忘れられない過去

02.鬼


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 あの日は簡単な資料だけコピーさせてもらって(しかも家にあったのよコピー機が……ファックスのや、ハンディとかじゃなくて、コンビニにもあるような大きいの。経済的に買えないものじゃないかもしれないけれど、どういう家なのよまったく……もともとの家主だっていう、彼のご親戚のものなんだろうけど……)そのまま帰った。あれだけ体力を使えば仕方ないと思う。帰りがけにおでこにキスされたけど。ずるい。なんでずるいと思ったのかはわからないけど、他に感じたのは途惑いとくすぐったさだけだった。恋人同士じゃあるまいし、どういうつもりなんだろう。勿論嫌じゃないんだけれど、例によって考えこまずにいられないからちょっと辛い。これ限りじゃないってことなんだろうか、それともこれ限りっていう区切りのつもりなのかな。そんなことをまたぐるぐると考えてしまって、おかげで日曜日も私の頭は使いものにならなかった。さすがに資料に目を通したり、最低限やらなきゃいけないことはやっておいたけど。と言っても卒業単位はとっくに取ってたし、たいして授業もなかったから、やることなんてたかが知れてるんだけれど。でもこれが発表の週じゃなくて良かったわ本当に。
 驚いたことに、渡されたのは本当に今まで見たことのなかった資料だった。すごく新しいもので、日付が今年。私がやっていることにも関わる新たな発見について書かれていた。英文は苦手だけど、おおまかな解釈は間違ってはいないと思う。実は、あまり大きな声では言えないけど私は語学が大の苦手でしかも大嫌い。そりゃあ授業でやるぐらいはできるんだけど、それこそ血の滲むような努力をしていたりする。量や時間じゃなくてね、気力の話なんだけど。だって嫌いなことをするのって気分的にすごく疲れるでしょう? 他の勉強は好きだからいいんだけど、語学って発展性はあるけど知識欲は満たされないから面白くないのよ。語学が好きっていうひとは一体どこが楽しいのかしら? 一度聞いてみたいものだと常々思うわ。私には皆目見当がつかないもの。成績表はほとんどAだし、他の教科は余裕なんだけど……語学ばっかりはねえ。気を抜くとすぐにBになるのよ。

 で、今日は先週と同じく金曜日、四限終了後。この前と同じ部屋に向かって、研究棟の最上階を端へと歩いている。
 基本的に院生はマイペースで研究を進めるものだけど、うちの専攻は金曜日は必修もほとんどなく教授も出払っていて特にフリーなんだとか。で、一人で研究するにはもってこいだからと逆に昂貴は学校に来ることが多いらしい。あの土曜日の朝、そう言っていた。だから今週も同じ時間に来いよ、と。
 よく考えたら一週間ぶりに会うんだわ。つまり、あれから初めて。大学の構内で姿を見ることもなかったし。携帯電話の番号とメールアドレスくらいは交換したけど、それはむしろ今後の研究のためで、急ぎの用がなかったからなにもしていない。しかも、そのときに実は私も昂貴も今時の若者らしからぬ極度の電話嫌いだとわかったから、滅多なことでもなければ電話なんてする気がなかった。電話の、人の時間に無遠慮に入り込んでくるところが嫌なのよねと言ったら、笑って同意された。研究者の性質なのかもしれない。人との繋がりよりも、自分の時間を大事にするというのは。
