんだろう。
 ただの先輩後輩っていうのが一番簡単よね。たとえ昂貴の家に行くってわかっても、あの資料の膨大さからいって本を借りに行くのって言えば納得すると思う。それを知らないひとでも、院の話を聞きに行くのって言えば、言いわけは成り立つわよね、充分。ちょっと変でも、ごまかせる範囲だと思う。
 だけど、私にとって昂貴がなんなのかっていうのは、まるで別の問題。
 そして、昂貴にとって私がなんなのかも。

 ……どう思ってるんだろう。
 『振られた男を忘れられなくて他の男に縋(すが)ってる馬鹿な女?』
 でも、昂貴の態度はそういうのとは全然違う。馬鹿にするようなそぶりは全くない。それに、私の気持ちを否定しない。最初こそ『馬鹿な女か子供のすること』って言われたけれど……本気でそう思っているなら、もっと反応は違うと思う。
 『好きな時に抱ける便利な女?』
 これだけいい見た目をしてるのに、それはないと思う。派手なひとではないけれど、どこか人目を引くところがある容姿だもの。今だって彼のことが気になっているひとはたくさんいるんじゃないかしら。よりどりみどりとまではいかなくても、不自由はしないと思う。少なくとも、適当にそういう相手を選べるくらいには。しかも、文学部とはいえうちの大学なんだし。モテるらしいのようちの大学。私は学歴になんてこだわらないからそういう気持ちはさっぱりわからないけど、彼氏の学歴が自分の学歴になるとでも思ってるのかな。それとも、そういう要素で恋人の価値が決まるのかしら。わからないな。そんなもの私が全部持ってるから、どうでもいい。傲慢な考え方かもしれないけど、そんなことで人の価値が決まるわけないし、私は好きになる相手の学歴なんてどうだっていいもの。頭のいいひとは確かに面白いし、賢いひとと会話をするのは好きだけど。あ……それとも、セックスの相手を探すのが面倒だとか? でもそれなら、私にあんなによくしてくれないわよね。
 『他の男を想ってるなら、後腐れなさそうだから?』
 だけどそれなら、『忘れさせてやる』なんて言わない。でも、『宗哉のことを考えてろ』はさんざん言われたし。あれはどうしてなんだろう。
 ……わからない。全然わからない。
 それにしても、どう考えても『昂貴にとっての私』って嫌な方向にしか想像が働かないわね。仕方ないか、こういう関係じゃ。きっかけがきっかけだったし。私自身も後ろめたいことばかりだから。
 だけど思う。あんな甘く優しく激しく情熱的なキスもセックスも、普通しない。できない。少なくとも、私はしたことがなかった。とろけるように甘く熱いのも、あんな意地悪で、だけど限りなく優しいのも。知らなかった。昂貴に出逢うまで。あのくちづけを受けるまで。その腕に抱かれるまで。
 それとも彼はいつもそうなんだろうか。彼に今まで抱かれてきた女はみんな、あの感覚を知っているんだろうか……。
 今更になって、私は彼に女にされたような気がする。性行為とはどんなものか、快楽とはどんなものか、知ってるつもりだった。だけどあんなのは――。
 処女を失ったのなんて大昔のことなのに、今頃知るなんて。
 気持ちいいって知ってた。気持ちいいって思ってた。でもその気持ちよさのレベルが、まるで違うところにあるなんて思いもしなかった。これがそうなんだと知った。あの腕の中で。想いが通じているわけでもないのに。
 結局は、身体の問題なんだろうか。つまり、相性が良いとか、昂貴が上手だっていうことだけ? ……そうなのかな。そうかもしれない。だって、他に考えられる要素なんか、ないのだから。
 彼にとって、私が特別な存在というわけじゃないもの。

 じゃあ、私にとっての昂貴は、どうなんだろう。
 優しいひとだと思う。平凡な評価だけど、まっさきにそう思う。だけどそれが、甘やかすだけだったり、自分がよく思われたいがための簡単な優しさじゃない。そんなのは優しさと呼ばないって知ってる。彼は自然に相手を思いやることを知っているひとだと思う。まるで、意地悪を装いながら、なにもかも私のためにしてくれているみたい。まだ彼のことはよく知らないけれど、意地悪されてる最中はそんなこと思えないんだけど……振り返ると、全ての行動が私のためなんじゃないかって考えを抱かずにはいられない。
 それに、すごく厳しい人。自分自身への要求レベルがすごく高くて、他人にさえそれを求める。努力しないこと、逃げることを許さない潔さ。そして自分は必ず立ち向かう。尊敬できるひとだと思う。研究者としての姿勢も、人間としても。
 意地悪するし、根性悪いし、変なこと好きだし、妙にこだわりがあるし。
 お料理を作ったりお茶を淹れるのが上手かったりもする。
 まだそんなによく知らないはずなのに、わからないことだらけなのに、一緒にいても、不安は全くない。むしろ、ひとりでいるときよりもずっと安心感がある。
 それから、彼は私の家とか、そういうことで見ないところ。学歴は結局一緒だから無視できてもおかしくないけど、決して私を特別扱いしない。そりゃあ関係が関係だから、他のひととはポジションが違うのは当然なんだろうけど、なんていうのかな、『高嶺の花』だとか、『遠い世界の住人』だとか、そういう扱いをしないの。普通に接してくれる。……そんなところだけ、宗哉に似てる。
 嫌なのは、やっぱり意地悪なところかな。たとえ私のためであっても。ひとの弱点をすぐに見抜いて、しかも遠慮なく突いてくるんだもの。私ってそんなにわかりやすいのかしら。それとも、油断しているのかしら……?
 敵わないのが悔しい。年齢とか経験とか立場とかも含めて、なにもかも。五つも上の、大人だから? いつもいいようにあしらわれている気がする。手のひらの上で踊らされているみたいに。あっちが観音様で私が孫悟空? 嫌な例え。猿じゃないの孫悟空って。
 ああ、そういう問題じゃなくて。彼のことをどう思ってるかってことだった。
 確かに悔しいことや、嫌だと思うことはある。
 だけど嫌いかって言ったら絶対そんなことはなくて。
 好きかって聞かれたらわからない。嫌いじゃない。『嫌い』の逆は『好き』だけど、『嫌いじゃない』は『好き』ってことにはらないないわよね。
 私は、宗哉が好きなんだし。

