忘れられない過去

01.違うひと


Line
* Kasumi *
 忘れていた。
 それはもう見事なまでにすっかり、忘れていた。

 だって思い出すだけで恥ずかしいけど、あんな優しくて激しいキスなんかされて、しかもあんなふうに抱かれたことなんかなかったからそのたびに私は頭ぐわんぐわんになっちゃってたし、その上意地悪なくせに優しくて、わけのわからないこと続きだったんだから、仕方ないといえば仕方ないわよ。
 ひとの一番触れられたくないところばかり逆撫でるようにして、記憶を抉って、その代償が――『抱きたい。他の男を想っていてもいいから』。
 確かにそう言われたけど、事実はちょっと違うかもしれない。『好きな男を想像してろ、酷いこと言った詫びに抱いてやるから』っていうほうが近いんじゃないかしら。……自分で考えてみて、ますます信じられない。抱いてやるってなんなのよ? 別にそう言われたわけじゃないけど、どう考えたってそういうことだったわよね。しかもセックスして女のほうが罪悪感を感じるなんて、ありえる?
 どうしてこんなことになってしまったのか、未だに自分で自分のしたことに半信半疑。別のひとを想像しながらする――それがどれだけ酷いことか、考えなくても痛いほどわかる。自分のためにも相手のためにも、良いことになんて絶対ならない。どう考えても拒むに決まっているのに、どうしてあのとき私は彼を受け容れたのだろう。それに、あんな行為は初めてだった。触れ合う肌。身体を這い回る手と口唇。あの力強い腕の中。なにも考えられなくなるほどの快楽。
 昨夜、ずっと頭の中で宗哉を思い描いていた。後ろめたい気持ちはあったけれど、彼がそうしろと言ってくれたから。言いわけだとわかってる。いいと言ってくれたからって許されることじゃない。だけど、だからこそ私は彼のされるがままになっていられたんだとも思う。翌朝、目が覚めて、そこにあのひとの――宗哉の顔がなかったことにはやっぱり胸が痛んだけれど、心のどこかで、わかってた。
 それに、宗哉はきっと私をあんなふうには征服しないし、できない。あんな、激しいのにとろけるように甘い行為なんて。だって、宗哉が想っているのは私じゃない。そのことは誰より私がわかってる。……わかりたくないほど、わかってる。だけど考えずにはいられない。
 目の前にいるのは、どうして宗哉じゃないんだろう。
 この腕は、どうして宗哉じゃないんだろう。
 あんなふうに抱いてくれたのが宗哉だったら。
 そうしたら私は、どんなに。

 三年間、ずっと考えてきた。誰かに想いを告げられても、なにも感じなかった。ただ、どうしてこれが私の想うひとではありえないのだろうと考えていた。いつも。
 友人に交際をすすめられたこともある。だけど、誰かを好きになろうとする努力なんておかしいと思う。それに、誰かを代わりに求めても、きっと私は満たされない。心の中には唯一の存在がいるのだから。本気で相手を想えないなら一緒にいる意味なんてない。だから恋愛なんてしない……そんなことできない。そう思った。私は本気になった自分の想いの強さと恐ろしさを知っている。だからこそ、ニセモノの恋人なんて作れない。自分に嘘はつけないから。……自分に嘘をついても意味などないのだと、わかったから。
 そして、なにより欲しい存在が他人のものになった絶望を、叶わない想いの辛さを私は知っている。だから、そんな思いを他人にさせることは嫌だった。こんな悲しいこと、増やしたくなかった。世の中叶う恋ばかりじゃないって知ってる。だけど、どれだけ本気で想っても叶うことのない恋なんて、そうたくさんのひとが経験するわけじゃない。しかもあんなのは。
 だからって、私が宗哉を想い続けても、なんの意味もないのだけれど……だけど、こうしていたかった。宗哉を想っていたかった。だって、叶わなくても届かなくても、想うことだけは自由だから。たとえ、この想いを捨てろと宗哉に言われたとしても、できないものはできない。他の男なんて要らない。
 忘れようとしても忘れられないと気づいたから、私は全てを諦めた。彼を求めること。彼を忘れること。彼から逃れること。誰か他の人を想うこと。
 時には寂しい夜もあった。かりそめでもいい、誰でも構わないから忘れさせて欲しいと思ったこともある。だけど、身体を繋いでも心まで繋げるわけじゃない。行為を交わしただけで満たされるはずもない。そこに求める腕がないことに、余計に切なさを募らせるだけだと思ってた。だから三年前からずっと……ううん、宗哉に会ってから四年間、男に身体を許したことなんて一度もなかった――昂貴に逢ったあの日まで。
 私でさえ崩せなかった壁を、彼はいともたやすく破壊した。厳しさと優しさで。誰にもできないと思っていたことを、彼は成し遂げてしまった。全身を快楽で満たして、悦びをくれた。過去の恋人との行為でさえ感じたことのなかったほどに。彼を想う気持ちなんて欠片もなかったはずなのに。宗哉を思い描いていたから? 本当に、それだけかしら……?
 でも、それより不思議なことがある。想い合っているわけでもないのに、どうして昂貴はあんなふうに私を抱いたんだろう? どうしてあんなふうに私を抱けたのだろう……? 男性は好きな女性じゃなくてもできるという。だけど女性だって好きな男性じゃなくてもできると思う。恋愛感情がなくても、という意味でだけれど。私は実際、頭の中で違う人を想っていたとはいえ、できたわけだし。私がふしだらだからだと言われたら仕方ないけど、性欲は男性にも女性にもあるんだから、別に理論上おかしいことじゃない。だけど、その行為だって、単に性欲の処理でしかない自慰行為の延長のようなのもあれば、優しいのも、激しいのもある。本能のまま、獣のように貪るのも。
 だからわからない。私は経験豊富というわけではないけれど、決して少なくもないから、あの行為がどんなに優しくて激しかったかわかる。あんなの、その日に知り合った女とするものじゃない。あんなに情熱的な行為は、初めてだった。それをしたのは、宗哉じゃない。昂貴だった。確かに。
 宗哉じゃない、それはやっぱり辛い事実だったけれど……不快ではなかった。
 このひととするのが嫌だとは、思わなかった。
 こんなのは間違っていると思いながらも、迫り来る快楽に抗えないほどに。