 研究棟の端のひと部屋。本来なら院生とはいえ学生が占有していい場所ではないのだけれど、なにしろお金持ち大学なものだから、こういう空き部屋がゴロゴロあるので、特定の部屋を持てない文系の院生が結構利用しているんだとか。理系の院生は研究室に泊り込んだりできるけど、文系はそういうシステムでないために黙認されているのが現状だと聞いた。もちろんそれぞれの専攻に割り当てられた中でだろうけど。設備や調度品も揃っているのに、なんてもったいない。まぁ、パソコンとか、昂貴が持ち込んだものもあるそうだけど。最上階の端にあるため見晴らしが良いのが気に入っていて、入り浸っているらしい。そもそもは修士課程に進んだ頃、学部時代から親しかった先輩がちょうど交代で修士を出たから、譲り受けるようにここに居座っていて、既に個室状態なのだと言っていた。学生にはロッカーすらないのに、なんて贅沢な……と理不尽さを感じながらドアをノックする。すぐに返事があって、私は鍵のかかっていないドアを開けた。
「失礼します」
 その部屋は角にあるせいかとても広く、大きな窓からは初夏の光が差し込み、さんさんと降り注いでいた。手前には大きなデスクが幾つも並び、壁はほとんど本棚で埋め尽くされ、その奥には応接間で使われるようなしっかりしたソファーとテーブルが置いてある。そして、そのソファーに昂貴がゆったりと腰掛けていた。目の前のテーブルには本が山積みにされていたのだけど、それが全部ハードカバーの洋書だと気づいて、つい、げんなりしてしまう。さすが院生……こんなにしなきゃいけないなんて、私本当に進学して大丈夫なのかしら。ちょっと不安。内部進学だし成績はいいから、進学できるかどうかってことにはあまり不安を抱いてないんだけど。いずれは外国語で論文を書かなきゃいけなくなるのかもしれない。考えたくないなぁ……。
「なに嫌そうな顔してるんだ?」
 どうやら顔に出ていたらしい。だって嫌いなものは嫌いなのよ。いいじゃない、やるべきことはやってるんだから嫌いなままでも。
「これ見よがしに洋書積んでるから、嫌な感じぃーって思っただけよ」
 まだ慣れない彼との会話。一週間ぶりに会う照れ隠しもあって、ひねくれたことを言ってみた。よかった、普通に話せてる。
「嫌な感じだと思うのは、ひがみだな」
 むぅ。わかってるわよそんなこと。
「どうせ私は語学ができないわよ。もらった資料だって辞書引き引き頑張ったんだから」
「読んだか。どうだった?」
 読んだかじゃないわよ読まないわけないでしょ。だいたい読まなかったらなにされるかわかったもんじゃないわよ、こんなひと相手じゃ。だけどそんなこと言うのはなんだか悔しくて、普通に答えた。
「……驚いた。どの文献見ても未確定だったのに、もうあんなところまでわかってるのね。あれは最新版の資料なの?」
「春の学会で出たやつだけど、おおもとはほとんど去年だな。すごい妙なことにこだわるひとらしくてさ、数年前なんか墓探しだけのためにいきなり中部イタリアまで行ったらしい」
「か、変わったひとねえ……」
「でもそのおかげであの画家の死因と墓の場所がわかったわけだ。今まであった諸説を全てひっくり返して。あれだけ裏づけがしっかりしてれば、もう覆らないだろう。これ自体がなにかの意味を持つわけじゃないけど、この事実が確定していることは確かな助けになる」
「…………まぁ、わかるけど」
 それにしても、あの資料だけで年表に書き加えることが随分と増えたわよね。しかも確定事項。最新だから、出典つきで書かなきゃ。
「ところで、おまえ何語ならできるんだ?」
「日本語」
 痛っ。即答したらおでこ弾かれた。いわゆるデコピン。冗談だってば!
