Rosy Chain Another Story
01.Last Christmas Eve
これは、ふたりが出逢う前のお話――。
* * * * *
* Kasumi *
「クリスマス・イヴ……か」
今日と同じ名前をタイトルに持つ曲のメロディが、自然と頭に浮かんでくる。
家族の好みのせいでクラシックで育ってしまったために邦楽をあまり知らない私でも、この時期になると申し合わせたかのように流れ出す、この歌なら知っている。とても綺麗なメロディで、その合間にパッヘルベルのカノンをモティーフにした合唱が入っている曲だ。……歌っている人の名前は知らないけれど。
簡単に、知っている部分を口ずさんでみたけれど、なんだか虚しさが増した。
元々、楽しい曲じゃないんだ。そんなことに今更気づく。
……私には、待つ人もいないけれど。
「はぁ……」
いつもと同じ二十四時間しかない一日なのに、異常に長く感じてしまう。
早く過ぎて欲しいと思うのは、私が主役になれないからなんだろうか。
恋人同士のためのイベント・デーという機会には一切参加していないし、それを隠れ蓑にした経済活発運動にも、企業の販売戦略にさえ、一切貢献していない。
好きなはずの実家に帰る気にもなれなくて、課題が残っているからと言ってマンションの部屋にこもり、結局なにもしないでいる。
一年のうちの、ただの一日。だけど、私には関係のない一日。
こんな日は、独り身の人間は外出しないに限る。
だけど、部屋にいても、ため息は止まらない。
目の前の窓に息を吹きかけてみると、そこだけほんのりと白く染まる。
指で触れると、ガラス越しに冷たい外気が伝わってきた。
離した指が、わずかに濡れている。
窓には意味を成さない点がひとつ残った。
例えば、恋人を待っているなら、メリークリスマスとでも書けばいい。
恋人が遠くにいて逢えないならば、その名前を書けばいい。
だけど、今の私には、こんな時に書く文字さえ見つからない。
……宗哉は、今ごろなにをしているんだろう。
つい、そんなふうに考えてしまう自分がいる。
未練がましくて嫌になる……そんなの言うまでもないじゃない。
考えても虚しいだけなのに。
だいたい、彼が今どこでなにをしていたって、その隣にいるのが私じゃないことは確実。どこでなにをしていようと、私には関係ない。……関わる権利なんてない。
そもそも、もう二度と逢わないと決めたのは私自身だ。ひとかけらでも望みがあったなら――望みを持てたなら、あんなふうに全てを断ち切ったりはしなかっただろう。
私の入る余地なんてどこにもない。あの日、そのことに気づいてしまった。
だからこそ、私は今こうしてここに独りでいるのだ。
それに、私が好きだったのは以前の彼であって、今の彼じゃないもの。
現在の彼なんて、知らない。……知る権利も、ない。
彼は今、二十三歳。
私は今、二十一歳。
どこで過ごしていようと、二つの年の差は変わらない。
心がどれほど置いていかれていようとも、去年のクリスマス・イヴは二十歳、今年のクリスマス・イヴは二十一歳、来年のクリスマス・イヴは二十二歳の自分しかありえない。
……まぁ、その日が来れば、の話だけれど。
来年……か。
来年の今ごろ、私は二十二歳。大学四年生だ。
卒業論文にでも追われているんだろうな。
第一回目の院入試は九月末だから、もしかしたら進路が決まっているかもしれない。
大学院。
その名がものすごく重く響くのはどうしてなんだろう。
届かないとは思わない。だけど、そこに至るまで、一体なにをしたらいいんだろう?
今のままで、いいのだろうか……?
