共に生きる者
01.あの日から
* Kasumi *
八月中旬。私と昂貴は実家に帰ることにした。
ちょうどお盆にあたる四日間、実家に三泊してくることになる。例年に較べれば時期的に遅いし、期間も短い。これまでなら、八月に入ればそろそろ帰ろうかと考えたり、帰り支度を始めたりという感じだったけれど、最近はごたごた続きだったし、なにより私ひとりの問題ではなかったから……気づいたら、こんなに遅くなってしまっていた。この時期になれば発表が終わってから帰るほうが良いのかもしれないけれど、私には、大学院入試の出願手続き書類を揃えなければならないという必然的な理由もあったから。
私も昂貴も、都内でひとり暮らしをしているけれど、実家も東京だ。二十三区内だし、それほど遠い距離じゃない。私は、最初こそ、ことあるごとに呼ばれたりして帰っていたのだけれど、ここ一年はさすがに回数が減った。特に、彼と一緒に過ごすようになってからは、全く。
もしかしたら、家族は感づいているかもしれない。
『そういう相手』ができたことに。
十八歳になった頃から、私には彼氏がいなかった。正確には、今もいない。だけど、もしかしたらそれよりも大切かもしれない、側にいたいひとがいる。
思い返せば、初めて知り合ったときから、ずっと一緒にいた。
あまり会わなかったのは最初の一週間と、私のレポート提出があったときくらいで。
そのときだって毎週末には会ってずっと一緒に過ごしていた。
誰よりも、いちばん近くにいるひと。
お互いに、好意は抱いてる。明らかに。
だけど、聞かれたらどう答えていいのかわからない。
彼が私のなんなのか。そして私が彼のなんなのか。
お互いの一番親しい友達には教えたりもした。だけど家族には?
まだ言えない。……いつか言えるようになる日が来るのだろうか。
* * * * *
私の実家は世田谷区にある。
高級住宅地で有名なところなんだけれど、家自体は非常に奥まったところにあり、意外と不便な場所だと思う。自動車でもあれば話は違うのだろうけど、私は免許を持っていなかったし。まぁ、だからこそ私が一人暮らしをする言い訳が成り立ったのだけれど。
実家が東京なのに、なぜ一人暮らしをするのかと昂貴に聞かれたことがある。彼も同じ状況なのだけど、昂貴の場合は親戚の家の管理も兼ねているから、それほど奇異なことではない。彼の言ったことはつまり『ひとりでご飯を食べても美味しくないと言うくせに、どうして?』ということだった。
だから、私は言った。一人暮らしを始めたのは、三年前からだと。
あの夏が終わって、秋が始まり、十九歳になるかならないかの頃。
ずっと前に親が購入して、もう誰も使っていなかったのだけれど売却が面倒でそのままになっていたこの部屋があったから、私はすぐさま家を出た。通常の生活ができるようになってから、幾らも経たない頃。彼を思い出させる全てから逃げ出すように、それでいて、どこか縋るように。それに、何もかもひとりでやれば、気がまぎれると思っていた。実情はそんなに簡単ではなかったけれど……。
初めてのひとり暮らし。慣れない部屋は、居心地が悪かった。だけど、生活を維持するために全てのことを自分でやらなければならないから、少しずつ平気になっていったのも本当だった。気もまぎれなかったわけじゃない。 殺風景な部屋にもしだいに慣れて、この土地にまつわる思い出も、新しい生活で上書きされていった。
