"Ti amo."

01.彼


Line
* Kasumi *
 あんなこと教えるんじゃなかった。

 ふたりで遊びに行った土曜日――実際は、遊びに行ったなんて可愛いものじゃなかったし、それだけで済まなかったんだけど。あの後、一度昂貴の家に帰って、借りた資料を持って家に帰ろうとしたら、昂貴が私の部屋に行ってみたいとか言い出したの。私は帰る気でいたのよ? するなんて言ってないし、二日連続で、しかもあんなものすごく異常な状況でされちゃったんだから、もう無理よ。だけどまぁ、触られたらその気になっちゃうんだろうけど……せめて理性が残ってるときくらいは頑張って抵抗しなきゃ、今度はなにされるかわかったもんじゃない。だから引き止められても帰ってやるって思ってたの。なのにいつの間にか自分まで支度してて、つまり……お泊まりの用意なんかしてて。帰るって言ったらちゃっかり「俺も行く」よ? もう、なんなんですかこのひとってば……。「帰っていいよ、でも俺も行く」じゃあ、逃げようがないじゃないの。かと言って断る理由もなくて、また、なし崩しで今に至るわけなのよ。
 まったく、恋人同士でもあるまいし。
 そう言おうとしたのに、どうして言えなかったのかな。言葉が咽喉でつっかえて、出てこなかった。結局そのままうちに帰りました。掃除しておいて良かったなぁ。掃除機じゃなくて、フローリング用の乾拭きクリーナーでだけど。
 一度部屋に帰って着替えてから(洗ったとはいえ二日も同じ服だったものだから、とにかく早く替えたくて)、スカートをクリーニングに出しに行きがてら、ふたりで夕食の買い物をした。閉まる直前のスーパーで。
 というのも、帰ってすぐ昂貴に飲み物出そうと思って冷蔵庫開けたら覗かれて、食材がないのがバレちゃったのよね。この部屋はもともと家の持ち物で、実家も都内なんだけど、昔、忙しい時に会社の近くで便利だからという理由で父親が買ったものなの。で、母親も家事したりしに来てたから、冷蔵庫とか、いちいちサイズ大きいのが揃ってるのよね。だから余計にがらがらなのが目立つわけなのよ。まぁ、そうでなくても、ほとんど入ってないのも本当なんだけど。飲み物とヨーグルトは切らしたことがないんだけど、そういう問題じゃないものね。そんなことを言いわけみたいに考えてた間も、昂貴は私を唖然と見つめてた。おまえどうやって生きてきたんだよって顔で。だから仕方なく私は口を開いた。
「だって」
「なに? 料理音痴?」
「違うもん。別に上手くもないけど」
 やり方がきちんとしているかどうかは別として、少なくとも、生きていくのに最低限必要なレベルは余裕でクリアしてる。鍛えれば上手くなれるのかもしれない。だけど。
「で?」
「……ひとりで作ってひとりで食べても、美味しくないから」
 って、ぽそっと呟いたら。
「んきゃぁ!」
 自分はしゃがみこんだまま、かがんでた私をがばりと抱き寄せて、彼は言う。
「俺といるときは作れよ」
 だって。
 あのねえ、生きていくぶんには不自由しないけど、ひとに作れるほど上手くもないの。あなたみたいにどこに出しても恥ずかしくない腕じゃないんだから。
 笑わないでよね。
「教えてやるから」
 あぁ、つくづく、私って女の子っぽくないんだなぁ。ちょっと悲しい。
 そんなことまで教わりっぱなしだなんて。
 一体、私はこのひとになにができるんだろう。
 なんだか、迷惑かけっぱなしな気もするけど。