ほんの数ヶ月前のゼミでのプレゼンテーションを思い出す。
あの時点では、確かに全力を尽くして取り組んだ。
だけど、あれでは私は満足できない。
今のままでいたくない。
面白かったと言ってくれたひとは多かった。
誰だっただろう……興味深くて、楽しめたって……そんなふうに言ってくれたひとは。
思い出せない。だけど、すごく鋭い一言だった。
なぜなら――それだけ褒めておきながら、学究的評価が一切なかったから。
あの言葉自体は嬉しかったし、喜んでいいものだったと思う。だけど、学問としてどうだったのか、その評価が全くなかったことが痛い事実だった。
すなわち、あの発表は学問的に価値は全くないということなのだ。
だから、あれは、あの時点での自分がされて良い評価の中では、最高の褒め言葉だったのだろうとは思う。
だからこそ、満足してはいけないんだ。
あれではだめなのだ。
学究的価値のある研究ができなければ、この道を進むことなどできはしない。
来年の今ごろは、納得できる自分になれるのだろうか?
来年の今ごろ、私は笑っていられるだろうか……?
来年の今日、私は一体なにをしているんだろう。
やっぱり独りでこうして過ごしているんだろうか。
それとも、この日を誰かと一緒に過ごしていたりするんだろうか……。
……ううん、そんなことあるわけない。
もう、恋なんかしないもの。
男性に関わることさえしたくない。
自分への嫌悪感と辛い想いばかりが、心に蘇る……。
「――暗いわ」
浮かんできた考えを追い払うように頭を振って、キッチンへ向かう。
紅茶でも淹れよう。アッサムかセイロンで、温かい、牛乳を先に注いだミルクティー。
美味しい淹れ方なんて知らないけれど。
料理もそう。結局、自分のためにすることなら、必要最低限でいいと思う。少なくとも、私自身はそれでいいと思ってしまう。美味しかろうが美味しくなかろうが、それ自体を楽しめないならどっちでも同じ。もちろん、美味しいほうが良いに決まっているんだろうけど、ひとりだと、そんなことはどうでもよくなってしまう。
だからと言って、誰でもいいからそばにいて欲しいかというと、そうじゃない。
じゃあ、私は誰と一緒にいたいんだろう?
宗哉と? ……ううん、違う。
だって、私が相手を想っていたって、相手が私のことを想っていないなら、一緒にいたってなんにもならない。まして、彼は他の女を想っているのだから。
虚しいだけ。
そう、虚しいだけなのだ。
心の中に、たったひとりの特別なひとがいるから、他のひとなんて要らない。
だけど、そのひとが私を想っていないから……誰も要らない。
どうしようもない。
……もう、恋愛なんてできないんだろうな。
こんな気持ちになるくらいなら、しないほうがいい。
独りの寂しさなんて、あんな自分を知るよりずっとましだもの。
だけど時々、無性に寂しくなるの。
こんな冬の日は特にそう思う。寒さに心まで冷えていく。
私はこの先、ずっとこうして生きていくのだろうか……?
心を凍てつかせて、誰にも心を開かずに、一生……?
――そう。私には、それしかない。
どれほど考えを巡らせても、結論は一つ。他に選択肢はない。
もう、誰にも恋はしない。
「!」
溢れる、と思った瞬間――
上を向いて、鼻の付け根をつまんで、息を何度も吸っては吐いた。
……涙を止めるテクニックを知っている自分が嫌になる。
幼い頃に身につけた処世術。プライドと体面を保つための技術の一環。
見ているひとなんてどこにもいないのだから、思いっきり泣いてしまえばいいのに。
でも、こんな時でも泣けないことこそが、現在に至った原因なのかもしれない。
そして気づく。今の私は、必死で自分を立たせているだけなのだ。
虚勢を張っているにすぎない。ほんの少し思いを巡らせるだけで、それは崩れる。
……脆すぎる。ただ、あのひとのことを考えただけでこうなってしまうなんて。
どんなに悲しくても笑っていられるようにならなければ、だめなのに。
そうでなければ、このまま生きていくことなんてできはしないのに。
――だけど、仮にそれができたとして、それは正しいことなのだろうか?
