最悪の巡り逢い

03.接触


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 その週の金曜日、四限終了後――研究棟の端、院に進んでから長いこと使わせてもらっている部屋で、俺は初めて風澄と知り合った。とは言え、俺はこれまで三年間も見てきたので、少しばかり不思議な気分だったけれど。
 目の前にいる彼女は、思っていたよりもずっと白い肌と明るい色の髪をしていた。ゆるやかに波を打つ長い髪。根元まで同じ色だから、たぶんこれは地毛なんだろう。かなり色素が薄いほうらしい。でも目の色は強い意思を思わせる黒だった。顔立ちは非常に整っていて、それは前々から知っていたことだったけれど、そこに惹かれたわけじゃないし、そもそも俺は美人の宝庫たるイタリアで散々見てきたせいか免疫があったから、さして気にもとめていなかったのだ。だけど正面から見てもこれだけ綺麗で、知的さと高貴さまで漂わせるほどだとは思わなかった。そして、間近で見てもやはり若者特有の軽薄さが全くないことにはさすがに驚く。服装は身体にフィットした白のトップスと黒のボトムスのハイコントラスト。だからバロック美術を選んだのか、と俺は妙に納得した。丁寧にお辞儀する、揃えられた指先を彩るのは淡いピンク色。指輪はしていない。アクセサリーはあまりしないほうなのかもしれない。そうでなくても飾り立てる必要のない、華やかな外見なのだし。
「初めまして、学部四年の市谷風澄です」
 あまり高くなくて落ち着いている、でもよく通る、名前を思わせる澄んだ声。賢そうな喋り方と丁寧な口調から育ちの良さが窺える。まぁそんなのはよく躾けられた表の顔で、中身は結構はっきりものを言うタイプだと知るのはもう少し後のこと。
「こちらこそ、初めまして。後期博士課程三年の高原昂貴と言います。お役に立てれば良いんだけどね」
 とは俺は言わなかった。だってそんなハジメマシテの挨拶じゃ『良い先輩一直線』じゃないか。そんなのは嫌だ。憎まれても嫌われてもいいから絶対に、強いインパクトを残したかった。それに、あの丁寧な口調と表情から鑑みるに、緊張しているというよりは、親しくなるどころか、必要以上に関わるつもりもないんだろう。この時の俺は風澄を捉(とら)えていた男の存在なんか知る由もなかったけれど、なぜか風澄の態度にはっきりと見えない壁を感じた。そのへんの男なんかに陥落しない、心を許さないというプライド。それゆえの仮面の丁寧さ――。
 だから、俺は風澄を怒らせることにした。風澄の地雷を俺は知っている。思い切り冷たい目と興味のなさそうな顔を作って。愛想のいい顔だちじゃないから無表情にすれば簡単だ。やってやろうじゃないか……この出逢いを、『最悪の巡り逢い』にしてやる。
「市谷? ……あぁ、金持ちぞろいの我が校でも指折りの市谷グループの娘ね」
 そう言ってやったら案の定風澄はカチンときたらしい。据わった目でギロリと睨(にら)まれた。俺はつい、美人が怒ると怖いねぇなんてオヤジみたいなことを考えてしまった。まぁ五歳も違うから風澄にとってはオヤジかもしれない。俺はもう二十六で、秋には七になるから、四捨五入したら三十だ。だけどそんなふうに思って欲しくないんだ。同じ目線で会話をしたかった。俺が見下ろすのでも、風澄が見上げるのでもなく。まぁ今は風澄が立っていて俺が座っているんだが。ちなみにそこで立ち上がってみたら身長差は10センチ弱くらいだった。足元を見てみたら少し高めのヒールの靴を履いていたから実際は15センチくらいだろう。俺は昔スポーツをしていたことがあるせいか身長はすくすく伸びて182もあったから、身長差が10センチ台というのは珍しい。風澄も背が高いんだな。しかしここでピッタリじゃないか、などと思った自分はどうかと思う。そんなわけでヒールのある靴を履いてしまえばそのへんの男より背の高い風澄は見下ろされるのには慣れていなかったらしく、立ち上がった俺の威圧感に気圧されたのか、少したじろいでいた。まぁ初対面でこんな失礼なこと言うのは俺くらいだろう。言っておくけど普段は俺だってこんなことは言わないぞ。
「……違うなら違うと言えば?」
「違わないから黙ってるんです」
 得られないかと思っていた返答は即座に来た。そのまま黙って、あるいは捨て台詞と共にドアを閉めて出て行かれても仕方ないことを言っているのに、だ。意外と喧嘩っ早い性格なんだろうか、それとも暴言に慣れているんだろうか? などと少しずれたことを俺は考え、まぁそれも決して的外れな想像ではなかったのだけれど……つまり、風澄は本気で研究に取り組んでいたのだ。失礼な言葉を投げかけられた程度では諦められないほど。俺はもうさんざんイタリアに足を運んでいたし人脈もあったから、日本で有用な資料を得るのがどれくらい難しいかを忘れていたんだ。それは仕方のないことだろう。