 * * * * *

 非常に貴重なものを見た気がする。
 スーパーの買い物籠を持つ高原昂貴なんて。
 本当はね、自炊してるんだし、私よりずっとこういう機会が多いはずなの。だけどこういうところって、私には馴染みも薄いし似合わなくて当然だと思うんだけれど、昂貴も似合わないなぁ。でも、それとは別に、すごく慣れてる。変なの。
 なにが食べたいって聞くから和食以外って答えたら、俺もそうだな、だって。そういえば、今まで作ってもらったご飯はみんな洋食だった。当たり前か、何度もイタリアに留学してるんだものね。私は海外で暮らしたことは一度もないんだけど、和食って、なぜか苦手なものが多いのよ。お寿司やお刺身は好きなんだけど。いいじゃないの、ヨーロッパのこと勉強してるんだし。彼に、洋食ならたいてい好きと言ったら、本場仕込みのイタリアンを作ってやるよと言われた。今からじゃ時間ないんじゃないの? って聞いたら、にやりと笑って済まされた。何度も見たわけじゃないけど、手際良かったものね。器用なひとはいいなぁ。なんでもいいけど、気づいたら彼はものすごい量の荷物を抱えていた……。一体なにを買い込んだのよあなた?
「不味いものを食べると、心が貧しくなる気がするんだよな」
 そう、彼は言っていた。
「食べものだとか、身の回りのものだとか……そういうのが気に入っていないと、なんだか生きるのに疲れる気がするんだよ。世の中楽しいことばかりじゃないし、なんでもかんでも片っ端からやっていたわりには、趣味とかも特になかったから、昔は気晴らしが下手でさ」
 懐かしむように語られる、私の知らない彼の話。好奇心旺盛で、なんでもできるひとなのに、なにもかも楽しめるわけではなかったと彼は言う。
 このひとだって、普通のひとなんだ。ごく普通の人生を送って、同じ年頃の子供が必ず通る道を経験して、悩んだり、立ち止まったり、そうして生きてきたんだ。優秀だったり意地悪だったり優しかったり、そういう面だけじゃない。
 敵わないという思いばかりが心を占めているけれど。
「本を読んだり、音楽を聴いたり、そういうのは好きだったんだけど、やっぱり勉強や研究が一番面白いから、ついそればっかりになっちまったんだよな」
 たったひとつの、人生を賭して打ち込めるもの。それを見つけてしまったから、それ以外のなにもかもが代わりでしかなくなってしまったのだろうか。学者一家の血筋の因業?
「だから視野が狭くなるんだって気づいたことがあったんだ。それから、勉強以外のことも、積極的にやるようになった。楽しんでやるようになった」
 今の私より年下だった頃かもしれない。その時に知り合っていたって五つの年齢差は変わらないけれど、過去の彼と今の私の年の差は五歳じゃない。彼にも大学四年生の頃があった。二十一歳の夏があった。今の私と同じ年齢で生きていた日々があったんだ。
 あたりまえのことなのに、どうしてそのことが新鮮に思えるのだろう。その頃の彼はどんなひとだったのだろうか。
「おまえも自分に手と金をかけるといいよ。気晴らしにもなるし、なにが役に立つかわからないから。なんだっていいんだ、興味を持ったことなら、片っ端からやってみたらいい」
 彼の人生。彼の生きかた。そして、彼の考えかた。
 私のずっと先を歩んでいるひと。
「興味っていうのは、研究の初期衝動だから」
 そんな話を、ずっとしていた。
「ひとりで食べるのが嫌なんだったら、誰かと食べればいいだろ?」
 とりあえず今日のお相手は俺。そう言って笑う。
 昂貴とご飯を食べるのは、好き。
 ちょっと頭を使うような、学術や勉強に関する話題も平気で出せるし、出してくれる。そういうのを嫌がる人って結構多いのよね。学校の友達は基本的にそういう話題が好きな子が多いけど、そんなひとばかりってわけじゃない。もちろん、勉強の話だけしてるわけでも、したいわけでもない。ただ、そういう会話さえも自然にできるのが、とても楽で、馴染める。たとえば、お買い物に行った時に接客してくれた店員さんの使っていた丁寧語がちょっと変だったんだけど、どういうふうに言ったらそのニュアンスきちんと正確に伝えられるかなとか、電車に乗ったときに見た学習塾の車内広告に載っていた入試問題が難しくて、途中の式がどうしてもわからなかったんだけど、どうしたら解けるかなとか、新しい携帯の駅張りの広告の書体の選び方と写真の配置と全体の配色が上手かったんだど、それはどうしてかなとか、そういうこと。
 なんでもないことなんだけど、他のひとだったらこんなに自然には話せない。
 気を遣ってくれているのかな。それとも、もともとそういう性質が似ているのかな。
 まだお互いのことをあまりよく知らないから、そんな話もしたりして。