泣きたい時に泣けず、もう誰にも心を許さないことが、人間として健全なんだろうか?
私は、本当にそんな人生で良いのだろうか……?
「いいか、悪いかじゃない……そうしなければ、生きていけないからだわ」
そして、他に選択肢がないからだ。
それとも、こんな時、私を抱きしめてくれるひとが、どこかにいるのだろうか……?
こんな私でも……?
『そんなひと、いるわけない』
――否定の言葉が即座に浮かぶ。
そして、考えなければよかったと、いつも思う。
不幸に酔いたくなんてないのに。
「……紅茶を、淹れようと思ったのよ」
考えを必死で戻す。保たなくていい虚勢を保つために。
ううん――自分の心を守るためにだ。
だから、これでいいのよ。
もう二度と、あんな自分にはなりたくないから。
「…………」
わだかまりを残したままの心の扉を無理矢理閉じて、私はキッチンへと足を向ける。
お気に入りのヌワラエリヤの缶を手に取った時、私はまたあの歌を口ずさんでいた。
綺麗で悲しい、今日という日の歌を。
視界の端の窓ガラスは、もう透明になっていた。
* * * * *
* Kouki *
はぁ、と息を吐いたら、真っ白だった。
そこで、ふぅ、と吹いてみると、やっぱり真っ白だった。
つまり。
「相当寒い、ということか」
当たり前だろう。今は十二月の末、しかも――クリスマス・イヴだ。
そこへ、独り身の独り暮らしときては、いくら俺でも少々わびしい気分になる。
これが女だったら友人同士で集まっても楽しく騒げるんだろうが、男の場合はそうはいかない。と言うか、虚しくなるだけだ。家族と過ごせばいいのだろうが、この年でそれもどうなのかという思いもあり、結局、ここ数年はあらゆるイベントに関わらぬ生活を送っていた。
つい数年前までは、いわゆる『恋人同士のクリスマス』を過ごしたりもしていたんだが、もう、そんな気分になれるはずもなかった。
ちらりと周囲を見やれば、手を繋いだり腕を組んだりしてくっついているカップルや、大きな荷物やケーキとおぼしき箱を手に道を急ぐ人々が目に入る。
そして俺は、そのどれにも当てはまらない。
丈の長いトレンチコートのポケットに手袋をしたままの腕を突っ込んで、嘆息しながら夜空を見上げて大学から駅への道を歩くだけ。
……こんな時間に通るんじゃなかったな。
普段なら周囲の人間の動向など意に介さないのに、今日はなぜか気になる。
身にしみる寒さに、人恋しくなっているのだろうか。
たとえ寒くたって、雪でも降れば、気分は違うんだろうけど。
ホワイト・クリスマスなんて、この東京ではまずない。
あったとしても、みぞれ混じりがせいぜいだ。
『雨にしろ雪にしろ、空気中の水分が飽和状態になったから起こる現象であって、しかも空気中の汚れを含んで落ちてくるから、実を言うと相当汚いはずなんだよなぁ』
と、子供の夢を壊すようなことを暢気な口調で言ったのはうちの父親だ。
『クリスマスはイエス・キリストの誕生日だと言われているけれど、資料のどこにも出典はないのよ。そもそも、紀元1年には生まれていたらしいし』
と、キリスト教徒でもないのに由来だの歴史だのを延々と語ったのはうちの母親だ。
ちなみに、その後ふたりして『ホワイト・クリスマスというのは、本場では、何もないクリスマスという意味だったような……』と首を傾げていた。それが本当だとすれば、日本人の認識の九割以上は間違っていることになるんじゃないだろうか。……まぁ、よくある話か。
あの両親なら、雪が降ろうが降らなかろうが、ふたりで楽しく過ごしているだろう。
