最悪の巡り逢い

07.目覚めた朝


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* Kasumi *
 自分で驚くほど、久しぶりにぐっすり眠れた。目覚めると身体の上に大きな影ができていて、更に腕が絡みついていた。そっと見上げると、まだ見慣れない顔がある。昨日知り合ったばかりの人なのに、服も着ないで、なんて無防備。あ、でも、別に昨日が初対面というわけじゃなかったんだっけ。でも知り合ったのは確かに昨日。知り合ったどころでは済まなかったけど。
 彼を紹介してくれたのはゼミの教授だった。資料の件で相談に行ったときに、たまたま彼の話をされたのがきっかけで、その研究に対する態度には先生さえ一目置いていると聞いて興味を持ったのが始まり。彼が提出したレジュメや論文の梗概(こうがい)を読ませてもらったとき、その綿密さと正確さ、徹底するその姿勢に感銘と衝撃を受けた。果たして、これだけのものを書ける研究者がどれだけいるだろう? 五年後、私はこれほどのことができるのだろうか? ……憧れた。こんなふうになりたい、彼に認められるような研究をしたい……そう思った。話を聞けば聞くほど会ってみたいと思った。
 だけどその実物はまるで想像と違っていて、彼のすることはなにからなにまでわけがわからなかった。最初は途惑い、次は怒り。裏切られたような気分で、腹が立って、そして悲しくてたまらなかった。でも、怒ったり呆れたり拍子抜けしたり、今となってはそのすべてが彼の狙いどおりで、その手のひらの上で動かされていただけなんじゃないかという気さえする。私じゃ敵わない、大人の男性……。
 それにしても、まさか、自分があんな誘いに乗ってしまうなんて。自分で自分のしたことが理解できない。だけどあのとき拒絶する意思は全くなかった。そして今も後悔なんて欠片もしていない。私、会ったばかりの人とこんなことするような女じゃなかったのに。そりゃあ処女じゃないけれど、つきあっているひと以外とこんなことをしたことは今までなかった。だけど、自分らしかろうがそうでなかろうが、このひとに抱かれたのは確かな事実……。
 昨夜……
 今私を包んでいるこの腕が、私に触れて、
 ほんの少し開かれたこの口唇が、私にくちづけて、
 まだ閉ざされているその目が、私の全てを見たんだ。
 ……って、私ったら、目が覚めた途端になんてことを考えているのかしら。昨夜……別に初めてじゃないけど、い、いっちゃったこともあるけど、だからってあんなのはなかった。目隠しなんてソフトなSMみたいなことをしたとはいえ、あんなに乱れるものかしら? 私にマゾの気があるなんてことはないわよね? きっと、あのひとを想像していたからよ。だけど、それってすごく間違ってる。本当に欲しいひととしているわけじゃないんだから……。
 でも、あんなに何度も達したのも、部屋中に響くほどの喘ぎ声を絶え間なく上げたのも初めてだった。身体を這う手と口唇。抱きしめる腕の強さ。何度も貫かれる痛みと悦び。今もはっきり憶えてる。思い出すだけでゾクゾクしてくる。全身に震えが走る。いくら『長年ご無沙汰』だったとはいえ、私、こんなに敏感だったかしら? きっとこの人が上手いのよ。でなきゃ身体の相性が良いんだわ。そうでなければ、やっぱり、宗哉に抱かれていることを想像していたからだと思う。……目の前にいるひとは、彼ではないけれど。
 ……どうして、このひとが宗哉じゃないんだろう。
 さらりとそんな酷いことを思ってしまえる自分が嫌になるけれど。
 閉じた瞼。睫毛の影。細いけど長い。鼻が結構高くて、口唇も厚めだ。意外にはっきりした顔立ちなのね。根性の悪さばかり目について、全然わからなかった。こんな顔をしているんだ。見つめて余計に宗哉との違いを感じる。彼も目立つ顔立ちだったけど、中性的で、あまり男らしい印象はなかった。わずかに流れる異国の血が、どこか異国的な雰囲気で、周囲と馴染まない、異質な人だった。でもこのひとは完全にアジア系の、日本人の顔立ちをしてる。彫りは深いけど、印象は全然違う。整った顔立ちではあるんだけれど、中性的な雰囲気は皆無だわ。体つきからして筋肉質だし。そういえば背も高い。私は168もあるから、15センチ近く違う男性ってそうそういるもんじゃない。なにしろ宗哉は170しかなくて、ヒールの靴を履くと申し訳ないくらいだったし。それから真っ黒なストレートの黒髪。カラーリングをしたこともないのだろう、傷みを知らない、思わずうっとりと眺めてしまうほど艶やかな髪だった。黒髪は好き。黒という色自体が好きということもあるけれど、小さい頃、地毛の明るい子供の宿命で、何度かからかわれたことがあったから、理不尽に思う一方、私も黒髪なら良かったのにと思ったこともあったっけ。成長してからは、そんなくだらないこともなくなったし、最近は脱色したりカラーリングしたりしていない子のほうが少ないから、かえって羨ましがられることのほうが多い。でも、私は黒髪に憧れてた。今も黒髪ほど美しい髪はないと思う。そういえば宗哉の髪は完全に茶色くて、天然だった。