 夕食はね、サラダと、スパゲッティ・アマトリチャーナ。なにそれ? って聞いたら、ローマのスパゲッティだって。ベーコンと玉葱とホールトマトの。
 もう、魔法使いみたいにてきぱき作るの。私が彼の家に行った時は『ひとのうちの台所は使いにくいだろ』なんて言ってたのに、自分は教えながらすいすい作っちゃって。時間も遅かったしお腹も空いてたから、教えてくれたのは手順だけなんだけど、それにしたって早かったわ。で、調理器具は多いし余計なものが置いてないからやりやすいと、褒めてるんだか貶してるんだかわからないことを言われた。事実だけど。
 お湯を沸かしながらやったから、実質は三十分かからなかったと思う。
 サラダは簡単だったから、私も手伝った。サニーレタスとかルッコラとか、あと色々な野菜をちょっとずつ集めたものを買ってきて、洗って手で切ってお皿に置いて、パルミジャーノ・レッジャーノをナイフでそのまま削って入れる。チーズ用のおろし金でおろしてもいいんだけれど、生憎ここにはないのよね。そうそう、パルミジャーノ・レッジャーノっていうのは、イタリア名産のチーズ。ハード系でとっつきやすい味。最近よく聞くようになったわよね。日本ではあらかじめ削ったものが多いけど、現地ではその場でおろすものなんだって。そういえば、そんなものまでわざわざ買ったのね、さっき……いや、確かにチーズもなかったんだけど。スパゲッティにも使っていたものね。で、その場でさっと作ったお手製シーザーサラダドレッシングをかける。これは昂貴が作ったんだけど、本気で驚いたわよ、あれよあれよという間に、そのへんの市販ドレッシングなんか目じゃないほどの美味しいドレッシングができちゃった。これはレシピ通りやればいいから簡単なんだって。長期保存はきかないから今日の分だけだったけど。今度中身も教えてくれるかしら。
 ソースはパスタを茹でながら作っていた。ここで、あの大荷物の原因がやっとわかったわ。なにしろオリーヴオイルに白ワインに、ばっちり揃ってるんだもの。近所のスーパーは、高級住宅地にあるだけあって、スーパーという言葉で表現するのは気が引けちゃうくらい立派なお店なんだけど、彼が買ったのは見るからに高級そうなものだった。「愛用のがあったから良かった」って言ってたっけ。メーカー&ラベル指定ですか。他にも唐辛子とか香草とか聞いたこともない名前のチーズとか、一体誰が使うのよって思ったけど、またここで作るつもりで買ったのかしら。あ、「やるから使え」っていうことなのかしら? 昂貴って絶対私に払わせないのよ。学生同士なのに、今時こんなひとって珍しい気がする。そりゃあ食費は私のお金じゃないけど、お互い余裕のある家に育ったんだし、特に使わないから、気にしなくてもいいのに。って言うか私が気にしちゃうじゃないの。でもね、彼は「そのぶん自分自身に金をかけろ」って。そんなの理由になる? だいたい、自分の財源はどうなってるのよ? あ、もしかして、アルバイトでもしてるのかな。聞いたことはないけど。私も昔はしてたんだけど、三年前のあの一件以来、やめちゃったのよね。理由は推して知るべし。まぁ、それだって全然使っていないんだけど。月々の仕送りだって余裕で余ってるし、貯金の額、桁数どころか頭の数が減ったことがないもの。確かに『現代の若者』の平均と照らし合わせたら、ちょっと生活が地味かもしれない。あれから勉学と研究一辺倒だったんだから、それも当然なんだけどね。そうそう、スパゲッティはね、オリーヴオイルベースで、ほんのり唐辛子の風味付けをして作ってた。私が辛いものとか味のきついものやお酒は苦手って言ったら軽めにしてくれたみたい。ちなみに、トマトも実はあんまり好きじゃないんだけど、これは美味しかったな。生じゃないせいもあるんだろうけど。
 食器はね、結構いろいろあるの。ほら、結婚式の引き出物なんかでよくもらうでしょう? それに、うちの母親が結構そういうの好きで、集めてたりもするのよ。父親はウェッジウッドとジノリの区別もつかないような人なんだけど(言ってて情けないけど……)。だから昂貴の部屋にあったあのメーカーを知ってたのよね。前にも言ったとおり、この部屋はもともと家族が使っていたから、ほとんどの食器はそのとき置いてあったままで、私がこっちに来てから自分で買ったのはマグカップくらいなんだけど、実家から持ってきたティーセットは大のお気に入り。華やかな赤の薔薇のシリーズと、清楚な青の薔薇のシリーズ。赤のほうは派手すぎるかなって思ったんだけど、やっぱり好き。私、結構強烈に目立つものが好きなのよね。服の配色とか、あの画家の作風もそうだし。そういえば昂貴が「うちの姉がこの青のやつ持ってたな」って言ってた。やっぱり、お姉さんもきっと上手なんだろうな、紅茶とか淹れるの。そう言ったらお母さんが上手くて、お姉さんは「姉弟子」にあたるのだそう。食器もお母さんが好きだったんだって。母親って、食器好きなものなのかな。どんなひとなんだろう、昂貴の家族って。そうそう、ちなみに、昂貴の母方がそういう茶道楽一家で、とある親戚の家に家族で行ったときに、私のお気に入りのブランドから出てる、かなりくどい十二ヶ月の花のシリーズを一揃い出されて「昂貴君は何月生まれだったかしら?」と聞かれて、かなりげんなりしたとか。その時はこのブランドにあんまりいい印象を持たなかったけれど、これは華やかでいいな、だって。華やかなものが好きなのかしら。意外……。そういえば、イタリアのことを学んでいるわりに、私も昂貴も好きな食器メーカーはイタリアじゃないわね。あ、嫌いなわけじゃないのよ。まぁ別にイタリアかぶれというわけでもないしね。ヨーロッパかぶれではあるかもしれないけど。
 食後はもちろん紅茶を淹れてもらった。私はコーヒーも結構好きなんだけど、この部屋にはお豆も器具もないしね。そういえば昂貴の部屋ではネルドリップだった。ドリップ式っていうだけでも驚くのに、ペーパーじゃないのよ? ちなみに、コーヒー用のネルって空気に触れさせちゃいけないから水に浸けておくんだけど、昂貴は冷凍してた。面倒だったらこれでもいいんだって。紅茶はね、結構色々揃えてるのよ。ティーセット置いてるだけのことはあるでしょ? まぁ、美味しい淹れかたなんか知らないし、余ってるのを、実家に帰るたびにもらってきてるだけなんだけど。そうそう、その時に思い出したんだけど、小さい頃うちの傘下の幾つかのデパートに入ってたティールームに、すごく気に入っていたお店があったのよ。ずいぶん前に撤退しちゃったんだけど、そのお店、今思い出すと不思議なんだけど本店はローマにあるって書いてあった気がしたのね。紅茶と言ったら大抵はイギリスでしょう? でも、すごく美味しかったの。家族で通ってね、あの味で育ったって言っても過言じゃないくらい気に入ってたんだけど、知ってるかなと思ってお店の名前を言ってみたら、なんと、昂貴が留学中にしょっちゅう通っていたところなんだって。そりゃあ驚いたわよ。場所が場所だからおかしくはないんだけど。イタリアに行って紅茶飲む日本人なんてまずいないから、いつもすごく浮いてたって。お店のひとに憶えられたりしたとか。内装や雰囲気も日本にあったのと似ているみたい。イタリアに行った後だったら必ず茶葉を買ってくるから飲ませてやれたのになって言ってた。私はまだイタリアに行ったことはないんだけど、今度行く機会があったら是非行ってみたいなぁ。でも昂貴は逆に日本にあったことを知らなかった。そりゃあそうよねえ。だいたい、あのお店に男性のお客って全然いなかったもの。それにしても、イタリアに行ったことが一度もないのにローマにあるティールームの話してるなんて不思議。昂貴だって、いくら紅茶好きでイタリアに住んでたことがあるからって、よくまあ偶然知っていたものよね。もしかしたら、そういう好みが似てるのかもしれないな。ご飯の味付けも好きだし。