留学先で知り合ったくらいだから、かの地でクリスマスを過ごしたこともあるんだろうな。思い出話に花でも咲かせているかもしれない。
弟の侑貴は長いつきあいの幼馴染みの彼女と過ごしているだろうし、姉の真貴乃はアメリカだ。細胞の世話や実験の結果のまとめに追われているか、もしかしたら機中にいるかもしれない。
そして、俺は独り。
やることは軒並み終え、することもなく、ただ街をぶらりと歩いている。
――こんな時、気づくと、ある女性の名前を呟いてしまう。
「風澄……」
呼ぶことを許されていない名前。聞くものも、振り返る者もいない。
今ごろ、なにをしているんだろう。
そんなふうに考えることが、もう日常になっていた。
この前――と言っても数ヶ月前――俺は彼女と初めて会話を交わした。
あの時、無理矢理にでも話をすれば良かった。アドヴァイスしてやるからとでもなんとでも言って、せめて自分の存在くらいは認識してもらえるように。
あの子は、俺の名前すら知らないのだ。
彼女は来年、大学四年生になる。卒業してしまったら、手も足も出ない。
しかも日本最大の規模を誇る大企業の社長令嬢ときては。
最初から、遠い存在、か……。
一生、このままなんだろうか。
彼女も作らず、セフレも作らず、女に触れることなく早二年半。
なにをしていても彼女の顔がよぎる。
他の女になんか手を出す気にもなれない。
そもそも、反応しないのだから、手の出しようもないのだけれど。
手に入らないから焦がれているんだろうか。
手に入れば飽きるのだろうか?
……そうかもしれない。
今まで、手に入らなかった女なんていない。だからこんなに気になるんだ。そうでなかったら、こんな四六時中、俺が女のことを考えているわけがないだろう。
自分のものじゃないから欲しくなる。
男の本能だ。支配欲と独占欲。きっと、手に入ったら飽きるだけだろう。
まぁ……手に入れたいなんて思った女も、今までにはいなかったのは事実だけれど。
だけど、飽きるだろうとわかっていても、まだ欲しくなるのはどうしてだろう?
……馬鹿馬鹿しい。
どちらにしろ、どうしようもないじゃないか。
彼女は俺の前にはいない。それどころか、俺の存在さえ知らないんだから。
だけど、考えてしまう。彼女のことを。
あの日から、一日たりとも彼女のことを考えなかったことはない。
なぜなのだろう。頭から、あの子が消えないのは――。
今ごろ、風澄はどうしているんだろうな。
……考えるまでもないか、そんなこと。
あれだけの美少女なのだ、男が放っておくわけがないだろう。
彼氏と過ごしているに決まっている。
あるいは、婚約者かなにかがいたりするのかもしれない。
……他の男の腕の中に、いるんだろうな。
ため息をついても、どうにもならない。
考えても辛くなるだけだ。
なのに、考えずにいられないのはなぜなんだろう?
いつか、彼女の隣にいられる日が来るのだろうか――?
「……そんな日、来るわけがない……か」
もう一度ため息をついて、煩悩を追い払うように頭をひと振りした。
ふと気づくと、去年のクリスマスを歌う英語の曲が耳に流れてきた。
有名なクリスマス・ソングに悲しい歌詞が多いのは、なんでだろうな。
楽しみたくても楽しめない、独り者のためにだろうか。
「ラスト・クリスマス……ね」
『今日』が、『去年の今日』となった時――俺は一体なにをしているんだろう。
やはり、独りでこうして過ごしているんだろうか。
それとも、この日を誰かと一緒に過ごしていたりするんだろうか――?
もし、そうだとして、それは一体誰とだろう……?