 こんなに似ていないのに、どうして宗哉を重ねることができたのだろう。声だって、手の大きさだって全然違うのに。似ているのは、どっちも色白で焼けてないところかな。宗哉のは白人特有のピンク系に似た透き通るような肌色だったけど。
 今ここにいるのが宗哉だったら、私はどんなに幸せだっただろう。
 考えても仕方ないのだけれど、つい思ってしまう。昨夜、失われた視界の中で、思い浮かべていたのは間違いなく宗哉だったのに、私を抱いたのは違う人。
 私、こんな酷いことができる女だったんだ……。
 自分なら絶対そんなことされたくないと思うくせに、平気でしてる。罪悪感はあるけど、そのぶんだけ偽善的な気がする。わかっていたくせに、それでもしてしまった。
 だから申し訳なさも手伝って彼の腕から離れようとしたけど、離れたくても腕が重い上、しっかり巻きついているから逃れられない。文系のくせになんなのよこの筋肉は。私程度の力じゃびくともしない。でもその腕の中は不思議に心地よくて、本当は離れたくなんかなかったのかもしれない。今だけでも、この心地よさに浸りたかったのかもしれない。そういえば目隠しはいつの間に取ったんだろう。つまり、私は終わってそのまま倒れてしまい、後の始末は全てしてもらったんだろうか。想像するだけで恥ずかしすぎる……。
 そういえば、メイクも落としてない。汗ですっかり落ちちゃってるんだろうなあ。一応、いつも使ってるスキンケアブランドで貰ったサンプルの使い捨てのメイク落としなら持ってるんだけど、その後はどうしよう。こんな状況になったことは今までなかったから、対処法に困る。まぁいざとなればコンビニに行けばなんとかなるし、別に素顔のままだっていいんだわ。こういう時に派手な顔立ちだとお得かもしれない。この時期に欠かしたくない日焼け止めは持ち歩いてるし、メイク直し用のパウダーでもはたけば十分よね。それにしても、あの目隠しにしたネクタイはもう使えないだろうなあ。メイクと汗と涙で、きっとぐしゃぐしゃ。使っていないものならいいんだけど……あぁ、心苦しい。
 それにしても、夢の中で、私を好きだと囁いていたのは誰だったのだろう。ずっとずっと、聞きたくない言葉だった。あのひとが他の女に向けて言っている光景ばかりが目に浮かんでくるから。だけど、あれは私に向けられていた気がする。本当に言って欲しい相手に言ってもらえたわけじゃないのに、どうして私は満たされていたのだろう。そんな言葉がこんな安らぎと幸せを与えてくれるなんて知らなかった。でもそれを知ったからこそ、あのひとと他の女がそれを囁きあっているであろう日常を思い描いて、現実の私はまた辛くなるのだけれど。夢の中では、確かに満ち足りて幸福だったのに。だけどまさか、このひとがそんなことを言ってくれるわけはないだろうし。ただの妄想かな。なにしろ夢の中だものね。
 そんなことを考えていたら、彼が目を醒ました。ぼうっと目を開けて、ぱちくりしてる。現実を認識できていない感じの目つきだった。ま、まさか昨日のこと憶えてないなんて言わないわよね?
「お、おはようごさいます……?」
 なぜか疑問系の語尾上がり。あぁ私ちょっと間抜けだったかもしれない。ええとええと、起きてますかー? っきゃあ!?
 なにかと思ったらいきなり彼が私を抱きしめたんだった。ちょっと待ってください裸なんですけどお互い! しかも間に何もないのよ!?
「っやああぁ! なんなのどうしたの寝ぼけてるの!?」
「っはぁ……ホンモンだぁ……」
 ホンモン? って、本物っていうことよね? えぇ確かに、本物の市谷風澄ですけど、それがどうかしましたか? ってそれより離して、ちょっと、イロイロ当たるでしょうがー!
「ちょ……離して、逃げないから……」
「やだ」
 即答。しかも間髪入れずよ? なんなのこのひと?
「やだってそんな……」
 子供じゃないんだから、と言おうとしたところに彼はのたもうた。
「絶対やだ。気持ちいいから」
 絶句。なに考えてるのこのひとは朝っぱらから! しかも耳元に口唇を近づけて、普通なら決して聞こえないような音量でとんでもないことを囁く。
「離さない」
 っ――!
 鏡見なくてもわかる。それこそ耳まで真っ赤になっていたでしょうよ!
 だってこの台詞は……。
「……風澄」