 そんな話をずっとしていて、どんなきっかけだったか忘れたけど、もうすぐテスト期間じゃないのかって話になったのよね。普通のテストはもうすこし後なんだけど、うちの大学では語学テストは一週間早く始まるの。だから明々後日(しあさって)にイタリア語のテストがあって、あとはレポートが三本と、八月の終わりに卒論の中間発表があるって言ったんだけど――ああ、これさえ教えなければ、あんなことにはならなかったのに。今更もう遅いけど。
「明々後日!? おまえ遊んでる暇なんかあったのか?」
 失礼なっ。勉強だったらちゃんとやってます! まぁ、私は言うのも恥ずかしいけど単語を憶えるのが特に苦手で、その試験は辞書持ち込み可だったから大ラッキーとか思ってたんだけど。だから大丈夫よって言ったの。そうしたら。
「俺が及第点なんかで許すと思ったら大間違い」
 だって。なんであなたの許可を得なきゃいけないのよ。それに、一応、毎週予習と復習は欠かさなかったし、授業で当てられてもミスしたことがないくらいには努力をしているっていうのに。基本的に成績はいいほうだし、自分ではかなり頑張ってると思うんだけど、比較の対象がこのひとじゃ、とても敵わない。昂貴の要求レベルってすごく高いんだろうな。他人に対しても自分に対しても。他の教科なら私も受けて立つわよ? でも、あなたみたいに語学が大得意ーなんて公言してて、英語だろうがイタリア語だろうがペラペラなひとと一緒にしないで欲しいわ。喋ってるところを見たことはないけど。でも、もしかしたら、できる言葉はこれだけじゃないのかも。あぁ、嫌だ。正直な話、語学をやっていると、自分がものすごく馬鹿なんじゃないかって落ち込んじゃうのよね。でもね昂貴、「遊んでる暇なんかあったのか?」っていうのはちょっと酷いと思うわよ? でなきゃ行くわけないじゃない。まさか満点以外不可とか言わないわよね……ちょっと怖い。
 もともと、単位は売るほど取ってたから、卒業に必要なのは四年生の必修であるゼミだけで、どうしても今年イタリア語を履修しなきゃいけないわけじゃなかったんだけど、卒論でイタリアの画家を扱うんだから、これくらい当然よね。読まなきゃいけない資料や論文がイタリア語だったら困るし、それに『できなくても、やっておくのとやらないのとでは大違い』ってうちの父親が言ってたから、これまでも、毎年頑張って語学を履修してきたし。まぁ、フランス語は単位は取ったとはいえ結局できないままなんだけど。最上級生でこんなにやってるんだから、やる気ぐらいは認めてよね。でも大学院への進学を目指してるんだからあたりまえだろって言われそう……いや、そのとおりなんだけど。
 で、担当の先生の名前を言ったらにやりと笑って、傾向と対策伝授してやるよって。習ったことがあるみたいだった。教科書とノート見て、範囲を確認して、ちょっと考え込んで、「ギリギリだな」と呟いた。なにがって聞いたら「時間」だって。どういうこと? ちゃんと勉強ならしてるわよ?