寂しい夜も、なにかの拍子に思い出した時も、いつだって泣けることだけがありがたかった。誰も気にせず、夜じゅう考えていられることも。咎める人のいないことと、気を遣われないことがかえって楽だった。
涙なんて、あの時には出なかったのに、なぜか時が経つほど零れてくる。自分がどんなに惨めで悲しかったかを、日ごとに痛感していた。だけどどんなに枕を濡らしても、それで癒されるわけじゃない。直視してしまえば耐えられない。だから考えないようにしていた。忘れたふりをすることばかり上手くなった。本当はなにも、解決していないのに。
最華は、その頃の私も、高校に入った頃の、無気力な私も知っている。
だけど、大学四年に進級する頃には、そんな過去のことは全て忘れて、平気で過ごしていると思っていたかもしれない。
でも本当はそうじゃなかった。
自分でさえ平気だと思い込んでいたのだけれど。
研究テーマを変えると決めたのは、些細なきっかけ。
別に変えなくても良かったのだけれど、やっぱり興味を持ったことをやったほうが絶対にいいと思ったから。
河原塚先生は好みの作品と研究したい作品は別だと言っていたけれど、あの画家は私にとって強烈に惹かれる存在でありながら研究したいと思わせるものだった。
なぜその画家なのかと聞かれたけれど、理由は簡単。
あの絵を見た瞬間に、私はその後の人生を決めてしまったから。
――それは、一年生の夏休みが明けたばかりの、彼のことを思い出して辛かった頃。
美術通史の授業で、ある絵がスライドに映し出された。
前期と同じ、変わらない授業風景。
でも、目の前の作品は、これまでに観たこともないような絵だった。
投影機を使うために暗くされた室内に浮かび上がる、強烈な光と闇。
一灯の強いスポットライトに照らされた舞台のようだった。
後に知ったことだけれど、彼の作品には『劇的』という言葉がよく使われる。
劇的――dramaticであり、like a playでもある。その具現のような、強烈な作品。
鮮やかさと鈍さの入り混じった不思議な色使いに、宗教画とは思えないほどの、飾り気の無い質素な人物。世俗画と言われても疑問は抱かなかったかもしれない。
そして、それに不似合いなまでの、ぞっとするほどの現実感。
描かれているのは聖人聖女なのに、生々しい、人々の営みが見えてくる。
異質だ、と思った。
私はまだ、研究のテーマも志望の専攻さえも決まっていない、ただの大学一年生で、美術史について、特別な知識があったわけじゃない。でも、決して長くない時間であっても、前期からその時に至るまで、古代から連綿と続く美術の歴史を学んできたのだから、美術史における知識は全く零とも言えない。
今考えれば、ロマネスクからゴシックへの移行期間も、ルネサンスからマニエリスムへの発展のしかたも、イタリアやフランスの美術と北方美術との違いだって充分強烈だと思うのだけれど……その時は、他に類を見ないほど異質だと思った。突然、全く違う時代の作品を持ってこられたような、そんな疑問さえ抱いた。
それでも、よくよく見ていけば、その徹底的な自然主義や図像による表現は、やはり美術史の流れに合致することがわかる。
異質で、なのに忠実で、やはり斬新で。
永い一瞬。
まるでその絵の中の世界のような暗闇の中、スライドの光を受けて、私は教室の中で独り、雷に打たれたかのような衝撃と、背筋を駆け上る戦慄を味わっていた。
幾度となくうなされ続けてきた、あの夢と同じだったから。
その時の衝撃は、驚きを越えて、既に畏怖と言っても良かった。
――これはいったい、どの時代の、誰の描いた作品なんだろう?