……まさか、な。
かぶりを振って、浮かんできた考えを再び追い払う。
そして、それでもぼんやりと来たる年に思いを馳せながら、俺は帰途についた。
* * * * *
まだ、ふたりは知らない。
その約半年後の自分を。
そして、その一年後の自分を。
その先の未来に、どんな出逢いが、どんな日々が待っているのかを――。
* * * * *
* Kasumi *
「クリスマス・イヴ……か」
今日と同じ名前をタイトルに持つ曲のメロディが、自然と頭に浮かんでくる。
家族の好みのせいでクラシックで育ってしまったために邦楽をあまり知らない私でも、この時期になると申し合わせたかのように流れ出す、この歌なら知っている。とても綺麗なメロディで、その合間にパッヘルベルのカノンをモティーフにした合唱が入っている曲だ。……歌っている人の名前は知らないけれど。
簡単に、知っている部分を口ずさんでみたけれど、なんだか虚しさが増した。
元々、楽しい曲じゃないんだ。そんなことに今更気づく。
……私には、待つ人もいないけれど。
「はぁ……」
いつもと同じ二十四時間しかない一日なのに、異常に長く感じてしまう。
早く過ぎて欲しいと思うのは、私が主役になれないからなんだろうか。
恋人同士のためのイベント・デーという機会には一切参加していないし、それを隠れ蓑にした経済活発運動にも、企業の販売戦略にさえ、一切貢献していない。
好きなはずの実家に帰る気にもなれなくて、課題が残っているからと言ってマンションの部屋にこもり、結局なにもしないでいる。
一年のうちの、ただの一日。だけど、私には関係のない一日。
こんな日は、独り身の人間は外出しないに限る。
だけど、部屋にいても、ため息は止まらない。
目の前の窓に息を吹きかけてみると、そこだけほんのりと白く染まる。
指で触れると、ガラス越しに冷たい外気が伝わってきた。
離した指が、わずかに濡れている。
窓には意味を成さない点がひとつ残った。
例えば、恋人を待っているなら、メリークリスマスとでも書けばいい。
恋人が遠くにいて逢えないならば、その名前を書けばいい。
だけど、今の私には、こんな時に書く文字さえ見つからない。
……宗哉は、今ごろなにをしているんだろう。
つい、そんなふうに考えてしまう自分がいる。
未練がましくて嫌になる……そんなの言うまでもないじゃない。
考えても虚しいだけなのに。
だいたい、彼が今どこでなにをしていたって、その隣にいるのが私じゃないことは確実。どこでなにをしていようと、私には関係ない。……関わる権利なんてない。
そもそも、もう二度と逢わないと決めたのは私自身だ。ひとかけらでも望みがあったなら――望みを持てたなら、あんなふうに全てを断ち切ったりはしなかっただろう。
私の入る余地なんてどこにもない。あの日、そのことに気づいてしまった。
だからこそ、私は今こうしてここに独りでいるのだ。
それに、私が好きだったのは以前の彼であって、今の彼じゃないもの。
現在の彼なんて、知らない。……知る権利も、ない。
彼は今、二十三歳。
私は今、二十一歳。
どこで過ごしていようと、二つの年の差は変わらない。
心がどれほど置いていかれていようとも、去年のクリスマス・イヴは二十歳、今年のクリスマス・イヴは二十一歳、来年のクリスマス・イヴは二十二歳の自分しかありえない。
……まぁ、その日が来れば、の話だけれど。
来年……か。
来年の今ごろ、私は二十二歳。大学四年生だ。
卒業論文にでも追われているんだろうな。
第一回目の院入試は九月末だから、もしかしたら進路が決まっているかもしれない。
大学院。
その名がものすごく重く響くのはどうしてなんだろう。
届かないとは思わない。だけど、そこに至るまで、一体なにをしたらいいんだろう?
今のままで、いいのだろうか……?