「ふざけてる場合か」
「だって本当に語学苦手なんだもの!」
「威張るな。いいから、習ったことがあるやつを言ってみろよ」
 威張ってなんかないわよ。事実を言ってるだけなんだからっ。……はい、すみません言いわけです……ううう。
「第一が英語、第二がドイツ語。二年でフランス語やって挫折して、三年でリトライしてなんとか単位が来ました。今年イタリア語取ってます。これは意外と順調」
 どうして同じラテン系言語なのにフランス語が駄目でイタリア語が平気なのかって、もちろん、あの、『書いてあるスペルを全部読まない』ところがどうしても駄目だったのよね。あと、『原型の欠片もないほど格変化する』ところとか。第二がドイツ語だと余計に理不尽さが増すのよ。その上にあの発音の難しさ! フランス人を尊敬しちゃうわ、私。
「原典は?」
「第二はドイツ語」
 原典とは原典購読のこと。外国語で専攻に関わる文章を読むわけね。原典購読は二、三年生で履修するんだけど、二年は英語の、三年は第二外国語が必修なの。実はドイツ語の原典購読は西洋美術史じゃなかったんだけど、他の言語で単位を取る自信がなかったんだもの。それでも正直、非常に辛かったわ……。選択履修のフランス語もあったし。毎日辞書を二、三冊は持ち歩いてたっけ。
「おまえなぁ、何でもっと早くイタリア語やっとかないんだよ?」
「仕方ないじゃない、三年になるまでは他の国の画家が好きだったんだから」
 三年の発表でイタリアの画家に興味を持ったんだけど、その時に明暗法も面白そうだなと思ったのよね。普通は同じ研究を続けるんだけど、そういう経緯から、私は四年になってバロックに転向した。実は最初はオランダの画家が好きで、次がフランスの画家だったんだけど。みんなそれなりに好きなのよ? でも研究するとなるとまた違うわけなのよ。資料の量の問題もあるし。だけど、やっぱりあの画家をやりたかったの。私がこの道を志すきっかけになったひとだから……。
「まぁいいか。まずは英語、それからイタリア語な。イタリアの画家を研究する限りフランス語はほとんど出てこないから安心しろ。技術論はドイツ語も多いから、少しは楽だろ。訳があれば英語をまわしてやるよ」
「オネガイシマス」
 つい、平たい口調になってしまうわね。自分ではじめたこととはいえ、これから外国語漬けなのかしら……あぁ嫌だなぁ。逃げる気はないけど、憂鬱。
「手始めにこれとこれとこれ読んで来い。来週までな」
 と言って手渡されたのは……なんとそこに積んであったハードカバーの洋書三冊! しかもすごく重いの、取り落としそうになっちゃったわよ! とりあえず昂貴の座ってたソファの前のテーブルに置いた。あのまま持っていたら危なくてしかたがないもの。
「まさか、全部私物?」
「これは図書館で借りてきた。こっちとこっちは私物」
「家といい、なんでこんなに持ってるのよ……」
「どんなにくだらない資料でも、必要になるときはあるからな。手に入る文献はなるべく全部揃えるようにしてる。片方は日本で取り寄せたやつだぞ。もう一冊はすぐに欲しくて姉に送ってもらったけどな」
「姉?」
「アメリカ在住。ポスドクやってる」
 そして日本の国立の最高峰とアメリカの最高峰とされる学校の名前を幾つか出した。うちだって下の兄がイギリスの言わずと知れた有名校に留学してたし、市谷の家はほとんどみんなうちの大学を出たり付属に通ったりしてるから、別にそれ自体は驚くことじゃないかもしれないけど、やっぱり錚々(そうそう)たる学校が列挙されているわよね。生半可なことじゃ入れないわよ。だけど、このひとは文学部なのにお姉さんが理系っていうことは、相当いろいろなことやってるひとがいるってことよね。この前、家族や親戚に学者がたくさん居るって言ってたし。ちなみにポスドクというのはポストドクターのことで、特に海外の大学院を出たひとが研究者の卵として就く職業のことを指すの。聞くところによると結構大変らしい。体力的にも経済的にも。まぁ研究者って駆け出しの頃は親か配偶者のお世話になって食べていくしかないものねえ……パラサイト・シングルの典型例か。私もそうなるんだろうな。いつまでも子供みたいで嫌だけど。
「ちなみにうちの実家はこの比じゃないから。地下に図書室作ったほどだしな」
 この人の家ってきっとエンゲル係数より本の占める割合が多いわね……本ゲル係数とでも言ったらいいかしら。うちもたいがい本好きだけど、幾らなんでもここまでじゃないわ。さすが学者一家。
「でも、幾らなんでも一週間でこんなに読めないわよ……」
「逃げるのか?」
 ちょっと呟いただけなのに聞こえていたみたいで、即座に意地悪な言葉が返ってきた。
「違うわよっ! こんなにたくさんは一気に読めないって言ってるのよ」
 即答したけど、どう考えたって私の分が悪いわよね……。
「だから読めって言ってるんだろうが。できることをやってどうする。できないことをやってみるのが今のおまえに必要なことだろ?」
「そんなのわかってるわよ! だからってこんなの……、一体何様のつもりよ!?」
 彼の言っていることは正しい。だけどどうしてこんなに突然? その意図がつかめなくて、なぜだか腹立たしくなった。相手に主導権を握られていることが嫌だったのかもしれない。そして、五年の、圧倒的な経験の違い。……最初から、敵うはずもないのに。
「高原昂貴様」
 さらりとそんなことをのたまう。なんなんですかこのひと。やっぱり、こういう意地悪なひとなの? あの優しさは一体なんだったのよ?