私の疑問は、数秒後には解消された。教壇に立っていた崎田先生によって。
その場から逃げ出したくなるほどの恐怖を感じながら、それでもまだ見続けたいと願う自分を知り――そして、私は、今に至る。
美術史学は、その名から誤解されることが多いし、確かにかつては歴史学のひとつだったのだけれど、歴史学とはまるで違うものだ。
正式にはHistory of Artではなく、Science of Artと訳される。学部は文学部でも、おおもとの所属学科は哲学科だし(うちの大学の場合、今は人文社会学科に統一されているけれど、その中の哲学系に属している)、『史』と銘打ってはいても、現在の研究の手法やアプローチのしかたは歴史学とは全く違う。
私と昂貴が学んでいる西洋美術史学は非常に歴史の長い学問だけれど、本当に独立した学問として成立したのは、ここ百年の話。十九世紀の末に歴史学から自立し、独自の道を歩み始め、二十世紀の中庸に至り、早い黄金期を迎えたと聞いた。残念ながら日本ではそれほど盛んな学問ではない。知名度も低いし、その名を聞いて学問の内容を正しく理解してくれるひとはまずいないだろう。日本美術史学なんて未だに方法論さえ整っていないほどなのだから。私も大学で西洋美術の通史の授業を履修しなかったら、ずっと誤解していたに違いないと思う。その面白さにも気づかずに。
例えば、女性が描かれている絵は数え切れないほどある。何も知らなければ、ただの『女性が描かれている絵』で終わる。けれど、タイトルや解説で、それが『聖母マリア』や『ウェヌス(ヴィーナス)』や『ディアナ(アルテミス)』だということがわかる。では、その根拠は何なのだろうか? ――その答えは至極簡単、慣用的に決まっているから。その人物の服装や、一緒に描かれるものがいわば名札代わりになり、対象の特定の裏付けとなる。これがアトリビュート、すなわち持物(じもつ)。その世界における常識であり、文化的背景であり、基盤であり、下地として定まり、浸透しているから、私たちにはわからなくても、その世界での常識さえ学べば誰でもわかること。だからこそ絵画は古くから宗教に密接に関わり、発達してきた。識字率の低い国でも、絵なら理解が容易だから、布教活動に使われ、プロパガンダとしての役割の一端を担ってきた。
それから、教会の構造やステンドグラスが使われている意味。同じモデルを使った裸婦像でも女神とするか一般人とするかでまるで社会的な意味が違ってしまうということ。技術革新が美術史界に革命を起こしてきたこと……。その全てにきちんとした理由と裏づけがあるのだと初めて知った。
だからこそ、面白いと思った。今まで知らなかった世界がそこにあったから。
知れば知るほど、学べば学ぶほど、興味は深まっていった。
彼を忘れることはできなくても、情熱を傾けることができるものを見つけられたことは、私にとって確かに助けになっていた。
もともと、大学院には行ってみたいと思っていた。兄がふたりもいるので家を継ぐ必要は全く無い。もちろん、自分の力を求められることがあるなら協力を惜しまないけれど、私のできることなんて、たかが知れている。それなら好きなことをしたいと思っていた。そして、家族もそれに賛同してくれていた。両親とも学問が好きなひとだったし。それに私は勉強以外にそれほど興味を持ったものがなかったから。
昔から、習いごとをしたり、部活をしたり、生徒会に入ったり、アルバイトをしたり、勉強以外のことに触れる機会は多かった。社会勉強の一環。だけど、全てなにかの代わりだった。それに気づいたのは、宗哉と知り合ってからのこと。
私が本当に欲しかったものは、唯一の大切な存在。他になにも要らない。本当は。
『いつ死んだっていいんだ。特別に興味のあるものも、やりたいこともないから……』
彼は、そう言っていた。
生きていく目的がなくて、ただ生きていけてしまうから生きていたひと。まるで生かされているのだと言うように、寂しい目をしていた。熱中できることがなくて、何かに飢えていた。