「じゃあ肯定すれば? いまどき沈黙が肯定になるのなんて結婚式くらいだろ」
 初対面で結婚式なんて単語を出すのが男女の会話か。どうなんだ俺。心の中でそんなセルフ突っ込みをしながら冷たい言葉を吐き出す。
「明らかに悪意をもって発せられている言葉に対してわざわざ肯定して差し上げるほど、私はできた人間じゃありませんから」
 怒鳴らない。必死で落ち着こうとしてるのがわかる。甘いよ、そんな程度じゃ、許してやらない。それにしても、なんだか文語的な喋り方をするなぁ。平常心ではないっていうことだよな。慇懃無礼ってやつだろうか。
「つまり君は事実を述べただけで腹を立てるような心の狭い子ってわけだ」
「どう解釈するも、あなたの自由でしょう。ひとの判断に干渉するほど、私は暇でも悪趣味でもないつもりですから」
「ってことは、俺が君を返事もできないような礼儀知らずだとか、疑問に答えてもくれない薄情だとか、そんなふうに解釈しても自由なわけだ」
「私だって相手が礼儀を知っていて失礼な質問をしてこなくて悪意をもって事実を述べてこなければ、きちんと返事くらいします」
 憮然と憤然を一緒くたにしたような顔をして、風澄は低い声で答える。
「言うねぇ」
 俺は思わず感心してしまった。記憶力もいいようだ。しかも怒っているくせにこれだけ冷静に返答できるとは。やっぱり、慣れているのかもしれないな、こんなふうに揶揄されることに。だけど俺はつまらないやっかみでこんなことを言ってるわけじゃないから、一筋縄じゃいかないぜ? おまえの仮面なんか、剥がしてやる。
「ご自分こそ、失礼なこと言ってるってわかってらっしゃるんですか?」
「わかっていないと思うか?」
 さも当然だろうという調子で、さらりと言い放つと、風澄は呆れ返った表情で俺を見た。
「わかってて、どうしてそんなこといきなり……」
「さぁ? なんでだと思う?」
 気づいて欲しいんだよ、俺は。なんでいきなりこんなことを言い出すのかってことに。きっと風澄にはわかりゃしない。だけど、だからこそ……。
「わかりません。わかりたいとも思わない。……だいたい、なんでさっき会ったばかりのあんたに、そんなこと言われなきゃならないのよ!」
「おーおー、威勢がいいねぇ。だけど、この先お世話になる予定の俺にそんなことを言っていいのかなー?」
 あんたときたか。これはいい調子かもしれない。
 性格は大満足だ。機転がきかなくて自分の意見も満足に言えないような女に興味はないからな。それに、あの作ったような表情より、怒りむき出しの今の表情のほうがずっと魅力的だって知ってるか?
 どうやらここで下手なことを言って状況を悪くするのをやめたらしい。言わせるだけ言わせておこうと思ったのか、彼女は黙ってこちらを見ている。理不尽さを満面に出した表情で。それを突き崩したくて、俺は軽く冷笑するような顔で言ってやった。
「そんなんじゃ彼氏の一人もできないんじゃないか?」
 ちなみにこれは確認も兼ねていたりする。薬指に指輪がないのは両手とも確認済みだったが、さすがに、いたらちょっと面倒だ。排除する気は満々だったけど。だから俺はまさかこれが風澄の最大の地雷だなんて思わなかった。
「……っ……そんなもの、別に要りませんからっ!」
 あれ? と俺は首を傾げた。こういう場合は、いれば「残念ながら、間に合ってます!」だろうし、いなければ「余計なお世話です!」とか「そんなことあなたには関係ないでしょう!」とか言われるのが普通だろう。要らないと明言するのはちょっと珍しい。そもそもこれだけの容姿でもてないわけがないから、そんなふうに言われてもびくともしないだろうと思っていた。けれどその顔と表情が――悔しさより、怒りより、なにより――悲しみだったから。
 だから俺は気づいた。三年間風澄を見ていたから。
 あの目の正体は。あの表情の理由は。
 これか、と。

 だから俺は、迷わず。
 ごめんとも悪かったとも言わず。
 風澄をこの腕に抱きしめた。
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To be continued.
2003.09.11.Thu.
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