ほんの数ヶ月前のゼミでのプレゼンテーションを思い出す。
あの時点では、確かに全力を尽くして取り組んだ。
だけど、あれでは私は満足できない。
今のままでいたくない。
面白かったと言ってくれたひとは多かった。
誰だっただろう……興味深くて、楽しめたって……そんなふうに言ってくれたひとは。
思い出せない。だけど、すごく鋭い一言だった。
なぜなら――それだけ褒めておきながら、学究的評価が一切なかったから。
あの言葉自体は嬉しかったし、喜んでいいものだったと思う。だけど、学問としてどうだったのか、その評価が全くなかったことが痛い事実だった。
すなわち、あの発表は学問的に価値は全くないということなのだ。
だから、あれは、あの時点での自分がされて良い評価の中では、最高の褒め言葉だったのだろうとは思う。
だからこそ、満足してはいけないんだ。
あれではだめなのだ。
学究的価値のある研究ができなければ、この道を進むことなどできはしない。
来年の今ごろは、納得できる自分になれるのだろうか?
来年の今ごろ、私は笑っていられるだろうか……?
来年の今日、私は一体なにをしているんだろう。
やっぱり独りでこうして過ごしているんだろうか。
それとも、この日を誰かと一緒に過ごしていたりするんだろうか……。
……ううん、そんなことあるわけない。
もう、恋なんかしないもの。
男性に関わることさえしたくない。
自分への嫌悪感と辛い想いばかりが、心に蘇る……。
「――暗いわ」
浮かんできた考えを追い払うように頭を振って、キッチンへ向かう。
紅茶でも淹れよう。アッサムかセイロンで、温かい、牛乳を先に注いだミルクティー。
美味しい淹れ方なんて知らないけれど。
料理もそう。結局、自分のためにすることなら、必要最低限でいいと思う。少なくとも、私自身はそれでいいと思ってしまう。美味しかろうが美味しくなかろうが、それ自体を楽しめないならどっちでも同じ。もちろん、美味しいほうが良いに決まっているんだろうけど、ひとりだと、そんなことはどうでもよくなってしまう。
だからと言って、誰でもいいからそばにいて欲しいかというと、そうじゃない。
じゃあ、私は誰と一緒にいたいんだろう?
宗哉と? ……ううん、違う。
だって、私が相手を想っていたって、相手が私のことを想っていないなら、一緒にいたってなんにもならない。まして、彼は他の女を想っているのだから。
虚しいだけ。
そう、虚しいだけなのだ。
心の中に、たったひとりの特別なひとがいるから、他のひとなんて要らない。
だけど、そのひとが私を想っていないから……誰も要らない。
どうしようもない。
……もう、恋愛なんてできないんだろうな。
こんな気持ちになるくらいなら、しないほうがいい。
独りの寂しさなんて、あんな自分を知るよりずっとましだもの。
だけど時々、無性に寂しくなるの。
こんな冬の日は特にそう思う。寒さに心まで冷えていく。
私はこの先、ずっとこうして生きていくのだろうか……?
心を凍てつかせて、誰にも心を開かずに、一生……?
――そう。私には、それしかない。
どれほど考えを巡らせても、結論は一つ。他に選択肢はない。
もう、誰にも恋はしない。
「!」
溢れる、と思った瞬間――
上を向いて、鼻の付け根をつまんで、息を何度も吸っては吐いた。
……涙を止めるテクニックを知っている自分が嫌になる。
幼い頃に身につけた処世術。プライドと体面を保つための技術の一環。
見ているひとなんてどこにもいないのだから、思いっきり泣いてしまえばいいのに。
でも、こんな時でも泣けないことこそが、現在に至った原因なのかもしれない。
そして気づく。今の私は、必死で自分を立たせているだけなのだ。
虚勢を張っているにすぎない。ほんの少し思いを巡らせるだけで、それは崩れる。
……脆すぎる。ただ、あのひとのことを考えただけでこうなってしまうなんて。
どんなに悲しくても笑っていられるようにならなければ、だめなのに。
そうでなければ、このまま生きていくことなんてできはしないのに。
――だけど、仮にそれができたとして、それは正しいことなのだろうか?
泣きたい時に泣けず、もう誰にも心を許さないことが、人間として健全なんだろうか?