……当時の私のように。
惹かれたのは、同類だったから。まるで違う人生を歩いてきていたのに。
お互いシンパシーを感じていたのは本当だった。
けれど、彼は、生きていく理由を見つけてしまった。
たったひとりの存在。それだけで、あの無気力さは消えていた。生きていく理由を見つけて、優しく微笑んでいた。死んだような目をしていたくせに。
だから、私はもう恋愛なんかしたくなかった。
恋人ができたために生きていこうとするような人生なんて送りたくない。
私は違う。もっと、やりたいことをして生きていく。必ず。
そう思っていたけれど……それは、自分は恋愛をしてはならないのだという絶望を、ごまかしていただけだったのかもしれない。唯一の相手を見つけられた人間への嫉妬と羨望。本当は、自分こそが、そんな相手を捜し求め、焦がれ続けていたのだから。
抱えきれない想いが狂気に変わることを恐れていながら、諦めきれなくて。
……結局、反感とはいえ研究に打ち込む理由さえ彼が原因。
私には、なにもない。
今も昔の恋にひきずられるばかり。
恋愛でしか生きていなかったのは、私のほうだったのかもしれない……。
なのに、もともと良かった成績は更に上がり、いつの間にかゼミでも一目置かれる存在になっていた。余計に学問にばかり熱中し、狂うように本を読んでいた。
そうしているあいだは忘れられる。
だけど三年生の時の発表が終わって、卒論のテーマを考えていたとき、やはり人生を変えたともいえるその画家にしようと決めた。
そして、どの作品を研究するかを考え始めていた頃、私は、出逢ってしまった。
彼の面影を感じさせる、その絵に。
――逃れられない――
そう思った。
だから、立ち向かおうとした。もう三年も経つんだもの。絶対に平気だと思った。だけど。
蘇る、思い出したくない記憶。
振り払っても、消えてくれない想い。
……あの作品は、彼にしか見えなかった。
いつしか、作品を見るのをやめ、まず周辺の資料を集めることから始めた。
立ち止まるのは嫌だったから。
基本となる文献、中心的な資料。この作品を学ぶ上でなにが必要でなにが足りないのかを片っ端からチェックして、些細な資料であっても徹底的に集めた。ひととおり揃ったけれど、それでも、私が望む水準には達していなかった。なにしろ、その画家が世間に認められたのは約五十年ほど前、日本に作品が来たのは今世紀に入ってからのことなのだから。その割には研究者は驚くほど多かったけれど、だからと言って全てが有用な資料というわけじゃない。
そこで教授に相談したのだ。どうしたらいいかと。
河原塚先生はさらりと返した。
『博士課程に同じ画家を扱っている学生がいるから、紹介してあげよう』
と。
そのときは、それがどんな出逢いとなるかなんて、予想もしていなかった。
厳しそうなひとだな、と思った。第一印象。
沈着冷静の具現のような姿。ひとに手抜きを許さないような、厳しい目。『おまえは本当にやる気があるのか?』と、問われている気がした。あの嘘を許さない目に負けたくないと思った。できるだけ丁寧にしたかったけど、あまりにひとの神経を逆なでするから、つい喧嘩を買ってしまった。
その意図に気づくのは、その誘いに乗ってからだった。
どうして、彼に抱かれたのだろう。
今でもよくわからない。
ただわかるのは、彼が私の苦しみを理解し、悲しみを癒してくれたこと。
そう努めてくれたこと。
間違っていたこともあった。勘違いもあった。けれどもうそこに歪みはない。
あの腕を素直に求められる。そして求めれば応えてくれる。
昂貴。
彼に、あの絵を何度も見せられた。
慣れたわけじゃない。平気で見られるわけでもない。
ただ、目にしたときの、胸を抉られるような感覚が、何か違うものへと変化し始めたことには気づいてる。視線の先の、画集の中の絵は恐くても、私を包んでいるのはあたたかな腕。私を護ってくれる存在だと、今はわかるから。