「だからなんだっていうのよ!」
 ふざけるなと怒鳴りつけそうになるのをかろうじて抑えたけれど、どうしても語調は荒くなってしまう。私がこんな反応をしてしまうことさえ彼の思惑通りなんだということを、うっすらと理解しながらも。
「わかんないか? 学生サマ」
「つまり院生サマだって言いたいわけ?」
「事実だろ?」
「ううう……この鬼ぃ、悪魔ぁっ!」
 なにも言えなくなるのが嫌で、仕方なく言い返すけれど、これじゃあ負けを認めたようなもの。口で負けたことなんかなかったのに。
「鬼でも悪魔でもいい。だから、やってみろよ。少なくとも、それに熱中してる間は、あいつのことを忘れられるだろ」
 え?
「……そのために?」
 確かに、それが理由でずっと勉学に狂っていたことは事実だけど。
「違うと思うか? 『あの絵をただの絵と思いたい』んだろ?」
「それは、そうだけど……」
「本気でやるんだよな?」
「それはもちろんだけど! それにしたって限度ってものがあるでしょう?」
 私は語学が大の苦手なんだってば! 私のためって言うけど、確かに私のためなんだけど、だからってなんでこんなに意地悪なのよこのひとは?
 優しいくせに。
「……それとも……違うことで忘れさせて欲しいか?」
「え……?」
 なんのこと?
 って……まさか。
「……忘れさせて欲しいんだよな?」
 私に伸びる指。――まさかここで!?
 思わず私は飛びのいて離れたけど、無駄な抵抗だった。そもそも昂貴の力のほうが何倍も強いから、力で叶うわけがない。力ずくでなにかされたことなんてないんだけど、迫ってくる昂貴に途方もない威圧感を感じて後ずさりした。ドアにぶつかる。そのまま後ろ手でノブをつかんで出て行こうとしたら、昂貴は左手で鍵をかけて、扉に両手をつく。そして私の目をまっすぐ見て言った。
「行かせない」
 目が。
 そらせない。
「んむっ……」
 顎を捉えられる。口唇同士が触れたと思ったら突然こじ開けられて、舌を入れられた。いきなり激しく口内を探られる。抱きすくめられる。手が身体に触れる。抵抗しようと思った。だけど触れられたところから力が抜けていく。代わりに別のものが身体の奥からわきあがって、渦巻いていく。
 触れては離れる意地悪な手に翻弄される。燃えたたせては離し、そして引いていく快楽。いや。やめないで。そう思った頃また手が触れる。何度されただろう。息はしだいに荒くなって、確実にそれは喘ぎ声に変わっていく。身体が疼(うず)きだす。服の上から触られているだけなのに、どうして。
 何度そうされただろう。こんな場所じゃ嫌だと思っていたのに、抵抗できない。もう、なにも考えたくない。お願いだから、ねぇ、解放して。もう限界だと思った頃に彼はそっと囁く。私を見つめて。
「忘れたいか……?」
 聞かれて何度も頷く。だってあんな苦しい思いはもうしたくない。思い出したくない。私のことなんか欠片も想ってない宗哉のことなんて……!
「忘れさせてぇ……っ」
 辛いの。苦しいの。どうして忘れられないの。忘れたら、きっと楽になれるのに。
 本当は抱かれたって解放されないって知ってる。終わってから罪悪感と悲しみが募るだけ。だけどもうなにも考えたくない。どうか溺れさせて。甘く激しいあの腕で。
 だから思わず腕を首に回して、頭ごと抱きしめた。そうしたら、少し驚いたような目をしてから、そのまま彼は顔を寄せて。
「忘れさせてやるよ……」
 深いくちづけをする。口唇を離して、何度も何度も繰り返す。
 呟いた声は冷たかったのに、どうしてこんなに甘く優しく響くのだろう?
 声がいいから? ――違う気がした。
Line
To be continued.
2003.09.14.Sun.
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