私は、本当にそんな人生で良いのだろうか……?
「いいか、悪いかじゃない……そうしなければ、生きていけないからだわ」
そして、他に選択肢がないからだ。
それとも、こんな時、私を抱きしめてくれるひとが、どこかにいるのだろうか……?
こんな私でも……?
『そんなひと、いるわけない』
――否定の言葉が即座に浮かぶ。
そして、考えなければよかったと、いつも思う。
不幸に酔いたくなんてないのに。
「……紅茶を、淹れようと思ったのよ」
考えを必死で戻す。保たなくていい虚勢を保つために。
ううん――自分の心を守るためにだ。
だから、これでいいのよ。
もう二度と、あんな自分にはなりたくないから。
「…………」
わだかまりを残したままの心の扉を無理矢理閉じて、私はキッチンへと足を向ける。
お気に入りのヌワラエリヤの缶を手に取った時、私はまたあの歌を口ずさんでいた。
綺麗で悲しい、今日という日の歌を。
視界の端の窓ガラスは、もう透明になっていた。
* * * * *
* Kouki *
はぁ、と息を吐いたら、真っ白だった。
そこで、ふぅ、と吹いてみると、やっぱり真っ白だった。
つまり。
「相当寒い、ということか」
当たり前だろう。今は十二月の末、しかも――クリスマス・イヴだ。
そこへ、独り身の独り暮らしときては、いくら俺でも少々わびしい気分になる。
これが女だったら友人同士で集まっても楽しく騒げるんだろうが、男の場合はそうはいかない。と言うか、虚しくなるだけだ。家族と過ごせばいいのだろうが、この年でそれもどうなのかという思いもあり、結局、ここ数年はあらゆるイベントに関わらぬ生活を送っていた。
つい数年前までは、いわゆる『恋人同士のクリスマス』を過ごしたりもしていたんだが、もう、そんな気分になれるはずもなかった。
ちらりと周囲を見やれば、手を繋いだり腕を組んだりしてくっついているカップルや、大きな荷物やケーキとおぼしき箱を手に道を急ぐ人々が目に入る。
そして俺は、そのどれにも当てはまらない。
丈の長いトレンチコートのポケットに手袋をしたままの腕を突っ込んで、嘆息しながら夜空を見上げて大学から駅への道を歩くだけ。
……こんな時間に通るんじゃなかったな。
普段なら周囲の人間の動向など意に介さないのに、今日はなぜか気になる。
身にしみる寒さに、人恋しくなっているのだろうか。
たとえ寒くたって、雪でも降れば、気分は違うんだろうけど。
ホワイト・クリスマスなんて、この東京ではまずない。
あったとしても、みぞれ混じりがせいぜいだ。
『雨にしろ雪にしろ、空気中の水分が飽和状態になったから起こる現象であって、しかも空気中の汚れを含んで落ちてくるから、実を言うと相当汚いはずなんだよなぁ』
と、子供の夢を壊すようなことを暢気な口調で言ったのはうちの父親だ。
『クリスマスはイエス・キリストの誕生日だと言われているけれど、資料のどこにも出典はないのよ。そもそも、紀元1年には生まれていたらしいし』
と、キリスト教徒でもないのに由来だの歴史だのを延々と語ったのはうちの母親だ。
ちなみに、その後ふたりして『ホワイト・クリスマスというのは、本場では、何もないクリスマスという意味だったような……』と首を傾げていた。それが本当だとすれば、日本人の認識の九割以上は間違っていることになるんじゃないだろうか。……まぁ、よくある話か。
あの両親なら、雪が降ろうが降らなかろうが、ふたりで楽しく過ごしているだろう。
留学先で知り合ったくらいだから、かの地でクリスマスを過ごしたこともあるんだろうな。思い出話に花でも咲かせているかもしれない。
弟の侑貴は長いつきあいの幼馴染みの彼女と過ごしているだろうし、姉の真貴乃はアメリカだ。細胞の世話や実験の結果のまとめに追われているか、もしかしたら機中にいるかもしれない。
そして、俺は独り。