でも、しだいに、それが変化してきたことを、私はまだ告げていない。
けれど確かにそれを感じていた。
彼がそうしてくれた。
心から、ひとりのひとが消えていく。
そして、そこに新たにあらわれたのは……。
……もう、恋はしたくないの。
期待するのも、そして裏切られるのも……もう嫌だ。
だけど、あの腕を離したくない。
あのひとを、離したくない。
ずっとこの関係を保っていたい。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。
時に思う。このままでいていいのだろうかと。
彼はなにも言ってくれないけれど、私だって同じ。
お互いに、本当の本心を言うのを怖がってる。
……そして、お互いにその本心をわからないでいる。たぶん。
余計なことを考えずに、一緒にいることだけ望めたらいいのに。
この関係に名前などなくていいから。
だけど現実はそうもいかない。
私たちはまだ、最後の一歩を踏み出せずにいた。
八月中旬。私と昂貴は実家に帰ることにした。
ちょうどお盆にあたる四日間、実家に三泊してくることになる。例年に較べれば時期的に遅いし、期間も短い。これまでなら、八月に入ればそろそろ帰ろうかと考えたり、帰り支度を始めたりという感じだったけれど、最近はごたごた続きだったし、なにより私ひとりの問題ではなかったから……気づいたら、こんなに遅くなってしまっていた。この時期になれば発表が終わってから帰るほうが良いのかもしれないけれど、私には、大学院入試の出願手続き書類を揃えなければならないという必然的な理由もあったから。
私も昂貴も、都内でひとり暮らしをしているけれど、実家も東京だ。二十三区内だし、それほど遠い距離じゃない。私は、最初こそ、ことあるごとに呼ばれたりして帰っていたのだけれど、ここ一年はさすがに回数が減った。特に、彼と一緒に過ごすようになってからは、全く。
もしかしたら、家族は感づいているかもしれない。
『そういう相手』ができたことに。
十八歳になった頃から、私には彼氏がいなかった。正確には、今もいない。だけど、もしかしたらそれよりも大切かもしれない、側にいたいひとがいる。
思い返せば、初めて知り合ったときから、ずっと一緒にいた。
あまり会わなかったのは最初の一週間と、私のレポート提出があったときくらいで。
そのときだって毎週末には会ってずっと一緒に過ごしていた。
誰よりも、いちばん近くにいるひと。
お互いに、好意は抱いてる。明らかに。
だけど、聞かれたらどう答えていいのかわからない。
彼が私のなんなのか。そして私が彼のなんなのか。
お互いの一番親しい友達には教えたりもした。だけど家族には?
まだ言えない。……いつか言えるようになる日が来るのだろうか。
* * * * *
私の実家は世田谷区にある。
高級住宅地で有名なところなんだけれど、家自体は非常に奥まったところにあり、意外と不便な場所だと思う。自動車でもあれば話は違うのだろうけど、私は免許を持っていなかったし。まぁ、だからこそ私が一人暮らしをする言い訳が成り立ったのだけれど。
実家が東京なのに、なぜ一人暮らしをするのかと昂貴に聞かれたことがある。彼も同じ状況なのだけど、昂貴の場合は親戚の家の管理も兼ねているから、それほど奇異なことではない。彼の言ったことはつまり『ひとりでご飯を食べても美味しくないと言うくせに、どうして?』ということだった。
だから、私は言った。一人暮らしを始めたのは、三年前からだと。
あの夏が終わって、秋が始まり、十九歳になるかならないかの頃。
ずっと前に親が購入して、もう誰も使っていなかったのだけれど売却が面倒でそのままになっていたこの部屋があったから、私はすぐさま家を出た。通常の生活ができるようになってから、幾らも経たない頃。彼を思い出させる全てから逃げ出すように、それでいて、どこか縋るように。それに、何もかもひとりでやれば、気がまぎれると思っていた。実情はそんなに簡単ではなかったけれど……。