 だから耳元はやめて弱いから! しかもその声、無駄に響くんだってば! つまり、ええと、声が良すぎるのよ、腰砕けになるでしょうがっ。好きなひとでもないのに、こんなのずるい。それに、さっきまで宗哉のことを思い出していたのに、どうしてもうこのひとのことを考えているんだろう、私。なんだか、いい加減な、酷い女になった気がする。そりゃあ実際酷いことしちゃったかもしれないけど……。
 言葉を返せない私を見つめて、彼は私の髪を梳く。
「……気障(きざ)なひとぉ……」
「失礼だなぁ。思ったこと言ってるだけだよ。格好つけてるわけでもなんでもない」
 だから余計恥ずかしいんでしょうが!
「意地悪なのに優しくて気障だなんて、高原さんてわけわかんない……」
 小さい声で呟いたのに、また即座に返事が来た。
「違う」
「え?」
「名前がいい」
「っ……」
「って言うか名前じゃなきゃ嫌だ。聞いてない? 教えようか?」
 知ってるけど知ってるけど知ってるけどおおぉ!
「その顔は知ってるよな。……呼んでくれないんだ?」
 上目遣いしないでよ、あなた幾つだと思ってるのー!? 信じられない。なんなのこのひと。言わなきゃ許してもらえそうになくて、仕方なく息を吸ったり吐いたりして準備をする。心の準備っていうものもあるんだからね。
「っ……こ、うき、さん……」
「さんづけなしでもう一度。Please speak more clearly!」
 途切れ途切れに呟いただけじゃ許してくれなくて、あっさり駄目出し。だって五つも上の人なのに、しかも昨日知り合ったばかりの人なのに、名字にさんづけから名前呼び捨てまで一気に跳躍なんて即座にできないわよ。何度か言って、やっと許してもらえた。よくできましたとか言って。よしよしなんて頭を撫でないでよ。子供じゃないんだから。でもすごく気持ちいいの。私が末っ子だからかな。
「まぁ普段は名字でいいよ。どうしても言えないなら……」
 そうよね、先生と学生ってわけじゃないし問題はないけど、なんとなく。……つきあってるわけじゃないし。で、言えないなら、なに?
「ふたりきりの時だけでいいから」
 っ、なに言ってるのこのひとは!
「違う男を想像していていいとか言ったくせに……」
 ぼそりと呟くと、やっぱり聞こえていたみたいで。
「いいよ、想像してろよ。最中はいいから、それ以外のときは俺の名前を呼べよ」
 もう、わけわかんない。……でも、してる間に他人の名前で呼ばれたいひとはいないと思う。だから、どうして彼がそう言ってくれるのか、私はわからなくて。だってもう他の男のことなんか考えるなって言うのが普通じゃない?
 どうしてなんだろう。平気なのかな、そんなの。
 私だったら想像しただけで嫌だけど。……なのにそんなことしちゃった自分にまた自己嫌悪に陥ったけど。うだうだ考えていたら彼は再び口を開いて。
「ところで」
 はい、なんですか?
「もっかいしたいんだけど」
 唖然(あぜん)。この体力はどこから来るのよっ! でも、そうね、あれだけ筋肉があるんだものね。それにしても、どうやって鍛えてるのよ? 院生のくせに、体育会系の部にでも入ってるのかしら。さっぱりわからないわ。なんて考えながら唖然としたまま彼を見つめていたら、どうやら拒否のサインをちゃんと感じ取ってくれたらしくて。
「……まぁ駄目だよな」
「あたりまえでしょうが!」
 だったら聞くなとか思ったわよ本気で。殴ろうかと思ったけど力じゃ敵わないし、さっきから密着されてて、こっちの気分もちょっとおかしいし。でもねぇ、昨日の今日よ? しかもあんなに激しくされて。絶対無理。いくら今日が土曜日で、このあと予定がないからって。だいたい、夕食も摂ってないんだからもうスタミナ切れ。しかもこんな明るいの嫌!
「なんでそんな元気なのよぉ……」
 そう聞いたらまたあっさり答える。
「だって起きたら目の前に風澄がいるもんだからさー」
 はい?
 なにそれ。どういうこと?
「それってどういうこ……んっ」
 聞こうとしたら口唇を塞がれた。軽いのから、しだいに深く。長い長いキス。やっと開放された頃には頭クラクラ。上手く息が吸えなかったわけでもないのに。だから彼が、ええと昂貴が、なにを言っているのかよくわからなくて。
「夢みたいでさ……」
 え?
 今なんか聞こえたけど……?

 ……まさか、ね。

 こんな関係おかしいってわかってる。だけどあまりに心地良いから。
 だから今は、恋人同士みたいに。

 ところで――、駄目だよなって言っといてどこ触ってるのよあなたって人は!
Line
To be continued.
2003.09.11.Thu.
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