 忘れられないのは本当。今でも時々揺り返しが来て辛いのも。
 だけど、昂貴のそばにいると楽になれる。苦しさが減る。咽喉が詰まって、息ができないほど辛かったときもあったのに、昂貴のそばにいるとほっとする。まるで彼の周りにだけ酸素があるみたいに。安心する。そうしていていいよって言ってくれる気がする。昂貴の腕に包まれていると、なにもかも忘れられるの。課題の山を作って攻撃してくるけど。セックスしてる間は宗哉のことを考えてろなんて言うけど。
 浸っていればいるほど、こんなふうにあのふたりも過ごしているんだろうなと思ってしまって、ふと辛さを感じることもあるけれど。
 昂貴は、なにを考えているんだろう。
 私を抱きしめて、キスをして、抱いて、一緒に眠って。
 だけど私を見つめる優しい眼差しは、嘘じゃないって思っていい?
 一緒にいるとき、安心して全てを任せていい?
 もう男のひとと関わりたくなんてなかった。なのに、あの腕を離したくない。
 こんなわがままが許されていいの?
 そしてなにより、逢ったのはまだたったの二度なのに、どうして私はこんなに彼に心を開いているのだろう……。
 誰より、自分自身がわからなかった。

 本当は怖いの。今度誰かに縋って、そして捨てられてしまったら、もう二度と生きていけなくなりそうで。だから一人で生きていこうと思ってた。なのに昂貴がそれを暴いて、頼っていいって言うから。
 ううん……そんなの言いわけだわ。拒む手立てがなかったわけじゃないもの。
 だけど私は、あの手を取ってしまった。
 いつか後悔するのかもしれない。いつも、その日が怖かった。宗哉といたときも、いつか必ず来るその日のことばかり考えてた。そしてその日は本当に来た。
 私はあの日、人生が一度終わったと思う。
 たいしたことじゃないのかもしれない。平気なふりをして、笑って乗り越えるべきだったのかもしれない。だけど私は立ち止まってしまった。二度目の人生なんてないけど、なにかが途切れた。あの日から、どうやって生きていこうかって、そればかり考えてた。
 その先の人生の、希望も展望もわからなくて。
 ただ、ここで死んだりなんかしないと決めた。
 誰にも頼らなくても、私は独りで生きていける。そう思ってた。だからひとりで暮らし始めたし、何もかも自分でやっていこうと思った。だけど実際は、親の庇護下で家とお金を与えられて、気ままに過ごしているだけ。
 早く宗哉のように大人になりたかったけど、私にできることは研究くらいしかなくて。
 大人になるのがどんどん遅れてる。二十歳は過ぎたのに。
 宗哉との年の差は二歳。私が社会に出る日が来ても、このまま博士課程まで出たら、社会的な年齢差は十歳を越える。
 だけど、私には他にやりたいことはなにもない。
 その日をどんどん先延ばしにして、今も生きてる。

 昂貴は、どうなのかな。
 早く社会に出て、自分で働きたいって思わなかった?
 でも、見ていればわかる。自分と他人を較べるような、そんなくだらない考えに捕らわれることは、きっと彼にはない。いつでも自分に誇りを持ってる。そしてそれが決して驕り高ぶりじゃなくて、それを鼻にかけることもない。至極当然のようにしてる。
 『自尊』という言葉がある。自尊心という言葉のせいで、良くない意味に取られがちだけど、『自分の矜持(きょうじ)は自分で守る』という意味だという。昂貴はまさに、そういう生きかたをしてると思う。
 ……こんな大人になれたらいいな。
 昂貴も社会に出てなんかないけど、いつか。

 そんなことを考えていたらいつの間にか昂貴の家の最寄り駅についていて、手首をそっとつかまれた。引かれるまま昂貴についていく。駅の改札を出たところで、手を繋がれた。あたたかくて大きな手。そういえば、彼の部屋までずっと無言だったのに、気まずさは全然なかった。昂貴もそうだったのかな。
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To be continued.
2003.09.19.Fri.
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