初めてのひとり暮らし。慣れない部屋は、居心地が悪かった。だけど、生活を維持するために全てのことを自分でやらなければならないから、少しずつ平気になっていったのも本当だった。気もまぎれなかったわけじゃない。 殺風景な部屋にもしだいに慣れて、この土地にまつわる思い出も、新しい生活で上書きされていった。
寂しい夜も、なにかの拍子に思い出した時も、いつだって泣けることだけがありがたかった。誰も気にせず、夜じゅう考えていられることも。咎める人のいないことと、気を遣われないことがかえって楽だった。
涙なんて、あの時には出なかったのに、なぜか時が経つほど零れてくる。自分がどんなに惨めで悲しかったかを、日ごとに痛感していた。だけどどんなに枕を濡らしても、それで癒されるわけじゃない。直視してしまえば耐えられない。だから考えないようにしていた。忘れたふりをすることばかり上手くなった。本当はなにも、解決していないのに。
最華は、その頃の私も、高校に入った頃の、無気力な私も知っている。
だけど、大学四年に進級する頃には、そんな過去のことは全て忘れて、平気で過ごしていると思っていたかもしれない。
でも本当はそうじゃなかった。
自分でさえ平気だと思い込んでいたのだけれど。
研究テーマを変えると決めたのは、些細なきっかけ。
別に変えなくても良かったのだけれど、やっぱり興味を持ったことをやったほうが絶対にいいと思ったから。
河原塚先生は好みの作品と研究したい作品は別だと言っていたけれど、あの画家は私にとって強烈に惹かれる存在でありながら研究したいと思わせるものだった。
なぜその画家なのかと聞かれたけれど、理由は簡単。
あの絵を見た瞬間に、私はその後の人生を決めてしまったから。
――それは、一年生の夏休みが明けたばかりの、彼のことを思い出して辛かった頃。
美術通史の授業で、ある絵がスライドに映し出された。
前期と同じ、変わらない授業風景。
でも、目の前の作品は、これまでに観たこともないような絵だった。
投影機を使うために暗くされた室内に浮かび上がる、強烈な光と闇。
一灯の強いスポットライトに照らされた舞台のようだった。
後に知ったことだけれど、彼の作品には『劇的』という言葉がよく使われる。
劇的――dramaticであり、like a playでもある。その具現のような、強烈な作品。
鮮やかさと鈍さの入り混じった不思議な色使いに、宗教画とは思えないほどの、飾り気の無い質素な人物。世俗画と言われても疑問は抱かなかったかもしれない。
そして、それに不似合いなまでの、ぞっとするほどの現実感。
描かれているのは聖人聖女なのに、生々しい、人々の営みが見えてくる。
異質だ、と思った。
私はまだ、研究のテーマも志望の専攻さえも決まっていない、ただの大学一年生で、美術史について、特別な知識があったわけじゃない。でも、決して長くない時間であっても、前期からその時に至るまで、古代から連綿と続く美術の歴史を学んできたのだから、美術史における知識は全く零とも言えない。
今考えれば、ロマネスクからゴシックへの移行期間も、ルネサンスからマニエリスムへの発展のしかたも、イタリアやフランスの美術と北方美術との違いだって充分強烈だと思うのだけれど……その時は、他に類を見ないほど異質だと思った。突然、全く違う時代の作品を持ってこられたような、そんな疑問さえ抱いた。
それでも、よくよく見ていけば、その徹底的な自然主義や図像による表現は、やはり美術史の流れに合致することがわかる。
異質で、なのに忠実で、やはり斬新で。
永い一瞬。
まるでその絵の中の世界のような暗闇の中、スライドの光を受けて、私は教室の中で独り、雷に打たれたかのような衝撃と、背筋を駆け上る戦慄を味わっていた。
幾度となくうなされ続けてきた、あの夢と同じだったから。
その時の衝撃は、驚きを越えて、既に畏怖と言っても良かった。
――これはいったい、どの時代の、誰の描いた作品なんだろう?
