最悪の巡り逢い

02.それまでの日々


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* Kouki *
 俺が惹かれたのは、悲しみを知っていたあの目。次が学問に対する真摯な態度。それからあのまっすぐな心――。
 まともに話したことなどない。彼女は俺の存在すら知らないだろう。けれど頭から離れない子がいた。あの目がこの心に焼き付いて、離れない。

 すべての始まりは、三年前。俺は当時、大学院修士課程二年生だった。卒業どころか修士論文提出さえ半年以上先だというのに、卒業単位の収得はもちろん修士論文もほとんど上がっていた俺は、どうしても補強したい資料があったことと、ついでに時間つぶしのためもあって、半年ほどの留学を決めた。行き先は勝手知ったるローマだったし、資金は奨学金をもぎ取ってきたから誰も文句を言うはずもない。
 そもそも俺の家はいわゆる学者一家というやつで、親戚がそれこそわんさか海外にいたから、抵抗もなかった。語学は得意中の得意だったしな。だったらなぜ海外の大学院に行かなかったかというと、姉が当時アメリカの院生で両親も海外の院卒だったから、俺は日本の大学院に行こうと思ったんだ。学んでいることは西洋のことなんだが。いい加減だと言われるかもしれないけど、家族いわく、俺はとにかく家族や親戚と違うことをやりたがる傾向があるらしい。なにしろ今の大学を選んだ理由は両親とも姉とも違う大学だからで、自分の専門を決めた理由は、その学問を専攻している人間が親戚にひとりもいないからだ。もちろん、それだけの理由で決めたわけではないんだが。だから俺が進路を決めるときになると家族揃っていちいち『あなたはまたそういうひねくれたことをして』とか言う。まぁ、馬鹿にしてるわけでもなんでもないからいいけどさ。だって家族内で人生のバリエーションが増えるし面白いだろ? みんな同じ大学と大学院を出て同じように生きるんじゃつまらないじゃないか。というのはただの言い訳で、確かに俺にはひねくれたところがあるってことも、自分でわかっているんだけれど。だけど、そこで何もわかっちゃいない奴みたいに『もったいない』などと言わず、好きにやらせてくれているのは、ありがたいことだと思う。ちなみに、その薫陶を受けてか、国立トップの大学も簡単にクリアするだろうと言われた弟は、これまた家族と被らない、俺の大学と並ぶ日本のトップクラスの私立大学に行った。俺が大笑いしたのは、言うまでもない。
 話が逸れたけれど、風澄に逢ったのもその頃だった。と言っても、逢ったというのはちょっと事実とは違う。正しくは、俺が一方的に風澄を知った頃という意味。
 俺の学部は教養課程と専門課程でキャンパスが変わる。今はそういうわけかたをしないかもしれないが、要するに学部で受験して、学科専攻にわかれてからキャンパスを移動するのだ。俺はそのとき、長年居座っている専門課程のキャンパスではなく、教養課程のキャンパスに来ていた。そして当時一年生の風澄に逢ったわけだ。
 大学院に進んでまで教養のキャンパスに行くというのは妙に思えるかもしれないが、実はそんなに珍しいことじゃない。俺の担当教授の研究室は専門課程のキャンパスにあったけれど、専攻の研究室はあったし、資料も色々あったから。図書館の規模も大きい。一週間あれば取り寄せもできるんだが、届くのを待つより大抵こっちに来てしまう。できるだけ早く手に取って見たいし、俺が今住んでいるマンションは教養課程のキャンパスのある横浜市と専門課程のキャンパスのある港区のちょうど間くらいにあったから、気になるとすれば電車賃くらいなもので、行くのにそれほど時間はかからなかったしな。
 で、俺はそのとき、専門はさまざまだったが同じ学部の院生仲間何人かとたまたま会って話をしていた。そいつらも同じように教養のキャンパスに資料を探しに来ていたり、あるいは以前所属していた部や同好会に顔を出していたらしい。ここに通っていたのは五年も前のことだし、それもたった一年間なんだが、やはり、かつて過ごしたキャンパスだ。中庭のベンチに座って、思い思いに喋りながら、懐かしい時間を過ごしていた。