 土曜日はさすがにもう遅かったし疲れてたから、お風呂上がってから一時間半くらい勉強しただけだったんだけど、テストは明々後日なのに、一から復習。こういうところ徹底してるわよね昂貴って。彼が口頭で問題を出して、私が書いて答える。いくら表記と発音が共通のイタリア語でも、書けなきゃ意味がないものね。でも、いきなり聞かれるとつっかえちゃうことって多いんだなあって、あらためて思った。できると思っててもできなかったりする。とっさに聞かれると混乱したりするし。解説もすごくわかりやすいの。私、語学って通じればいいはずなのに決まりに厳しいし、そのくせいい加減なところがすごく理不尽で、苦手だったんだけど、昂貴に教わるとすんなり理解できるから不思議。苦手だった格変化も繰り返して慣れてくる。昂貴、先生に向いてるんじゃないのかな。でも、それじゃ、あれだけの研究ができるのにもったいないか。あ、末は大学の教授になるのかな。なんて考えてたら、余計なこと考えてんなよってデコピンされた。ううう痛いぃ。で、苦手なところを重点的に何度も繰り返して、最終的に全問正解したら、ご褒美とか言って、甘いくちづけ。あぁもう、とろけちゃいそう。昂貴のキスって、どうしてこんなに気持ちいいのかな。そんなことを考えていたら、気づいた時には脱がされてた。……あなたねぇ。