私の疑問は、数秒後には解消された。教壇に立っていた崎田先生によって。
その場から逃げ出したくなるほどの恐怖を感じながら、それでもまだ見続けたいと願う自分を知り――そして、私は、今に至る。
美術史学は、その名から誤解されることが多いし、確かにかつては歴史学のひとつだったのだけれど、歴史学とはまるで違うものだ。
正式にはHistory of Artではなく、Science of Artと訳される。学部は文学部でも、おおもとの所属学科は哲学科だし(うちの大学の場合、今は人文社会学科に統一されているけれど、その中の哲学系に属している)、『史』と銘打ってはいても、現在の研究の手法やアプローチのしかたは歴史学とは全く違う。
私と昂貴が学んでいる西洋美術史学は非常に歴史の長い学問だけれど、本当に独立した学問として成立したのは、ここ百年の話。十九世紀の末に歴史学から自立し、独自の道を歩み始め、二十世紀の中庸に至り、早い黄金期を迎えたと聞いた。残念ながら日本ではそれほど盛んな学問ではない。知名度も低いし、その名を聞いて学問の内容を正しく理解してくれるひとはまずいないだろう。日本美術史学なんて未だに方法論さえ整っていないほどなのだから。私も大学で西洋美術の通史の授業を履修しなかったら、ずっと誤解していたに違いないと思う。その面白さにも気づかずに。
例えば、女性が描かれている絵は数え切れないほどある。何も知らなければ、ただの『女性が描かれている絵』で終わる。けれど、タイトルや解説で、それが『聖母マリア』や『ウェヌス(ヴィーナス)』や『ディアナ(アルテミス)』だということがわかる。では、その根拠は何なのだろうか? ――その答えは至極簡単、慣用的に決まっているから。その人物の服装や、一緒に描かれるものがいわば名札代わりになり、対象の特定の裏付けとなる。これがアトリビュート、すなわち持物(じもつ)。その世界における常識であり、文化的背景であり、基盤であり、下地として定まり、浸透しているから、私たちにはわからなくても、その世界での常識さえ学べば誰でもわかること。だからこそ絵画は古くから宗教に密接に関わり、発達してきた。識字率の低い国でも、絵なら理解が容易だから、布教活動に使われ、プロパガンダとしての役割の一端を担ってきた。
それから、教会の構造やステンドグラスが使われている意味。同じモデルを使った裸婦像でも女神とするか一般人とするかでまるで社会的な意味が違ってしまうということ。技術革新が美術史界に革命を起こしてきたこと……。その全てにきちんとした理由と裏づけがあるのだと初めて知った。
だからこそ、面白いと思った。今まで知らなかった世界がそこにあったから。
知れば知るほど、学べば学ぶほど、興味は深まっていった。
彼を忘れることはできなくても、情熱を傾けることができるものを見つけられたことは、私にとって確かに助けになっていた。
もともと、大学院には行ってみたいと思っていた。兄がふたりもいるので家を継ぐ必要は全く無い。もちろん、自分の力を求められることがあるなら協力を惜しまないけれど、私のできることなんて、たかが知れている。それなら好きなことをしたいと思っていた。そして、家族もそれに賛同してくれていた。両親とも学問が好きなひとだったし。それに私は勉強以外にそれほど興味を持ったものがなかったから。
昔から、習いごとをしたり、部活をしたり、生徒会に入ったり、アルバイトをしたり、勉強以外のことに触れる機会は多かった。社会勉強の一環。だけど、全てなにかの代わりだった。それに気づいたのは、宗哉と知り合ってからのこと。
私が本当に欲しかったものは、唯一の大切な存在。他になにも要らない。本当は。
『いつ死んだっていいんだ。特別に興味のあるものも、やりたいこともないから……』
彼は、そう言っていた。
生きていく目的がなくて、ただ生きていけてしまうから生きていたひと。まるで生かされているのだと言うように、寂しい目をしていた。熱中できることがなくて、何かに飢えていた。
……当時の私のように。
惹かれたのは、同類だったから。まるで違う人生を歩いてきていたのに。
お互いシンパシーを感じていたのは本当だった。
けれど、彼は、生きていく理由を見つけてしまった。
たったひとりの存在。それだけで、あの無気力さは消えていた。生きていく理由を見つけて、優しく微笑んでいた。死んだような目をしていたくせに。
だから、私はもう恋愛なんかしたくなかった。
恋人ができたために生きていこうとするような人生なんて送りたくない。