 ふと目をやると、向かい側のベンチでひとりの少女がぼうっと空を見上げて座っていた。一年生だろうか。まだ幼さを残した顔。眉のあたりで切りそろえられた前髪と、肩より長く伸びた明るい色の髪。やたらスタイルのいい子だ。口をわずかに開き呆然と空を見上げているなんて間抜けな顔になって当然だろうに、不思議と整っていた。もしかしたら、モデルでもやっているのかもしれない。有名校であるがゆえに、モデルだの芸能人だのなんだのが居るとやたらと話題になるから、そんな人間も、さすがに知己には居ないにしろ感覚的には別に珍しいものではなかったし。茶色い髪に白い肌に派手な顔立ち、なのに軽薄さが全くないのが不思議だった。その姿がなぜか目に止まって、視線を離せなかった。そう、あの目が……ぼうっと虚空を見つめているというよりは、なにもかも失って呆然としているという印象で、この世の終わりを目にした顔にさえ見えた。初夏の鮮やかな緑の中で、そこだけが切り離されて、現実でないかのように。この世の全てを諦めたようなその表情を、しばらく俺は凝視していたらしい。それに気づいた同じ専攻の腐れ縁の友人が彼女のほうへと視線を向け、その子に目を留めると、俺を見やって言った。
「高原、おまえ、あの子知ってんの?」
「いや、そういうわけじゃ……あの子がどうかしたか?」
 なぜか興味津々という表情で聞いてくるのが訝(いぶか)しくて、聞き返す。単に美人だからというわけでもないようだった。
「なんだ、違うのか。ほら、有名人じゃん。市谷の娘だろ?」
 イチタニ? と俺は首を傾げた。すると俺たちのやりとりを聞いていた別の友人が有名な銀行だのデパートだの系列会社だの出資企業だのを片っ端から列挙していく。
「学内で五本の指に入るお嬢だよ、おまえ知らなかったの?」
「あぁ……あの子のことはな」
 さすがにその銀行だとかデパートだとかは知っていた。日本の企業の代表例として真っ先に挙げられるようなところだったし、実を言うと俺もよく使っている。けれどそんなのは規模の大小がすごいだけで、いわゆる社長令息令嬢なんてゴロゴロいる学校だったから、別にそれが特別なことだという認識はなかった。なぜって、モデルしかり芸能人しかり、直接の知り合いには居ないにしても、ベンチャー企業をやっている学生だとかプロの作家だとかが普通に居るような学校なんだぜ? 一般人の通常認識なんか、とっくにどっかにやっちまった。いや、俺はしがない大学院生だけど、親戚一同学者の血筋ってのも、あまり一般的じゃないだろうからな。うちの大学閥というわけじゃないしジャンルは節操無いからあまり知られていないだろうけど。
 聞くところによると、彼女は文学部の一年生だという。この時一緒に話をしていたのは全員文学部卒だったから、皆の学部の後輩にあたるわけだ。
「なんだっけな名前……ええと……確か変わった字なんだよ。ああ、そうそう、澄んだ風って書いてカスミ」
 イチタニ カスミ――市谷 風澄。
 名字はイ段が多くて少し言いづらいけど、字面は綺麗だと思った。特に名前がいい。澄んだ風か。ひとを寄せ付けないような、清浄で潔癖な雰囲気はある。清らかな聖女や、誇り高い女神の姿のようだった。俺は西洋美術史学を専攻していたから、気に入っている幾つかの作品を思い浮かべた。だけど、あの全てを諦めたような悲しげな目はなんだったのだろう。あれだけの容姿で、うちの大学にいて、しかもそれだけ育ちも良いというのだから、なにもかも手に入れているはずだろうに、どうして。
「あれだけ美人でスタイルも良くて、おまけに家も良くて金持ちなんて……天は二物を与えずなんて、嘘だよなぁ」
 隣でぼやく友人の声が遠くに聞こえる。
 なにかがあったわけでもないのに、ただ見ていただけなのに、俺は妙にその子のことが気になった。
 あの目が、俺の頭から離れなかった。

 俺自身でさえ未だに信じられないけれど、それから他の女なんかまるで目に入らなくなった。気づくと、居るはずのない彼女の姿を探している。話をしたこともない、それどころか相手は俺の存在すら知らない、しかも五つも下の、二十歳にさえなっていない子供に。留学中も全くその気が起こらなくて、ずっと勉学に励んではいたけれど、頭の中から彼女のあの目が離れなかった。今まで恋人のことさえそんなふうに四六時中考えるなんてことはなかったのに。そして至極当然の結果として、今まで絶えなかった女の姿は俺の周りから消えた。もともとたいして執着もなかったし、それで寂しいとかいう気にも全くならず、むしろ、すっきりとした気分だった。なにもする気が起こらなかったんだ、彼女以外には。