 一日、ずっと一緒にいて、楽しかったのに。
 腕の中にいる今も、気持ちいいのに、どこか寂しいのは、どんなに優しくて甘い行為でも、どこかが『普通』じゃないから。……『普通』にできないから。
 するの、好きだし気持ちがいいんだけど(恥ずかしいけど)、『普通』にしたことは一度もない。なにが普通かなんて、そんなの、ひとと較べることじゃないし、合意の上でだったら、どんな変態プレイをしようが個人の自由だと思う。そのことで、お互いに満足できるなら、それでいいんじゃないかなって。……もう、屋外は私は絶対嫌だけどね。
 だけど、私と昂貴の場合はちょっと違う。
 『普通にしちゃいけない』わけでも、『普通じゃないのがいい』わけでもなくて、お互いに、『普通にする』ことに遠慮してる。
 恋人同士じゃないから。
 目的が、違うから。

 もし私が普通にしたいって言ったら、どうする?
 宗哉のこと、どんどん考えられなくなってきてるって言ったら。
 なにかにつけて思い出すの。揺り返して辛いの。それは変わらないの。忘れられてなんかいない。だけど薄れてる。確かにその回数が減ってる。
 だけど確実に違うのは、抱きしめられてるとき、キスしてるとき、それからセックスしてるとき――その相手が宗哉だなんて、思えなくなったこと。
 初めてしたとき、頭の中で思い描いていたのは宗哉だった。
 だけど二度目で混乱して、そして三度目には昂貴だった。
 目を開けたとき、目が醒めたとき、相手を見て、そこにいるのは昂貴なのだから、他の誰かとしてるなんて思えるはずがない。知れば知るほど違う男性だった。
 今の私は、宗哉に抱かれたいと思うだろうか……?

 した後に相手のことを気遣ってくれる男性は意外に少ないと聞いたことがある。それは、そのひとたちの気持ちが本気かどうかとか、その関係にもよるんだろうけど、男性が終わった後って、まるで気分が違ってしまうんだとか。
 だけど昂貴はした後も、もしかしたら、した後のほうが優しいと思う。
 する前は結構無理矢理だったりもする。抵抗してても、嫌だと言っても、どんどん私の身体と気持ちを操って、そういう行為に持ち込んでいく。
 けれど終わってからは必ず抱きしめてくれる。気遣ってくれる。
 どうして?

 酷いことを言われたことがある。
 酷いことをされたことがある。
 もう二度として欲しくないこともある。
 なのに許してる。なにひとつ、許せないことなんかない。
 自分の気持ちがわからない。
 気がつくと、昂貴のことを考えてる。
 今も宗哉を想うと胸が痛いのに。
 一緒にいると、どうしてこの一週間一緒にいなくて平気だったんだろうって思う。
 この先一週間、一緒にいられなくて平気なんだろうかって思う。
 ずっとこのままこの腕の中にいたい。なにも考えないで、試験も発表も卒論も、辛いこともみんな忘れてまどろんでいたい。
 そんなことできるわけないのに。そんな自分でいいわけないのに。
 ひとりでも、勉強し始めたら平気なんだろうとは思うの。
 だけどたぶん、ご飯を食べたり、夜になったりしたら、寂しくなる。
 きっと、彼のことを思い出してしまう。

 知り合って、たった一週間しか経っていないのに。

 顔を見ていたいな。ベッドのシーツや壁じゃなくて。
 腕の冷たい束縛を解いて、首に手を絡ませて。
 まっすぐあなたを向いて、抱きしめて欲しい。
 そして絶え間なく名前を呼んで。
 だけどできない。そんなこと言えない……。

 終わったあと、抱きしめて眠ってくれるのが好き。
 眠りづらいだろうに、できるだけ側にいてくれる。
 鬱陶しくないの? 邪魔じゃないの? ベッドがひとつしかないから?
 ふたつなくて、良かった。
Line
To be continued.
2003.10.08.Wed.
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