私は違う。もっと、やりたいことをして生きていく。必ず。
そう思っていたけれど……それは、自分は恋愛をしてはならないのだという絶望を、ごまかしていただけだったのかもしれない。唯一の相手を見つけられた人間への嫉妬と羨望。本当は、自分こそが、そんな相手を捜し求め、焦がれ続けていたのだから。
抱えきれない想いが狂気に変わることを恐れていながら、諦めきれなくて。
……結局、反感とはいえ研究に打ち込む理由さえ彼が原因。
私には、なにもない。
今も昔の恋にひきずられるばかり。
恋愛でしか生きていなかったのは、私のほうだったのかもしれない……。
なのに、もともと良かった成績は更に上がり、いつの間にかゼミでも一目置かれる存在になっていた。余計に学問にばかり熱中し、狂うように本を読んでいた。
そうしているあいだは忘れられる。
だけど三年生の時の発表が終わって、卒論のテーマを考えていたとき、やはり人生を変えたともいえるその画家にしようと決めた。
そして、どの作品を研究するかを考え始めていた頃、私は、出逢ってしまった。
彼の面影を感じさせる、その絵に。
――逃れられない――
そう思った。
だから、立ち向かおうとした。もう三年も経つんだもの。絶対に平気だと思った。だけど。
蘇る、思い出したくない記憶。
振り払っても、消えてくれない想い。
……あの作品は、彼にしか見えなかった。
いつしか、作品を見るのをやめ、まず周辺の資料を集めることから始めた。
立ち止まるのは嫌だったから。
基本となる文献、中心的な資料。この作品を学ぶ上でなにが必要でなにが足りないのかを片っ端からチェックして、些細な資料であっても徹底的に集めた。ひととおり揃ったけれど、それでも、私が望む水準には達していなかった。なにしろ、その画家が世間に認められたのは約五十年ほど前、日本に作品が来たのは今世紀に入ってからのことなのだから。その割には研究者は驚くほど多かったけれど、だからと言って全てが有用な資料というわけじゃない。
そこで教授に相談したのだ。どうしたらいいかと。
河原塚先生はさらりと返した。
『博士課程に同じ画家を扱っている学生がいるから、紹介してあげよう』
と。
そのときは、それがどんな出逢いとなるかなんて、予想もしていなかった。
厳しそうなひとだな、と思った。第一印象。
沈着冷静の具現のような姿。ひとに手抜きを許さないような、厳しい目。『おまえは本当にやる気があるのか?』と、問われている気がした。あの嘘を許さない目に負けたくないと思った。できるだけ丁寧にしたかったけど、あまりにひとの神経を逆なでするから、つい喧嘩を買ってしまった。
その意図に気づくのは、その誘いに乗ってからだった。
どうして、彼に抱かれたのだろう。
今でもよくわからない。
ただわかるのは、彼が私の苦しみを理解し、悲しみを癒してくれたこと。
そう努めてくれたこと。
間違っていたこともあった。勘違いもあった。けれどもうそこに歪みはない。
あの腕を素直に求められる。そして求めれば応えてくれる。
昂貴。
彼に、あの絵を何度も見せられた。
慣れたわけじゃない。平気で見られるわけでもない。
ただ、目にしたときの、胸を抉られるような感覚が、何か違うものへと変化し始めたことには気づいてる。視線の先の、画集の中の絵は恐くても、私を包んでいるのはあたたかな腕。私を護ってくれる存在だと、今はわかるから。
でも、しだいに、それが変化してきたことを、私はまだ告げていない。
けれど確かにそれを感じていた。
彼がそうしてくれた。
心から、ひとりのひとが消えていく。
そして、そこに新たにあらわれたのは……。
……もう、恋はしたくないの。
期待するのも、そして裏切られるのも……もう嫌だ。
だけど、あの腕を離したくない。
あのひとを、離したくない。
ずっとこの関係を保っていたい。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。
時に思う。このままでいていいのだろうかと。
彼はなにも言ってくれないけれど、私だって同じ。
お互いに、本当の本心を言うのを怖がってる。
……そして、お互いにその本心をわからないでいる。たぶん。
余計なことを考えずに、一緒にいることだけ望めたらいいのに。
この関係に名前などなくていいから。
だけど現実はそうもいかない。
私たちはまだ、最後の一歩を踏み出せずにいた。
To be continued.
2005.07.28.Thu.
* 返信希望メール・ご意見・リンクミスや誤字脱字のご指摘などはMailへお寄せくださいませ *