 四方八方から在留をすすめられたが、俺はその全ての誘いを蹴って帰国した。彼女が脳裏から離れなくて。そして、俺は博士課程に進んだ。同時に彼女は学部の二年生になり、驚いたことにうちの専攻に来た。と言っても、院生と学生が関わることなんか滅多にないし、キャンパスでたまに見かける程度。それでも、彼女の姿を時々見られるだけで俺は嬉しかったし、それで満足だった。
 そんな時、大学時代から担当してもらってる(が、専門が少々違うので指導はほとんどなくて形ばかりお世話になってる)河原塚教授が受け持っている学部の授業の日に担当の助手が急に来られなくなったことがあり、他の助手も空いていなかったため手伝いに行ったら、なんと、その教室に彼女がいた。考えてみれば二年の選択必修授業のうちのひとつだったから当然なんだが。
 初めて見る授業中の彼女は、とても新鮮だった。たまたま俺の場所より前のほうに座っていたので、つい、じっくり観察してしまった。居眠りしたり、携帯でこっそりメールを打ったりしている学生もちらほらと見られる中で、他に見向きもせず取り組んでいて、妙に感心したっけ。その時、俺はそれだけ彼女はこの学問が好きなんだろうなと一種同類を見るような思いだったし、それ自体も間違ってはいなかったのだが……その本当の理由を、俺はずっと後に知ることになる。彼女の痛みをもって。
 その後、彼女は三年になり、なんと河原塚教授のゼミに入った。つまり、専攻だけでなく、俺のゼミの後輩になったわけだ。まぁ河原塚ゼミはこの専攻で一番盛んでレベルの高いところだったから、あの真剣さから鑑みて至極あたりまえのこと結果かもしれない。
 それから、その年の秋、俺はそのゼミの授業を見学しに行った。なにかと理由をつけてスケジュールを聞いて、実は彼女の研究発表の日を狙って行ったんだ。発表をする彼女の目は、スライドを使うために電気を落とされた真っ暗な部屋の中でもわかるほど、今時珍しいくらいにまっすぐで、ひたむきな視線だった。そして、学問に取り組む真剣な態度と、その的確で興味深い結果。切り口があざやかで、学部生、しかも卒業論文を書いたことのない三年生がこれほど完成度の高いプレゼンテーションができるということに非常に驚いた。要するに、面白かったんだ。
 そして教授に、せっかく院生が来ているのだから、とコメントを求められて、素直に「面白かった。興味深いだけじゃなくて、楽しめた」と言ったら、あまり明るくない声で「……ありがとうございます」と返された。俺は褒め言葉を言ったつもりだったから、彼女の反応に思わず拍子抜けしてしまったのだが、発表が終わり、後片付けをしていた間も、ずっと彼女は考えこんでいたようだった。
 後から考えてみると……彼女は、中身の評価を聞きたかったのかもしれない。面白さではなくて、学究の価値を。学生、しかも学部生の時点でそんな大それたことを考えるわけがないという思い込みがあったけれど、あの学問に対する態度を考えればきっとそうだろう。そのとき気づいたんだ。彼女は家柄や血筋や学歴だとか、そんなもので評価されたくないんだということに。周りが、そればかり言い立てるからこそ。
 それから半年ほど経って、四月になり、彼女は学部の、俺は院の最終学年になった。
 そして夏が目の前に近づいてきたある日、河原塚教授が言ったのだ。予想もしなかった言葉を。
「大学院進学を希望している学生で、君と同じ画家を扱っている子がいるんだけれど、国内では手に入る資料が少なくて困っているらしいんだよ。君は研究も一段落しているし、ちょっと面倒を見てやってくれないか? 市谷風澄君というんだが」
 いきなり飛び込んできた偶然のチャンス。逃すわけにはいかない。考えるふりをして、間違いなく彼女だと確認してから受けた。
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To be continued.
2003.09.11.Thu.
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