 普段の彼がどういうひとかなんて知らない。でも、朝食を摂りながら話をしていた彼は、穏やかで冷静なひとだった。意外と口数は多く、なのに落ち着いた印象は変わらない。まるで別人のように。……違うわね、あの昂貴が別人みたいなんだわ。今となっては、とても想像がつかない。
 彼に作ってもらったご飯は、簡単なものなのにとても美味しかった。素材がいいのかもしれない。なにか飲みたければ冷蔵庫開けて好きなの選べよって言われて、覗(のぞ)いてみたの。そうしたらありとあらゆる食材が揃っていて、自炊なんかするの!? って、すごく驚いた。こんな便利な時代なのに、家のすぐそばにコンビニがあるのによ? そんなイメージなかったから、驚いちゃった。もらったのは産地直送ものの、りんごジュース。家族のお気に入りで、毎年お中元とお歳暮の時期に両親が送ってくれるんだそう。ご家族も彼のような方なのかしら。納戸代わりに使っている部屋にはまだまだ色々なものがあるそうで、ひとりだとなかなか減らないんだよなあ、なんて言ってた。そうそう、味も良くてね、ジュースってこんなに美味しいものだったのって、それは驚いたわよ。しかも後から淹れてくれたコーヒーはお豆を選べて更にドリップ式。唖然。しかも、すごく手際が良かったの。きっと、お豆もメーカー指定できちゃうくらいに揃ってるんだわ。確信したわよ。私の実家も美味しいご飯には目がないし、三時と夜のコーヒー&ティータイムを欠かさない家なんだけど、こだわりの次元がまるで違うわけよ。もう、ますますわけがわからない。今目の前にいるこの人が、本当に私にあんなことをしたの……?
 だいたい、目隠しなんかするから混乱するのよ。
 彼は昨夜、一体どんな顔をしていたんだろう。どんなふうに私を見ていたの?
 こんなひと、どうだっていいはずなのに。代わりでしかないのに。もちろん、もう嫌いではないけれど、だからこそ余計に混乱してしまう。だって彼が何を考えているのかわからない。出してもらったものを美味しいと言うだけで、些細(ささい)な会話を交わすだけで、彼は穏やかな表情で微笑む。どうしてそんなに優しく笑えるの? あんな意地悪な人のくせに。そして、そのことを知っているのに、どうして私はこのひとを優しいと思うんだろう。無数の疑問符が頭の中を席捲(せっけん)してる。
 目の前にいるひとが宗哉でないことを悲しいと思うのに、気づくと違いを較べているのに、どれだけ違うと気づいても、嫌じゃない。
 宗哉じゃないのに。

 そんなことをぐるぐる考えていたから、仕方ないと思う。
 それにしたって不覚だわ。
 私としたことが、こんな基本事項を忘却の彼方に捨て去るなんて。
 何がって?

 高原昂貴は意地悪だってことをよ!
Line
To be continued.
2003.09.13.Sat.
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