やることは軒並み終え、することもなく、ただ街をぶらりと歩いている。
――こんな時、気づくと、ある女性の名前を呟いてしまう。
「風澄……」
呼ぶことを許されていない名前。聞くものも、振り返る者もいない。
今ごろ、なにをしているんだろう。
そんなふうに考えることが、もう日常になっていた。
この前――と言っても数ヶ月前――俺は彼女と初めて会話を交わした。
あの時、無理矢理にでも話をすれば良かった。アドヴァイスしてやるからとでもなんとでも言って、せめて自分の存在くらいは認識してもらえるように。
あの子は、俺の名前すら知らないのだ。
彼女は来年、大学四年生になる。卒業してしまったら、手も足も出ない。
しかも日本最大の規模を誇る大企業の社長令嬢ときては。
最初から、遠い存在、か……。
一生、このままなんだろうか。
彼女も作らず、セフレも作らず、女に触れることなく早二年半。
なにをしていても彼女の顔がよぎる。
他の女になんか手を出す気にもなれない。
そもそも、反応しないのだから、手の出しようもないのだけれど。
手に入らないから焦がれているんだろうか。
手に入れば飽きるのだろうか?
……そうかもしれない。
今まで、手に入らなかった女なんていない。だからこんなに気になるんだ。そうでなかったら、こんな四六時中、俺が女のことを考えているわけがないだろう。
自分のものじゃないから欲しくなる。
男の本能だ。支配欲と独占欲。きっと、手に入ったら飽きるだけだろう。
まぁ……手に入れたいなんて思った女も、今までにはいなかったのは事実だけれど。
だけど、飽きるだろうとわかっていても、まだ欲しくなるのはどうしてだろう?
……馬鹿馬鹿しい。
どちらにしろ、どうしようもないじゃないか。
彼女は俺の前にはいない。それどころか、俺の存在さえ知らないんだから。
だけど、考えてしまう。彼女のことを。
あの日から、一日たりとも彼女のことを考えなかったことはない。
なぜなのだろう。頭から、あの子が消えないのは――。
今ごろ、風澄はどうしているんだろうな。
……考えるまでもないか、そんなこと。
あれだけの美少女なのだ、男が放っておくわけがないだろう。
彼氏と過ごしているに決まっている。
あるいは、婚約者かなにかがいたりするのかもしれない。
……他の男の腕の中に、いるんだろうな。
ため息をついても、どうにもならない。
考えても辛くなるだけだ。
なのに、考えずにいられないのはなぜなんだろう?
いつか、彼女の隣にいられる日が来るのだろうか――?
「……そんな日、来るわけがない……か」
もう一度ため息をついて、煩悩を追い払うように頭をひと振りした。
ふと気づくと、去年のクリスマスを歌う英語の曲が耳に流れてきた。
有名なクリスマス・ソングに悲しい歌詞が多いのは、なんでだろうな。
楽しみたくても楽しめない、独り者のためにだろうか。
「ラスト・クリスマス……ね」
『今日』が、『去年の今日』となった時――俺は一体なにをしているんだろう。
やはり、独りでこうして過ごしているんだろうか。
それとも、この日を誰かと一緒に過ごしていたりするんだろうか――?
もし、そうだとして、それは一体誰とだろう……?
……まさか、な。
かぶりを振って、浮かんできた考えを再び追い払う。
そして、それでもぼんやりと来たる年に思いを馳せながら、俺は帰途についた。
* * * * *
まだ、ふたりは知らない。
その約半年後の自分を。
そして、その一年後の自分を。
その先の未来に、どんな出逢いが、どんな日々が待っているのかを――。
First Section - Another Story The End.
2003.12.17.Wed.
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